※利根川視点①
2年ほど前帝愛に匹敵するほどの巨大な企業、誠京グループがとあるブローカーの手に落ちたという話が出回った。
企業同士の合併やアメリカの大企業によるM&Aという話ならばまだあり得なくはないが、なんとギャンブルで桁外れの負債を負った為に乗っ取られたという話だ。
帝愛と誠京、業種は違うもひとつ似通ったところがあった。トップの会長が無類のギャンブル好きで人の人生を狂わせるほどに傾倒している点だ。
兵藤会長は人が苦しむ姿を見る事と常軌を逸したギャンブルを何よりの愉悦としており、それが脳細胞が活性化する長寿の秘訣だというようなお方だが、誠京グループのトップ、蔵前会長も人間としての尊厳を崩壊させ獣のように堕していく様子を肴に酒を嗜むような人柄と聞く。帝愛と誠京、どちらも裏の顔に法の枠を超えた裏ギャンブルがあった。
誠京グループがギャンブルによって多額の負債を負ったというのは帝愛としても無視できない事案だった。そこで詳しく調べさせてみると蔵前会長を倒したのはブローカーでもなんでもない、学生服を着たひとりの少女だったという。
伊藤蓮、裏社会で最高峰の博徒だという赤木しげるの娘らしく恋人の森田鉄雄の為に参戦したというのがそこにいた者達の見解だった。
だが、父親の存在が如何なる物であったとしてもただの女子高生が蔵前グループを破滅させるようなことができる物なのか。話によれば何兆という負債を蓮は誠京グループに背負わせたらしい。
膨大な才覚があったとしても他を圧倒するような強運があったとしてもそうはならない。決してまともではない。どこか人として狂ってなければそうはならない。蓮という名前は裏世界に顔を覗かせる多くの者の胸に刻まれた。
だが、それから3年。蓮の名前を聞くことはなかった。何処かの企業や組が雇ったという話もなくやがて蓮の話はかつての伝説として薄れていった。系列店の裏カジノで白髪の男と若い女の2人組が沼を攻略したという報告は上がってきたが、被害はないとのことで深くは気に留めなかった。関係者には以後このようなことがないように戒めるようにとロマネコンティ風呂の残りで兵藤会長の爪の垢をしっかりと飲ませたがまあ些細なことだろう。
もはや蓮という名前すら思い出せなくなった頃、会長の退屈を慰める為に行われたエスポワールの限定ジャンケンで全戦全勝、12個の星を手に入れるという大勝を収めた白髪の女を見つけた時は手が震え動揺が隠せなかった。
蓮、伊藤蓮。あの裏世界最強と謳われる博徒がこの船に乗っているだと?調べさせると蓮自身には借金はないが従兄弟の伊藤開司が385万ほどの借金を負ってこの船に乗ったのに付いてきたらしい。直ぐさま会長に報告すると、会長は目を輝かせ何としても蓮の堕ちる姿が見たいと仰られた。
あの蓮が無様に這いつくばり醜く命乞いをし痛みに悶え苦しみ絶命する、そんな様を見てみたいのだと会長はいう。
幸い蓮は大勝ちしたにも関わらずクズを2人も助けた為借金を背負う羽目となっている。次のギャンブルに引き摺り込む理由はあった。
早速使いを送ると蓮はあっさり次のギャンブルにも参加するという。伝説の博徒とはいえ所詮は脳がギャンブルに焼かれたジャンキー、博打の誘いにはあっさりとのるというわけか。勝負の場に引き摺り出すのに労力を使わずに済むのは結構なことだ。
7月13日、一緒に来ていた従兄弟とやらは人間競馬に送り蓮は初めから屋上へ連れて来させた。ないとは思うが万が一にでも人間競馬で蓮が落ちてそれ以降の競技に参加できなくなれば目も当てられん。
そんな落ちても死ぬことのない種目で蓮を使い捨てられない。今日は蓮が参加するということで多くのVIPが見学されている。興行的にも失敗はできない。蓮には命を張ってもらわなければ困るのだ。
人間競馬が終わり金を換金する為には地上74メートル、スターサイドホテル間にかけられた鉄骨を渡らなければならないと告げると蓮に報酬を求められた。
