2016年度に執筆/県高校生夏期文芸大会への投稿に際しボツとなった作品。担当教員から厳しい言葉しか聞けなかった。

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星深山のスピカ/2016

 僕が都会の喧騒を離れてここに移住してきたのは、ちょうど一年前ほどのことだ。元々病弱で喘息持ちだった僕にとって、この自然に囲まれた田舎町はとても住み心地が良い。かつての煌々とした夜景は失われてしまったけれども、耳をすませば虫たちの奏でる心地よい音色が鼓膜を振るわせ、澄んだ空気は胸の蟠りもろとも浄化してくれるほどまでに潔い。

 八月某日、今夜も一人で家を発つ。玄関を出ると、この世の存在がまるで僕一人であるかのように孤独で、それでいて心が安らぐ不思議な空間が広がっている。

 明りのない世界は完全な暗闇ではなく、煌めく星たちの光によってほんのりと照らされていた。確か、星から放たれた光が地上まで届くまでには幾星霜の時を要するのだ。今この瞬間、僕の視線の先で瞬くあの星が、一体どんな光色を発しているのか――いや、そもそも存在すらしているのかどうかも分からない。同じ時間を共有しているように見えて、実際は両者の間には何光年ものズレが生じている。

 田園風景を抜け、一本道を真っ直ぐ進んでいく。やがて見えてきたのは、木々がうっそうと生い茂る星深山。実際には山とは呼べない丘程度のものだが、地域住民の意向でそう名付けされたのだ。

 以前からこの丘の頂上地点で見える星空は絶景だと村人の間で評判だったが、インターネットの普及により細々ながらその噂が広範に知れ渡り、酔狂な人々がわざわざやってくるほどには有名なスポットとなった。これがきっかけとなり、名称を決めようとする運動が発足したという経緯である。

 山の頂上まで続く石階段は思いのほか急勾配で、足場は狭いのに段差は広い。歪な石が通り雨に濡れて独特の匂いを漂わせ、踏みしめるたびに微かな水音が響くのもまた趣深い。普段はそんなに風流じみた性格ではないはずだが、何故かこうして一人で星を見に行く夜に限っては、あらゆる物や音に心を躍らせたくなるのだった。

 そうして一歩一歩を愉しむ内、いつの間にか僕は頂上へ到達していた。

 頭上には満点の星の海がある。さぞ綺麗だろう……しかし僕はまだ見上げることはせずに、一見誰もいない周囲に向かって問いかける。

「お邪魔します、今日も来たよ」

 そして薄暗い視界にぼんやりと現れてくるのは、一人の少女。

 臀部まで伸びる長髪をさらりと揺らして、華奢な身体を僕の眼前に現す。月光のスポットライトを浴びて、彼女は優しく微笑んだ。

「……」

「歓迎してくれて、どうもありがとう」

 彼女の名はスピカという。

 スピカとはおとめ座の一等星、日本では真珠星とも呼称される美しい星の一つだ。純白の輝きを放ち、その息を呑むほどの清澄さは見とれる人々の心を震わせる。

 少女の瞳もまたサファイヤの如く鮮やかな青色をしており、スピカを指さしては嬉しそうに笑うのが彼女の常だ――まさにあの星が自分である、とでも言いたげに。

「……」

 彼女は言葉を持たない。故に名乗ることもなければ、出会ってこの方会話を交わしたことも無論なかった。しかし前述のような理由から、僕は彼女を「スピカ」と呼ぶようになったのである。

僕がこの場に通うようになって、はや三か月が過ぎた。 

 

      *

 

 五月の初頭くらいだっただろうか……ふと夜空を見上げて目に留まったその星座に、僕はどうしてか、強く心を惹かれたのが始まりだ。

 あの星座を突き止めようと、僕はインターネットで星座を調べ上げ、その結果辿りついたのがおとめ座だった。そしてそれを構成する星たちの中で、最も存在感のある美しい一等星――それがスピカである。

