血塗られた戦車道   作:多治見国繁

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みほ陣営のお話です。
統帥(ドゥーチェ)アンチョビに何かが起こります。


第80話 みんなのために

優花里は、みほの命令でアンチョビの話し相手に任命された。命じられた仕事はただアンチョビと話すだけの特別何かするわけではなくいたって簡単なものだったが、病気の発症を確かめるための重大な任務だった。アンチョビには実験を行ったことは告げていない。その時に、少しの体調の変化を見逃さないために必ず麻子が同行した。誘拐した者と誘拐された者そして人体実験を行った者が同じ空間に集うというなんともカオスな状況だった。当然、3人はしばらく何も話すことができなかった。アンチョビは手と足を鎖につながれてベッドに寝転んだまま試験管を握りしめて呆然と見つめている。優花里はベッドのそばの椅子に腰掛けて下を向き、麻子は無表情のまま記録用紙を持ちながら見つめていた。最初に口を開いたのは優花里だった。

 

「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」

 

優花里はベッドの上のアンチョビに何度も頭を下げて謝った。アンチョビはそれをちらりと見ると試験管を見つめながら尋ねた。

 

「なんで…こんなことしたんだ…?」

 

アンチョビの声はいつもの声ではなく低くて太い怒気が孕んだ声だった。

 

「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」

 

アンチョビは相変わらず謝り続けている優花里に苛立った様子である。

 

「だから!謝ってるだけじゃわからないだろ!?なんでこんなことしたのかって聞いてるんだ!」

 

「ひっ!」

 

優花里は小さく声をあげた。アンチョビの怒りはよくわかる。わけもわからないうちにここに連れてこられ、料理を兵器に使うように求められたのだ。アンツィオ高校では、料理にはこだわる美食家気質な学校であり、料理を誇りにしていた。料理は人を笑顔にするもので、幸せな気持ちにさせるものだと信じていた。それにもかかわらず、みほは生物兵器を散布する戦争の道具に使おうなどという。アンチョビはその怒りを優花里にぶつけた。

 

「優花里!なんでなんだ?なぜこんなことを!?料理は兵器じゃない!人を苦しませる道具じゃないんだ!なのにおまえたちはその料理で人を苦しませようというのか!人が苦しむ姿、原因不明の下痢と嘔吐で苦しみながら死んでいく姿を見るのがそんなに面白いのか!」

 

アンチョビは顔をくしゃくしゃにして、優花里と麻子の顔を交互ににらみつけながら罵声を浴びせる。優花里は唇を噛み拳をぎゅっと握り、椅子から立ち上がる。優花里の手は思わずアンチョビの頬を思いっきり打っていた。

 

「私が!私が!望んでこんなことをするとでも思っているのですか!?そんなわけないでしょう!?私だって心の底からこんなことやりたくない!でも、ほかにどうすればいいんですか!?西住殿がいったい何人もの人を処刑、殺害してきたことか!西住殿の命令はここでは絶対なんです!わかったようなことを言わないでください!私たちのことはなにも知らないくせに!」

 

優花里はふと我に返った。心の底から後悔した。被害者はアンチョビの方だ。そんなアンチョビにこちらの気持ちも理解しろなどというのは虫のいい話である。優花里は自己嫌悪に陥った。

 

「すまない…おまえたちの気持ちも考えるべきだった…おまえたちが望んでやるはずなんてないのに…」

 

アンチョビは悲しそうな表情になり一筋の涙を流した。優花里はがっくりと肩を落としながら椅子に腰かけると下を向き、消え入りそうな小さな声で呻く。

 

「アンチョビさんは犠牲者なのに…私はなんてことを…すみません…私のこともわかってくれなんて虫のいい話ですよね…私は、私が命をとられない代わりにアンチョビ殿を生贄に差し出した…恨んでもらって構いません…それだけのことをしてきたんですから…」

 

アンチョビは何とも言えない表情になった。みほへの怒りと優花里たちが歩んできたであろう悲惨な記憶の悲しみが混ざった表情である。

 

