東方蝶跳躍 作:のいんつぇーんSZZ
ざぁざぁ、と。どこか心地のいい雑音が耳を打つ。
ううーん、と無意識に身じろぎをした際に頬に冷たい水滴を受けて、この音の正体がなんなのか、なんとなく察した。
これは大量の水が流れ落ちる音だ。落下した水流が水面に激突し、飛沫を撒き散らす滝の音だ。
「お、気がついたか? おーい、私の声が聞こえるかー」
誰かに呼ばれたような気がして、まだ意識も曖昧なまま、薄っすらと瞼を開く。その瞬間に爛々と輝く太陽の明かりが目の中に差し込んできて、きゅっと反射的に強く目をつむった。
だけどその光の刺激のおかげで、徐々に頭が回転を始めてくれた。
自分が直前までなにをしていたのか。どうして眠ってしまっていたのか。いつもは一人で活動しているのに、なぜ誰かに心配されるような声をかけられているのか。一つずつ思い出していく。
「そう、だ……誰かを、引き上げようとして、それから……」
再び、瞼を押し上げる。今度は強い光に臆することなく、はっきりと目を開き、そこに映るものを認識した。
誰かが、横からわたしの顔を覗き込んでいた。
純粋な、あるいは純水とでも呼ぶべき、青色の瞳。幼さが残る顔立ちが、今はほんの少しなにかを案じているような表情をしており、その対象がわたしだということはすぐに理解できた。
若干外にはねた青い髪を赤い数珠のアクセサリーでツーサイドアップにしていて、その上に緑のキャスケット帽をかぶっている。青色系統が好きなのか上着もスカートも水色で統一されているが、隙間から見える上着の下は白いブラウスのようだ。スカートに大量のポケットがついていることと、紐で胸元に鍵を固定しているのが印象的だった。
「ん、やっと目が覚めたか。体調は問題ない?」
「えっと……誰?」
「私は河童のにとり。河城にとりだ。覚えてないの? あんたが助けようとしてくれてた妖怪だよ」
「河童……?」
首を傾げつつ、そういえば自分はどこで寝ているのだろうか、と辺りを見渡した。滝の音が聞こえているが、わたしがいた川辺に滝なんてなかったはずだ。
わたしが寝かされていたのは、谷の底にある岩場の一角のようだった。すぐ近くに谷の上から落ちてくる滝が存在し、そこから続く川の流れに沿うようにして、壁面に自然的な洞穴が数多く空いた渓谷が続いている。
見上げれば、谷の上には木の枝や根が這い出しているのが見えた。おそらくこの上には豊かな木々が生い茂っているのだろう。
こんなところには来たことはないが、川や滝が近くにあることから、わたしが気を失うより前にいた川をずっと上流に進んだ場所なのだと推測を立てる。わたしがいたのは麓の森であり、そこをさらに下りていっても滝にも谷にもたどりつかない。そしてこのにとりという少女は上流から流れてきていたのだから、彼女がわたしを運んでくれたのであれば元の場所に戻るため川をのぼったと考えた方が自然だった。
「で、お前の名前は? 私も名乗ったんだからあんたの名前も教えてくれよな」
「あ、うん。わたしは、しろも。
「ふーん、しろもねぇ。聞いたことないな。大して力もないみたいだし当然だけど」
体を起こそうとすると、わたしは自分の体に毛布がかけられていたことに気がついた。たびたび水飛沫が飛んでくるせいかちょっと濡れているが、それでもじゅうぶん温かい。
わたしが起き上がったのを見て、にとりはすっとわたしの額に手を当ててくる。目をつむってしばらく唸った後、にとりは諦めたように首を横に振った。
「うん。熱があるのかないのかよくわからんな。そもそも基準がわかんないし。っていうかよくよく考えなくても妖怪は熱なんて出さないからなぁ。うーむむ」
「えっと、たぶんもう大丈夫、かな。倒れちゃった時ほど調子は悪くないし。もしかしなくても看病してくれたんだよね? ありがとう、にとりちゃんのおかげだよー」
「にとりちゃんって、いきなり馴れ馴れしいな……」
「だ、だめ?」
「いや別にいいけどさ。まぁ、なんだ。元気になってくれたならよかった。ほら、あれだろ? 一応は助けようとしてくれた相手を川の中に突き落としちゃってそのまんまなんてのは、さすがに目覚めが悪かったからね」
にとりちゃん、という部分でどことなくむず痒そうな表情をしていたが、呼び方を拒否されることはなかった。そっと胸を撫で下ろしつつ、あれ? と一つ疑問点が浮かび上がり、にとり――にとりちゃんの姿をまじまじと眺めた。
「なに? どうかした? そんな額にしわ寄せて」
