血塗られた戦車道   作:多治見国繁

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終戦の日特別編です。
あの、30年前に大洗戦線に参加したある無名兵士の手紙です。



終戦の日 特別編 無名兵士の手紙〜殺してしまった〜

拝啓

終戦記念日も間近となり、残暑が続く今日のこの頃です。突然のお手紙に驚かれたことかと思います。

初めまして、突然のお手紙、申し訳ありません。私は大洗戦線で反乱軍の一兵士として参加した元大洗女子学園生です。山田様があの、大洗女子学園艦をはじめとする、各学園艦で西住みほが引き起こした戦争についての取材で反乱軍幹部や被害者たちとの面会を重ねていると知り、私も何かお役に立てることがあるのではないかと考え、また、アジア・太平洋戦争終結から九十七年目の夏を迎え、あの悲惨な戦争の記憶を持つ最後の一人がこの世を去ってから五年あまりの月日が経ち、日常のあまりの忙しさからあの戦争の記憶が引き継がれないまま、ただの過去の遠い、歴史として忘れ去られていくことを憂いたとき、私もあのアジア・太平洋戦争は当然、体験していませんし、本質が全く異なるものであると雖も、西住みほによってもたらされた戦争を実際に戦場での戦いを体験し、許されざる罪を犯した者として、平和の尊さを改めて考え、私のあの忌々しい記憶とあの地獄のような戦争の記憶を私の記憶が確かな若いうちに誰かに引き継いでいかなくてはならないと思うと止むに止まれず筆を取りお手紙をしたためている次第です。記憶のままに、あの日々を思い起こし文にするため、乱筆乱文になることをお許しください。

さて、あの戦争が始まったのは平成二十四年(二〇一二年)六月二〇日でした。西市街区と呼ばれる地区に軍を置き、不当に実効支配していた西住みほは自らの支配圏を拡大し、全ての学園艦を自らの手で支配し、そこにいる生徒や市民たちを自らの思うままにコントロールするという野望を果たすため、約一万の兵を動かし、戦略上重要な地となっていた展望台を目指し、進軍を開始しました。それが、戦争の引き金になりました。展望台は、生徒会も目をつけており、数は圧倒的に少ないものの守備隊がいたのです。包囲しようと迫ってくる反乱軍に対して、まず最初に戦端を開いたのは生徒会でした。生徒会軍が恐怖に駆られて私たち、反乱軍に発砲したのです。でも、生徒会にとってこの戦争は青天の霹靂、まさかこのような戦争になるとは思っておらず、当然十分な訓練が行われていない、新兵も同然の兵隊たちばかりでした。ほとんど虐殺のような状態で初戦の決着はすぐにつきました。その後の戦闘でも私たちはたまに苦戦することがあったものの、優位に戦闘を進めました。西住みほは圧倒的な軍事力を背景に生徒会軍を次々と撃破、殲滅していったのです。私はこの戦争の時、大洗女子学園高校の2年生で、私の小隊の仲間たちも2年生で構成されていました。私たちの小隊は、後ろの方の集団にいました。中隊長と大隊長は3年生です。私は小隊の一兵士にすぎませんでしたが、中隊長も大隊長も不安で戦闘の前に震える私たちにとても優しくしてくれて声をかけてくれました。当初、私たちは前線に配属されることになっていたのですが、「死ぬのは年齢順だ。1年生や2年生が手を汚す必要はない。」と言って、私たち2年生の小隊を後方に下げてくれました。人は誰しもが優しい心、美しい心を持っているものです。大隊長と中隊長のおかげで、私たちは、あの生徒会との戦争中、最後の決戦になった市街区戦の前まで、人を撃ったことはありませんでしたし、それどころか一度も小銃を撃つことはありませんでした。このまま、私たちの小隊は誰も殺さないまま戦争が終わればいいと思っていました。しかし、戦争は残酷です。私自身も狂気の世界へと攫っていってしまったのです。狂気の世界の悪魔に攫われた私は、あの生徒会との最後の決戦の市街戦で、どんなにもっともらしい言い訳をしても許されることのない罪を犯したのです。この話は今まで誰にも話したことはありません。初めて告白します。あの決戦の日のことは一生忘れることはできません。私の心に一生消えることのない大きな傷を作りました。

