未来への進撃   作:pezo

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一章 壁の外


状況は絶望的だった。

ガスの残量は残りわずか。先ほどの戦闘で、刃は全て消費した。俺の他、生き残った兵士たちの装備も同じようなものだった。

 

なだらかな山の稜線の向こうに太陽は沈みかけており、空と山の境目はまるで血のような赤に滲んでいた。

 

本隊はとうに壁内へと帰還している頃合いだろう。

 

「イリヤ。生存者の捜索は打ち切りだ。私たちが見張りをするから、あなたたちは休みなさい」

 

きゅるりとワイヤーを巻き上げて幹の上へと降り立ったのは、薄く微笑みを浮かべた短い黒髪の女性だった。長い前髪の間から、黒々とした大きな瞳がキラキラと夕焼けを反射して輝いていた。

 

笑顔の彼女の右手には、人間の手首が握られている。細いそれは、女性のものと思われた。

 

眼下を見遣れば、すっかり蒸発して骨だけになった巨人たちの残骸と、その下に花のように咲く人間の大量の血痕が見える限り広がっていた。

 

「ク、クシェル副官。班のみんなは……」

 

微笑む上官に問うたのは、隣で震えていた女性兵士、ユディである。ひとつにゆわれた長く美しい金色の髪は、頭から被った仲間たちの血で真っ赤に染まっていた。

 

班員の無事を尋ねた彼女に、その黒髪の上官は「ん?」とまるで雑談でもするように首を傾げた。

 

「生き残ったのは私たちだけだよ。ユディ、イリヤ。それから、クルトと……」

 

巨大樹の遥か下方で、馬たちの駆ける足音がして、副官はその微笑を深めて振り返った。

 

クシェル副官の視線の先では、二人の兵士が馬を数体引き連れて戻ってきていた。彼らは器用に馬を近くの木にまとめた後、立体機動で俺たちのところへと上がってきた。

 

「リヴァイ兵長」

 

 

副官の呼び声に、呼ばれた男性兵士は厳しく細められた三白眼をちらりと彼女へ寄せてひとつ頷いた。

 

「近くに巨人の気配はない。夜になるまでなんとか持ちこたえられそうだな」

 

「それはよかった。九死に一生を得たってやつですね」

 

場所は壁外。ウォールマリア領土にある小規模な巨大樹の森の中。

 

リヴァイ兵長の後ろについていた同期のクルトと、女性兵士でひとつ先輩のユディが張り詰めた息を漏らした。

 

そう。俺たちは、壁外に取残されたのだ。

 

「私たちは運がいいです。突如巨人の大群の襲撃に合いながら、団長たち本隊は無事に帰還路へと戻ることができた。第四分隊の半数は壊滅しましたが……、捕獲作戦用の機材もなんとか持ち帰れたようですし」

 

言いながら、手にしていた人間の手首を、懐から出した布でくるんでいるその女性は、団長付の副官である。まるで他人事のように微笑をのせて言う姿は、この絶望的状況にふさわしくない。

 

ちらりとクルトを見遣れば、もともと気の小さな彼はすっかり副官の笑顔に怯えて顔を青くしていた。

 

「あとは、我々が無事に壁内へと帰ることができれば、さらに運がいいですね」

 

笑う彼女に、リヴァイ兵長が舌打ちして、俺たち五人の装備の確認をした。俺とクルト、そしてリヴァイ兵長は刃もガスの残り少ないものの、帰路の分くらいはかろうじて残っていた。ユディは激戦の末、刃を使い果たしていた。微笑むクシェル副官にいたっては、ほんのわずかなガスが残っているだけで、刃もない状況だった。

 

まさに、絶望的状況だった。

 

「クシェル。壁外へ取残された調査兵が帰還した例は今まであるか」

 

リヴァイ兵長の声はいつものように静かに低く響いている。どうしてこの上官たち二人は冷静に話しているのか。俺もユディもクルトも、彼らがいなければ発狂でもしてしまっていたんじゃないのか。少なくとも、今必死で黙って両足で立っているのがやっとな精神状態だ。

 

クシェル副官の声は明るく、さらに絶望を述べた。

 

「ありませんよ。壁外へ取残された兵士の生還率はゼロです。そもそも、壁外に残された人間の足跡がありませんから……。そういえば、昨年発見したイルゼ・ラングナーの手記は唯一の足跡でしたね。あれは興味深かった。運がよければ、本隊からはぐれた後も、数時間は生きているということです」

 

彼女がみやった先では、太陽が赤く燃えながら地平の向こうへと沈んでいっていた。

 

 

もうすぐ、巨人どもが静まる夜がやってくる。

 

その間は、なんとか生き延びることができるはずだ。

 

「私たちは……。私たちは生き延びることができるんでしょうか……」

 

 

呟いたのはユディだ。彼女の言葉に、言いしれぬ恐怖が形をとって内臓の奥をむしばむような気がした。じわじわと。しっかりとしみこんでくる恐怖に、知れず手が震えるのがとめられなくなる。

 

俺たちは、ここで死ぬのか。何の成果も得られずに?

