作中にあります、巨大樹に取り残された件は、本作の第一幕第一章のことです。
一
それは、ハンジ分隊長率いる調査兵団とライナー・ブラウン、ベルトルト・フーバー、つまり鎧の巨人と超大型巨人が交戦した時より、数時間前のことである。
ちょうど、ウドガルド城で獣の巨人の投石と、多数の巨人の襲来により、調査兵団が窮地に陥っていた時のことだった。
ウドガルド城での交戦中、巨人に食われたことで、巨人の口の中で意識を失ったクシェルが目を覚したのは、旧マリア内地にある小規模な巨大樹の森の中だった。自分が置かれた状況を理解するより先に、そこにいた人間は懇切丁寧に説明をしてくれた。
「突然食べちゃってごめんね。勢いであなたの装備と体をちょっとないがしろにしちゃった」
そう言って月の光に照らされた笑顔を向けたのは、髪の長い妙齢の女性だった。ゆったりとした話し方が特徴的で、兵士特有の歯切れのいい話し方ではない。彼女は巨大樹の枝に腰掛けるように、その足をぶらりと空に遊ばせていた。脇に置かれているのは、一本の松葉杖と、立体起動の腰部に備える装置だった。
「兵士のお姉さんはクシェルさん、だったかな。俺はジーク。彼女はピークだ。よろしくね」
その彼女よりもクシェルに近い場所で聞こえた声に顔をあげれば、そこには丸メガネの髭を蓄えた青年が立っていた。月の光に反射して、メガネのガラスがキラリと輝いている。まるでその真意を覆うように、彼の瞳を隠していた。
彼らは見慣れぬ服装に身をまとっていた。壁の外にいるにもかかわらず、立体機動装置も、兵団服も身につけていない。得体の知れない彼らの正体を、「壁の外から来た者」であるとクシェルは直感した。
「ちょっと俺たちの仲間のお願いでね、あんたにここまで来てもらったわけだけど……」
しかし、男は歯切れ悪そうに言葉を詰まらせ、そのまま思案するように黙り込んでしまう。
その沈黙の最中に、クシェルはようやく緊張の糸を少しだけ解いて、大きく息を吐くことができた。彼女の体は巨大樹の枝の上に転がされたままである。身体中の痛みに耐えながら、手足を動かそうとしたものの、どうやら後ろ手に両手を縛られているようだった。両足も自由がきかない。おそらく、両足も同じように拘束されているのだろう。
動こうとしても、身じろぐ程度で精一杯だった。しかし、それよりも気になるのは、意識が戻ってから腹に響く激痛と、心身を蝕む凍えるような寒さだった。
「ああ、あまり動かない方がいいよ。さっき右の横腹を少し傷つけちゃったから」
言ったのは、女の方である。顔を動かして見れば、確かに右脇のシャツが真っ赤に滲んでいた。
「怪我は大した傷じゃないよ。応急処置もしたし。ただね、ちょっと出血がひどかったから、早めにまともな治療を受けた方がいいだろうね。体温も下がってるみたいだし」
奥歯が震えるのを止められずにいるクシェルに、ジークと名乗った男が他人事極まりない声音で言った。まだ季節は秋のはじめ。夜とは言え、ここまで凍えるような気候ではない。ならば、やはり傷の出血のためか。その事実を聞いた途端、手足の力が抜けるような心地がして、クシェルは悪寒ではないものに背筋を震わせた。
「言ってること、わかるよね、クシェルさん」
男が低い声で言う。雲に隠されて陰った月光に、男のメガネの奥が覗いた。のんびりと優しげな口調に反して、その奥に隠されていた瞳はぞっとするほど冷たかった。これこそ、「クソな状況」だと、クシェルはめまいがした。ウドガルドでの交戦中、巨人に食われて死んだと思ったが、それは違ったらしい。自分を食ったのは、おそらく女、ピークということになる。つまり、彼女はエレンと同じ、巨人になれる人間だということだろう。ならば、この男もまた、そうなのかもしれない。
「……何が目的だ」
「話が早くて助かるよ、クシェルさん。そんなに怖い顔しなくても大丈夫だ。あんたには生き残ることができる道が二つもある」
ジークは少し明るい声でそう言った後、背後にいるピークの脇にある装置を持って、クシェルの目の前に置いた。見慣れたその装置に、クシェルはどきりと、捧げたはずの心臓が悲痛に脈打ったのを感じた。
「それは……」
「あんたのじゃないよ。あんたと同じ格好をした男のもんだ。確実に生き残るための道はとても簡単だ。あんたはこの装置をはじめとして、壁の中の情報を知りうる限りこちらに提供すること。ただそれだけだ」
簡単だろ?とジークは右手で左手の耳裏をかきながら首を傾げた。見下ろしてくるその顔に、吐き気をもよおしながら、クシェルはその装置の傷を確認する。やはり、見間違えようもない。
それは、ミケ・ザカリアスの立体機動装置だった。
身を内から焼き尽くすような憎悪が湧き上がるのを抑えられない。その身悶えするような重く熱い感情に、クシェルは呻いた。じりりと芋虫のように体を這わせるクシェルに、ジークが少し身構えたが、すぐに彼女は大人しく動かなくなり、すすり泣くような声だけがわずかに漏れた。
彼女の顔は、巨大樹の枝に突っ伏されており、ジークたちには見えない。
「もう一つの生き残るための道は、あまり確実性はないんだ。だから、」
「あんたたちに話せることはない」
ジークの話を遮って、クシェルが彼の顔も見ずに言い放った。ジークはその様子にため息をつき、彼女のそばに膝をつく。
「気持ちはわかるけどね。そんな復讐心なんてためにならないよ。命は大切にした方がいい」