あの日、反乱軍は西住みほから生徒会軍へ総攻撃を行い、雌雄を決せよという命令を受けて森林地帯に集結していました。とうとう西住みほは生徒会軍の完全なる殲滅を決意し命令を下したのです。作戦は、まず猛烈な爆撃と砲撃を繰り返し行い市街地を破壊したあとに、市街地へ侵攻、徹底的な燼滅戦を行うという作戦でした。私たちの分隊は大隊長らの配慮で、砲撃の弾着を展望台に設置された観測所で観測する任務についていました。観測所からは私の寮の辺りもよく見えました。私の寮は左舷側の森林地帯前市街区にありました。海の見える素敵な寮でそこの一番上の部屋でした。この学園艦の中で一番私が好きな場所でした。晴れた日に見えるキラキラとした海がとっても綺麗でいつまで見ていても飽きませんでした。寮の部屋には開戦時には持って行けなかったかけがえのない思い出の品がまだまだたくさんありました。でも、戦争はそれを容赦なく燃やしてしまいました。どこからともなく、無数の爆撃機が飛んできて二五〇キロの爆弾を敷き詰めるかのように落として行きます。ものすごい炸裂音と地響きと振動が伝わってきます。市街区のあちこちに土煙と火薬の煙が見えていました。爆撃機がいなくなると、すぐに砲撃が開始されます。砲撃は思い出の街を次々と破壊していきます。そして、その砲撃で私の寮は瓦礫の山と化しました。私は私の手でカノン砲を誘導し、私の思い出の自慢の寮を街区をめちゃくちゃに破壊したのです。私は何をやっているのだろうか。もはや、涙も出ませんでした。その後も何度も何度も執拗に猛烈な爆撃と砲撃は続いて、気がつくと目標となった街区には瓦礫しかありませんでした。本当に瓦礫だけです。残っている建物など一つもありませんでした。やがて、砲爆撃が止むと、森林地帯からアリのように小さな人たちが大勢わらわらと破壊された市街地区に走って行く姿が見えました。反乱軍による生徒会軍の燼滅作戦が始まったのです。小銃の音があちこちから響いてきていました。砲爆撃では人間の姿が全く見えないので、あるいはここはみんな避難していて無人なのではないかと、思い込むこともできました。しかし、実際に高いところから建物が綺麗さっぱり無くなった市街区での燼滅作戦の様子を見ていると、戦場の実態がありありと見えるのです。遠くから見るとアリのようにちっぽけでした。それを見ていると思いました。なぜ、私たちは戦っているのだろうと。展望台から見たちっぽけな人間たちの数々のバカバカしくもとてつもなく残酷な戦いの中で最も強烈に記憶に残っているものは左舷側の市街地区での戦闘です。森林地帯側に四人、おそらくこれは反乱軍と思われます。市街地の私の住んでいた寮のあたりの跡地に二人、これは生徒会軍の兵士と思われます。四対二で戦闘をしていました。生徒会軍と思われる兵士は仲間と別れてしまったのか戦闘で死んでしまったのかはわかりませんが二人きりで防空用の窪みのような場所で応戦していました。それを反乱軍側と思われる兵士たちが包囲し、今にも殲滅しようとしていたのです。二つの兵隊たちのグループの間に曳光弾の光が絶え間なく見えていました。まず、最初に倒れたのは生徒会側の兵隊でした。兵士は後ろにばたりと倒れます。その後、もう一人の生徒会軍と思われる兵士は倒れた兵士には目もくれずに、戦闘を続け、反乱軍兵士を撃たれました。しかし、生徒会軍兵士は弾切れになり、結局、撃たれてしまいました。反乱軍と思われる兵士の三人は倒れた一人の元に駆け寄りしゃがみこんで何かをしています。しかし、やはり息はなかったようで遺体を放置して更に前へと進もうとしていました。しかし、突如として三人とも倒れました。どこから狙撃されたようです。一体この一連の戦闘のどこに勝者があったというのでしょうか。この戦闘に関わった両軍の兵士は皆、死んでしまったのです。一体私は、いえ私たちはこんな皆が不幸になる戦争に身を投じて何をしているのでしょう。このようなことに大事な青春を使って何の意味があるのでしょうか。際限のない破壊と身の破滅を招来するだけです。私はこの時にようやく気がついたのです。戦争というものの本当の恐ろしさを。ですが、一度始まってしまったら戦争は際限なく続きます。その後も、残酷な光景は続きました。先ほどの地区の燼滅作戦が完了したと判断されて次の街区への砲爆撃が始まり、次の街区もまたその次の街区にも砲爆撃と燼滅作戦が行われて、ついに深夜に角谷杏生徒会会長と小山柚子生徒会副会長が反乱軍最高司令官の西住みほに降伏を申し入れ、戦争は終わりました。

それに伴って、私たちの分隊も侵攻していった反乱軍本隊に合流するために展望台を降り、駐屯している街区へ向かいました。私たちは燼滅作戦が行われた街区に入りました。街区には人の形をしたものがゴロゴロと転がっていました。それが遺体だというのは言わなくともわかることでしょう。ただ、はっきりとは見えなかったので見てないふりをしていました。

