東方蝶跳躍 作:のいんつぇーんSZZ
「しろも! 見つけた! 沼の上の木に固まった泥で縛られてた!」
結果を報告しながら、すたん、とにとりちゃんがわたしの隣に着地する。にとりちゃんの背中にいる少女を覗いてみたが、苦しそうに呻くことはあれど、単に気絶しているだけで命に別状はなさそうだ。なにかされているわけでもなさそうで、ほっと息をついた。
「よかったぁ……」
「さ、目的は達成したんだ。さっさとこんなとこおさらばしよう。ここは枝が生い茂ってて飛べないけど、ちょっと離れれば空に逃げれる。そうすればあとは天狗さまの管轄内だからあいつは手出しできない。私たちの勝ちってわけだ」
「……まだ油断はできないね」
「うん。それでしろも、悪いけどここからは自分の足で歩ける? 私はこいつを背負ってかなきゃいけない。体力が全然ないってのはわかってるけど……」
「ううん、大丈夫。あとで倒れるかもしれないけど、ちょっと無理すれば少しくらい……」
「……悪い」
「いいよ。私だって助けたい気持ちは同じだったもん。にとりちゃんが気に病むことじゃない」
それより早く行こう、と沼に背を向けて駆け出した。にとりちゃんもこくりと頷くと、わたしのあとを追い始める。
にとりちゃんの言う通り、今のわたしは体力が回復し切っていない。それに加え、さきほどまではにとりちゃんに背負われていたが、今は全力で走っている。これでは触角を十全には機能させられない。索敵能力は最底辺のレベルまで落ちていると考えていい。
さらににとりちゃんの予測が確かであれば、泥の妖怪は湿った地面の下を移動することができる。目を閉じてじっとして全力で集中すればぎりぎり察知することができなくはないと思うが、まず探知は不可能だと言っていい。
つまり今の状況は、目の前の地面から突如泥の妖怪から湧き出てきてもまるで不思議なことではないということ。にとりちゃんもそれはわかっている。だからこそ彼女もまた最大限周囲を警戒しながら進んでくれていた。
今のわたしには索敵はできない。だが、ここに来るまでに感じた罠の場所や気配は頭に入っている。それをもとに時折にとりちゃんに警戒を促しつつ、泥の妖怪の領域内を走り回った。
「確かもうすぐだったっけっ? あともう少しすれば空を飛んで逃げられるっ」
にとりちゃんが叫ぶ。その声音には歓喜の感情が含まれていて、そう、わずかに油断してしまっていた。
ぴくり、と。一瞬、わたしの触角が反応を示す。
気がつかなくてもおかしくなかった。いや、普段なら絶対に気がつかない。気がつかず襲われて、手遅れになっていた。だが、すでに自身の能力を
「にとりちゃんっ!」
「え、わっ!?」
がばっ! とにとりちゃんに飛びかかって押し倒した。服や肌が地面の泥で穢れ、にとりちゃんが背負っていた少女が放り出される。
突然のことに文句を言おうとしただろうにとりちゃんが口を開いた直後、すぐ真上を泥の弾丸が過ぎ去って行った。
目を見開き、そこでにとりちゃんもわたしがどうして急にこんなことをしてきたのは理解したようだ。すぐさま立ち上がって、離してしまった河童の少女を背負い直す。
その間、わたしは泥の弾が飛んできた方向を見据えていた。
少し大きな木の陰。その根本から這い出るように現れたそれは、まさしく泥の具現とでも言うような存在だった。
わたしやにとりちゃんのように人の形をした肉体はなく、見た目は泥の集合体。大きさはわたしの四倍、人間の大人の二倍はあるだろうか。纏う妖気は河童の少女を救出した泥の沼で感じたそれとまったく同じ、死の気配が濃厚なおぞましいもの。
泥の妖怪にあった、目と思しき二つの部分が妖しく光る。その瞬間わたしの能力が発動し、即座にわたしは体を横に投げ出した。
「う、っく」
泥の妖怪の体から前触れもなく飛び出した泥の弾丸がわたしが一瞬前までいた空間を貫いた。そして背後にあった樹木に直撃し、その存在を大きく抉り取る。
あんなものを食らってはひとたまりもない。妖怪は人間より丈夫にできてはいるが、わたしは弱小妖怪だ。今の弾丸を一発身に受けるだけでも戦闘不能どころか行動不能に陥ってしまう。