 

「オイ。情けない顔してんじゃねえぞ」

 

 

舌打ち混じりに告げられた言葉に顔をあげれば、兵長がユディに白い清潔そうなハンカチを差し出していた。「血をふけ」と彼女に差し出して、震えるクルトと俺に言った。

 

「イリヤ、クルト。お前らもだ。絶望的な現状を嘆くことは確かに必要な儀式だ。だがな、ここは壁外。つまり戦場だ。ならば俺たちがすることは決まっている」

 

鋭く細められた灰色の瞳に、沈む太陽の最後の光が差し込んできらりと一瞬輝いた。

 

 

「生きているうちに最善をつくす。それだけだ」

 

 

上官二名の話し合いにより、壁内へと戻るための作戦は決められた。作戦、といってもそれはただ単に、日の出の二時間前から出発し、馬で北を目指すというだけのものだった。

 

実際、壁外へ残された俺たちには、愚鈍な虫のように北を一心に目指すほか生き残る道はなかった。

 

「リヴァイ兵長がいることだけが心の救いだな……」

 

巨大樹の枝の上、俺はついユディとクルトにそう漏らしていた。上官二名は、隣の樹の枝で見張りをしてくれていた。

 

「それだけじゃないわ。馬もいて、それぞれガスも刃も残ってる。クシェル副官が言っていたとおり、私たちには生存できる可能性が残されてる。まだ、大丈夫よ……」

 

絞り出すようにユディが気丈に言った。彼女の気持の切り替えは、班のなかでも特に優れていた。班員が目の前で死んでも、彼女はすぐに動くことができた。だから、進軍中に巨人に取り囲まれて絶望が兵団を襲っても、彼女はすぐに動いて生き残ることができたのだ。

 

「でも……夜が明けたらどうだ?平地を索敵陣形もくめない少人数で走るなんて、巨人のエサになるようなもんだろ……。たとえリヴァイ兵長がいても、さっきみたいに何体か一気に来たら、」

 

「クルト!」

 

震えながら恐怖に震えるクルトの名を叫ぶ。薄い茶色の短髪の頭がびくりと震えて、俺を見てきた。開ききった瞳孔。まずい。

 

クルトは決して勇敢な兵士じゃない。どちらかと言えば臆病で、気も弱い。なぜ調査兵に志願したのか。同期の俺もよく知らない。だがいつか先輩が言っていた。調査兵で生き残る者は決して勇敢で強いものばかりじゃない、と。

 

臆病な者はむやみやたらに巨人へ立ち向かわない。それ故、生き残る確率は勇敢な兵士のそれより高いのだと。

 

 

そして、何より生き残るためには、運が最も大きいのだ、と。

こいつが生き残ったのも、その運とやらなんだろう。そのことを教えてくれた先輩は眼下の死体の山にいる。ちらりと暗い地面に視線を落とせば、わずかな月光に照らされた仲間達の残骸が眼に入って、気持ち悪さが臓腑から込み上げて来た。

 

仲間達の死骸は回収しない。そのために樹を降りるガスの消費がもったいない。そう判断したのは、クシェル副官だ。リヴァイ兵長は少し逡巡していたようだったが、結果的に、部下であるはずの彼女の判断を尊重した。

 

クシェル副官の判断が正しいのかどうかはわからないが、さすが、あの団長の副官たるものだ、と思った。あのエルヴィン団長なら、ここで旧友の戦果を持ち帰ろうとすることを決して優先しないだろう。

「クルト。気をしっかり持て。お前こんなとこで死にたくねぇだろ。弱気になったら死ぬぞ」

 

「……ああ、ああ。分かってる。わかってるよ、イリヤ。ごめん。うん。そうだ。俺はこんなところで死ぬわけにはいかないんだ。ちゃんと、任務を果たさないと……」

 

「任務?……ああ、調査兵は生きて帰ることが任務だもんな」

 

震える友人の肩を叩いてやれば、口角をなんとか持ち上げて笑って返してくれた。大丈夫。不細工な作り笑いだが、それができればお前は大丈夫だ。

 

「そうよ。大丈夫。私たちには人類最強のリヴァイ兵長がついてる。それに……。戦女神クシェル副官。シガンシナ陥落の際に取残された兵士たちを危険を冒してまで助けたような「聖母」と言われるような人がいるんだもの。きっと。きっと、大丈夫よ……」

 

振り返った枝の上に、小柄な男女の影がある。きりりと伸びた背筋と、無駄のない立ち姿に、俺たちは少しだけ安堵した。

 

そうだ。彼らは、シガンシナ陥落の英雄たちだ。そんな英雄が率いる俺たちが、死ぬはずがない。

 

 

 

「リヴァイ。分かってると思うが……。何かあれば、あなたはまず、いの一番に私たちを囮にして逃げてくれ。命の優先順位はあなたがここでは最も高い」

 

「……ああ。分かってる」

 

団長付の副官であるクシェルが、隣の樹の枝で休む少年兵たちを見ながら口にして、対するリヴァイは苦々しく頷いた。

 

