俺のエルフが、チート魔術師で美少女で、そして元男な件について。   作:主(ぬし)

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「待てよ?もっとこうしたらいいんじゃないか?いやいや、しかし……」と悩み始めると途端にスピードが落ちる。長考はいい時もあれば悪い時もあるのですね。


その5 エルフとの変化

 18歳になろうかという年の初め。普通ならもうガキとは言えなくなる年頃に、俺は自分自身、とりわけ内心と体質に特別な変化が生じていることに気付いた。キッカケは、囚われた女僧侶を黒魔術師から救い出す際の戦いだった。

 

 深夜、四回戦目(・・・・)に差し掛かろうとしていたところに女僧侶の使い魔が突然窓から飛び込んできた。人語を話す猫の使い魔は、“黒衣のエルフ”を頼りに、黒魔術師に捕えられた主人の救出を求めてきた。女僧侶を屋敷の牢に閉じ込めているというその黒魔術師は、優秀な女魔術師を攫っては自身の種を植え付け、魔術師同士の子を孕ませて血筋を強化しようと企む変態ジジイだった。その上、囚えられた女は、子どもを生むことが出来なくなると殺されて食われてしまうという。王国の治世が主要都市以外に及ばなくなってからは残虐な事件も珍しくなくなってきたとはいえ、あまりに聞き捨てならない話だ。それに、相手の気持ちも考えずに犯すとは男の風上にも置けない悪漢に他ならない。拳を握りしめて義憤に燃えると、俺に組み伏せられたまま荒い呼吸をしていたアキリヤが「お前が言うな」とでも言うような半目で睨め上げてきた。俺が不思議そうに見つめ返すと、じとっとした目のまま大きな溜息をついて首を振った。訝しげに思ったが、アキリヤも元は同じ男だからきっと共感してくれたのだろうと疑問を呑み込んだ。

 女僧侶には何度も世話になったし、エルフ族と離れて身寄りのないアキリヤ(女僧侶にはそう説明した)を妹のように気にかけてくれたし、アキリヤも姉のように慕っていた。危機を見過ごすことは絶対に出来なかった。

 使い魔によると、女僧侶が孕ませられる儀式は満月の夜に執り行われるという。即ち当日の晩だった。黒魔術師の屋敷は、早馬を一日駆けさせれば間に合うか間に合わないかという場所にあった。時間が無いと、俺は下袴だけの格好でアキリヤと最低限の荷物を抱えて宿を飛び出した。馬宿に繋がれていた馬の中から、速そうな馬を適当に選んで飛び乗る。「まだ下着しか着てない!」と嫌がるアキリヤを「そんなこと言ってる場合か」と無理やり引っ張り上げて跨がらせ、馬の尻にムチを打つ。深夜で誰にも見られてないんだから気にするなと言ったが、彼女は「そういう問題じゃない」と唇を尖らせて揺れる馬上で懸命に服に袖を通していた。

 

 ……黒魔術師については、正直、こうして書き記すことどころか思い出すことすら不快だ。奴は、今まで戦ってきた敵の中では三本の指に入るほど陰湿で、胸糞悪い奴だった。男どころか人間としても風上に置けない、卑劣な魔術師だった。奴から見て“優秀でない”と判断した己の子供を黒魔術で死霊(グール)化させたり、生きながらに腐食の呪いをかけて歩く死者(ゾンビ)にして、そいつらに襲わせてきた。中にはまだ意識が少し残っていて苦痛に膿の涙を流し掠れた声で母を求める幼子のゾンビもいて、アキリヤは口を押さえて蒼白になっていた。詠唱に集中できなければ魔法は使えないし、屋敷の地下牢には女僧侶がいる。彼女の魔法は今は使えない。何より、彼女の手をこんなことのために汚させたく無かった。彼女には純粋なままでいてほしかった。「ごめんな、ごめんな」と大粒の涙を流すアキリヤを背に護りながら、俺は怒りに突き動かされて屋敷の暗い廊下をまっすぐ地下へと斬り込んでいった。

