逆行ハリー、ぼくのかんがえたりそうのせかい 作:うどん屋のジョーカー
緑色の仄暗い明かりの下を、男は一直線に歩いていた。
目の下は薄く色素沈着し、眼窩に沿うように刻まれた皺が頬の上まで続いている。黒く硬質な髪は白髪まじりで、前髪が下ろされて額を隠していた。青ざめて疲れ切った表情をしているが、引き締まった顔立ちや伸びた姿勢が若さを僅かに残している。
「どけ、どけって言ってるんだ!」
男の歩く廊下の先の角で、騒ぎが起こっているらしい。
悲鳴と怒鳴り声が上がり、不規則な足音が魔法省の黒光りした廊下に反響する。それが鼓膜を揺さぶった所為で、男は吐き気を感じ眉間を寄せた。今の彼はとても繊細だった。もう六日も職場に泊まっており、体は疲れ切っている。
乱暴に地面を蹴る音が、どんどん男に近づいてきた。
角を曲がってきたのは、三人の粗暴な外見の者たちだった。その瞬間、男は彼らに杖を向けた。さきほどまでの疲れた表情は消え、素早い動きだった。
三人は見えない壁にぶつかった。後ろに引っくり返り、慌てる間もない内に、体が何かに引っ張り上げられる。宙に浮いた男たちの体に、どこからか現れた縄が巻きつく。
すっかり拘束された彼らの前で、男は杖を下ろした。
粗暴者たちは身を捩って拘束を解こうとするものの、魔法で吊りあげられているため足が空を切るばかりだ。
「局長!」
角の向こうから、複数の足音と若い声が上がった。男と似たような恰好をした若者たちが走ってくる。
「ああ、局長、すみません!」
三人の若者たちは男の下へ駆け寄った。全員、やっと二十歳を迎えたという幼さが残る顔立ちをしている。それでも彼らは三年の訓練を積んだ闇祓いで、目の前にいる男の部下だった。
「えっと、彼らが今日の尋問の対象で」
女の闇祓いが言った。口が渇いているのか、乾燥した声だ。男がまだ残る頭痛を耐えながら、彼女に微笑む。
「知っているよ。私が担当することになった」
三人は眉尻を垂らした表情で同時に目配せし合った。
今度は、短い金髪のまだニキビが残る男の闇祓いが口を開く。
「あの、運んでくる途中で、その、逃げられてしまいまして」
「その話は後にしよう」
三人の若者は、安心したような怯えているような複雑な表情になった。
男は杖を振って、縛り上げている内の一人を前に出した。まだ諦め悪く体を捩じって逃げようとしている。
「やあ、君がこのチームのリーダーだって? どうだ、少し私と話をしないか」
男はリーダーに向かって、柔らかく微笑む。リーダーは手入れもしていない長髪を肩まで垂らし、ピアスをあちこちに開け、目の周りを黒い色で太く塗っていた。不健康な外見からは年齢が推測しにくいが、まだ二十代くらいのはずだ。唇は荒れ放題で、服装も汚らしい。あちこちが破け、何日も洗っていないような色をしていた。しかし男は、自分の息子たちの世代で、これがむしろオシャレという訳の分からない流行があることを知っていた。
「書類を」
リーダーから目を逸らさずに、男は部下たちの方に手を出した。黒人の若者が慌てて手に持っていた皮のカバンから紙の束を出す。
差し出された書類の尋問官の署名欄に、男は杖で「ハリー・ポッター」と記入した。
尋問室は、シンプルな作りだった。正方形に間切られた小部屋は、尋問される側をリラックスさせるためか、四方が黒タイルで覆われている魔法省の中では珍しく淡いクリーム色の壁だ。
中央に、木のテーブルを挟んで対面式に置かれた椅子が二つと、部屋の角に記録係が座る用の椅子と机が置かれている。尋問される者が座る椅子は、逃げださないように魔法で尻を接着する仕組みだった。
ハリーとリーダーが向かい合って座り、記録係に女の部下を選ぶ。ハリーとリーダーそれぞれに男の部下が二人ついた。
