未来への進撃   作:pezo

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「壁の外からやってきたの」

 

 

 

唐突なその副官のカミングアウトに、イリヤははあ?と心底呆れたような心地がした。この副官はなにを言っているのか。今ここに来て頭が湧いたのか。

 

 

しかし対するケニーはというと、先ほどまでの下品な笑顔は消えて、どこか神妙な、怪訝そうな複雑な表情で固まっていた。

 

 

 

「テメェ……」

 

 

「秘密。とっておきの。内緒ね」

 

 

 

いたずらっぽく笑った彼女の頬が赤い。明らかに、その瞳に欲情の色がのっていた。

 

 

 

「クシェル副官」

 

 

「隊長」

 

 

 

イリヤが彼女の名を呼んだ声とかぶさって、一人の女の声が割って入って来た。透き通った、しかしどこか冷たい抑揚のない声だった。

 

 

 

「ああ?トラウテ。なんだ」

 

 

「油売ってないで。そろそろ行きますよ。上でももうお開きです」

 

 

「ああ?!こっからがいいところだろ。なあ、クシェル」

 

 

 

シャツとパンツという簡素な格好をした、金髪の瞳の大きな美人だった。ケニーの部下らしき彼女は、

その美貌を凍てつくような無表情で固めていて、イリヤは薄ら寒い気持ちになる。

 

 

 

「クシェル?彼らは……調査兵ですか?」

 

 

「そうだ。今からこの姉ちゃんと遊ぶ約束してんだ。お前は先帰ってろ」

 

 

 

トラウテ、と呼ばれたその女性は呆れたような大きなため息をついて、ケニーのその頭を容赦無くはっ叩いた。

 

 

 

「どうりで……。クシェルさん?上で調査兵団の団長たちが、あなたたちを探していましたよ。これ以上ここにいるのはマズイです、隊長」

 

 

 

団長たちが。早く戻らねば、と思い立ち上がって副官に声をかけようとしたイリヤは、彼女が俯きながら「そうか」と笑みを浮かべていたのを見た。

 

 

 

「ク、クシェル副官?」

 

 

 

ランタンの光が仄かに揺れる大広間。舞台で繰り広げられていた競りも、終焉を迎えつつあるようだ。貴族たちの噛み殺した、しかし下品な笑い声が密やかに響く。

 

 

 

クシェル副官が、その上気した顔を上げて、その舞台を見た。うっとりと、恍惚とした瞳が場違いに濡れている。ふぅ、と吐いた彼女の吐息がまるで桃色に色づいているかのように、蠱惑的に漏れて、ぞくりとイリヤは伸ばしかけた手を引いていた。

 

 

 

「ケニー。もうひとつの余興だ」

 

 

 

そう言った彼女が立ち上がった。右手に、いつの間にか黒い小銃が握られている。あ、と思った時には、彼女はその小銃をひとつ、天井にかけられたシャンデリアむけて放っていた。

 

 

突如響いた轟音と、ガラスの砕け散る音。その後に響く、貴族たちの悲鳴。なにが起こったのか、把握できずにうろたえる貴族たちを抑えようと、舞台の上に、屋敷の当主であるダリス伯爵が躍り出た。その脇に、兵服を着た女性が一人。

 

 

 

「え、ユディ?」

 

 

 

その女性兵の姿にイリヤが瞠目している間に、優雅な歩みで、白いドレスの副官が舞台へと近づいていく。

 

 

 

「ダリス伯爵」

 

 

 

凛、と響くような、しかし甘くよく通る声が、舞台の上の貴族を呼ぶ。広間に広がっていた悲鳴が、彼女の声で、静寂に返っていく。

 

 

 

「今宵はお招きありがとうございます。今、わたくしの身体にはどうやら一種の興奮剤が入っているようです。この興奮剤、先ほども奴隷の商品に盛られていたようですが……。どうでしょう?ここに参加している貴族のみなさまも一緒に飲んで、ひとつ皆で天国へと昇ってみるというのは?なかなか良い余興かと思うのですが」

 

 

 

「はあ!?なにを言っているんだ、君は」

 

 

 

舞台の下で、彼女へと近づいた青年たちに、副官はにこりと微笑んで、しなだれるように近づいた。甘く濡れた瞳の彼女に、一瞬青年がたじろいだ隙に、その白いドレスの女性は、彼らを背負い投げた。舞台の上で、スカートがまくれるのも気にしない彼女が乗り上げたのを見て、護衛らしき屈強な男性が数人彼女へと走りよったが、機敏な動きで彼らは殴られてしまう。

