東方蝶跳躍 作:のいんつぇーんSZZ
E1.みずのめるはっぴー
ざぁざぁ、と。どこか心地のいい雑音が耳を打つ。
ううーん、と無意識に身じろぎをした際に頬に涼しい空気を受けて、この音の正体がなんなのか、なんとなく察した。
これは木々が揺れる音だ。風を受け、枝が揺れ、葉が擦れる音だ。
「……えーっと……?」
薄く目を開けて、周囲を見渡す。そして目の前に広がっていた大自然にただただ困惑した。
ここは少し開けた草むらのようだけれど、少し離れたところには木々が生え茂っている。どこもかしこも人が出入りしたようなわかりやすい痕跡はなく、鳥や虫の鳴き声が騒がしい、まさしく大自然の真っ只中だった。
呆然と辺りを見回しているうちに、ふと、体を動かす感覚に違和感を覚える。
いつもの自分の体ではない。子どものそれだった。いわば幼女とも呼ぶような、ほんの七歳程度の体躯しかない。
付け加えるならば、頭からは触角が、背中からは翅が生えていた。触角は昆虫じみた二つの細い線、翅は鳥のような翼ではなく、刃物で少し切りつけてしまえばすぐに破れてしまいそうな印象を受けた。
「……え? ここどこ? っていうかわたし、こんなにちっちゃかったっけ……?」
あいもかわらず胸のうちには困惑ばかり。
蝶の妖怪、しろも。今日より生まれいづり参りました。
わたしという存在が生まれ落ちて、どれくらいの時が経っただろうか。
なにぶん大自然の中、時間を確認しようがない身の上なので具体的な数字はわからない。ただ、満月が数回ほど満ちては欠けてを繰り返していて、それがまだ二桁ほどには行っていないはずだということは間違いない。
わたしが初めにいた場所は山の麓の森だった。そしてようやくその山の近辺での生活にも慣れてきたというところで、今日も今日とてふわふわと空中を漂っている。
空中。初めは力が足りないのかうまく飛べなかったが、練習するうちに浮くことができるようになった。これはなにも翅があるからではなく、妖怪としての力、俗に妖力などと呼ばれるものを用いて飛行を実現している。
蝶の妖怪と言えど生まれてすぐのわたしが飛べるくらいなのだから、力のある妖怪の大体は普通に浮遊することが可能だろう。
そう、たとえば天狗とか。
「わっとと」
森の一角から黒い翼を携えた妖怪が飛び上がってきたのを見て、わたしは慌てて地上に降下する。木の陰に隠れ、翼の妖怪――鴉天狗がこちらに気づかず飛んでいるところを見上げた。
わたしが生活する森のすぐそばにある山は鬼が収めており、天狗はその配下とされている。山に住む妖怪の多くは鬼を畏怖しており、かく言うわたしもその一人に入る。
わたしのような弱小妖怪が鬼や天狗に良い意味でも悪い意味でも興味を持たれることなど、滅多なことをしない限りはありえない。それでも彼らに振り回されて生き残れる自信なんて到底ないわたしは、鬼やその配下たる天狗の視界にはなるべくなら入りたくないと思っていた。
木の陰に隠れたまま、天狗が飛び去っていくのを見送る。なにもしていないのだから当然だが、何事もなかったことにほっとはいた。
しかしほっとしたのもつかの間、ぐぅー、なんて気の抜けるような音が唐突にこの場に響く。
「……お腹、すいたなぁ」
今度は、はぁ、と。力のないため息をついた。
飛行ができるようになったと言っても、まだそう長い間続けられるほどではない。一旦体を休めて体力を回復させようと、隠れていた木陰にそのまま腰を下ろす。
妖怪の食料は主に人が抱く恐怖の感情や人間そのもの、とされているが、わたしは人は食べない。
わたしが好むのは花の蜜、あるいは果物や木の実と言った甘味の類である。まさに蝶の妖怪らしい。
ただ、甘味というものは人間妖怪問わずどんな存在にもわりかし人気なものだ。わたしが『発生』したように、わたしの住んでいる辺りには昆虫の妖怪、あるいは昆虫型の妖精が多数存在することもあって、その中でも生まれたばかりでとりわけ力のないわたしが普段手に入れることができるのは、大体酸っぱい未成熟の木の実か、枯れかけた花にわずかに残った蜜の粉程度だったりする。とても世知辛い。
「うー、お腹すいたー……」
ぐぅー、と、再びお腹が鳴る。一ヶ月という時間の中で山の近辺での生活に慣れてはきた。慣れてはきたのだけれど、その生活が快適だとは限らない。
……一応、わたしはいずれ鬼が
その頃になれば、これまで鬼が支配していた領域にも少なからず立ち入れるようになって、果物や蜜の採取も幾分かマシにはなるかもしれない。