人間競馬を通過していない蓮は換金用のチケットを持っていない。渡ることの見返りを求めるのは当然だろうとチケットを用意しようとするもそんなものはいらない。代わりに会長とギャンブルをしたいという。
ジャンキーだ。脳が焼かれている。勝利という名の快楽を求めるだけの存在だ。全くもって愚かしい。
渡れるわけがない。体育館にある平均台を渡るのとは訳が違うのだぞ?落ちたら死ぬ、絶対に助からない。なんの支えもない不安定な鉄骨を死の恐怖と戦いながら進まなければならない。賭けてもいい。絶対に助からない。
それに万が一、向こう側に辿り着いたとしてもその先のドアは開かないのだ。どう足掻いても挑戦者が生き残ることは出来ない。それでも蓮がこのブレイブ・メン・ロードを渡り切り向こう側に辿り着いたというならば別のギャンブルをふっかけるつもりだった。無傷で帰すつもりはない。願ってもない申し出だ。
会長とのギャンブルを快諾すると蓮の従兄弟だとかいうカイジとかいう奴が『俺が代わりに渡るから蓮は渡るな!』と言い出す。
馬鹿が。お前などが代わりになるわけがないだろう。今回お越しのVIPの方々は皆蓮の墜落を楽しみにしておられるのだ。こんな屑1匹では話にならない。
さてどうしたものかと思っているとカイジを振り切って蓮が渡り始めた。こちらが策を講じる必要もなく蓮は地獄へと足を踏み入れた。それを皮切りにカイジ、そして他の債務者も鉄骨を渡り始める。ククク、好都合だ。全員星になるまでそう時間もかかるまい。
だがひとつ予想外なことに蓮の足取りが思ったよりも軽い。誰も彼もが歯を食い縛り震えながら足を踏み出す中で蓮はまるでここが地上だと錯覚しそうになるほど普通に歩いている。進みも速い。
落ちたら死ぬ、それだけで人は当たり前のことが出来なくなる。平常でいさせない。死の恐怖というものはそれほどまで人に纏わりつき身動き取れなくさせるのだ。
だというのに蓮はまるで普通のことのように進んでいく。こいつ、死ぬのが怖くないのか?蓮の表情からは恐怖や焦りといった感情は読み取れない。
そのうち他のクズどもが耐え切れず自滅し踊るように落ちていく。ギブアップの声がそこら中から上がるがズレた命乞いだ。真剣勝負にそんなものはない。
救われぬほど心性が病んでいる。とことん真剣になれぬという病だ。自分の人生の本番はまだ先なんだと『本当のオレ』を使っていないのだから今はこの程度なのだと本気で思っている。愚かなことだ。今生きていることが丸ごと『本物』なのだ。
やがて残ったのは蓮、カイジ、佐原、石田の4人となった。
ああそうだ。確かカイジが金はいらないから電源を切れとそう言っていたな。ここまでくれば大勢に影響はないだろう。この後、あるかもしれないゲームを有利にする為に電源を切っておくか。
近くにいた黒服に指示を出し電源を切らせる。これで生き残ったとしても権利を先に手放したのはお前らなのだから報酬を受け取ることはできないと突っぱねることができる。
思ったより蓮の進みが早いためエレベーターを降り、隣の建物へ移動しておく。隣の建物に辿り着き、様子を窺うと石田とかいう男がカイジにチケットを託そうとしていた。あの男ももうダメであろうな。チケットを渡すと言う行為をしたらもう持つまい。また1人星になる。
まさにカイジがチケットを受け取ろうとしたその瞬間、蓮が『それは自分でやってもらえませんか』と声を張る。『カイジさんが切れと言ったから電流が切られたんだ』という蓮にギクリとする。な、電流を切ったことに気付かれていたのか。不安定な足場の中で落ちないように前に進む事で精一杯のはずなのに後ろを見る余力があったというのか。
蓮の言葉に残っていた連中も鉄骨に手をつき跨るようにして座り込む。そして身体が安定するようにと鉄骨を足で挟み込んでいた。くそ、こういう事態にしない為に電流を流していたというのに余計なことをしてしまった。