「や、にとりちゃんって河童なんだよね? でもそれにしてはなんか溺れたみたいにぷかぷか流れてきてたような……あ、もしかして河童だけど泳げなかったり?」
「はぁ? そんなわけないじゃん。そもそも溺れてないし。っていうか本当なら、私が目を覚ました時点であんたの助けがなくたってなんにも問題なんてなかったんだよ」
「え、そうだったの? じゃあなんであんな気絶して……」
「あれはね……私は最初、そこの滝壺で仲間たちと一緒に遊んでたのさ。でも休憩中に滝の上からでっかい丸太が落ちてきて、それに頭をぶつけて気絶しちゃったみたいでね。ったく、あんなのが自然に落ちてくるわけないし、絶対あいつの仕業に決まってるじゃん。あーむかつくー」
「あいつ?」
「あー……まぁ、あんたは別に気にしなくたっていいよ。これは我々河童の問題だ。部外者には関係のない話さ」
にとりちゃんのどこかそっけない言い草に、なんとなく疎外感を覚える。もしかして、あんまり歓迎されてないのだろうか。
わたしは山の麓の森を住処としているが、妖怪の山に住まう天狗や河童と言った妖怪たちは、仲間意識が強い代わりに排他的な傾向にあると聞いたことがある。その山の頂点に君臨する鬼にはそんな性質はあまりないようだけれど、鬼は横暴かつ凶暴、それでいて最強の妖怪として有名な存在なので、そもそもこちらから関わり合いたくない部類に入る。
わたしとにとりちゃんの間に沈黙が訪れた。わたしはにとりちゃんの無愛想な態度になにを言っていいのかわからなくなってしまい、にとりちゃんはそもそもわたしと親しくなろうという思考自体が存在しないように思える。ただ、気まずさだけがこの場に漂っていた。
そんな空気に先に耐えられなくなってしまったのは、どうやらわたしの方だったらしい。
ぐぅー、と。気の抜けたような音がこの場に響き渡る。
にとりちゃんは目をぱちぱちとさせた後、訝しげに首を傾げた。
「……今の、なんの音?」
「え、えへへ……わ、わたしのお腹の音です……ごめんなさい……」
ここ最近はろくなものを食べていない。にとりちゃんを川から引き上げようとした時だって、本当は水を飲もうとしていたところだったのに、結局はそれさえできずに気絶してしまった。
いや、溺れかけた際にいくらか川の水を飲み込んでしまってはいたが、あんなものはお腹を潤すために飲んだもののうちには入らない。
にとりちゃんは、あー、と困ったように頭をかいた。彼女はもうわたしを看病するという義理を果たしている。もう関わる必要はないのに迷っているということは、もしかしたら、わたしの空腹をどうにかしようと悩んでくれているのかもしれない。
ちょっとばかり口が悪いところがあるものの、決して悪い妖怪ではない。それがこの短時間でわたしがにとりちゃんに抱いた印象だった。
「はぁー……まだ本調子ってわけじゃないみたいだし、しかたないか」
「えっと……」
「しろもって言ったっけ。あんた、普段なに食ってるのさ。こうなっちゃってるのは私の責任もちょびっとあると思うし、お詫びも兼ねてちょっとくらいなら取ってきてあげてもいいよ」
「ほ――――!」
がしっ、と。気がついた時にはもうすでに、にとりちゃんの手を両手で力強く握りしめてしまっていた。
「ほ、ほんとにいいんですかっ? ほんとに、ほんっとうに! ほんっとうにいいんですかっ!?」
「え、な、なにっ!? 急にどうしたっ!? なんでそんな詰め寄ってくるの!?」
「結局にとりちゃんに迷惑かけただけだったのにほんとにいいの!? というか現在進行形で迷惑かけちゃってるのに……ほんとにいいの? ほんと? ほんとにっ!?」
「ちょ、近い近い近い! ちょっと離れてって! 本当っ、本当だから! このっ、いいから落ちつけ!」
普段であれば、数日に一度でも枯れかけた花の蜜や未成熟の木の実にありつければいい方なのがわたしの日常である。普通ならそんな事態に陥るはずもないのだが、わたしの住処付近はわたしと同種の妖怪や妖精が本当に多いようで、餌の奪い合いは過酷を極めている。特にわたしは生まれたばかりゆえにその中でも最弱の部類なのでなおさらだ。
食いしん坊と言われればそれまでかもしれない。だけどそもそもとして、このたび山の麓の森に生まれてからのこの数か月、わたしは他の誰ともまともな付き合いをしたことがなかった。
同種の妖怪に話しかければ、付近の餌が枯渇気味な都合上敵意ばかり向けられ、へたに縄張りを侵せば攻撃までも浴びせられる。かと言って違う種族の妖怪には虫けらのようにうざがられ、自然の権化たる妖精からはいたずらばかりされる日々。
