クシェルから援軍の要請を頼まれたリヴァイは、ユディを連れてトロスト区の門扉へと猛進していた。その鋭い双眸が、門扉方面からやってくる馬の行軍を認めるには、それほど時間はかからなかった。
「兵長!調査兵団です!!」
ユディが歓喜に泣いた声をあげた。確かにそれは翼を背負った仲間たちの行軍だった。リヴァイは馬を止め、その先頭を見る。それはどうやら、彼の次に兵団での実力を誇るミケ・ザカリアス率いる分隊のようだった。
「ミケ!」
行軍の先導をするように、リヴァイはくるりと馬の首を返し、来た道を戻る。その合図をしかと見届けたミケは、速度をさらに上げるよう分隊に指示した。
「リヴァイ!」
「ナナバ!お前のガスと刃をよこせ!!」
行軍が彼らに追いついたとき、ミケ分隊長のすぐ後ろで馬を走らせていた短髪の兵士が彼の名を呼んだ。ミケ分隊の副官であり、シガンシナ陥落以前からの旧友であるナナバである。
友人の無事に叫んだ彼女に、リヴァイはほとんど恫喝するように怒鳴った。その一言で全て察したナナバが、すぐさま彼の馬へ近づき、併走しながら刃とガスを手渡す。
リヴァイがなんとか不安定な馬上でガスと刃を補充したときには、ミケを始め数人の兵士たちは彼が置いてきた仲間のもとへと向かっていた。
振り返った先に、後ろをついていたユディがいない。どうやら彼女もまた、仲間のもとへと向かったのだと気づき、リヴァイは舌打ちして速度を上げた。
*****
「ああ!クソ!こんなことなら、さっさと報告しときゃよかった!壁外に出る前に全部すませときゃ、こんなことには……!」
「おい、コルト!何言ってる!立て!馬に乗れ!!死にたいのかよ!!?」
地面に這いつくばって頭を抱えるクルトを、思わず乱暴に引っ張った。
クシェル副官が馬に乗って巨人を引きつけてくれている。今のうちに、早く。
早く逃げなければ。
どこに?
振り返った先に、巨人。目の前にも迫る巨人。
どこに、逃げ場があるというのか。四方は、既に巨人に阻まれていた。
7メートル級の笑顔のはりついた奴が手を伸ばしてきて、思わずクルトをつかんでいた手を放して後ずさってしまった。哀れにも、俺に見捨てられたクルトは、巨人の野郎に足をつままれた。
空に浮かぶクルトの細身の身体。
絶望にひきつる表情。
断末魔に近い、耳を塞ぎたくなる悲鳴。
クルト、が、
「イリヤ!」
呼び声の次に腹を叩いた衝撃。嗚咽をもらして、痛みに鳴く身体をひねれば、いつの間にか馬上にいた。どんな芸当か。どうやら俺はクシェル副官に引かれてその馬上に引き上げられたらしい。馬で駆けさせて、クルトをつまんだ巨人から遠のく副官に、俺は叫んでいた。
「クルトが!副官!戻してください!」
非難の声をあげて彼女を振り返った先に、ゆらりと立ちふさがる巨人。
彼女の愛馬である斑の毛色の馬が、悲痛な鳴き声をあげて足を止める。く、と息を呑んだ彼女の焦燥だけが、その背中からありありと伝わってきた。
その時。確かに俺は、命の終わりを覚悟した。
だが、その終わりは訪れなかった。
その時の風景を、俺は生涯忘れることはないだろう。
朝焼けの中、太陽の中から現れた無数の兵士たち。何本も空を走るワイヤーが巨人たちのうなじへと伸びている。次の瞬間には、血しぶきがそこらであがった。噴射されたガスが幾重にも重なり、まるで光を抱きしめるようにきらきらと輝いて見えた。
クルトを捕まえた巨人に、ひときわ素早い動きの兵士がとりつく。「リヴァイ兵長だ」と思った瞬間には、それはゆっくりと身体を横たえていた。