ハリーは部屋の中が暑く感じた。それに息苦しい。部下に空調の魔法が効いているのか確認すると、問題ないことを告げられた。闇祓いの制服の第一ボタンを外したい衝動を抑え込んで、書類をめくりつつ、当たり障りのない会話から始めることにした。
ゴロツキ相手の尋問は、どうせ形式だけだ。叩いたところで何も出るわけがないのだから。そんなゴロツキ達が近頃やけに暴れていて、ハリーはうんざりしていた。今日も家に帰れなかったら、ジニーの「無言の責め」が執行されることはまず間違いない。しかし若い闇祓いたちに、今後の勉強をさせておかなければいけない。
ハリーは書類の一番最初を見た。
「それで、君の名前は――」
「闇の帝王は復活する!」
ハリーが名前の確認をしようとしたのを遮って、目の前の男が叫んだ。不健康な顔が、興奮で煉瓦のような色になっている。
「闇の帝王? それは誰のことかな」
怒ることはせず、静かに聞き返す。すると男は粘着質な笑みを浮かべた。
「知っているだろう。お前はよぉく知っているはずだ」
男がハリーの額辺りを舐めるように見る。
「なるほど。だが、そのよく知っているはずの私が思うに、ヴォルデモートはもう復活しない。彼は死んだんだ」
「闇の帝王」と崇拝する者の名に、男はひるまなかった。ハリーは感心しかけたが、書類で彼が二十歳だと分かると肩を竦めた。なるほど、怯えるわけがない。ホグワーツに入学したばかりの頃のハリーと一緒だ。
「生き返らせるんじゃない。連れて来るんだ」
「は?」
ハリーは彼が支離滅裂になっているのではないかと心配しかけた。男はハリーの目を見つめた。ハリーに対して開心術をしようと思っていないのなら、実に愚かな行為だ。それにもし開心術を仕掛けられたとしても、若いゴロツキに心を破られるようなハリーではない。もっとも、その程度なら闇祓いになれるはずがない。
忙しなく瞳を動かしてハリーの顔色を窺いながら、男は意地汚い笑みを引っ込めた。真面目な顔をすると、確かにあの三人組の中ではリーダーに向いていると思わせる程度の賢さが見えた。
「冗談だと思っているんだろう、なぁ。でも本当だ。連れてこられるんだ」
「連れてくる? それは……過去から?」
言葉を引き継ぐと、リーダーは素直に頷いた。隙があり過ぎる。
「ああ、そうだ、それだ」
「全てなくなっているはずだから可能性は低いが、もし君が逆転時計を持っていても、ヴォルデモートは復活できない。彼が死んだことは決定事項だからな。逆転時計は、既に起こった事実は変えられない」
ホグワーツの三年生だったとき、ハリーは後見人のシリウスと、ハグリッドが大切にしているヒッポグリフを逆転時計で救ったことがある。しかし、ヒッポグリフのバックビークは処刑されたと思い込んでいただけで、実際にそうなるところは見ていないし、シリウスに至っては間もなくディメンターにキスされるという心配が先だって行動した。
彼らが助からないという結果をハリーは知らなかった。だからこそ救えたのだろう。
男は小さな虫が顔の周りを飛んでいるかのように頭を振った。
「違う、逆転時計じゃない」
「どういうことだ?」
収まりかけていた頭痛がまた始まった。若干、吐き気も感じる。しかし今は尋問中だ。ハリーは平静を装いながら問うた。すると男の顔に再び厭らしい笑みが戻る。
「お前、何も知らないんだな。ハリー・ポッターはなぁんにも知らない」
「なら君は何を知っている?」
リーダーは鼻を鳴らした。
「教えるわけがないだろう、馬鹿め」
偉ぶった態度だった。自分が闇祓いの局長でも知らないことを知っている、そんな優越感が顔に滲んでいる。
ハリーは微笑んだ。