そんな過酷な日常の中で突如こんなに優しくされれば、ころっといってしまうのもしかたがない。そう、しかたがないのだ。
「うぅ、ひっく……よ、よがっだ……わ、わだしなんがに優しくしてくれる
「う、うん……な、なんか今まで大変だったんだな……」
「はいぃ、それはもう……ひっく」
「あーもう、そんな泣かないでくれよー……うぅ、やりにくい。こういう時ってどうすりゃいいのさ……」
ひどく不慣れな感じで、ぽん、とわたしの頭に手が置かれた。撫でる動作をするその手はずいぶんと動きがかたく、気持ちよさはまるでない。だけどその手のひらからは、にとりちゃんがわたしを気遣う気持ちを確かに感じ取ることができた。
「……もしかして泣かせてる?」
その声は、わたしのものでもにとりちゃんのものでもない。顔を上げれば、滝壺から一人の少女が顔を出していた。おそらく、にとりちゃんと同じ河童であろう。
「ち、違う違う。こいつが勝手に泣いてるだけだって。私は関係ない」
「ほんとにー?」
「本当だって! っていうかお前さっきからずっと水ん中からこっち窺ってたろ! ずっと見えてたんだからな!」
「あちゃー、ばれちゃってたか。残念」
わたしは自分がにとりちゃんを困らせてしまっていることはわかっていた。これ以上彼女の手を煩わせるわけにはいかない。袖でごしごしと目元を拭って、もう大丈夫です! と言わんばかりな力強い表情を意識してみた。
……その直後に、体力が回復していない状態で泣きわめいたせいか、ふらりと上半身が倒れそうになって、にとりちゃんが慌てて支えてくれる。
大丈夫とはいったいなんだったのか。まことに面目ない……今度は、しょぼんとうなだれる。
「この子結構面白いねぇ。で、にとりちゃんは自分を助けようとしてくれたこの子のためにご飯を調達してあげようとしてたんだっけ? この子普段なに食べてるの?」
川から上がってきた河童の少女に、つんつんと頬をつつかれる。
「まだ聞いてない。というか聞こうとしたら泣かれた」
「わぁお、ばいおれんす?」
「それで結局しろもは普段なに食べてるんだよ。ちょうどいいパシリも来てくれたし、人肉でも尻子玉でもどんとこいだぞ」
「パシリって私のこと?」
「他に誰がいるのさ」
「まーいいけどね。にとりちゃんを助けてくれたお礼、私もしたかったし」
同じ河童だけあって旧知の仲らしい。息の合った会話が目の前で繰り広げられる。わたしには、その関係がちょっと羨ましく見えた。
なにはともあれ、普段食べているもの。にとりちゃんは人肉だとか尻子玉だとか言っているが、当然わたしの主食はそんな物騒なものではない。実際に食べられないこともないというか普通に食べられはするけれど、一番はやはり花の蜜や木の実などの甘味である。
そのことをにとりちゃんともう一人の河童の二人に伝えると、彼女たちは目をぱちぱちとさせて顔を見合わせた。無理を言ってしまったかとも思ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。むしろ、その逆のようだ。
「……そんなんでいいの?」
「要するにお花を摘んできてってことだよね。なんでもいいの?」
「えっと、うん。申しわけないけど、頼めるかな……?」
「それくらい余裕だよ余裕。だってそこら辺に生えまくってんじゃん。な?」
「取ってくるの私だけどねぇ」
わたしの頭をぽんぽんと撫でると、河童の少女は、とんっ、と地面を蹴った。そしてふわりと宙に浮く。よじ登るのは相当困難な谷の壁も、空を飛ぶことのできる妖怪にとっては大した障害にはなり得ない。
「とりあえずあいつが戻ってくるまで体休めときなよ。立つのもきつそうだし。食べるくらいの体力は回復しとかないとどうにもならないぞ」
河童の少女が去った後、わたしはにとりちゃんに促されるがまま、再び地面に横になった。にとりちゃんは滝壺の前で腰を下ろし、水面に足を浸しながら、上半身はごろりと寝転がる。
どことなく、にとりちゃんは手持ち無沙汰で暇を持て余しているように思えた。本当は、わたしのお守りなんかよりももっと他にしたいことがあるのかもしれない。
にとりちゃんはさきほど仲間とこの滝壺で遊んでいたと言っていたが、今この場にいるのはわたしとちゃんの二人だけだ。他の多くの仲間は別の場所にいるのだろう。そしてにとりちゃんはその場所を知っている。にもかかわらず彼女がわたしと一緒にいてくれるのはきっと、本調子ではないわたしを一人にしてしまい、他の悪意ある妖怪に襲われるようなことがないようにするため。