「間に合った……」
援軍が。間に合った。それはまさに奇跡だった。
「クルト!クルト!」
地面に投げ出された臆病な兵士に、綺麗な髪の女性兵士が駆けよった。ユディだ、と思ったとき、クシェル副官はそちらに馬を向けていた。
クルトはどうやら気を失っているらしい。それが分からないのか、ユディは必死でクルトの名を呼んでいた。その傍で、副官はひらりと馬をおりた。
周囲では濛々と巨人の蒸気があがっている。遠くでまだ数人、飛んで戦っている兵士が見えたが、あらかた近くに群がっていた巨人は一掃できつつあるようだった。
「クルト」
副官が呼んでも、彼は目を覚まさない。まさか本当に死んでしまったのではないか、と思った矢先、彼女の足がクルトの肩を乱暴に蹴り上げた。
重くて鈍い音に、ユディが非難の声をあげかけたとき、ようやくクルトがその瞼を開けた。
「……、あ、俺」
「クルト!」
「ユディ?イリヤ?」
俺たちの顔を見て彼は何度か瞬きした。すっとぼけたような、呑気な間抜け面だ。それを見て、ようやく俺は、生きている実感に心の底から安堵した。
「クルト」
クルトを抱き留めるように囲んでいたユディと俺の傍に、静かな声で副官がかがみこんできた。夜の闇のように暗い瞳の、黒い視線がクルトに注がれる。
「クルト。あなたが生きていてよかった」
そう言った彼女の笑顔は、なぜか苦しそうに歪められていた。
*****
「閉門!!」
全ての調査兵が帰還したのを確認した駐屯兵の声。閉門の合図が、トロスト区の門扉付近で響く。
壁外の眩しいばかりの陽光がローゼの扉で遮られて、壁に覆われた影が、安寧を連れてくる。影がゆっくりと、生還した5人の調査兵たちを包んでいく。
昨日、帰還した調査兵団の一行は、常のように本部には戻らず、門扉付近で駐屯した。
調査兵団団長、エルヴィン・スミスが、ドット・ピクシス司令に、壁外に取残された兵士の捜索のために、壁上への部隊配置を願い出たのは、彼ら調査兵が帰還してからまもなくのことだった。
壁外へ取残されたのはシガンシナ陥落の際、誰よりも功績を残した、人類最強とされるリヴァイ兵士長であるとエルヴィン団長は言った。
類い稀なる運と実力の持ち主である彼ならば、自力で壁内へと戻るよう抗するはずである。ならば、調査兵団はその英雄の帰還を待たなければならない、と。
しかし、参謀を含め、駐屯兵の多くは、その申し出に難色を示した。
壁外に取残された者は、今まで多くいたのだ。人類最強、彼一人だけこうも特別な待遇をするのはいかがなものか。今まで壁外で死んだ多くの兵士の遺族や仲間の反感を買いかねない。
そう、若き優秀な女性参謀は、その怜悧で聡明な政治的判断を述べたが、エルヴィン団長は、
「リヴァイ兵士長は特別だ。他の兵士と待遇が違うのは今に始まったことではない。彼を失うことは、人類の大きな損失だ」
とまっすぐに狂気を滲ませるような気迫で、彼女の冷静な判断を却下した。
結果、ピクシス司令の最終判断により、翌日の日の入りまでという期限付きで、調査兵団は壁上へと配置された。
その判断を下したピクシス司令は、生来の変人として名高い。それはつまり、柔軟な思考の持ち主であるということの証左でもあった。そんな柔軟性に富んだ変人は、若き調査兵団団長の意志をくみ、いくつかの分隊を調査兵団の援護に配置もさせた。
そして、二つの兵団は、夜通し松明の火をたき続けて、その兵士の帰還を待った。
「ハンジ。君はそろそろ休んだ方がいい。無理はするな」