もっともそれも希望的観測に過ぎず、そもそもその後は代わりに天狗が山を収めるようになるので、本当にマシになるかどうかは微妙なところだ。
なんにしても、鬼がいなくなるのはまだ気の遠くなるほどずっと未来の話だ。わたしが生きている今の時代、鬼は現存している。そしてわたしが今、空腹だという事実にも変わりはない。
あいもかわらず満たされない空腹感に、はぁ、と一つため息をついた。
「水でも飲みに行こうかなぁ」
ちょっとは空腹を紛らわすことができる。というか、わたしが普段食べているような未成熟の木の実だとか蜜の粉だとかでお腹いっぱいになれるはずもないので、わたしのお腹は大体いつも空いていると言って過言ではない。毎回こんな感じに水を飲んだりして誤魔化し誤魔化し生きていた。
わたしは妖怪だからなんとか生活できてはいるけれど、もしも人間だったならとっくに飢餓している。
お腹がすきすぎて飛ぶことさえ億劫に感じたので、ずるずると足を半ば引きずりながら川に向かって歩き始めた。
「よーしひろさん、よしひろさん、お干しになった干し魚ー、ひとつーわたしにくださいなー……」
誰だよヨシヒロさん、とつっこんでくれる相方はいない。というか友達自体いない。とどのつまりぼっち。
なんでかぐすんと泣きそうな声になりつつ、歌いながら歩き続けること
やっと水が飲める。水でしかないんだけど……。
「お腹すいてる時に水飲むとちょっと痛いんだよね、お腹……」
川のほとりで、少し怖気づく。水面には、むー、と眉をしかめているわたしの顔が反射していた。
肩に届くほどの長さをした白髪はハーフアップにしていて、ところどころ青色のメッシュがかかっている。服装は動きやすそうな、というか実際動きやすい白の半袖と水色のミニスカートを着込み、その上から少し大きめな青の上着を羽織っている。
髪や服、肌などの人間的特徴が比較的明るい色合いをしているだけに、自身の妖怪としての証拠たる翅が少し浮いていた。
わたしの翅。それは、夜の湖のような淡青色を主な模様とした、蝶の翅。自画自賛になるけれど、星や月の光を浴びたその翅の鮮やかさは相当な美しさだと自負していた。
だからこそ、そんな紋様を汚すかのように塗りたくられた幾筋もの泥色の紋様が異質に映る。蝶の翅に黒い文様が入っていることは割と一般的のはずなのに、自らのそれはどうしてかまるで、初めは綺麗だったはずのものが穢れてしまったかのようにも感じられた。
「むー……」
なんか……少し痩せた? いや痩せたっていうか……やつれた?
最近なんにも食べてないし、当然のことかもしれない。ちなみに近々なにかを食べられる保証もない。
あ、ダメだ。元気なくなりそう……。
「……はぁー」
じーっ、と。しげしげと。このままいつまでも自分の姿かたちをまじまじと観察していてもしかたがない。怖がって思考をそらし続けても現実は変わらないのだ。
多少はお腹が痛くなるのも我慢して、さっさとこの川の水でお腹を満たしてしまおう。
そうそうと川の流れる音だけが支配していた岸辺で、ぱんぱんと頬を両手のひらで軽くはたく。
……よしっ。そう決意を固め、いざ水を飲もうと水面に顔を近づけた。
「痛いのは我慢、痛いのはがまんー……ん?」
水に触れるまであと少しというところで、ふと、視界の端になにかがよぎった気がして顔を上げる。
どんぶらこどんぶらこ。上流の方から、どこぞのきびだんご太郎のように意気揚々と珍妙な黒い影が流れてくる。大きさは、わたしより少し大きいくらいだろうか。
葉っぱや花びら、木の枝やらが流れてくるところはたびたび見かけたことがあったが、あれほどのものは珍しい。
いったいなにが流れてきているんだろうか。好奇心の赴くまま、目を凝らしてみた。
「って、人っ!?」
十代前半くらいの背丈をした少女が、ばたんきゅー、と言った感じにうつ伏せの状態で、ゆらゆらと川の流れの勢いにされるがままたゆたっていた。
人、と表現したものの、おそらく人間ではない。わたしが住むこの山は妖怪の山と呼ばれている場所であり、その名の通り数多くの妖怪が生息している。そんな川の上流から人間が流されてくるとは考えにくかった。
ほとんどの妖怪は人間を主食とする。仮にそうでなくとも人間を襲うことこそが妖怪の本懐と言ってもいい。
ゆえにこそ人間にとって妖怪とはまんべんなく敵とされている存在なのだけれど、同じ妖怪たるわたしにとってはその限りではなかった。
「と、とりあえず助けないと!」
水面に近づけていた顔をばっと上げて、あわあわと右往左往する。