 

 

女性とはいえ、やはり毎日鍛え上げた兵士、というところだろうか。屈強な男を片手で投げ飛ばす様は、まるで並の人間のなせるものではない。彼女はあっという間に護衛の男をのした上、倒れた男の懐からナイフを取り出し、きらりとランタンの光の下にさらした。

 

 

 

「おい、誰かこの女を捕まえろ!」

 

 

 

勇気ある数人の男性が、彼女へと向かっていく。振り返った彼女が、まるで踊るようにステップを踏んで、ふ、と笑ったのを、確かにイリヤは目にした。

 

 

その軽やかなステップの踏み込みと同時に、くるりとナイフが彼女の手の中で逆手に持ちかえられて、男たちの肉を削ぐために翻った。浅くはあるが、確かに斬り付けられた男が手をおさえてその場にうずくまる。

 

 

 

鮮血が散り、くるりと舞うように踏み込んだ女のドレスが鮮やかに赤く色づく。

 

 

 

「ク、クシェルふぅぅくかぁあああああんん!!!!!」

 

 

 

なにやってんだあの人は!!

 

 

 

なんとかしてあの暴走を止めなければ、と思い舞台に走る。その際、舞台脇で目を丸くしていたユディに、「お前も止めろよ!」と叫んだ。そのときは、イリヤはなぜその場にユディがいるのかどうかなど、全く頭になかった。

 

 

 

「副官!!どうか気を確かに!何やってるんですか!!」

 

 

 

振り返った彼女の顔は、どうにも正気を逸しているような、恍惚とした表情をしていた。いつもの緊張感を湛えた副官はどこにもいない。舞台を上がろうとしたとき、背後から首根っこをつかまれて投げられた。

 

 

ケニーによって投げられたのだと気づいたのは、そのケニーが舞台の上でも彼女の背後をとったまさにその時だった。

 

 

 

「オイ。ナイフの握り方はそうじゃねえ」

 

 

 

静かに、男の声が響いた。

 

 

 

右手にナイフを握った女は、手首を掴み上げたその背後の男を振り返った。もうそこには理性のカケラなどない真っ黒な欲望に溺れた瞳があるだけだった。

 

 

男は笑わずに、そのナイフを握る細い手を、後ろから包み込んで、少しだけその指の位置を調整してやる。

 

 

 

「こうすりゃ、今より力が入りやすい。これで振ってみろ。次は手首くれぇ簡単に落とせる」

 

 

「……あなた、」

 

 

「クシェル。テメェのことは覚えておいてやるぜ、このケニー様がな。だからよぉ……だから、」

 

 

 

ケニーは口を噤んで、彼女の鳩尾に背後から強烈な拳を叩きつけた。背後からの殴打にもかかわらず、それはひどく彼女の内臓に響いたらしく、彼女はげぇと唾を吐き出してその場に倒れ込んだ。

 

 

男はそっと倒れこむその体を支え、ゆっくりと床に倒したあと、何も言わずにその場を去った。彼の部下であるトラウテという女性が、副官の側まで来て、

 

 

 

「解毒剤よ。少しはマシになる」

 

 

 

白い粉が入った袋を、その側に置いた。苦しげに悶える彼女は意識はあるらしく、その女が去っていく様子を鋭い瞳で睨みつけて見ていた。

 

 

 

「クシェル副官!」

 

 

 

イリヤが叫んだそのとき。

 

 

 

大広間の扉を大きく解放する音と、研ぎ澄まされたよく通る声が広間の空気をつんざいた。

 

 

 

 

「リヴァイ兵士長!彼女を取り押さえろ!第四分隊は参加者とダリス伯爵の保護を!!」

 

 

 

そこに居たのは、薄墨のスーツを身にまとった、エルヴィン団長だった。彼の背後から、黒くて小さな影と、ハンジ分隊長率いる第四分隊が入室してくる。

 

 

ダリス伯爵をはじめ、貴族たちが突然の兵士たちの乱入に、慌てて大広間から逃れようとするが、それは第四分隊の屈強な兵士たちに取り囲まれて叶わない。

 

 