私たちは、もう戦争は終わったから、撃たれることはないだろうと安心してお喋りをしながら呑気に歩いて移動していました。しかし、その時でした。突如として、燼滅作戦が終了し、もう残党はいないと宣言された治安粛清された地区だったはずなのに断続的に発砲音が響きました。一瞬何が起きたのかわかりませんでした。私たちは撃たれたのです。市街区にはまだ、生徒会軍の残党兵が何人かいたのです。十字砲火で撃たれ、分隊の八人中五人の仲間が倒れました。私は倒れなかった三人の仲間と瓦礫に隠れました。その時に倒れた分隊長の首根っこを掴んで他の仲間たちと瓦礫の中へとに逃げ込みました。でも、まだ四人の仲間が残党兵の射線の中にいました。何とか救助しなくてはならないと、私たちは匍匐前進で倒れている仲間のもとへ行き救助しようとしました。でも、仲間が上体を起こした瞬間、また銃声が聞こえました。また一人仲間が狙撃を受けたのです。その仲間を助けようとしたもう一人の仲間も撃たれました。もはや、私には手に負えません。私は匍匐前進で何とか瓦礫の壁へと戻り、しばらくじっとしていました。ああ、これで死ぬのかなと死への覚悟をしていました。不思議と怖くありませんでした。私はポケットの中に入れていた御守り代わりの家族写真を取り出してそれを指先で撫でながら見つめていました。最後に一目会いたかった。そう思っていました。そうだ。折角ならば、眠ったまま撃たれて逝った方が痛くないかもしれない。そう思って眠りにつくことにしました。目を瞑るとあっという間に眠りに落ちていきました。目を開けると私は死んでいないことに気がつきました。どのくらいの時間が経ったでしょうか。空を見ると夜が明けかけているのか少しだけ明るくなっていました。流石に時間が経ったので先程の残党兵もどこかに行ってしまっているはずです。撃たれるかもしれないという恐怖もありましたが、私は勇気を振り絞って移動してみることにしました。慎重に瓦礫の壁から顔を覗かせました。すると、そこには血を流し、変わり果てた姿で分隊の仲間たちが倒れていました。生存者がいないか探しましたが無駄でした。彼女たちを連れて帰ってあげたいと思いましたが、それはできません。泣く泣く仲間たちの亡骸は置いていくしかありませんでした。私は周囲を警戒しながら移動しました。しばらく歩いた時、私は集団が遠くから歩いてくることに気がつきました。残党兵でした。向こうは五人で私は一人です。私は、近くの砲弾の跡の窪みに隠れて様子を伺いました。すると、彼女たちは武器はなく、ボロボロの服で足を引きずりふらふらしていました。私はしばらくこのままやり過ごすかどうか考えていましたが、彼女たちの姿を見て、私は先程、私の分隊の悲惨な出来事を思い出し、彼女たちに復讐してやりたいという真っ黒い心が湧き起こりました。どうしようかとしばらく考えましたが、突然襲われ、訳も分からぬまま命を落とした分隊員たちの無念を晴らすことこそ供養になると思い、私は決意しました。もしかして、彼女たちは演技をしているだけかもしれませんが、少なくとも手には何も持っていないので武器の準備には少しは時間の余裕がありそうでしたから、もし変な動きを見せたら即座に射殺すれば良いと判断して決断しました。私は窪みから少しだけ顔を覗かせ、小銃を残党兵の足元に掃射しました。残党兵は突然撃たれて驚いてオロオロと狼狽えるだけでした。どうやら、本当にボロボロの残党兵と判断して良さそうです。私は銃を構えて、残党兵たちに銃口を向けて止まるように言いました。残党兵たちは素直に従って両手を挙げると、降伏したい旨を私に伝えてきました。私は了承した旨を伝え、水と食料はいらないかと聞きました。すると、必要だという答えが返ってきたので私は彼女たちに向かって手招きをして私のいた窪みに誘いました。窪みの中で捕虜になった残党兵たちは私から水と食料を奪うように受け取ると貪るかのように飲み食いし始めました。相当喉が渇き、お腹も空いていたのでしょう。誰も私が心の中で醜く黒い感情を抱き、それを実行に移そうとしているなどとは思ってもいないようです。降伏もしたし、ようやく、安全が確保されて安心したという顔をしていました。そして、私は一時の感情に任せて行動に移してしまいました。私はまず捕虜の足に向かって小銃を撃ちました。捕虜たちは撃たれた痛みで叫び声をあげて悶え苦しんでいました。これで捕虜たちは容易には動くことができません。捕虜たちは抵抗する気は無いからどうか銃を下ろしてほしいという意思を示していました。しかし、私は捕虜の願いを聞かずに、自分の感情に任せて、復讐のために捕虜を小銃で殴りつけました。それこそ何度も何度もです。捕虜は悲鳴をあげていました。気がついたら捕虜の顔はぐちゃぐちゃになって倒れていました。さらに私の中の悪魔はさらにもう動かない捕虜を小銃で撃ち殺すように囁いてきました。私は、小銃の銃口を捕虜の頭にぴったりとつけて、引き金を引きました。私の手にべったりと脳と血液が付着ていました。あの色と感触は一生忘れられません。そして、さらに追い討ちをかけるように私は射殺した捕虜を何度もナイフで突き刺しました。人間の体というものは案外柔らかくてスッとまるで豆腐に箸を突き刺すかのように簡単にナイフは身体の中に入って行きました。捕虜を滅多刺しにすると、更に私は手榴弾を投げ込み、その場を去りました。これが、私の犯した罪です。本来、捕虜はその安全が確保されなければなりません。しかし、私は彼女たちを殺したのです。しかも、安全を確保することを騙って、わざわざ安心させるために食料や水を与え、警戒心がなくなったところを足を撃ち、動けなくしてから顔がわからなくなるほど殴りつけ、射殺し滅多刺しにして手榴弾で遺体を吹き飛ばす。何という残酷さでしょうか。これを、私が30年前本当にやってしまったのです。その他にも、これは命令されたこととはいえ、処刑任務も何回か行いました。処刑された人たちに何の罪があったかなどわかりません。もはや、私には感情がありませんでした。ただ、機械のように淡々と殺戮を繰り返すようになってしまったのです。あの時のことを思い出せば、今、冷静になって考えると、私がなぜ、あのような残虐なことをしたのか全く理解に苦しみますが、とにかく憎しみに駆られ狂気に支配されていたことは確かです。