「なあ、優花里…もしよかったらでいいけど、私に聞かせてくれないか…おまえたちがしてきたことを。」

 

「わかりました…すべてをお話ししましょう…私たちがしてきたことを…」

 

優花里はためらいながら話し始めた。最初はぽつぽつとだったが、やがてあふれ出す感情が止められなくなった。顔をくしゃくしゃにしながらまくしたてるように今まで犯してきた罪の数々を告白する。アンチョビはただ黙ってうなずきながら優花里の告白を聞いていた。優花里の話は脈絡のあるものではなく思い出したものを思い出した分だけ一方的に話すという形式だった。途中で優花里は嗚咽を催して、辛くてそれ以上話せなくなった。

 

「もういい…無理はするな…とても信じられないが…それが真実なんだよな…すまない…こんなことになってるなんて知らなくて…さっきはあんな暴言を…」

 

「いえ…大丈夫です…アンチョビ殿は何も悪くない…怒りを感じるのは当然なんです…こんなにされて怒りを感じない人はいませんよ…」

 

いつの間にか、優花里とアンチョビの間に絆ともいうべき何かが生まれていた。2人はとても仲良くなった。優花里はアンチョビをサンダースの生徒たちの二の舞にしないと誓った。しかし、現実は非情だった。アンチョビは、生物兵器として培養されたコレラ菌、赤痢菌、サルモネラ菌が生物兵器として実用性があるのか見定めるための人体実験の被験者であり、治療に失敗した場合もしかしたら、死亡する恐れがあった。幸いアンチョビはしばらく元気だった。アンチョビの身体はずいぶん強靭らしい。しかしいくら強靭なアンチョビの身体も、さすがに菌3種類はキャパシティーオーバーだったようだ。3つの菌で汚染された麦茶を飲んでから3日後、優花里は今日もアンチョビの話し相手をしにアンチョビが収容されている部屋に向かった。

 

「アンチョビ殿~来ましたよ。」

 

返事がない。いつもなら元気な声を聴かせてくれるはずなのにおかしいと思ってアンチョビが寝かされているベッドに向かう。するとものすごい臭いが漂ってきた。まさかと思い、駆け寄るとアンチョビは苦しそうに喘ぎながら嘔吐していた。優花里は思わずアンチョビに触ろうとした。心配で仕方なかったし、汚れたままでは気持ち悪いだろうと考え、シーツなどを交換してあげようと思ったのだ。

 

「秋山さん!やめろ!」

 

麻子は優花里の服の裾を引っ張って必死に止めた。もし、優花里まで感染しては大変だと思ったからである。しかし、優花里は麻子の考えを知らずに必死に抵抗する。

 

「何するんですか!アンチョビさんを早く助けないと!」

 

「わかってる!でもそのままの姿でやる気か?秋山さんまで感染してしまうぞ?こういうのはしっかり準備をしないといけないんだ。大丈夫だ。アンチョビさんは必ず助ける。安心してくれ。まずはこれを着て処置はそれからだ。」

 

麻子は優花里にマスクと手袋とゴーグルを手渡す。優花里はそれを付けて準備を始めた。麻子も同じようにそれらを装着した。そして、装着が終わると2人でアンチョビが寝ているシーツなどを交換した。アンチョビの容体はかなりひどかった。シーツを交換するために布団をまくり上げると便を失禁していた。しかも、その便が赤痢の特徴である血便だった。アンチョビは苦しそうに喘ぎ、何度も嘔吐を繰り返した。麻子はアンチョビに問診を行う。

 

「症状はいつからだ?」

 

「朝起きたら…吐き気が…あと、下痢も…」

 

「そうか。わかった…秋山さん。私は、西住さんにこのことを報告してくる。秋山さんはアンチョビさんのそばにいてやってくれ。水は、この経口補水液を与えてやってくれ。水だとおそらく嘔吐してしまうだろうから絶対にこれを与えてくれ。それじゃあ頼んだぞ。」