「君のために聞いたんだ。勝手に頭の中を弄繰り回されるのは、嫌だろう?」
頭痛を堪えながらゆっくりと立ち上がったハリーは、男の背後に移動した。縛られたまま動くことのできない彼は、背後を取られて落ち着きなく体を揺する。
「開心術をかけられたことは?」
痩せこけた肩に手を置いて、ハリーは優しい声音で尋ねた。
きっとないだろう。あったとしても、彼のように訓練を積んでいない者は心を覗かれていることに気づけもしない。
リーダーの目が不安そうに揺れて、ハリーを見上げる。
「怖がらなくていい。なるべく丁寧にやろう。ああ、抵抗はしないほうがいい。うっかり」最後の言葉を強調して、続ける。「間違えると君の頭が今後どうなるか分からないからな」
ハリーはわざと杖を緩慢な動作で持ち上げた。
「俺は何も知らない」
男はすぐに白旗を上げた。青ざめた顔を見て、ハリーは目を細める。
「ほう」
「本当だ。ただ、そうできるってことを聞かされただけだ」
「誰から」
唇を戦慄かせて白状していく男に、ハリーは更に問いかけた。
「最近噂になってる。俺たちの間で……誰が言ったかは分からねぇ」
ゴロツキの間で噂になっている。きっとノクターン横丁あたりでは、この話題が盛んに飛び交っているのだろう。
「随分ゴシップ好きなんだな、君らは。私の伯母さんを思い出すよ」
「ロック歌手に憧れる、ティーンエイジャーみたいな奴だ」
突然、金髪の闇祓いが口を挟んで笑った。
「こういう奴らは、ヴォルデモートを称えれば、自分はワルになれるって思ってるんですよ」
するとリーダーの目が大きく見開いて、笑った部下を睨みつけた。
「闇の帝王は復活する! 復活する! 復活する!」
体を前後に激しく揺らして、唾を飛ばしながらリーダーは部下に向かって何度も吠えた。部下の表情が怯む。
ハリーは軽く杖を振った。男が糸の切れた操り人形のように前のめりに倒れる。顔がテーブルに叩き付けられ、涎が散った。
「次からは」ハリーは低めの声で言った。「尋問しているときには口を挟んじゃいけないよ」
優しい口調だが、部下を見るハリーの目は厳格だった。
「すみません」
縮こまる部下から視線をずらし、失神している男の頭部から数本の毛髪を引き抜く。
「これを使って、彼らの噂の情報を集めてくれ」
金髪の部下に髪の毛を押し付けた。
「得られるものは少ないだろうが、やってみても損はないだろう」
今度は女の部下に向きなおる。
「それから、内密に魔法省の役人たちの調査をしてくれ。神秘部に関わっている者を中心に頼む」
「スパイがいると?」
彼女は訝しげに眉を顰めた。
「さぁ、それは調べてみないと」
「考えすぎじゃないですか。こんなゴロツキの言うことなんて、当てになるわけがない」
黒人の部下が呆れたように失神する男を見る。
「ああ、だが、全ての物事は小さな事から始まるものだ」
まだ不思議そうにする部下たちに、ハリーは肩を竦めてみせた。
「大したことがなければ、それでいいんだ。さあ、彼らを三人ともアズカバンへ連れて行ってくれ」
ハリーは部下たちにそう告げて、部屋から追い出した。
廊下から何も音がしなくなると、倒れるように椅子に座りこむ。頭が酷く痛かった。
部下の手前、弱弱しいところは見せられない。特に彼らはまだ新人だ。不安な時期に、自分が働く部署のトップが頼りないと思わされるのは惨いことだ。
額に、連続的に鋭い痛みが走る。ハリーは思わず古傷を手で抑えた。
するとそこは熱を持っていた。触れる指先に、脈が強く流れていくのを感じる。
冷たい空気が、肺に入りこんだ気がした。
脳みそを内側から押し出されるような痛みがする。視界が揺れている。目の端に涙がにじむ。
闇の帝王は復活する!