 石の廊下は、空気をゴクリと飲み込めそうなくらいに湿度が高く、澱んでいた。鼻がもげるような腐臭が充満して、息をすることさえ苦しかった。腐食の呪いのせいで、一閃ごとに剣の刀身にサビが回ってきた。敵が敵だけに殺意も鈍って全力が出せない。オークやトロルの姿をしていればどんなによかったか。切れ味を腕力で補うも、なにせ数が多すぎた。幅も狭く、剣を振り回す空間も少ない。松明の明かりが頼りなく、数歩先の暗闇が見透せない。とにかく戦いづらかった。100体ほど斬ったあたりで疲労が蓄積した腕が重くなり、剣を握る手に力が入らなくなっていた。それこそが黒魔術師の罠だった。

 

「鴨が葱を背負ってくるとはこのことだな、筋肉ばかりの若造が!」

 

 突然、黒魔術の火球が廊下の遙か先から迫ってきた。怒りで突出していたところを狙われた。黒紫の炎に照らしあげられた黒魔術師の邪悪な笑みを見て、しまったと後悔した。墨のようにどす黒い炎が渦を巻いて迫り、生命の危機に肌が泡立つ。喰らえば確実に死ぬ。おそらく、死よりひどい苦痛を味わいながら。しかしそこは狭い一直線の廊下だった。俺が避ければ後ろのアキリヤが犠牲になる。その結論に思い当たった瞬間、俺は打算も計算もなくその場に仁王立ちした。避けようという選択肢すら頭に浮かぶことはなかった。背後で何事か叫ぶアキリヤに首だけで振り返り、安心させようとニッと笑う。彼女のことになると、俺は迷いを捨てて強くなれる。目の前まで迫った呪炎に気合一閃、雄叫びと共に剣を叩き付けた。しかし、見る間に刀身が腐り、赤錆の砂と化して炎に吹き散らされる。

 次の瞬間、全身が黒い炎に呑みこまれた。衝撃が胸を打ち、身体が後方に倒れていく。直撃された顎が激しく揺れ、朦朧として立っていられない。呪いが体表を駆け巡り、吸収されたようにすっと消えた。不思議と苦痛は感じなかった。太刀打ちできない呪いとはそういうものかもしれないと思った。

 やけにゆっくりとした意識の中で、脳裏を過ったのは走馬灯ではなく、必死の形相で俺に駆け寄ってくるアキリヤのことだった。俺が死んで、残された彼女はどうなるのだろう。アキリヤは強い。なにせ“黒衣のエルフ”様だ。この世界についてもかなり詳しくなった。きっと遜色なく生きていけるだろう。生きていくだけなら(・・・・・・・)できるはずだ。

 しかし、想像の中の彼女は少しも幸せそうではなかった。一人孤独に、かつての暗い森で悲しげに俯いている。アキリヤにはそんな顔はしてほしくない。幸せになってほしい。だが、そこで俺の思考は行き止まった。

 彼女の幸せとは、そもそも何だ? 俺はそのために、何をしてやれてる……?

 

 靄のように頭に立ち込めた疑問は、倒れる身体を受け止めた柔らかな感触に遮られた。石畳に後頭部を打ち付ける寸前でアキリヤが俺を抱きとめてくれたのだ。朦朧として見上げる中、彼女の顔から血の気が引き、震える唇までも青く染まっていく。それはまるで、出会った時の、絶望に沈む顔の再現だった。「嘘だ、嘘だ」と現実を否定し、子どものように(かぶり)を振るアキリヤが俺の頭を胸にかき抱く。「エルフに孕ませた子はさぞや優秀だろう」。黒魔術師の下卑た高笑いが廊下に響く。

 そして、俺は、

 

「……痛くねえ」

 

 むくっと、その場に起き上がった。

 アキリヤと黒魔術師が唖然として絶句する間、俺は腕をぶんぶんと振って自身の調子を確かめてみる。自分でもワケがわからなかったが、なぜだかちっとも痛くも痒くもなかった。どうやら顎を強く揺らされたことで少しフラついただけらしい。そんなものは気合いで何とかなるものだった。指先が腐り始めたりするのかと思ったが、ゴツゴツと節くれだった手指には何の変化も見られなかった。

 

「な、な、なぁァ……っっっ!!??」

 