 

麻子は部屋から出ていった。優花里は心配そうな顔をしてアンチョビを見つめていた。するとアンチョビが経口補水液を求めてきた。優花里は水差しを手に取るとアンチョビの口に流し込む。

 

「はい。アンチョビ殿、経口補水液です。たんと飲んでくださいね。」

 

「ありがとう…優花里…少し落ち着いたよ…おまえたちのおかげだな…なあ…優花里…私のこの病気…これも西住のたくらみか何かか…?」

 

「それは…」

 

優花里は口ごもる。真実を伝えてよいものかと迷っていたのだ。

 

「お願いだ…真実を教えてくれ…」

 

アンチョビは力のない手で優花里の服の裾を引っ張る。優花里は、決意した。すべて、今回のことを洗いざらい話すことにした。

 

「そうです…これも西住殿の企みです…アンチョビ殿、初めてここで西住殿に会ったとき、お茶を渡されましたよね…?」

 

「お…おう…確かに渡されたな…ま、まさか!」

 

優花里は神妙な面持ちをしてためらいながら頷く。

 

「はい。そのまさかです。そのお茶の中には、アンチョビ殿が西住殿に手渡された試験管に入った3種類の細菌コレラ菌、赤痢菌、サルモネラ菌が入っていたんです。西住殿はアンチョビ殿を人体実験の検体にしたんです…これが、今アンチョビ殿が苦しんでいる病気の真相です…」

 

アンチョビは絶句していた。まさか、あのお茶がきっかけだったなんて思いもしなかった。アンチョビは涙を流して優花里に縋りつく。

 

「治るよな…?治るんだよな…?優花里!頼む!治してくれ!私は絶対帰らないといけないんだ…あいつらを置いて自分一人だけ逝けるものか!」

 

優花里は胸を打たれた。アンチョビは自分のためではなく、アンツィオにおいてきたほかの生徒たちのために生きようとしていた。優花里は心底、自分が助かるためという浅はかな考えを恥じた。そして優花里はあることを決心した。

 

「アンチョビ殿はみんなのために…わかりました…アンチョビ殿は私と冷泉殿で絶対に治します。それと…」

 

優花里はそこまで言いかけてこれを告げようか迷った。しかし、ここまで心がきれいな人物はここにいるべきではないのだ。アンチョビは、優花里の顔を訝しげに見つめている。

 

「それと、なんだ…?」

 

優花里はアンチョビの耳に口を寄せて心に秘めたある計画を明かして囁いた。

 

「アンチョビさん…これは極秘ですから絶対に誰にも言わないように…実は何人かの人が西住殿のやり方に反発しているんです…例えば、聖グロリアーナのアッサム殿がその代表格です。その人たちの協力で、ここから脱出するという計画です。どうですか?」

 

「そんなことができるのか!?」

 

「しっ!」

 

アンチョビは思わず大声をあげてしまった。この計画を誰かに聞かれたら大変なことである。優花里はとっさにアンチョビの口に手を当てた。

 

「すまん…つい…でもいいのか?この計画がもし露呈したら…」

 

「まあ、西住殿のことですから、処刑は免れないでしょう…でも、やはりあなたはここにいるべき人間ではないのです。必ず生きてアンツィオに帰還させます。命に代えてでも…」

 

「どうしてそこまでして私を…?」

 

優花里は穏やかに微笑んだ。そしてアンチョビの顔に手を当てると、ぽつりとつぶやく。

 

「あなたが私を変えたんです。アンチョビ殿。やはり私は間違っていた。私は、自分が生き残ることしか考えてなかった。だけどアンチョビ殿はそんな私と違ってみんなのために生きようとした。私も決めたんです。みんなのために生きようって。」

 

優花里はアンチョビの手を握って微笑む。美しい光景だった。しかし、優花里はこのとき気が付いていなかった。この光景を見ていた人影があったことに。その人影は一部始終を見て頷くと、みほの執務室の方角へ走り去っていった。

 

つづく

 


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