微睡みの中、体を優しく揺すられ、柔らかな声色が聞こえてくる。
どうやら俺の名前を呼んでるらしい。
「比企谷君。起きて比企谷君」
ボヤけた視界に人影を確認する。
誰だろうか、小町かな?
「小町ぃ?」
「小町さんじゃないわ。ほら起きて比企谷君」
「なんだ小町ぃ、久し振りにお兄ちゃんと同じ布団で寝たくなったのかぁ。仕方ないなぁお前は」
「きゃッ!ちょっと、いい加減に起きなさい!」
グイッと手を引いて自分の胸の上に頭を乗せ、その長くて艶やかな黒髪を撫でてやるってん?
長くて、艶やかな、黒髪?
「はうぅ......。女性を自分の布団に引きずり込んだ挙句、ん...、許可なく頭を撫でるなんて、とんだケダモノね......、あぅ......。」
脳みそに直接冷水がぶっかけられたのかと錯覚するほどに急速に目が覚めた。
今俺の胸の上で、俺に撫でられるがままになり、気持ちよさそうに目を細めては甘えた声を出してるこの女は誰だ?
マイスウィートシスター小町ではない。あいつの合鍵は奴に手渡されている。そうなると答えはその”奴”しかいないわけで。
よし、まずはこの胸の上に乗ってる可愛らしい小動物じみた女を退かそう。話はそれからだ。
「あ......」
「......」
そんな寂しそうな目で寂しそうな声出されたらまぁ引き続き撫でるしかなくなるよね!
「でもそのまま一時間も撫で続けさせるのはどうかと思うの......」
「し、仕方ないじゃない。思ったよりも心地良かったのだから......」
現在時刻午前9時。場所は新幹線の中。
雪ノ下をひたすら撫で続けたあの至福の時から4時間が経過していた。つまりこいつは午前5時に俺の家にやって来ていた事になる。
何故そんな早くから来ていたかというと
「しっかし、いきなり関西に旅行に行こうなんて言われた時はマジでビビったぞ」
「サプライズよ、サプライズ」
近畿地方は兵庫県神戸市、そこにパンさんミュージアムなるものがあるらしい。
以前より行こうかと思ってはいたものの、中々機会に恵まれなかったらしく、今年のゴールデンウィークである今日から俺と行ってしまおうと決意したらしい。
それにしても、高2の時の夏合宿もそうだったのだが、泊まりで出掛けるのなら予めその旨を伝えておいてほしい。ほら、準備とか色々あるじゃん。
まぁ雪ノ下があんな早くに俺の家に突撃して来たのも俺の準備の事を考えて、らしいが。
「んで、そのパンさんミュージアム以外にどっか予定はあんの?」
「特に決めてないわ。一応二泊三日だから時間はあるもの。現地に着いてからゆっくりと決めましょう」
「てかこの旅行、いつ頃から計画してたんよ」
「そ、それは......」
なんだか言い辛そうにする雪ノ下だが、はて、今の質問の中に何かおかしな要素は含まれていただろうか?
「この前ららぽーとで姉さんと会ったじゃない?」
「一週間くらい前か」
「ええ。あの後、姉さんが私の現状について両親に報告したらしいのよ」
「え、あの人マジでお前の母ちゃんに報告したのか」
コクリと首肯される。
ちょっと怖いんだけど。俺、雪ノ下家に消されたりしないよね?大丈夫だよね?
「そうしたら両親がどうやら色々と勘違いしてしまったようなの。それで、その日の夕飯の前に母から電話が掛かってきて」
勘違い、とはつまり俺と雪ノ下がいわゆる所の恋仲だと思ったのだろうか。
それでその電話の要件が、ホテルとかこっちに任せせて貰っていいから恋人と連休中に旅行行ってこいと言うものだったと。
なんか、あれだな。知らん間に雪ノ下家の攻略難易度が下がってるな。それこそ一週間くらい前には魔王と大魔王討伐(失礼)の為の覚悟を決めていたものだが、どうもその討伐クエストは勝手にクリアされていたみたいだ。
「ま、そのお陰で念願のパンさんミュージアムに行けるんだから結果オーライじゃねぇの?」
「そうなのだけれど......。その、貴方は何か思う所はないの?」
「思う所とは?」
「はぁ...いえ、なんでもないわ」
いや、言わせてもらうが、思う所が無いわけがない。
だって雪ノ下と二人きりで旅行だぞ?俺だって健全な男子なのだから好きな子と二人きりの旅行なんて色々と想像してしまう。
しかもこう見えて俺ってば割とテンション上がっちゃってるからね。ただでさえ一週間前から楽しみにしていろと言われていて、蓋を開けてみたら雪ノ下と旅行と来た。テンション上がらないわけがない。
「まぁでも、それなりに楽しみにしてたぞ。ほら、関西って中々行かないし」
「あら、高校の修学旅行で京都に行ったじゃない?」
「そりゃそうだけどさ」
個人的に修学旅行の話はあまりしたくないのでつい曖昧な返事になってしまう。
「今となっては良い思い出よね。哲学の道とか」
「うぐッ......」
うん、まぁ、確かに今となってはそれもいい思い出ですね。俺の人生のターニングポイントと言っても差し支えないくらいには。
そしてそれを笑顔で語れる雪ノ下さんマジパネェ。
思い出に浸っていると言うより俺に対する罵倒に浸ってるかんじの笑顔だけど。
ふわぁ、と隣から欠伸が聞こえて来た。あの雪ノ下が欠伸とは珍しいと思ったが、俺の家に来たのが超早かった上に元々体力のない彼女の事だ。新幹線に揺られている事もあって眠気が襲って来たのだろう。
「眠かったら寝てていいぞ」
「ごめんなさい、お言葉に甘えさせてもらうわ」
これまた珍しく俺の提案を即座に受け入れた。
昔、俺の顔を見ると一発で目が覚めるとか言ってた奴と同一人物とは思えないな。
「肩、少し借りるわね」
「え」
反論する暇も無く、俺の肩にしなだれかかって来る雪ノ下。
え、何この唐突にやってきたトキメキイベント。これギャルゲーじゃないんだよ?現実なんだよ?
と、俺が狼狽えていると、その姿がおかしかったのかクスクスと笑う声が聞こえる。
「別に今更恥ずかしがる必要もないでしょう?朝はあんなことをして来たのだから」
「ソッスネ」
それを言われてしまっては弱い。
まぁ、俺を信頼してこうして体を預けてくれると言うのは殊の外悪い気分ではないし。
「比企谷君」
そろそろ眠気が限界に来ているのか、眠たそうな声で俺の名前を呼ぶ。
「思い出、たくさん作りましょうね」
「......そうだな。たくさん作ろう」