 勝ち誇っていた黒魔術師が態度を一変させて焦燥の奇声を発した。それを聞いて、これが奴の想定外の事態だということがわかった。「ありえない」と金切り声を引き連れた炎の連弾が飛んでくるが、胴体にドスンドスンと重い衝撃が走るだけで一向に身体に不調をきたす気配はこなかった。背丈が倍のオークに思い切りぶん殴られたような、その程度(・・・・)の、踏ん張れば堪えられる痛みだった。首を傾げながら自身を観察すると、呪いは身体に染み込んでいるのではなく、皮膚に届く皮一枚寸前で浄化されているように見えた。身体の表面を薄い泡の皮膜が覆って、その上を黒炎が滑っていくようだった。人肌のような、優しくて温かい何かが俺を包んで護ってくれている感覚が俺の心を平穏に保ってくれた。先程までの疲労すら嘘のようになくなり、むしろ力の漲りが湯水のように滾々と溢れてくる。アキリヤはもう触れてないのに、まるでまだ彼女の胸元に抱き込まれているような温もりを首筋に感じる。

 試しに、そのまま一歩二歩と踏み出してみる。黒魔術師の動揺がさらに大きくなるだけでどんなに近付いても俺の心身に呪いの効果は現れない。いい加減に鬱陶しくなってきた呪炎を腕で払い飛ばし、平然とした足取りで歩く。気づけば、黒魔術師の顔はすぐ目の前にあった。拳を振りおろせば届くくらい、目の前に。

 

「ば、馬鹿な。儂の呪いが効かんなど、竜の化身か貴様は」

 

 ガチガチと歯を鳴らしながら呻いたが、当時はその意味はわからなかった。わかっていても、怒りに身を任せてわかろうとしなかったろう。やせ細った黒魔術師を壁際まで追い詰め、胸倉を掴んで引きずり上げる。ひどく汗だくになって息切れしていた。魔力切れらしく、もう呪いは放てないらしかった。

 

「り、竜の剣士殿よ。類まれなる若武者よ。む、無抵抗の者を殺せるのか? もはや戦うことも出来ぬ、このようなか弱い老いぼれを?」

 

 急に媚びるような目つきになった黒魔術師が問いかける。今さらになってどの口がホザきやがる。足元に転がる人骨が視界に映った。文字通り骨までしゃぶり尽くされた女たちの死体を見て、怒りに目が眩んだ。身体がカッと芯まで熱くなり、理性の手綱が千切れる音がした。こんな奴、もう一秒だって生かしておいてはいけない。今すぐ屋敷から引きずり出して、アキリヤの目の届かないところで片付けてやる。

 しかし、思いがけない声が、それを止めた。

 

「頼む、カル。オレの代わり(・・・・・・)に、そいつを、殺してくれ」

 

 背後から、静かな、でも決然とした声がした。彼女と出会ってから聞いたこともない、怒りと悲しみに冷えた声だった。彼女は、殺人の代行を俺に頼んだ。あんなに人殺しを嫌っていたのに。今まで一度だって、そんなことを頼んできたことはなかったのに。

 俺は振り返らず、黒魔術師の両の目をじっと射抜いたまま、頷きを持って応えた。

 

「わかった。俺たち二人で、こいつを殺そう」

 

 末路を悟った老人が鳥のような悲鳴をあげて、悲鳴をあげられなくなった。断末魔が最期の喘ぎになって、それでも俺は拳を振り下ろした。アキリヤも止めなかった。彼女の頑なな視線を背中に感じながら、俺は拳に骨が食い込むのも構わず殴り続けた。彼女を純粋なままいさせてやれなかった。その不甲斐なさ、情けなさを噛み締め、何度も、何度も、原型がなくなるまで、壁を抉っていると気がつくまで殴り続けた。

 

 使い魔が探すまでもなく、女僧侶はすぐに見つかった。地下室へ降りるとすぐ、「アンタのモノなんか入れさせてやるもんか、噛み千切ってやる」と威勢のある咆哮が聞こえてきたからだ。牢を開けて俺たちが現れると一転して笑みを零し饒舌になりかけたが、夥しい返り血を滴らせる俺と俯き黙すアキリヤを見て何があったのかを察し、一言「ありがとう、辛い思いをさせてごめん」と妹分のエルフを抱き締めた。

 

 アキリヤが屋敷を燃やすために炎熱魔法を唱えている間、俺は女僧侶に事の顛末と、自分を呪いから護った不可思議な現象について説明し、何か知らないかと尋ねた。女僧侶は心底驚いた顔をして、俺を上から下までじろじろ観察すると腕を組んでしばし記憶の沼の底を漁り始めた。左上に視線を放り投げること2、3分、思い当たる節があったというように再び俺に「まさか」というような目を向ける。が、答えを待ち望む俺に反し、いつまでたっても口を開かない。いかにも含むものがあるという態度に変えて、そのまま腕を組んでいる。堪え性のない俺が「黙ってないで教えろよ」と口を尖らせると、女僧侶はまるで駄目な子供に呆れるようにあからさまなため息で「この王国一の幸せ者め」とボヤいてはぐらかした。