「しろも!」
ふらふらと立ち上がったわたしの手をぱしんっと掴む手があった。にとりちゃんだ。河童の少女を再び背負った彼女は、わたしの手を引っ張って全速力で走り始める。
けれど、泥の妖怪はそう甘くなかった。
泥の妖怪が姿を見せている背後からの攻撃。そればかりを警戒していたから、この先にわたしが泥の妖怪が新たに設置していた罠があることに気がつかなかった。
にとりちゃんがある地点まで足を進めると同時、どろりと地面がぬかるむ。足を取られたにとりちゃんが転びかけ、膝と手のひらを地面についた。ついてしまった。
「な、なんだこれ!? ぬ、抜けない……!?」
足を取られた。腕を取られた。まるで意思ある底なし沼に取り込まれたかのように、暴れれば暴れるほどに腕や足が沈んでいく。
それはわたしも同じだ。にとりちゃんと同じように泥と化した地面に囚われて、動けない。
これがきっとにとりちゃんが推測していた河童への罠なのだろう。そこへ踏み込んだものを自ら生み出した泥で捕まえ、取り込んでしまう罠。
けれどわたしはにとりちゃんと違って冷静だった。ちらりと背後を、泥の妖怪と距離がまだ開いていることを確認すると、にとりちゃんの耳元に口元を近づけて、囁く。
「にとりちゃん、もっと前に進める?」
「む、無理だっ! 動けば動いただけ沈んでく……下手に動いたら埋まって出れなくなる!」
「大丈夫、大丈夫だから。人一人ぶんくらい……は巻き込まれるね。二人ぶん、二人ぶんでいい。それだけ前に進んで、首の下まで沈んだっていいから」
「な、なに言って」
「いいから。言う通りにして。どっちにしても、どうせこのままじゃ追いつかれて食われるだけだよ」
淡々と、作業のように。恐怖なんてまるで感じていないかのごとく。
まるで人が変わったかようなわたしの態度にあっけに取られたような目で眺めていたにとりちゃんは、しかし振り返って泥の妖怪を見やると、迷いを振り払うように首をぶんぶんと横に振った。
「くそっ、わかったよ! 考えがあるんだよなっ? どうせ私にゃどうしようもないんだっ、よくわかんないけど乗ってやる!」
にとりちゃんが泥に沈みながらも奥へ進むのを尻目に、わたしは普段の透き通った色とは打って変わった、その濁り切った眼を泥の妖怪の方へと向けた。
わかっている。わたしの能力が告げている。これはチャンスだと。
あのまま罠を避けて進んだところでいずれ追いつかれる。ここら一帯はあの泥の妖怪の領域だ。わずかならば地形を操作することができることを、わたしは
だが、あの泥の妖怪は無様にも罠にかかった獲物を容易く仕留めたりはしない。限界まで近づいて、じゅうぶんに恐怖を植えつけた上で、それをスパイスにわたしたちを喰らう。
なにせ罠にかかった時点で、にとりちゃんもわたしもなにもできはしないのだ。直前で反撃しようとしても、すでにわたしも腕の半ば以上が泥に沈んでしまっている。まともな攻撃などできはしない。
あの泥の妖怪もそう思っている。だから無駄に余計な危害を加えようとしたりはせず、悠然と近づいてくる。より深く長い恐怖を植えつけるために。
「こ、これが限界だ。これ以上は無理だ」
にとりちゃんの声が聞こえ、ちらりと背後を見やる。そこには肩のすぐ下まで沈んでしまっている、河童の少女を背負ったにとりちゃんの姿がある。
「うん。それだけ離れてくれれば大丈夫。ありがとう」
「そ、そうか……ほ、本当に手があるんだよな? この状況をどうにかできる策があるんだよな?」
不安そうに問いかけてくる。わたしはただ、小さく微笑むことでそれに答えた。
もうほんのすぐそばまで泥の妖怪が近づいてきている。もうにとりちゃんへの心配はいらない。わたしは体の正面を泥の妖怪へと向けた。
そうしてわたしの能力が発動する。そしてそれが先の事象を。これからわたしがすべきことを明示する。
わたしはそっと目を閉じて、小さく息をはく。そして再び、ゆっくりと瞼を開いた。
「……その、お願いがあるんですが、見逃してくれませんか?」