「スピカ」

 スピカと初めて出会った日のこと、僕はこの場所で何気なくその名を呼んでみたのだ。あの美しい星に相応しい、清純な名前だなと感慨しながら。

スピカはその宝石のように煌びやかな星であることから、古代から女性のイメージを附与されていたらしい。僕は大の字になり目を閉じて、スピカの名を持つ少女はどんなものだろう、と想像を膨らませていた。

目を開けた時、僕を見下ろすコバルトブルーの瞳がそこにあった。

 突如現れた少女に、初めは僕も驚いた。幽霊だ、と慌てふためいて狼狽えた。だけど彼女は間違いなく、そこに存在していた。人の体をなした人だった。

 同じ人間であるはずなのだが、コミュニケーションを取ることは不可能に近かった。何せスピカは発語すらしないのだ。僕はひたすら彼女の肉声を聞かんと様々なことを試みたものだが、その全てが無駄に終わった。

 しかしこんなこともあった。一緒に星を見上げている時、首筋に虫が這うような感覚を覚えた僕は大きく仰け反った。隣にいたスピカは今にも笑い声が聞こえそうなくらいに歯を見せて大笑い。その手には麦の穂が握られている。

 どうやらスピカはこっそり穂先を僕の首筋に触れさせ、いたずらしていたらしい。寡黙でしおらしい女の子かと思いきや、意外とやんちゃな面もあるようだった。

 後々に調べて分かったことだが、おとめ座は麦を持つ乙女の姿を連想して名付けられた星座であり、その麦の部分にあたる星がスピカなのであった。それならスピカは少女ではなく麦であるべきなのでは? とも考えたが、やはり映える物には栄える者をあてがうべきだろう。麦なんかどうしたって栄えるとは思えなかった。

 スピカは喋らないが、だからと言って全くコミュニケーションが取れないわけではなかった。いや、僕が言語でないツールに可能性を見出したのだ――それはスピカの表情である。

 たまに「明日は来ないから」なんて意地悪を言ってみると露骨に寂しげな表情を見せたりするが、もっぱら彼女は笑う。最初はその笑顔の区別はさっぱりつかなかったが、スピカと共にする時間を重ねていくにつれて、笑顔の中にも僅かに異なる感情が垣間見えるようになってきた。

「ねえスピカ、今日は一段と星が綺麗だね」

「……」そうだね、とスピカは笑う。

「そういえばスピカ、明日は雨が降るみたい」

「……」残念です、とスピカは苦笑する。

「スピカってスピカなの?」僕が夜空に煌めくスピカを指さしながら言えば。

「……」うん、とスピカははにかむ。

 僕たちは言語という道具に頼ることなく、お互いの心へと干渉し合った。共有できる心というのはせいぜい「星が綺麗だね」ぐらいのことではあるけれど、たったそれだけでも充分な気がした。海外ボランティアに行った人々が口を揃えて「言葉が通じなくとも心が通じた」と言うが、それはきっとこんな感覚なのだろう。心が通じ合っているだけで、得も言われぬ満足感、安堵感が互いの心を満たすのだ。

 

      *

 

 スピカと出会って二カ月半ほど経った頃から、彼女の振る舞いに少しだけ進展がみられるようになっていた。

 これまで笑う時以外は頑なに口を閉じていたが、ふとした拍子で口をパクパクと動かすようになったのだ。しかし「どうしたの?」と訊ねてみても、スピカは恥ずかしそうにかぶりを振ってごまかすのみ。

僕はどうにかして言葉を引き出そうと、一方的なおしゃべりを続けた。これまで未踏だった話題――家はどこなのか、好きな食べ物は何か。そんなとりとめもない質問を繰り返した。勿論スピカは、困惑した様子で笑うだけだった。

八月に近づくにつれ、スピカの様子は更に変わってきた。

やたらとスピカは僕が帰宅するのを嫌がるようになったのだ。夜も更け、僕が別れの挨拶を告げようと腰を上げると、思わぬ力でぐい、と引っ張られてしまう。口元を固く結んで、スピカは僕を見つめるのだ。