貴族の「保護」など建前にすぎないことが、彼ら兵士の毅然とした態度で一目瞭然であった。ハンジ分隊長が兵士たちを指揮するなか、黒い礼服に身を包んだリヴァイ兵長がひとり舞台へと上がってきた。

 

 

 

「オイ。クシェル。生きてるか」

 

 

「リヴァイ兵長!副官は興奮剤を飲まされています!その解毒剤を!!」

 

 

 

戦場と同じような無駄のない動きで彼女を抱き上げた兵長に、イリヤが手渡せば、彼は舌打ちをしながらその水と彼女のそばに落ちていた解毒剤を彼女の口へと流し込んだ。

 

 

 

「リヴァ……」

 

 

 

「どうした。話せるか」

 

 

 

しっかりと彼女を抱きとめたリヴァイ兵長は、少し焦ったように彼女の声を聞き取ろうとその唇に耳を寄せたが、彼女はそれを拒否するようにいやいやと首を振って、彼の手から逃れようと身じろぎした。

 

 

 

「クシェルさん!いい加減、おとなしくしてください!あんた、やばい状況ですよ!」

 

 

 

上気した頬と、弛緩した体は少しは震えている。ケニーは確か、「話せているのがおかしい」状況だと言っていた。

 

 

 

「オイ、イリヤ。こいつが飲まされたのはなんだ。興奮剤ってのはどんな種類のもんだ」

 

 

「催淫剤ですよ!あの伯爵のご子息に!」

 

 

 

イリヤの取り乱した報告に、リヴァイは盛大な舌打ちをして、忌々しそうに「あの変態が」と漏らした後、苛立った怒号で、

 

 

 

「クソメガネ!!おい、ハンジ!」

 

 

 

分隊長を呼んだ。戦場でもそんなリヴァイ兵長の怒号はそうそう聞くことはない。その声に血相を変えて舞台へと上がってきたハンジ分隊長もまた、いつもの飄々とした余裕は影を隠していた。兵長から簡潔に状況を説明された彼女は、すぐに彼の腕から副官を抱き上げて「クシェル?クシェル!大丈夫かい?私だ。ハンジだ。もう大丈夫だ」とその背中をさすった。

 

 

 

どうやらその女性の手ですら快感を拾うらしい。副官は苦しそうに、しかし確実に色を宿して僅かに喘いだが、それがハンジ分隊長だと認めると、安心したように「おさまらないんだ」と泣きそうな声を出して、彼女にすがりついた。

 

 

 

「大丈夫だ。大丈夫。私が誰にもあなたに手出しさせないから、あなたはとにかく水を飲んで。薬の効果を薄めるんだ。わかったね?」

 

 

 

腕の中で体を焼くような苦しみに耐えている副官を、まるで母のようにかばって他の兵士から見えないようにしてやるハンジ分隊長。そんな彼女たちのそばで、リヴァイ兵長がいつもよりその鋭い瞳を細めて、副官を見つめている。

 

 

 

 

そこには、十日あまり前に、彼女のクルトへの暴行を過激に叱咤した彼らの姿はなかった。それは、長く連れ添った仲間を気遣う兵士たちの姿だった。

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

チリリ、とろうそくの炎が揺れて、部屋の中の世界がゆらりと歪んだ。そのろうそくのわずかな光のもと、椅子の上に後ろ手を縛られて拘束されているのは、ユディ調査兵である。

 

 

 

「さて。事情はよくわかった。安心しろ。お前の言ったことは全て信じよう」

 

 

 

ふう、と珍しく大きな息を吐いて言ったのはリヴァイ兵士長である。部屋の中に据え置かれている豊かなクッションのあるソファに、腰を下ろした。

 

 

イリヤは、そんな上官の様子を直立不動の姿勢で見ながら、ユディに対して行なわれた尋問をついに最後まで見届けることとなった。

 

 

 

場所は、ダリス伯爵の屋敷のとある一室である。クシェル副官が起こした騒ぎによって、伯爵の開いた宴は強制的に終わりを迎えた。違法な酒宴の参加者たちは調査兵たちによって「保護」という名目で取り押さえられ、クシェル副官に薬物を投与した伯爵のご子息もまた、その責を問われるか、と思われたが。

 

 

エルヴィン団長は、朗らかにダリス伯爵へと部下の非礼を詫びた。リヴァイ兵長曰く、その笑顔はとんでもなく黒いものだ、ということだった。

 

 