ふるふると体を震わせて、おそるおそると言った様相を装って、泥の妖怪を見上げた。
まずは下手に出る。そうすれば泥の妖怪は鼻で笑うようにして、さらに恐怖を与えるために近づいてくることを知っている。
「た、確かにわたしたちはあなたの住処に勝手に入っちゃいましたけど……お、お詫びはちゃんとします! これからは毎日供物を捧げます! 私にできることならなんでもします! だ、だから殺さないで、殺すのだけは……」
次になにが一番怖いのかを知らせる。そうすれば泥の妖怪はさらに恐怖を与えるために、まっすぐ戸惑うことなくわたしへ近づいてくることを知っている。
ここで一度、にとりちゃんに心の中で謝罪をした。次に口にすることは、彼女にとって不安で不快に感じてしまうことだろうから。
「ひっ……!? な、なら、わ、わたし以外の……そ、そう! 後ろの二人は食べてもいいです! で、ですからわたしだけは……わたしだけは助けてください!」
「なっ、おい!?」
「わたしは河童に顔がききます! だからもっとたくさんの河童を連れてくることができます! そうすればあなたにも得があるはずでしょうっ? もっとたくさんの河童を食べられるようになる……」
「しろも、お前……!」
にとりちゃんには目もくれず、一見泥の妖怪が得をする、受けてもおかしくないような条件を提示する。そうすれば泥の妖怪は、興味を持ったかのように立ち止まるから。そうしたらわたしは、それに食いついたかのように話を続ければいい。
「か、河童が食べたいんですよねっ!? いくらでも連れてきます! あなたの言うことになんでも従いますから! どんなことでも……だ、だから殺さないで……わたしだけは生かしてください! お願いします!」
あとは、頭を下げていればいい。そうすれば。
泥の妖怪が、罠のある領域に入ってきたのが触角の感覚でわかる。この罠は当然ながらしかけた当人たるこの妖怪には機能しない。むしろ泥と一体化しながら、わたしにゆったりと近づいてくる。
触角の感覚と、視界に影が差したことから、ついに泥の妖怪が真正面まで近寄って来たのがわかった。
ここで顔を上げる。食おうとしないということは取引に応じてくれるということだ、と。そういう表情を張りつけて。
「あっ、ありがとうございま――」
そうしてわたしは泥の妖怪に飲み込まれた。
背後でにとりちゃんが息を呑んでいるのがわかる。ずっと憎々しげにこちらを睨んでいたのもわかっていた。
そして、なにをどうしようとこうして結局は喰われてしまうことも。
この泥の妖怪は意地が悪い。一見誘いに乗ったふりをして、その直後にそれを反故にする。そういうことを好んでする妖怪だ。すでに幾度となく能力を発動したわたしは、それをよく知っている。
これがわたしの思い通りの状況なのだとも知らずに。
「……ところで」
声が出る。泥の妖怪に全身を飲み込まれていながら、声が出る。
だって、違うから。
わたしは泥の妖怪に取り込まれてなどいない。
逆なのだ。
「私の周りにある泥は、にとりちゃんが離れてすぐにわたしの《泥》にすり替えさせてもらってたんですが、気づきませんでした?」
わたしが泥の妖怪に取り込まれたのではない。泥の妖怪が、わたしの翅を巡る《
――《泥》。ただそれの見た目が泥色の流動体のようなものだったから、わたしがそう名付け、呼称しているだけで、その効力は通常の泥とはまるで異なる。
これは初めて能力を発動した瞬間より扱えるようになった、わたしの切り札だ。その正体はありとあらゆるものを侵食し、滅ぼす力。
《泥》に触れた、なんの力もない
ずっとこの瞬間を待っていた。わたしのこの力は、ただ単に《泥》のすり替えにばれないよう、わたし本人の動きに釘付けにするよう、必死に怯える演技をしたかいがあったというものだ。
悲鳴が上がる。おぞましく、聞くに堪えない、無様な音色が。
「う、っぷ……」
ずずず、と。翅の付け根から、《泥》が呪いのように全身へ広がっていく。