チッと後ろから舌打ちが聞こえて身体が震える。会長の機嫌を損ねたらしい。
「こんな見苦しい物を見る為にここにいるのではない。こんなことなら電流を切るべきではなかっただろう」
「はっ、申し訳ございません。奴らの言質を盾に電流を切っておけば報酬を払わずに済むかと」
「そういう小事に気を取られるから本来の目的を見失うのじゃ。全く以て役に立たん」
ブツブツと会長が小言をいう。電流を切っていなければいなかったで『クズどもにはビタ一文だってやりたくないというのに、お前は全くもって気が利かない』とお叱りを受けるのだが、これは完全に失策だった。蓮に気づかれるなら電流は切るべきではなかった。まだ物が飛んで来ないだけ怒りは強くないようだが、ここから一歩間違えれば完全に機嫌を損ねる。なんとか挽回しなくてはならない。
そうこうしているうちに蓮がガラスの階段に飛び移るのが見えた。くっ、そちらにも気付くというのか。蓮の落下という可能性は完全になくなった。
「何としてでも蓮をギャンブルの場に引き摺り出せ。圧倒的な才能が無惨に散る姿を是非とも見てみたい。あの無表情の仮面を引き剥がし悲鳴と血飛沫を上げさせるのじゃ」
「勿論です。お任せ下さい」
何とか挽回の機会は得られた。こちらが準備したゲーム、Eカードには細工がしてある。ギャンブルの場にさえ引きずり込めば負けはない。
こちらの有利を崩さず蓮にギャンブルをさせることには成功した。場所を移動してEカードのルール説明をする。1ミリあたり100万と破格の値を付けたがどうせ1、2戦して蓮の出すカードの傾向さえわかれば残りは負けようがないのだ。心配なのは蓮が低い値ばかり設定して無傷で逃げ切ること、よってそれを防ぐ為に最低賭け値を5ミリと縛りをキツくしておく。これで6戦負ければ蓮は視力か聴力を失い会長もお喜びになられることだろう。
あとは賭ける物に耳か目を選択させればゲームが始まるというところで蓮がルールに追加を申し出た。1ミリあたり1000万での設定にしろと。
馬鹿な、1000万だと!100万でさえ通常の10倍だと言うのに小娘1人に何億もの大金を出せというのか!
当然受けられる話ではないので突っぱねようとすると蓮は賭ける物を変えてきた。視力でも聴力でもなく心臓を賭けるのだと。
確かにこの器具は胸にも取り付けができる。表皮から心臓までの距離もおよそ3cmだからゲームも行える。そう思考はできても理解はできない。
興を削がれるからいうつもりもないが賭けるのが耳であるならば聴力を失うのは一時の事なのだ。すぐに鼓膜は回復しまた元通り耳も聞こえるようになることだろう。
それを心臓だと?針が心臓に到達すればどうあがいても死ぬのだ。何故そんな取り返しのつかない物を賭けるのだ。今生還したところなのに何故また死地に行くのか。なんなんだこいつは。死にたいのか。
会長は歓喜に震え涎を垂らしておられる。蓮が命を賭け絶命するところを見られると狂喜しておられる。
だが流石にただでは受けられないと。最低の張りを10ミリに、そして蓮が死ねばそれまでに獲得した金は全て没収、金を払わないというルールを定めた。6回でも蓮に勝ち目はなかったのに、それを3度、下手したら2度の敗北で心臓に到達する条件など蓮に勝ち目はない。
本気の真剣勝負ならばわしもわからなかった。ひとつの企業を個人が潰すなどあり得ないこと、その不可能を成し得た異才のギャンブラーに真っ向から挑み勝てるとは思わない。
だがこのEカードなら話は別、このゲームは相手の出したカードがこちら側には筒抜けなのだ。
これから蓮が取り付ける機器には体温、鼓動、血圧を測る測定機が付けられている。いくら蓮が凄腕のギャンブラーだとしても自分の身体に嘘をつくことなどできるわけがない。そして切るカードがわかればこの勝負で負けようはないのだ。わしの勝利は盤石なのだ。
次も利根川視点