終始朗らかに笑っていた団長は、ダリス伯爵が顔を青くして彼との「交渉」に応じることを承諾したのを確認して、「保護」した貴族を第四分隊の兵士たちに屋敷の外までお送りさせるよう命令した。

 

 

 

そのまま、団長は伯爵の私室に「交渉」のため姿を消した。

 

 

 

第四分隊の兵士たちは、貴族の見送りと副官によって散々に荒らされた広間の片付けや怪我をした使用人の手当などに追われ、薬の副作用で吐き気までももよおした副官には、ハンジ分隊長と数人の女性兵士が付き添った。盛られた薬が媚薬であったこと、思いの外その薬の作用がひどかったことから、男性兵士は団長や兵長をふくめ、彼女から遠ざけられた。

 

 

 

 

結果として、ダリス伯爵と共に地下の大広間にいたユディ調査兵への尋問は、手の空いていたリヴァイ兵長と、イリヤの二人で行なわれたのだ。

 

 

 

そして、その尋問は今、ようやく終わりを迎えた。

 

 

 

ユディの自慢の長いブロンドの髪は、一糸乱れることなく、炎の光のもとでわずかに輝いている。彼女の衣服にも、身体のどこにも乱れも傷もなかった。

 

 

 

「裏切りが事実なら、お前はもう退団だ。人類へ捧げた心臓ってやつも、もう誰のもんでもねえ。お前のもんだ」

 

 

「心臓は捧げたままです。裏切りなんかじゃないわ」

 

 

 

 

リヴァイの言葉に、それまで俯いてただ黙していたユディが突然反論した。

 

 

 

「私は……私の心臓は、最初から人類に捧げたままです。ただ、それがエルヴィン団長のやり方と違っていた。それだけです。私は人類に心臓を捧げた兵士です。それは退団させられても変わりはないわ」

 

 

 

睨みつけるその瞳には、強い意思がみなぎっている。イリヤはその瞳に、壁外で飛び回っているときの彼女の生き生きとした強い瞳を思い出した。

 

 

 

「……そうか。そりゃあ、残念だ」

 

 

 

 

リヴァイはそのまま、感情の読み取りづらい表情を崩すことなく、彼女の手首を縛る縄をほどき、イリヤに声をかけて部屋に鍵をかけて退出した。

 

 

部屋を出る前、一瞬だけイリヤが盗み見たユディは、深く項垂れており、その表情は見ることができなかった。

 

 

 

 

「……リヴァイ兵長」

 

 

 

 

壁も天井も、そして床も、見渡す限りありとあらゆる装飾が施されたその屋敷の廊下は、兵団施設のようにただまっすぐに続いている。

 

 

夜の闇にどっぷりと静まり返るその廊下を、リヴァイはただ黙して歩くばかりである。イリヤはその上官の背中を見ながら、裏切りの仲間たちの顔を思い浮かべる。

 

 

 

前回の壁外調査の際、本隊からはぐれたイリヤたち三人が、巨大樹の枝の上で励まし合ったのは昨日のことのように鮮明に記憶している。

 

 

 

しかし、共に支え合った彼らは、今や兵団の「裏切者」であった。

 

 

 

「リヴァイ」

 

 

不意に、廊下の奥から低い声が呼びかけた。イリヤの目の前の上官の小さな頭が、わずかに揺れた。

 

 

「エルヴィン」

 

 

その廊下の先にうずくまる暗闇のなかにに立っていたのは、エルヴィン団長だった。ダリス伯爵との「交渉」は終えたらしく、礼服の上着を脱いで無造作にその分厚い肩にかけていた。

 

団長に常よりも柔和な笑みが浮かんでいることが見て取れるほど近づいたところで、リヴァイ兵長はようやくその足を止め、舌打ち交じりに「交渉は成功したようだな」と頷いた。

 

 

「ああ。クシェルが薬を盛られた上に暴れ倒してくれたおかげで、こちらに有利に話を進めることができた。次の壁外調査用の物資はかなり潤いそうだ」

 

 

もともとの金策という目的は成功したらしい。イリヤの目から見てもそれとわかるほど、団長は嬉しそうに笑って、「そちらはどうだ」と兵長と、その背後に控えるイリヤに一瞥を加えた。

 

 

「ユディは黒だ。うまくやりゃあ、ここの変態親子からまだむしり取れるかもしれねえな。……だが、クルトは無関係だった」

 

 