会話はぼちぼちとしかなかったけれど、二人の空気はそう悪いものではなかった。にとりちゃんはそっけない返事をすることが多かったけれど、わたしと話すこと自体が嫌なわけではないような気がした。
「ね、ねぇ、にとりちゃんってさ」
うつむき加減で、もじもじと。少しわたしの態度が変わったことを感じ取ったのか、にとりちゃんが生返事をやめ、気になったように目線を向けてきた。
ここまでずっと明るく話しかけていたのに、急に言いよどみ出したわたしにしびれを切らしたのか、にとりちゃんが「なに?」と続きを催促する。
わたしは意を決して彼女に向き直った。
「友達、いる?」
「……は? え、なんだって?」
「にとりちゃんって、友達いる?」
「……え、なにそれ。え、バカにしてるの?」
にとりちゃんの表情が歪む。聞き方が遠回りすぎて、誤解されてしまったようだった。
「ち、違う違う違う!」
わたしは慌てて腕をぶんぶんと横に振って、言葉を選び直していく。
「あの、えっとっ、その! わ、わたしこの世界友達一人もいない! ぜろ! ふ、ふれんどぜろっ! じゃなくて、えーとえーと、ふ、ふれんどのっといんっ?」
「いやそんな虚しいこといきなりカミングアウトされても……ってかなんで片言気味?」
「わたし、友達いないから、えっと、にとりちゃんはたぶんいて……でも友達ってほら、一人より二人! 二人より三人! わたしはぜろだけど……えっと、だから、その……友達、いる? 友達いりません? ふ、ふれんどせーる、やってりゅよっ?」
噛んだ。
「あーはいはい、とりあえず一旦落ちつこうか。ほら、大きく息を吸ってー、吐いてー。ひっひっ、ふー、ひっひっ、ふー……あ、これ違うわ」
「ひ、ひっひひ、ふ、げほげほっ! あぅ、い、息が……」
取り乱している状態で不安定な呼吸法を行ったせいだろう。むせてしまう。
近寄ってきてくれたにとりちゃんに背中を支えてもらいながら、今度は正しく深呼吸をして、どうにか心を落ちつかせる。
「で、なんだって? ちゃんと一字一句、自分の言いたいことはっきりと伝えてよ」
「う、うん……その、にとりちゃん。にとりちゃんはたぶん、わたしのこと、ちょっと煩わしいって思ってそうだけど。義理を果たしたらさっさと出ていってほしいとか、思ってそうだけど……このみみっちいちんけな虫けら風情がとか思ってそうだけど……」
「いやそこまでは思ってないけど……」
「でもわたし、まだ生まれてから誰ともまともに話したことなくて。にとりちゃんが、その、初めてで。私はにとりちゃんにいっぱい迷惑かけちゃってるけど。これも迷惑だってわかってるけど……」
どうしたものか、と額に手を当てているにとりちゃん。彼女には、次にわたしがなにを言おうとしているかわかっているようだった。
困らせている。迷惑がられている。理解してはいたけれど、わたしはもう、途中まで言いかけたその言葉を引っ込めることはできなかった。
いや、違う。引っ込めようと思えば引っ込められた。やっぱりなんでもないと。そう言えばいい。
でも、断られるのだとしても、少しでも希望があるのなら。にとりちゃんの態度以上に、温もりに飢えたわたしの心が、そう思わずにはいられなかった。
「わたし、にとりちゃんと友達に――」
だが、そんなわたしの言葉が続くことがなかった。
ばちゃんっ! と。なにか大きなものが近くの滝壺に落ちてきた音にかき消されたのだ。
何事か、とわたしとにとりちゃんの視線が向く。そこにいたのは一匹の河童だ。さきほどまで一緒にいて、花を取りに行ってくれた河童とはまた違う、わたしが出会う三人目の河童。
どうやら谷の上から飛び降りてきたらしい彼女はにとりちゃんを見つけると、荒い息を吐きながら岸に上がってきて、尋常ではない様子で一つの事件を告げた。
「に、にとりちゃん! ここでずっと遠目でにとりちゃんたち眺めて楽しんでるって言ってた、あの子が……!」
「ああ、あいつならちょっといろいろあって花を取ってもらいに行ったけど……なんかあったのか?」
「あの子が木の深いところに入っていくのを見たんだけど、その時あの子が、あの子があいつに……!」
「あいつ? ……な、まさかっ、私に丸太を落としてきたやつと同じっ!?」
「そう、そいつ! 今度はそいつにあの子が、さらわれたっ!」
疑いようもない必死の声音で突きつけられた純然たる事実に、にとりちゃんは苦々しげに顔をしかめ、わたしはただただ目を見開いていた。