「ん……。んぅ?」
目覚めた俺が目にしたのは、見知らぬ……ということもない、先輩の家の天井。
わざと自分で気絶してから、1時間ほど経っている。
少し横を見ると、正座でこちらを覗き込んだまま、安らかに寝息をたてる涼菜の姿。
桜子と乙葉の姿は見当たらない。
連日ストーカーについて思いを巡らせていたこともあり疲れていた俺には、このふかふかの布団が気持ちよくて、ついつい普通に寝てしまいそうになる。
しかし、明日も学校がある。
いつまでもぐうぐうと寝ているわけにもいかない。
俺がなんとか踏ん張って意識を持続させていると、静かに扉を開けて、桜子が入ってきた。
なぜか咄嗟に寝たふりをしてしまう俺。
いや何故だ。
「あら、まだ気絶したままなのかしら」
先輩は涼菜と反対側に正座すると、顔を近づけて、俺の顔を覗き込んできた。
先輩の吐息があたる。
包容感のある柔らかい匂いが鼻をくすぐる。
なんというか、安心するなあ。
さっきまでドキドキしていたのだが、それを忘れるくらいに先輩の匂いは安心感を与えてくれる。
「よし、じゃあ、千秋くん。じっとしててね」
そういうと、先輩は俺の顔に何かを近づけて……。
「何やってんすか!」
気絶していたはずの俺は飛び起きた。
「あら、千秋くん。おはよう」
「あらでもおはようでも無いですよ!」
激昂して俺。
「寝ている間にキスしようとするなんて! 妹も隣で寝てるんですよ!」
それに対して先輩はクスリと一つ笑い。
「千秋くんったら、可愛いわね。自分がキスされるとでも思っていたの?」
は? え? 違うの?
そしたら俺めっちゃ恥ずかし。
「私は千秋くんの顔に落書きしようとしただけよ」
ほら、と手に握られた太めのペンを見せつけてくる。
してやられた。
いや、勝手に勘違いしてた。
どうやら、さすがに寝ている相手に夜這いをかけるほど非常識な人ではなかったらしい。
と、先輩の認識を改めようとしたその時。
俺は見てしまった。
「先輩。一つだけ言わせていただきたいんですけど」
「何かしら。愛の告白なら涼菜ちゃんのいないところでお願いするわ」
ちゃうわ。
寝起きの声を振り絞って、怒鳴る。
「あんた、そのペン、油性は駄目でしょ!」
俺の渾身の反撃から少しして。
お土産に揚げ物を貰って、 俺の怒鳴り声で起きた妹を連れて家路につく。
乙葉は、俺が寝ている間にコンビニのバイトを思い出して帰っていったそうだ。
先輩曰く、乙葉は俺に何度も抱きつき、もとい絡まってから帰っていったそうな。
ちくしょう。無理にでも起きてればよかった。
そういえば、夜こうやって涼菜と一緒に帰るのも久しぶりだな。
俺は妹の後ろに立つと、彼女の肩に手をかけて歩いた。
電車ごっこのようなかたちだ。
五月といえど、もう暑い。
しかし、妹は嫌がらず、俺の手を振り払おうとはしなかった。
一年前、両親と離れて暮らしはじめてからというもの、妹との距離は更に近くなった。
それと同時に、その生活に満足してしまっている俺に俺自身、不安を覚える。
だから、これはやらなければいけないことなんだ。
二年前。
俺の母親は、俺を県内でもトップクラスの高校に進学させるため、塾や英会話教室に通わせていた。
俺も、勉強をするのは大嫌いだったが、地頭はよかったから塾でもまあまあの成績を残し、学校でも上から五番以内の成績はいつもとっていた。
母親はそんな俺に満足していたが、それは油断だったのだろう。
俺の勉強嫌いは、並のものではなかった。
時が経って、中学三年生の一月。
俺が私立校の併願に合格したことから、自体は急変した。
俺はそれにより安心してしまい、全くと言っていいほど勉強をしなくなった。
最後の県内模試でも志望校はC判定。
もともと田舎の塾で、田舎の学校で五位。
つまり俺には、そこまでの実力はなかったのだ。
それに酷く怒りを感じていたのが、母親だった。
自分が無名高校に通ったことにより勉強が捗らなかった母親は憤怒し、精神がおかしくなってしまった。
そんな母親は一週間近く俺たち兄妹に食器を投げつけたり、暴行を働いたりし、精神科の病院に入院することになった。
それから俺は近所の公立高校に入学し、母親は精神科の病院を退院した。
しかし正常になった母親は自分がしたことに対して強烈な恐怖を感じた。
それから母は一人で別宅で暮らすことを決意した。
父はもともと単身赴任中でたまにしか帰ってこなかったのだが、母と一緒にいてやりたいと、母と一緒に住んでいる。
たまに俺には父から連絡が来るのだが、妹は未だに一年近く、連絡を取れていない。
そうして両親と離れ離れになってからちょうど一年経つ日が、来週の六月二日。
涼菜の誕生日である。
先輩の家に来た道を進んでいると、やがて俺たちの家が見えた。
俺たちの家は二階建てで、二人で住むには少し広いが、とてもいい家である。
親戚が俺達を引き取ると言ったときにも、俺の学校の都合と妹の強い思いから、この家に二人で住みたいと言い張った程だ。
それだけ思い出も詰まっている。
親戚も多少驚いていたが、涼菜の家事スキルの高さから、二人暮らしを快く許可してくれた。
まあ、正直俺たち二人の世話をするのが面倒でもあったのだろう。
家に着くと、俺は庭にサッと隠れた人影を、見逃さなかった。
俺と帰ってきたことによって小説に書けることが増えたとご満悦の涼菜を先に家に入れると、俺は隠れた人影に近寄って、告げた。
「いつまで隠れてるつもりだよ。もう俺は分かってる。出てこい」
俺の言葉に反応して庭の茂みから姿を現した人物。それは、一年と少し前に別れた、母親だった。
続く。