「クルト・ウェルナーはダリス伯爵とグルではなかったと?」

 

「奴を兵団の地下牢から逃がしたのはユディで間違いない。だが、奴が何者だったのかは、ユディは知らないようだった」

 

 

その報告を聞いて、エルヴィン団長はふむ、と少し考えるそぶりをした後、イリヤに目を向けて、その大きな手を彼の肩に置いた。

 

 

「イリヤ。今日はクシェルだけでなく君の功績も多い。伯爵の地下での酒宴に紛れ込めたのは、君の知人がいたからだということらしいな。ありがとう。感謝するよ」

 

 

青く澄んだ瞳が、夜の闇の中でもしっかりと自分を見つめていることを感じ、イリヤは息を飲んだ。

 

 

「……団長。いくつか、質問を宜しいでしょうか」

 

 

どうぞ、と末端の兵士にも気安く発言の許可を出すエルヴィン団長は、兵士の中でも憧れの存在である。そんな団長は、確かにイリヤにとっても憧憬の的であった。しかし、今の彼はその憧憬すらかすんでくるような心持に襲われていた。

 

 

「……今回の護衛に俺とユディが選ばれたのは、ダリス伯爵への情報漏えいの疑いをかけられていたから、ということでしょうか」

 

「ああ。疑わしきは、君とユディだった。結果、君には悪いことをしてしまったな」

 

 

まるで申し訳なさそうに眉をひそめた団長に、兵長がわずかに鼻を鳴らす。

 

 

「もうひとつ……。クシェル副官は、わざと薬を盛られて、暴れたということですか?」

 

 

こちらの質問には、兵団の頭首たちは顔を見合わせた。「どうだかな」答えたのはリヴァイ兵長である。

 

 

「だが、わざわざ拳銃を撃ったのは俺たち地上の調査兵に居場所を知らせる心づもりがあったからだろう。暴れたのも、そうすりゃ時間稼ぎができるとふんだのかもしれねぇが……。どこまで意図していたのかは、あんな調子だからな。本人もわかりゃしねえだろう」

 

「リヴァイ兵長。では、どこからが……。いや……、もしかして、地下牢でのリヴァイ兵長の制裁も、内通者を炙り出すための演技ですか?」

 

 

クルトを暴行したとクシェルに、容赦なく顔面にまでケガを負わせたのはリヴァイ兵長だが、先ほど意識を混濁させた彼女を心配そうに抱き上げていたのもこの彼だった。

 

 

しかし、イリヤのその問いには、リヴァイ兵長は「さあな」とそっぽを向いて答えることはなかった。

 

 

どこからが彼ら上層部の考えていたことなのかは、一兵卒のイリヤには全く分からない。しかし、それでも、その行動は、あまりにも「暴力」的だった。

 

 

「クシェル副官が可哀想です」

 

 

内通者を炙り出すためとはいえ、壁外調査のための金のためとはいえ、あまりにも一人の兵士をモノのように酷使しすぎている。

 

兵団のために、彼ら上層部は部下を足蹴にしたり、得体のしれない薬物を飲ませるまで追い込んだり、誰とも知れぬ男の手に遊ばせたりするものなのか。

 

思わず放ったイリヤの言葉に、あからさまに不快な反応を示したのはリヴァイ兵長であった。

 

 

「どの口が偉そうなこと言ってる」

 

「いや、だって。副官ってこんなことまでしなきゃいけないんですか?ここまで体張って、ちょっと犠牲が大きすぎやしませんか。俺は上官がこんな辱めを受けるような仕事をしているのを見てられません」

 

 

ここに他の兵士がいれば、即刻イリヤのその無礼な口は閉ざされたであろう。しかし、彼を止めるものはいない。

 

 

「男に体を差し出すような真似までさせて、こんなこと他の兵士に知られたら、」

 

 

己の正義感を、疑うことなく「正しい答え」だと信じているのは、イリヤの最大の利点でもあり、最悪の欠点でもあった。だが、それは彼の知る由もない己の欠点である。

 

 

一兵卒の無礼極まりない発言に、リヴァイ兵長はそれでも彼の胸ぐらをつかみ、にらみあげる、という程度の制裁にとどめながら、

 

 

「じゃあなんだ。お前は成果を得るために、何の犠牲も払いたくありませんとでもいうつもりか?お前は壁外で一体今まで何を見てきた」

 

 

と地響きのような低い声で言った。

 