 

「アンタに教えると調子づくだけだから教えてやらない。あの娘の苦労が増えるのが目に見えるわ」

 

の一点張りだ。「助けてやったのになんだよそれは」―――などと恩着せがましいことはさすがに口にしないまでも、少し腹が立った。尚も食い下がろうとする俺に対し、突然、女僧侶が「そんなことより!」と強い語気で遮ってきた。

 

「アンタたち、何歳になったの?」

 

 突然の質問に面食らった俺は、再三聞こうとしていた質問を吹き飛ばされて、愚直に宙を見ながら指を折る。

 

「あーっと……たしか、18だ。たぶんアキリヤも」

「出会ってからもうそんなに経つのね。……ねえ、カル。18歳の男なら、もう十分落ち着いていい年齢よ。そう思わないかしら?」

「あ、ああ」

 

 父さんが隣村から母さんを娶ったのも18歳だったと聞かされていた。だから否定はしなかったが、なぜ急にそんな話を始めたのかわからず、目を白黒させて聞き入ることしか出来なかった。

 

「旅もいいけれど、いつまでも続けられるわけじゃない。それよりも、大事な人と結ばれて、どこかの村で小さな家と畑を持って、子ども作って、一家で耕して……。あちこち転々としてる私が言える義理じゃない。でも、だからこそ、素敵なことだとわかる。とても幸福で、冒険並みに難しい身の振り方よ。少なくとも、明日の同じ時間にはもしかしたら死んでるかもしれない、なんて不安に毎日苛まれることはないわ」

 

 そこで台詞を切って、いつに無い真剣な目線を俺から屋敷に向ける。爆発ではない、死者を送るための厳かな炎が屋敷を()べる前で、アキリヤは幼子のゾンビを抱き締めていた。細肩が漣のように揺れ、ゾンビの顔にポタポタと雫が滴る。

 ふと、幼子の唇が震え、ゆっくりと言葉を発した。唇の動きで、「ありがとう、おかあさん」と告げたことがわかった。その表情は、遠目から見ても安らかだった。俺と女僧侶が顔を反らしたくなる苦しさに苛まれる中、アキリヤは幼子に何事か囁き、まるで本当の母のように腐った頭皮を優しく撫でてやった。呪いから解放された幼子はもう反応しなかったが、彼女は背を引くつかせながら髪を撫で付けてずっと抱きしめてやっていた。その仕草に、俺はかつての自分の母親を思い出した。まだ元気だった頃、暖炉の前で、小さかった俺を胸元に抱いて子守唄を聞かせてくれた母さん。その姿と重なり、切なさで目頭がジンと熱くなった。

 

「……あの娘は女の子よ、カル」

 

 真面目な声と表情を貼り付け、目線はアキリヤに向けたまま、女僧侶は押し殺したような声を絞り出す。

 

「例え、全然エルフらしくないエルフでも、私に隠してる秘密の事情があっても、男の子みたいな話し方をしていても―――あの娘は正真正銘の女の子よ。この時代、この世界の者じゃないくらいに情が深くて、人の痛みがわかるほど優しくて、あんたなんかにはもったいないほど最高に可愛くて、旅を続けるにはあんまりにも傷つきやすい、年相応の女の子よ」

 

 女僧侶が何を言いたいのか、察しの悪い俺にはよく分からなかった。それでも年上なりに大事な教訓を伝えようとしているのだと本能で理解して、黙ってその言葉を胸に刻んでいった。だけど、視線はずっとアキリヤから離せなかった。

 燃える屋敷を背景に、彼女が静かに泣いている。熱風に晒されて銀髪と黒衣がはためいても、幼子を抱えて悲しげに涙している。その背中は、初めて出会った時から変わらず、小さいままに見えた。彼女は、あの時から何が変わったのだろう。何を変えてやれたのだろう。

 

「幸せにしてあげなさい、カル」

 

 その言葉にハッとさせられ、俺は女僧侶の横顔を見やった。俺一人では辿り着けない、大事な本質を突かれた気がした。明確な答えを求める俺とは視線を交えず、女僧侶は湿り気を帯びてきた声音で続ける。