さっきのゴロツキの声が、やけに耳に残っていた。
ハリーはふら付きながら、尋問室を出た。廊下を出て、少し歩いて角を曲がったところに、移送用の暖炉がある。
暖炉脇に置いてある粉を取って、中に投げ入れた。緑の炎が起こる。
ハリーは荒い息を吐きながら、ぎこちない動きで炎の中に入った。
「アズカバン」
瞬間、世界が回りだし、吐き気がした。なんとか堪えて、焦点がぶれそうになる目に力を込める。
目的地に着くと、ハリーは倒れるように外に出た。
そこには、さきほどの粗暴者たちを連れて行った若い闇祓いの部下が二人いた。丁度、看守たちに彼らを引き渡した後のようだ。暖炉から這い出てきたハリーに驚いた顔をしている。
「局長! どうなさったんですか!」
黒人の部下が駆け寄って、ハリーの体を起こした。
「墓地へ」
部下の肩を借りて立ち上がり、弱弱しい声でハリーは告げる。
アズカバンは、北海の冷たい波しぶきに晒されて、室内にも冷えた空気が広がっていた。頭痛が酷くなる。
部下たちが戸惑って動こうとしないため、ハリーは借りていた肩から手を離して一人で先へ進んだ。
「局長!」
二人は慌てて追いかけてくる。ハリーは止まらずに前に進んだ。一瞬でも気を抜くと、意識を失ってしまいそうだった。
監獄の外は、湿気が酷く、荒れ狂った海風が建物にぶつかって甲高い音を出していた。すぐそこにアズカバンの墓地が広がっている。
たくさんの十字架が規則的に立ち並ぶ墓地は、どの墓標も味気なくて全て同じ形だった。しかしハリーは迷うことなくある墓標を目指した。
痛む頭を抱えながら、五十メートルほど歩くとやっと立ち止まる。
追いかけていた二人も止まった。
ハリーの目の前には、白い十字架があった。周囲にあるものと全く同じで、何の印もない。法で裁かれ極刑とされた者には、死んだ後に身分を示すものは何も与えられないからだ。
湿気を含んだ冷たい潮風が顔に当たる。吐瀉物は喉の辺りまでせり上がっていて、視界を保っているのが辛かった。
ハリーは深い呼吸を数回繰り返して、墓標を睨んだまま口を開いた。
「墓を掘ってくれ」
若い闇祓いたちは目を見開く。
「何を仰っているんですか」
「何の許可もなく墓を掘り返すことなんて」
ハリーは奥歯を噛み締め、すぐに後悔した。余計に額の痛みが強くなったのだ。
「責任は私が全て取る。だから、墓を掘れ!」
唸るようなボスの声に彼らは肩を跳ねさせた。慌てて杖をハリーの見ている墓標へと向けると、そこの土が勝手に盛り上がり、横へはけていった。穴が出来上がっていく。
ハリーは耐え切れずに、すぐ傍にあった墓標に寄りかかってそれを見ていた。
一分もしない内に、黒い棺が土の中から姿を現す。棺に乗っていた土の部分が取り去られると、ハリーは手を小さく上げて二人を止めさせた。
唇も足も震えている。指先の感覚が鈍くなっていて、持っている杖を落としそうになる。
それでもよろよろと墓標から身体を起こし、ハリーは棺に向かって杖を向けた。僅かに振っただけで、棺の蓋が持ち上がり、ゆっくりと横に移動してその中身を現していく。
ハリーは、棺の中を見た。棺の中のものを確認した。
短い息を吐いて、ハリーは胸を撫で下ろす。隣で部下が気持ち悪そうにえづいているのが聞こえた。
「ハリー!」
聞き覚えのある声が後ろから上がる。
「ハリー!」
振り向こうとしてよろけた体を、誰かが支えた。甘い花の香りが鼻を擽り、栗色の髪が、頬に当たる。
「ハーマイオニー。どうして君がここに」
「それはこっちの台詞よ。ここの看守から執行部に連絡が入ったの。闇祓い局の局長が、無許可で墓を掘り返しているって。あなた、何を考えているの」
頭が割れそうな痛みだ。涙が流れていくのが分かる。
「ハーマイオニー、頭が痛いんだ。傷が熱を持っている……だから僕は、もしかして」
ハーマイオニーはハリーが掘り起こした墓の中身を見た。苦い顔をしたハーマイオニーは、ハリーの青ざめた顔を撫でた。
「いいえ、違う、ハリー。あなた熱があるわ。傷だけじゃなくて、あなたの額全体が熱いの。頭が痛いのは熱のせいよ」
「熱?」
朦朧としてきた意識の中で、ハーマイオニーの言葉を繰り返す。
「ここにいたら余計に酷くなるわ。家に帰るべきよ。何日も帰れていないんでしょう。ね、家に帰りましょう、ハリー。あなたたち、担架を」
ハーマイオニーは自分の着ていたマントをハリーに巻きつけた。
「ハーマイオニー」ハリーは伝えなければいけないことがあった気がした。