「あなたもでしょ、エルヴィン。置いてきたのは、私の分隊の部下だったんだ。上官である私が休むわけにはいかない」
壁外調査の疲労を癒やすため、調査兵は順番に休憩をとりつつ壁上での待機任務を果たしていた。そのなかで、休みをとることなく、朝を迎えるまで壁外の夜を睨み続けていたのは、団長と第四分隊分隊長、ハンジ・ゾエだった。
曰く、その日、巨人捕獲作戦を第四分隊を中心に決行中、巨人の大群に襲われたという。第四分隊の壊滅、そして機材の損傷を免れるため、彼らは分隊の半数の兵士を切り捨てた。その指揮をとった団長は、森を脱出する寸前、巨人の群のなかに彼の英雄がひらめく姿を認め、その兵士に帰還命令を下すために、いちかばちか、副官であった女性兵士を巨人の群へと突入させたのだという。
彼らが待っているのは、切り捨ててきた部下たちと、それを守るために残った英雄。そして、その英雄を取り戻すために放った一矢だった。
エルヴィン団長が信じたその英雄は、確かに翌朝、数人の兵士を引き連れて帰還を果たした。朝が明け始めた頃、壁の向こうであがった緑色の信煙弾は、壁上で待機していた調査兵と駐屯兵に歓喜の嵐を巻き起こしたほどだ。
「よく戻った、リヴァイ、クシェル」
史上初めて、壁外から帰還を果たした彼ら五人の兵士は、それぞれ団長と司令からねぎらいの言葉を受けた。駐屯兵や調査兵。それぞれの兵士の歓喜の声を一身に浴びながら、彼らは門扉近くの兵舎へと導かれた。
さすがと言うべきか、リヴァイ兵士長は疲れの表情も出さずにその二本足でしっかりと立って、団長へと報告をしている。その後ろで、10代の若き兵士である三人の男女がそれぞれ仲間と抱き合って生還の喜びを分かち合っていた。
「クシェル副官」
「エーミール。彼だ。疲れているところ悪いが、頼む」
「何をおっしゃいますか。あなたほどではありません。今、でいいんですね」
「ああ。これ以上は泳がせていられない」
喜びを分かち合う兵士を見ていた副官の女に、彼女の部下らしき長髪の甘いマスクの男が指示を仰ぐ。彼女がひとつ頷いたところ見て、男は仲間と目配せした。
数人の調査兵が、三人の若い兵士に近づく。その様子に、団長と兵長もまた、会話をやめて副官の女にひとつ頷いた。
「お前らよく生きてたな!」
「いや、それでも皆助けられなかった……」
「何言ってんだ!お前らが帰ってきただけで十分だろ!なあ、クルト!」
彼らと特に仲の良い若い兵士たちが抱き合い、生き残ったひとりの少年を振り返った。
「え?」
その少年は、屈強で年かさのいった強面の調査兵たちに脇を固められていた。まるで、彼を逃すまいとするように、がっちりとその両腕を二名の兵士がつかみ上げる。
「え?あの、」
「クルト?」
少年たちを取り囲んでいた調査兵たちに、動揺が走る。その動揺に答をもたらしたのは、団長付の副官、クシェルという女兵士だった。
「クルト・ウェルナー調査兵。あなたを機密情報漏洩の容疑にて拘留します」
「え!?」
驚く少年兵に、その様子を見ていた金色の団長が言い放った。
「クルトを地下牢へ。他の者は解散したまえ」
唐突におこった出来事に、少年たちが絶句する。生き残った兵士の一人、イリヤという栗色の髪の背の高い兵士がクシェル副官につめよったが、全く相手にされなかった。
それは、イリヤ・ツェラン調査兵が世界の謎の一端を知ることになる、数ヶ月前のことであった。
クルト・ウェルナーと、壁を隔てた世界で生きていたことなど、このときの彼は知るよしもない。