小柄で細身の体のどこにそんな力があるのか、と問いたくなるばかりの馬鹿力で首元を締め上げられ、イリヤはう、と唸った。上官に無礼を働いている自覚はそれなりにあったものの、それでも彼は叫んでいた。

 

 

「俺は!……俺は犠牲は払いたくありません!死にたくないし、誰も死なせたくない!そんなの当たり前じゃないですか!!」

 

「テメェは……!」

 

イリヤの視界の隅で、リヴァイ兵長の左こぶしが強く握りしめられたのを認めて、わ、と彼は目をつぶった。マズイ。これは非常にマズイ状況だ。しかし、イリヤは「言ってやった」と心の中で自分を肯定しながら、その上官から下されるであろう制裁に身を固くした。

 

しかし、その一撃は振り下ろされる――正確に言うならば、背の低い兵長ゆえ、振り上げられると言うべきか――ことはなかった。

 

 

「……?」

 

「まあ、リヴァイ。その辺にしてやれ」

 

 

いつまでもやってこない衝撃に、おそるおそるイリヤが目を開ければ、リヴァイ兵長の肩に手をかけてなだめるような姿のエルヴィン団長が視界に入った。リヴァイ兵長は、こぶしを握り締めるだけで、その腕をぴくりともあげていない。

 

 

「イリヤ。君の言い分はわかった。しかし、クシェルはシガンシナ陥落以前からの古参兵だ。五年以上、献身的にその身を人類へと捧げている。その働きは私も頭が上がらないものだ。仲間としてとても尊敬している」

 

 

静かな声が廊下に響く。行軍の先頭で放たれる偉丈夫な堅いそれではなく、ゆっくりと温度のある声だった。

 

 

「だからこそ。「可哀想」だなどど、彼女を貶める発言はやめてくれないか。それは彼女への最大の侮辱だ」

 

 

柔らかな声に反して、その鋭い瞳に一蹴され、イリヤは己の失態を恥じた。まさか、それが「侮辱」になろうなどと、思いもよらなかったのだ。イリヤは「申し訳ございません!」と敬礼をして、二人に頭を下げて、逃げるようにその場を去った。

 

 

 

 

 

大人っぽい相貌にそぐわず、やけに軽率なその少年兵の逃げ去る背中を見ながら、エルヴィンは少しだけ笑った。暗闇でもわかるほど顔を赤らめたその率直さは、「率直」なるものからほど遠い位置にいる彼にとってひどく新鮮だった。

 

 

「おい、何笑ってやがる」

 

「いや、すまない。クシェルが彼に下した評価表を思い出してね」

 

 

不機嫌という感情をそのまま鋳型に流して固めたような腹心の男に、こらえきれない笑いを漏らしながらエルヴィンが言えば、その男は怪訝そうに眉をひそめた。

 

 

「彼女曰く、イリヤは「率直で正義感にあふれた好漢」だが、それ故に「使えない」ということだ」

 

 

その発言に、リヴァイは蔑むような笑いをこぼした。

 

 

「だろうな。よくあんな甘っちょろい考えで生きてこれたもんだ。上官に反論するのも考えてからにして欲しいもんだな」

 

「その豪胆さがあるから、お前はクシェルの班に彼をつけたんだろ?」

 

「あんなクソガキだと知ってりゃ外してた」

 

 

その発言に、今度こそエルヴィンは声をあげて機嫌よく朗らかに笑った。

 

 

未だ行方も目的も知れないクルト・ウェルナーの件も、今まさに薬の副作用で苦しんでいる副官のことも、心配事は尽きないが、それでも今宵はエルヴィンにとって良い夜だった。

 

数か月間、悩まされていた機密情報の漏えいも解決し、おまけに資金も獲得できた。それだけではない。今後の動きによっては、ダリス伯爵とは「より良い関係」を構築できるかもしれない。

 

 

「ああ。今日は良い夜だな」

 

 

嬉しそうに窓の外の星空に視線をうつした彼に、腹心の男は忌々しそうに何か小言を言っていたようだが、彼はあえて耳に入れずに無視した。

 

 

その夜からおよそひと月後。

 

 

第56回壁外調査は、エルヴィン団長のもくろみ通り、何の滞りもなく行なわれることとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 









今回の話はめちゃ長かった。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
そしてお疲れ様でした!

ようやく次話から原作軸へ、、、


前置きが長かった…

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