「……」まだ帰らないで。

「……」もう少しだけ、私のそばに。

「分かったよ、あと三十分だけね」僕がそう言ってやると、おもちゃを与えられた子供のようにスピカは喜ぶのだった。

 そんなスピカの変化を気にするようになり、僕ははっとあることに思い当たった。

 星座にはそれぞれ見られる時期というものがある。年がら年中、同じ星座が夜空で輝いているわけではない。

 おとめ座の見られる時期は、十一月下旬から七月下旬まで――今は七月の中旬だ。とどのつまり、あと早くて数日、長くても二週間後にはおとめ座は観測できなくなる。それに伴い、スピカもいずれは視認できなくなるだろう。

 そうしたら……星深山のスピカはどうなるのか?

 夜空のスピカがそうなるように、星深山のスピカも消えてしまうのだろうか。まさかとは思いつつも、最近のスピカの様子に鑑みれば、否定はできなかった。

 もう少しすれば、自分は消えてしまう。だからその前に、少しでも僕と共にする時間を大切にしたいということなのか。仮にそうだとして、どうせまたおとめ座が出現する十一月にはまた会えるはずではないのか。それなのにスピカは、まるで永久の別れが迫っているかのような、淋しげな態度を取るのだ。

 

      *

 

「ねえスピカ、今度は十一月だね。その時になったら、また会いに来るよ」

 八月某日、今宵の夜空におとめ座の姿はなかった。

「…………」

ありがとうございます、嬉しいです。だけどちょっぴり、寂しい……。彼女の湛えた笑みは、僕の心にそんな心の本音を打ち明けているように思えた。

 スピカに出会ってから三か月。僕たちは心で心を語り合う仲になっていた。言わずもがな、超能力者のようにテレパシーができるとか、そういうことではない。筆舌に尽くしがたいが、ありのままで表現するなら――互いに言葉を発さずとも、何となく表情で言いたいことが分かるのだ。

「やっぱり今日が最後、なんだよね」

 切ない顔で星を見上げていたスピカははっとして、僕を見やる。

「……」どうして?

「スピカを見ていたら分かるよ。日に日に表情が曇ってるもの」

 スピカは急に僕の方へと向き直り、一生懸命に口を動かした。

 伝えたい思いが、次から次へと表情として溢れてくる。喋りたくて喋りたくて、でもどうしても言葉はその口からは紡がれない。悔しさで、スピカの瞳に大粒の涙が光った。

「仕方がないよ。だって――僕たちはうんと、気が遠くなるほど遠くにあるもの同士なんだから」

 地球とスピカまでの距離は、概算にして二百六十光年。そんな遠い場所にいる存在同士が、こうして時間を共有している。

「スピカの声がここまで届く時には、もう僕はいない。いや、地球だってなくなっちゃってるはずだ。……だけどさ、異なる時間を生きているはずの僕たちが、同じものを共有できたんだ。これってすごく素敵なことだと思わない?」

 スピカはスピカに他ならなかった。そしてまた、僕は僕である。僕とスピカの運命的な邂逅は、一等星の義人化という奇跡をもたらした。スピカは感情を持った人間となり、その本体が地上から観測できる間、こうして僕の前に人間としてのスピカが顕現している。

 しかしそんな奇跡もきっと、今宵で終わりなのだろう。その証拠に、僕の眼前には宝石のように輝く涙を落とす、スピカの姿があった。

「…………」寂しい、寂しいです。もっとあなたと時を共にしたかった。

 心の叫びがその涙に凝縮され、スピカの頬を伝っていく。僕は右手の人差し指で、一等星らしく、一際眩い粒を拭ってやった。

「僕も寂しいよ。……でもきっと、また会いに来るから。十一月の下旬、ここに。真っ先に、スピカを見つけてみせるよ」

 はい、約束ですよとスピカは微笑んだ。

 



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