言いながら、その手は彼女の顔を上げさせるように、その頭に触れた。
その、瞬間である。
クシェルに、その膨大な記憶が蘇ったのは。
それは、彼女がエルヴィンと出会った頃には既に失っていた記憶だった。彼女自身、ただの妄想では、と疑っていた壁外の記憶。
その瞬間は、彼女の人生の中で最悪の瞬間だった。
一瞬のうちに、膨大な映像を直接頭の中に叩き込まれたような感覚だった。
四方を山に囲まれた谷あいの美しい村。
膨大な書籍。
黒くて蒼い海。
暖かなナイフとフォークの食卓。
波止場の処刑場。
男の目尻の巨人化の跡。
ガラスの棺。
そして、雨の中の金色の髪。
膨大な記憶に、彼女はただただ言葉を失うだけだった。記憶は忘れ去っていた感情を連れてくる。
そして−−。
「ん?どうした」
ジークは思わずその手を引いた。その女の見開かれた黒い瞳から、大粒の涙がぼたぼたとこぼれ落ちてきたからである。上げられたその顔に、ジークは首を傾げた。
「あれ?あんた、どっかで見たことある顔だな」
いや、そんなはずないか、と即座に否定するジークの声がクシェルの耳を打つ。
「黒い目なんだね。エルディア人……じゃないみたいだ。東洋の人種か?いや、それにしては顔つきははっきりしてるし……」
「エルディア人との混血では?」
「ああ。そうか、そうだね、ピークちゃん」
そりゃそうか、と頷いた後、ジークは再度、その黒い瞳の民に向き合った。
「で、もう一度聞くよ。本当は俺たちはあんたを故郷へ連れ帰るのは乗り気じゃないんだ。ただ、あんたは使えると俺たちの仲間が言うもんだからさ。わかるだろ?あんたが生き残るには、できることは少ないんだ。……壁の中の情報を、俺たちに話せ。できるだろ?」
「…………言えば、私を壁の外に連れて行ってくれるのか?」
「ああそうだ。あんたの命は保証しよう。お客様として歓迎するよ」
「……もう一つの道は?それを断った時、残された確実性の少ない道はなんだ?」
先ほどまで泣いていたのとは打って変わって、彼女の声は冷静さを宿していた。その顔は相変わらず俯いたままである。
「もう一つは、俺たちの仲間が、「出来損ない」を連れて帰ってくることに成功した時だ。俺の仲間のたっての願いでね、あんたたちの仲間にいる「出来損ない」をこっちに連れて行くことが今回の目的なんだ。ただ、何度かこっちに来たことはあるけど、中に入り込む作戦は初めてだ。成功率は極めて低い。タイムリミットは明け方。それまで待ってここまで戻ってこなければ、もしくは「出来損ない」を奪取できなければ、俺たちは今回もそのまま帰る。その場合、あんたは生かしておけない。妥当だろ?」
なるほど、とクシェルは頷いた。最初から正体を明かすような真似をしたのは、もともと彼らにクシェルを生かす気などほとんどなかったからだ。彼らがクシェルを生かすのは、壁の中の情報を提供した時だけなのだろう。そして、「出来損ない」とはおそらくイリヤ・ツェランのことだ。巨人化になれないにもかかわらず、再生能力を有したあの部下を連れ帰る。いわば、クシェルはイリヤを釣り上げるためのエサと言うことになるのだろう。
それを計画し、実行に移した「仲間」とは、おそらく脱走兵のクルト・ウェルナーだ。以前のクシェルの睨み通り、彼はやはり、壁の外から来た工作員のようなものだったのだろう。
そこまで考えがいたり、彼女は自嘲気味に笑った。
「信じられない。あんたたちの「仲間」が「出来損ない」を連れ帰って来たとして、私を生かしておく必要性が感じられない」
「ウゥン、まあそうだね。でも、どっちでも同じだろ?」
ジークが立ち上がって、巨大樹の木々の向こうにある空を見上げた。壁が見えない広大な旧マリア内地。そこから臨む空は、まるで遮るもののない自由な空だった。そのはるか向こうが、うっすらと白んでいた。
夜明けが近い。
クシェルは、その巨大樹の森が、数ヶ月前にイリヤやクルト、そしてリヴァイたちと共に取り残された森であったことを思い出した。あの空の向こうにあるのかもしれない「故郷」に思いを馳せた夜は、もう遠くの彼方に消えてしまった。
記憶を取り戻した彼女はもう、あの頃と同じようにリヴァイの隣に立つことは叶わないだろう。彼女が背負う翼は、もうない。
クシェルは、その背中にある双翼のシンボルが、重くのしかかるような心地に襲われながら、ジークの瞳を見据えた。
「もう夜が明ける。タイムリミットはもうすぐだ。帰ってくる様子はないし……。実際のところ、あんたに残された道は二つだけ、と言うことだ」
かたりと軽い音がして彼女が顔をあげれば、松葉杖をついたピークが立ち上がっていた。その冷たい目が、クシェルを品定めするように見つめてくる。
「壁の中の情報を俺たちに提供するか。それとも、ここで死ぬか。どっちがいい?」
親切な体を装った、その実恐ろしい取引が提示される。
その質問の仕方は、クシェルのよく見知った、金色の男の好むやり方だった。
「好きな方を選べ」
こんな言い方をする人間が、他にもいるもんなんだな。
そんな風に思いながら、クシェルはその選択肢などない取引に応じるために、言葉を紡いだ。
今回は短くを心がけましたが、、、
時系列が順番通りではなく、読みにくいかとは思いますが、今回も読んでくださった方、ありがとうございます。
エレン奪還にエルヴィン団長が出発するまで、時間を行ったり来たりするかと思います。
とてもとても難しい!!