「話しちゃダメ。目をつぶって」
ハーマイオニーが熱を持った頭を撫でる。少しだけ痛みが和らぐ気がした。
「ハーマイオニー、もしかしたら、戻ってくるかもしれないんだ」
「戻ってくる? 何のこと、ハリー。いったい、何が戻って来るって言うの?」
ハリーは痛む頭が、痺れてきたような気がした。ハーマイオニーの顔が滲んでよく見えない。まるで、自分の息が、ガラスを挟んだ向こう側から聞こえているようだ。
「戻って来るかもしれない……死んだはずの」
ヴォルデモート卿が。
最後の言葉は声にならず、ハリーは悲鳴を上げた。
頭の痛みが最高潮に達し、目の奥で光が弾け、金属がぶつかり合う激しい音がした。
音はまだしている。まだ続く。
「起きて! 起きるんですよ!」
ハリーは飛び起きた。懐かしい声と共に、金属がぶつかる音が響いている。
そこは冷たいアズカバンの墓地ではなく、リンネルのシーツの上だった。夏の太陽と、暖められた木の匂いがした。
体が汗で湿っている。心臓の動きが早い。ここはどこだろう。自分が今どこにいるのか分からない。
夢を見ているのだろうか。ハリーは立ち上がろうとして、後ろによろける。ひざ裏に何かが当たったかと思うと、弾力のあるものの上に尻餅をついた。
「イタッ、ハリー、僕の上に乗っからないで!」
ロンの声だ。飛び上がりそうになって、ハリーは思い出す。そうか、昨日「戻って」きたんだ。ここが現実でさっきのは夢だ。いや、違う。さっきのも現実だった。だけど過去のことだ。一昨年の夏の終わりごろに、実際にハリーが体験した出来事だった。
ハリーはロンのお腹から腰をずらして、ベッドに腰掛けた。足を伸ばして、眼鏡を探す。指先に冷たい感触がして、それを足の指で拾い上げた。
はっきりした視界に映ったのは、昨日も見た光景だ。
すると、ロンの部屋の戸が開いた。
「あら、ハリー、起きてたのね。おはよう」
ウィーズリーおばさんがハリーを見て優しく笑う。その手には、空のフライパンとお玉が握られていた。
次におばさんは、ベッドに転がっているロンを見て目を吊り上げた。フライパンをお玉で強く叩き始める。
「ロナルド・ウィーズリー! さっさと目を覚ましなさい!」
金属音が部屋中に響いて、ハリーの鼓膜に突き刺さった。枕で両耳を塞ぎながら、ロンが呻く。
「今日はなんにも予定がないのに、なんで早く起きなくちゃいけないの?」
くぐもった声を、おばさんは耳ざとく拾った。
「早いですって? すっかりお日様は昇っているし、ベーコンも卵もとっくに焼けています! あなたもフレッドもジョージも、夏休みだからって昨日は夜更かししたみたいだけど、朝ごはんの時間は変えませんからね!」
枕越しでも十分耳に通る声で怒鳴った後、おばさんはハリーに向かってまた笑いかけた。
「お顔を洗っていらっしゃい。そしたら下に降りてきて、朝ごはんにしましょう」
扉が閉められると、再び外でフライパンが殴られる音が鳴りだした。
「フレッド! ジョージ!」
ハリーはその声が遠ざかっていくのを聞きながら、ため息をついた。「戻って」きてから初めて夜を越した。手の甲を見ると相変わらずつるつるで、左手の甲に戒めの文章が刻まれていることもない。
もうしばらく、この世界で過ごすことになりそうだ。どのタイミングで元に戻るのか、あるいはこのまま一生戻れないのかも分からないまま。
ハリーはおばさんの言いつけどおり、下へ降りる前にバスルームへ寄った。
顔を洗って水気をタオルで拭った後、眼鏡を掛ける。
目の前の鏡に映っていたのは、幼い子供の顔だった。昔のハリーだ。顔には筋肉もついていなければ、髭も生えていない。頬から顎にかけてのラインは、なだらかで滑りがいい。
鼻は小さく、唇は血色のいい赤だ。真っ黒の髪は、生命力を示しているように力強く生えている。疲れなんて、微塵も感じさせない。
しかし、母親譲りの目だけは違和感があった。
位置も、形も、輝きも、子供のものなのに、その緑の向こうには疲れ切った中年の男がいるのだと思うと、気味が悪い。
鏡の中のハリーが眉間を寄せた。
「おっ、なんだ、ハリー。自分のハンサムさに見惚れてるのか?」
突然、バスルームにジョージが入ってきた。ニヤついている顔を見て、ハリーは慌てて洗面台から離れる。
「ママが心配してるぞ。早く降りて来いよ」
「今いく」
使ったタオルを物干し竿に掛けて、ハリーは急いでジョージの後を追った。