敬語を崩して話す女の様子を見るに、彼らはどうやら気心知れた古い仲のようだった。調査兵団の古参兵は、時折上官と部下の垣根をこえたやり取りをする。特に、五年前のシガンシナ陥落前からの古参兵は、それ以降の兵士達とはまた一線を画した絆がある。

 

彼らのなかにも、そうした絆が垣間見えた。

 

「何事もないことを祈るばかりだね。彼らみたいな若い兵士を死なせたくはない」

 

「どうだかな。巨人どもはこっちの都合なんざ気にしちゃくれねぇからな」

 

「違いないね」

 

少しの沈黙の後、リヴァイがおい、と彼女に声をかけて己の腰にある刃を差し出した。

 

「俺は刃があと二対ある。一対はお前が持て。ガスも刃もねぇのはマズイだろ」

 

「……それはあなたが持たなければ意味がないよ。私が持っているより、あなたが持っている方が格段に生存者の数は増えると思うよ」

 

月光に、女の僅かな微笑が照らされた。

 

リヴァイが引き下がらないとでも言うように、その刃を突き出したまま彼女を黙って見据える。が、クシェルは短い髪を揺らして「はは」と場違いに笑うばかりだった。

 

 

「月がキレイだと思わない?」

 

「あ?」

 

「星も。とってもきれいだ」

 

旧マリア領地は広大だ。彼らがいる巨大樹の森は、小規模ながらに観光地としてかつては賑わっていた場所だった。それは、広がる巨大な木々の荘厳さもさることながら、そこから望むことができる景色が、まるで壁のない世界のもののように広大で、限りのないようなものに見えたことも大きい。

 

そんなかつての観光名所からのぞむ満天の星空は、彼ら翼を背負う者たちが焦がれてやまない、まだ見ぬ壁外の景色を彷彿とさせた。

 

「あの向こうには……どんな楽園があるんだろうね。私はいつかそこに……」

 

「クシェル?」

 

「いつか、帰りたい……」

 

見開かれた黒い双眸は、リヴァイを見ることなく、まっすぐに壁の外の遥か彼方を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

俺たちがクシェル副官の先導で巨大樹を出たのは、月も遥か地平近くまで落ちつつある夜の底だった。

 

「行こう。目指すは北北東。トロスト区へ帰還する!」

 

彼女の号令に、たった五人の調査兵団はおう、と声を上げて出発した。即席で作った松明を片手に、馬を駆けていく。巨人が隠れていそうな森は避けて、なるべく平地を行軍する。列の殿は、リヴァイ兵長が勤めていた。

 

「イリヤ!少し遅れている!しっかりついてこい!」

 

「はい!」

 

先導しながら、時折振り向いては行軍の様子を見ていたクシェル副官が、すぐ後ろについていた俺に叫んだ。応とこたえたものの、疲労はそろそろ限界に近い。

 

昨日の朝からずっと壁外なんだ。夜も身体を休めたとは言え、その疲労がとれるはずもなく。

 

顔を上げれば、遥か山の向こうが薄く白くなっていた。

 

 

もう、朝が来る。巨人たちの時間がやってくる。

 

 

運がいいことに、日が昇り始めてから、しばらくは巨人に遭遇することがなかった。奴らが現れたのは、トロスト区の壁がようやく視界に入ってきた頃だった。

 

 

「背後より三体!」

 

 

リヴァイ兵長の鋭い声が背中を叩く。壁上で警備をしているはずの駐屯兵たちに向けて、クシェル副官が信煙弾で合図を放った直後だった。

 

「逃げ切る!そのまま進め!!」

 

運が悪いことに、そこは平地。立体機動で応戦するにはあまりに分が悪い。しかも背後で駆けているのは、不気味な表情の15メートル級が三体だ。

 

「奇行種だ!足が速い!!」

 

兵長の叫びに振り返れば、うち二体が凄まじい速さで駆けてきていた。ぐん、と距離を詰められる。マズイ。もう、壁は目の前だと言うのに。

 

しかも、その二体の向こう側から、さらに数体の巨人が走っているのが視界に入った。応戦しても、これではキリがない。いくら兵長がいると言っても、この装備の少なさだ。すぐに巨人のエサになってしまう。

 

手綱を切ろうとした兵長に、前方の副官が叫んだ。

 

「リヴァイ兵長!ユディ!援軍の要請を頼みます!イリヤ、クルト!お前たちは応戦しろ!私がおとりになる!!」

 

ぐるりと馬の首を返して、壁と反対側に向う上官。

クソ。こんな貧乏くじあってたまるか。

 

 

「クソが!!」

 

 

叫びながら、俺はクルトに目配せして馬の手綱を引いた。一馬身前の副官とリヴァイ兵長がすれ違いざま、頷いたのが見えた。

 

 

副官が二体の前に躍り出る。奇行種だったが、奴らは彼女を追って方向を変えた。その背後について、一体のうなじを直接狙ってアンカーを放つ。足は速いが上半身の動きはやけに鈍い。これならいける。意を決して、トリガーを引いてワイヤーを巻き取った。

 

 

朝焼けの光のまぶしい空に投げ出された身体が、血管の浮いたような気味悪い肌に近づく。

 

距離、三。

俺は身体をひねって、刃を振りかぶった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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