あの戦争から30年の月日が経過しました。30年経った今でも、あの日々のことを思い出さない日はありません。毎日毎日、あの日々のことを悪夢に見ます。体の傷は治っても心の中に残された深い深い傷は消えないのです。30年経った今、思うことはあの戦争で私たちは大切なものを全て失いました。本当に全てです。あの時は、皆、殺し殺されることが当たり前になっていました。恐らく、少なくともあの戦争に参加した反乱軍兵士は全員一人は殺しているでしょう。だから、遺体を見ても皆怖がることなく何も感じなくなっていました。遺体を見ても素通りです。部分遺体が道の真ん中に落ちていても平気で踏んで歩いて行きます。私たちの心は荒み、誰もが狂気の悪魔に取り憑かれていました。あの地獄のような戦争に意味などありませんでした。あの戦争で得たものなど、醜い悪魔のような闇の心と憎しみしかありません。美しいものは全て燃えて失ってしまいました。戦争の業火によって燃やされてしまったのです。大切なものすべて燃やして、私は一体何をやっていたのでしょうか。貴重な青春時代、キラキラと輝き仲間たちと楽しい学園生活を送るべき人生で一番楽しい時をわざわざこのような殺し合いのために使うなんて。私は残念でなりません。しかも、相手が何か悪いことをしたのなら、例えば、私の友人を殺したとかであれば、殺してやろうという気持ちになるのも仕方ないのかもしれません。しかし、もともと相手は何もしていないのです。全てを支配しようとした強欲な西住みほに唆されて本当に取り返しのつかないことをしてしまったのです。あの戦争があったから、相手は私たちの分隊員を殺したのです。あの戦争があったから私は殺された報復で捕虜を殺したのです。あの戦争があったから、私たちは不幸になったのです。あの戦争で誰か幸せになった人はいるのでしょうか。いいえ、そんな人はいません。あんなにも大勢の尊く何よりも重い命を犠牲にして、一体私たちは何のために戦ったのでしょうか。私は目の前で友人をたくさん失いました。もう二度と同じような目に未来の子供たちにあって欲しくはありません。だからどうか、愚かな私が体験した愚かな戦争を伝えてください。そして、私たちはどうしてこの戦争に煽動されたのか、西住みほの手口を伝え、世に警告を発してください。

あの戦争では戦車道が権力を掌握し戦争への道を突き進む根源となりました。戦車道とは戦車隊という軍事力を隊長に与えることになります。それは、高い倫理観のある人がやらなければいけません。今回の戦争も歪んだ倫理観を持っている西住みほが軍事力を握ってしまったが故に起こった悲劇です。私たちに国際的な紛争や武力衝突を防ぎ止めることは難しいかもしれませ。しかし、学園艦という小さな社会でなら、防ぎ止めることはできるはずです。学園艦で涙を流す学生は私たちで最後にしてください。戦争では誰も幸せにはなりません。誰も彼も皆が不幸になっただけです。どうかお願いします。

最後になりましたが、残炎の折柄、何卒お身体ご自愛のほどお祈り申し上げます。

敬具

 

令和二十四年八月十四日

平和を願う元反乱軍兵士

山田 舞様




終戦の日特別編の2は今日の22:00に更新します。
今度は同じ大洗戦線で生徒会軍に従軍した一兵士の手紙をご紹介します。

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