チェスは指せますけど強くありません。
ウォッカは飲みます。
ガングートはとても好み。

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死ねない生贄

 何の装飾もないショットグラスに注がれたヴォトカはなかなかに殺風景だ。指を突っ込むと少しひんやりする。それを舐め取ったあと口の中に残る熱と少しの甘さはほんの短い時間しか残らない。

「行儀が悪いぞ、ちっこいの」

 彼女は決まってこう言う。でも決して本気ではない。私は何も答えずに昨日のままになっているチェスボードの上の駒たちを初形に戻す。私の側に白を並べてキングの上のポーンを2マス進める。それから私とガングート、2人分の水を注ぐために席を立った。

缶詰のニシンを皿に空けている彼女の隣で2つのコップを手に取る。

「面と向かってちっこいのって呼ぶのはどうかと思うよ」

「不満か?」

「少しだけ」

 空っぽになった缶はビニール袋に押し込まれる。袋の中は同じ缶ばかりだ。ラテン文字で読めない言語が書かれた缶。

 皿を持ってチェスに戻る彼女に続いて注ぎすぎた右手のコップとちょうどよく注いだ左手のコップとともに歩く。歩き出しに右手から水が少しこぼれ靴下と床、それから私の足を濡らした。

「私はヴェールヌイだ」

「ああ、いい名前だな」

 盤上では白と黒のポーンが対峙してどちらも動けなくなっていた。

「この形なら」

 勝つチャンスはある。彼女も得意形ではないはずだ。私のつぶやきを聞いて彼女は微笑む。

 

 彼女に目をつけられたのは最初に会った時。彼女が合流した次の日に廊下で鉢合わせた。

「お前が噂の、何だったかな」

「ヴェールヌイ」

「そう、ヴェールヌイ、いい名前だ」

 仁王立ちで立ち塞がれて失礼な口上で現れたソ連の大先輩。

「細かい話は後だ。今夜部屋に来い。一緒に飲もう」

「もうヴォトカを仕入れたのかい? 熱心だね」

「ああ、ストリチナヤだ。いいだろう?」

「もちろん行かせてもらうよ」

 初めてチェスボードを挟んだのはその夜。

「チェスだ。指せるよな?」

「そんなに強くないよ」

「構わん。提督と指したら歯ごたえがなくてな」

「司令官よりは指せるかな」

「楽しみだ」

 先手をもらったのにシシリアンでコテンパンにされた。

「まあこんなものだろう」

「何回緩めた?」

「一回だけ。逃さないのは立派だな」

 ストリチナヤは三分の一減っていた。

「決めたぞ、これから毎晩来い。1日1局だ。もちろんヴォトカもだ」

「勝手に決めるんだね」

「不満か?」

「いいや、構わないよ」

「よし。寝る前にもう1杯飲むか?」

「一杯だけもらおう」

 

 結局三割だ。三割しか勝ってないというのか三割勝たせてもらってるというのか、ともかく三割勝っている。私は初手e4ばかりだし、彼女はシシリアンばかり。私はこれしか知らなくて彼女は勝負に徹している。

ところが今日はオープンゲームだ。ルイロペスなら少し自信がある。彼女は詳しくないだろうし。

 フィアンケット。そういえば彼女はシシリアンたまに見せる。それでもたまにだ。多くはない。とことんいつもと違う。

「この意味が分かるよな?」

「あまりプレッシャーをかけないでくれよ」

 彼女がヴォトカを呷る。私がキャスリングをした瞬間に彼女が思いっきり咳き込む。十オンスのタンブラーに注がれた水を一気に飲み干してそれからフィアンケットを完遂する。

 

 持ち時間は無制限だ。いつもは私が考えて彼女は一手に三十秒も考えない。それで三割だ。私が考えている間に彼女はヴォトカを飲んだりニシンを無造作につまんだりパイプに火をつけたり、ひっきりなしに動きまくる。火をつけたときは決まって私も火を借りる。

 ところが今日は様子が違う。明らかにいつもより長く考えている。慣れない形で読むのが大変だとは思わない。煎じ詰めれば局面での最善手はひとつなのだから、先入観を除けば思考に影響を与えることはない。まあ、先入観が大変なのだが。

 私の手番の間も彼女は明らかに盤上に没入している。私がマッチで紙巻きのタバコに火をつけても気づいていないみたいだ。もちろん気がついてはいるだろうが全く私を気に留めない。マッチを吹き消すと私の手元にある黒のポーンがほんの少しスライドした。灰皿は彼女がソビエトから持ってきた高級なやつだ。

「ずいぶん考えるね」

 もちろん本気ではない。それを聞いた彼女も微笑んで前傾姿勢をやめた。

「思い出せなくてな」

「ふうん」

 思い出す、以前はルイロペスだったのかな。局面はまだ互角なはずだ。私がバランスを崩さないようについていけば何かあるんじゃないかと思う。

 ヴォトカが回ってきた。深くため息をつくと体温が逃げていくみたいだ。彼女が意を決したみたいにビショップを引く。ポーンに取られかけていたのを逃げる、一番自然な手だ。私も考える局面ではない。十秒でナイトを中原へ。流れはいい。今日は勝ちたいな。

 

 彼女が席を外した。

 私は三本目のタバコに火をつける。ほどなくして彼女が水を持って戻ってくる。そういえば私は水を飲んでないな。タンブラーに半分残った水を飲み干して彼女が指すのを待つ。

 彼女が小さく息を吐いて私のポーンを食いちぎった。ビショップをくれるらしい。しかもチェックで、ポーンで取り返せる。こういうのは取るとロクなことにならない。読めた。綺麗なフォークでルークがすっぽ抜ける。じゃあ仕方ない、キングをかわす……のだが上と横、どっちだ? 上。セオリーだ。

「そう、上だよな。私だってそうする」

「急にどうしたんだい」

「こうしたらどうする?」

 黒のルークが滑り込んでくる。取るしかない。取るとチェスが終わる。私はキングを倒した。

「リザインだね」

「どうだ?」

「作ったみたいだ」

「作ったんだよ。ただし作者は私とお前だ」

「詩的だね」

「よくここで投げたな」

「不死鳥ならもっと指すべきだった? すぐに負けるじゃないか」

「いや、一番美しい棋譜だよ。ここでリザイン、美しい」

 彼女が棋譜を寄越す。攻撃的なペンの字がずらっと並んでその末尾、0-1の後ろに!が書かれている。投了が好手ねえ。

「狙っていたんだ」

「狙っていた? どこから」

「初手からさ、じゃなきゃルイロペスなんざしない」

「考えてたのは?」

「思い出してたんだよ。前例がある。強いヤツの対局だ。それとお前に考えさせたくてな」

「私が考えるほどレールの上を走ることになる? 皮肉だな」

「なんとでも言え。気分がいい。もう一杯飲むぞ」

 彼女が勝手に私のグラスにストリチナヤを注ぐ。私はそれを一口だけ口に含んでその熱を楽しんだ。

 対局が終わって気が抜けた。ヴォトカと疲れで頭がぐるぐるする。

「眠い。今日はここで寝ていいかい」

「断ったらどうする?」

「廊下で凍え死ぬかな」

 凍えて死ぬことがあるか。ここはソビエトではない。

「構わんよ。ベッドが大きすぎると思っていた」

 確かに一人には大きく見える。しかもこの鎮守府では彼女も「ちっこいの」だ。

「おやすみ。明日は勝たせてもらうよ」

「Спокойной ночи、Верный」

 私がベッドに倒れこんだ後に私の名前が聞こえた。日本では絶対聞けない発音、懐かしい響きだ。



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