視界が明滅した。強烈な吐き気が胸を襲う。形容のしがたい苦痛に引き剥がれそうになる意識を抑えつけながら、絶え間なく翅を巡る泥を体に押し流した。
そうして《泥》は、一秒もしないうちに体中に張り巡らされた管となる。あるいは血管、あるいは入れ墨、あるいは呪印。禍々しく、おぞましく、目の前の妖怪が生み出す泥なんてちっぽけに感じられるほど穢れ切った力。
わたしは、その《泥》で濁り切った碧き眼で、完全に怯えてしまっている妖怪を射抜いた。
「さぁ……わたしにはとっくに通じてないけど、早くにとりちゃんたちを捕らえてるこの罠を解いてくれないかな。さっさとしないと、お前、消すよ?」
《泥》に塗れた手をかざす。それだけで、体の半分以上を《泥》で侵された泥の妖怪はわたしに屈した。
この妖怪にはわかるのだ。わたしが纏う《泥》が、自分のそれとどれほどかけ離れた歪なものか。忌むべきものなのか。なまじ力の性質が近いゆえに。
泥が引いていく。罠が消失していく。泥が染み込むように土へ還元されていき、やがてそこには、ほんの二メートルほどの窪地が残った。
にとりちゃんはわたしの再度の急な変わりようについて行けないようで呆然としていたが、とにかく彼女がきちんと解放したことを目線を向けて確認すると、泥の妖怪に向き直った。
「ご苦労さま。それじゃあ……」
すでにこの妖怪からは敵対の意思は感じられない。だけど。
胸の前で、ぎゅっと手を握る。心臓の鼓動が速い。いや――遅い。
目に映る景色から色がなくなってきた。音もどんどん遠くなっていく。腕は痙攣し、肌は感触を失い、まるで自分の存在が体から剥離していくかのような。
これ以上はもう《泥》を維持していられない。今すぐ翅に力を戻さなければ命にかかわる。
けれどわたしが今倒れてしまったら、今は屈している泥の妖怪はきっと。
口を開くことさえ億劫に感じながら、わたしは告げる。
「――邪魔だから死んでね」
消さなければ。今すぐに。この世から、塵すら残さず。
わたしの意志に従って放たれた《泥》が瞬時に泥の妖怪を包み込んだ。そして、すでに半分以上の侵食を終えていた泥の妖怪の存在そのものを、さらに深く侵していく。
初めは悲鳴らしき雄たけびを上げていた。けれどそれもすぐに聞こえなくなった。
やがて侵食を終えた《泥》が蒸発し、消滅する。最後に残っていたものは、《泥》色に濁り切った、おそらくはあの妖怪の核のようなものだったろう、小さな欠片だけ。
そしてその欠片も風に吹かれ、塵となって宙空に溶けて消えてしまった。
「……ぅっ、けほっけほっ、はぁ、はぁ……」
体内で血液と同様に循環させていた《泥》の力をすべて翅に戻すと、わたしは膝をついて何度も咳をした。
――危なかった。
自身の能力を初めて使用した時よりこの身に備わった、副産物たる《泥》の力。非常に強力ではあるものの、その代償は耐えがたい苦痛をもって体現される。
《泥》の力そのものに使用者たるわたし本人の体が耐え続けられないのだ。
今だって、本当にぎりぎりだった。あと一秒でも遅れていればわたしの体が泥の妖怪と同じように崩壊していたことだろう。
いや……今だって、平気と言えるかどうか。
《泥》の力は翅に戻したはずなのに、体の調子が戻らない。全身が重い。立っていられない。意識が保てない。
ふらり、と。自分が倒れたことと気がついたのは、目の前にぬかるんだ地面が映っているのに気づいてからだった。
「に、とり……ちゃん……」
手を伸ばす。どこにいるかはわからなかった。わからなかったけれど、届いてほしくて、がむしゃらに手を伸ばす。
言わなきゃいけないことがあったから。怖がりで、仲間思いで、不器用な一人の少女に、一言だけ。
冗談でも、嘘でも、見捨てるようなことを言って。あなたの仲間を売るようなことを言って。不快な気持ちにさせて。
「ご……めん、ね……」
すべての感覚が閉ざされていく。抗いようのない、泥のように暗い闇の中へ。
本当に……ごめんね。
そうして気を失う直前、伸ばしていた手を最後に誰かが取ってくれたような感覚を最後に、わたしの意識は完全に途切れた。