わたしは生まれてこの方泳いだことがない。手を伸ばして引き寄せようにも、流れてくる少女は明らかに手の届かない距離に浮いていた。ならばなにか長い棒かなにかがないかと辺りを見渡してみても、それらしきものがそんな都合よく転がっているはずもなかった。
「どうすれば、どうすればーっ……そ、そうだ! 飛んだ状態から引き上げれば……!」
かなりお腹が空いているせいか体力も妖力も少なく、割りかしきついけれども、そうも言っていられない。思い立ったが吉日、ふわりと自分の体を浮かせた。
ふよふよと水上を漂い、川の中央辺りで停止して、妖怪の少女が流れてくるのを待ち構える。少女がちょうどわたしのところまで来ると、わたしはうつ伏せでいる妖怪の少女の背中に張りついて、その両脇の下に自分の腕を通した。
「よーし。そっと、そぉーっと……うぐぐぐぅー、んむむぅーっ! ……だ、だめだ。引きずってこう……」
そのまま持ち上げようとしたものの、見た目と違わぬ人間の子どもレベルなわたしの貧弱な腕力ではそれは困難だったようだ。浮力のおかげでちょっとは持ち上がりかけるが、どうしても空中まで持っていけない。
しかたなく、この状態で岸まで引きずっていくことに方針を変更することにした。
若干水流の影響を受けつつも、ばちゃばちゃと川の流れをかき分けて、水上に数センチほど浮いたまま少女を運んでいく。
「うぅ、お腹が空いて力がー……で、でも、あと少し……」
少女を引っ張っていくのにも体力を消耗する。わたし自身、すでに浮遊に力が割けなくなってきていて、足元が水面に浸かってしまっていた。それでももうすぐだからと踏ん張っていく。
そんな時だった。わたしが抱えていた少女が身じろぎをして、うっすらと瞼を開けたのは。
「うみゅ……い、いかんいかん。気絶してたか……って、うんっ!?」
「あ、起き」
「ちょ、おま! なにしてんのさ! まさか私を食べる気か!? この野郎っ、はーなーせー!」
「いやちがっ、落ちつい、むぐっ!?」
「わぁっ!?」
ばちゃんっ。腕の中にいた少女が突如暴れ出したせいでバランスを崩し、少女の上に覆いかぶさる形で川の中に落ちてしまった。
一瞬溺れかけてしまったものの、幸いだったのは岸が近かったことだろう。全身は完全に水の中に浸かってしまったが、比較的近かった水底に足がついた。
このまま流されてはたまらない。水底を全力で蹴って、足場が低い方向へ進む。そしてまた足をついて、地面を蹴って。腕の中には目が覚めた少女が未だ絡まっていて非常に重かったけれども、その状態のまま必死で岸を目指した。
「ぷ、はぁっ! はぁ、はぁ……けほっ、けほけほっ!」
どうにか川辺まで戻ってくると、絡まっていた少女をさっさと解放して、砂利の上に膝をついた。
少し水を飲み込んでしまった。何度も咳を繰り返し、必死に空気を取り込んで、朦朧とする意識をなんとか保つ。体力がまるでない状態で溺れかけたせいか膝も腕もがくがくと震えていて、しばらく立てそうになかった。
そんなわたしのそばに誰かが近づいてくる気配がする。その正体がなんなのかはわかっていたが、顔を上げて確認する余裕はなかった。
「えっと……わ、悪かったよ。なんか勘違いしてたみたいだな。私を助けようとしてくれてたのか……」
「か、けほっ、か、構わない、よ……わ、わたしがかってに、やったことだから……」
わたしが岸まで頑張って連れてきたおかげか、どうやら誤解は解けてくれたらしい。荒い息をはきながらも、どうにか謝罪の言葉を受け取る。
「……な、なぁ、大丈夫か……?」
「だい、だいじょう、ぶぁっくしょい!」
「大丈夫そうじゃないな……」
全身が濡れたまま風に当たったせいだろうか。腕や足だけじゃなく、体全体が震えてきた。
全身が凍えそうなほどに寒い。そのくせして頭や顔に熱がのぼってきている感覚もあって、そのアンバランスさがまたなんとも言えない気分の悪さを生み出していた。
「おーい、しっかりし……あれ、これ本当にまずそうだな。って、あ、おいっ! ちょ、起きろ! 起きてってばっ、しっかりしろー! おーいっ!」
なんだか、段々と視界がおぼろげになってきた。耳に届いているはずの少女の声は遠くなり、感覚は夢の中に誘われるかのように、現実から徐々に剥離していく。
ばたんっ、と。自分が倒れていることに気がついたのは、瞼が閉じる寸前、視界が横になっているのに気がついた時だった。
自分の体が揺さぶられている感覚がある。なにか、声をかけられているような気もする。
でもどれもどこか遠い出来事のようで、体力も妖力も気力もなにもかも使い果たしてしまったわたしの意識は、すぐに睡魔の闇に飲まれていってしまった。