 

「あの娘を幸せにしてあげるのよ。大事な人と結ばれて、暖かい我が家で、家族に囲まれながら穏やかな夕日を迎える。そんな、人並みで、至上の幸せを、あの娘に与えるの。それがきっと、あの娘と今まで連れ添ってきたアンタに課せられた、御神の運命(さだめ)よ」

 

 「私が言ってる意味、わかるわよね」。付け足されたその言葉に、「もうガキじゃないんだから」という意味が込められている気がして、俺は思わずムッとして「わかってるさ」と返した。硬化した俺の態度を見て「本当にわかってるの」とさらに念押ししようとする気配を、視線を反らして遮る。本当は何もわかっていないのに。今になってようやく理解できる。女僧侶は不安を煽ろうとしたのではなく、背中を押そうとしてくれていたことを。だが、ガキはガキ扱いされるのを嫌がり、ムキになるものだ。真意を感じ取るには、当時の俺は知恵も余裕も足りなかった。それに、女僧侶もまだ19歳だった。心の内を正確に伝えて、受け取るには、お互いに若かった。

 アキリヤがゆらと立ち上がり、おぼつかない足取りで燃える屋敷に向かう。そうして、幼子の遺体をそっと炎の中に下ろした。幼子は炎に包まれ、穏やかに燃えていく。無念に死んでいった幼子たちが灰となって天に昇る様を、彼女はじっと空を仰いで見送った。幼子たちの魂が、神の御元で本当の母に出逢えるように祈りながら。

 

 もしも、あの遺体が俺だったなら―――?

 

 不意に、縁起でもない考えが脳裏に泡立って、今まで感じたことのないゾッとした悪寒が背筋を貫いた。事実、そうなりかけた。呪いを防いだ奇妙な現象に護られなければ、俺もああなっていた。いや、もっともっと悪い結末に堕ちていた。俺の死体はゾンビとして利用され、アキリヤは無理やり孕ませられて、意思に反した出産を強いられて、やがて殺されて食われていた。そうなった時に彼女が塗れる苦痛と汚辱を想像して、全身に汗が噴き出る。爪が手の平に食い込んで血が滲む。

 

 

『嘘だ、嘘だ』

 

 

 目と鼻の先で絶望に淀んでいくアキリヤの瞳が脳裏にまざまざと蘇る。このまま旅を続けていけば、やがてまた同じ目に遭うかもしれない。取り返しがつかないことになるかもしれない。その時、また奇跡が起きて助かるとは限らない。心中で目を瞑っても、一度顔を出した悪夢と悪寒は消え去ってくれなかった。俺にとって何よりも恐ろしい恐怖は、自分が傷つくことでも死ぬことでもなく、彼女が傷つき、死ぬことだ。

 女僧侶は、最近治安がさらに悪化しているとか、“黒衣のエルフ”の噂が王の耳に届いたらしいとか忠告してくれていたが、正直上の空だった。どうしようもない不安が心に爪を立て、思考が纏まらなかった。

 

 翌日、女僧侶を最寄りの聖神教会に送り届け、俺たちは疲れを癒すこともせずに発つことにした。どちらから言い出すでもなく、黙々と旅支度を始めた。あの屋敷から一秒でも早く離れたかったし、離してやりたかった。口数少なく馬の準備をしながら、俺はふと背後で荷物を纏めるアキリヤを振り見た。

 彼女が、元は違う世界の人間で、男だったということを知っているのは俺だけだ。だから、俺はアキリヤを男友だちの延長のように捉えていた。男の俺と同じように考え、同じように感じていると。だけど、女僧侶の言うとおりだ。アキリヤは、女だ。あの背中を見てみろ。肉体はもう、美しくて華奢な、立派な女そのものだ。俺は彼女よりもそのことをよく知っているはずじゃないか。だったら、内面だって―――もう女になっているのかもしれないと考えるのはごく自然なことだ。考え方も、感じ方も、女のそれに変わっているのかもしれない。成仏していく幼子をあたかも本物の母親がするように慈しむ姿は母性が滲んでいて、尚更にそう思った。

 俺と同じように、二人っきりのどこ行くともない旅を楽しんでくれていると思っていた。何の疑いもなく思い込んでいた。でも、違うのだとしたら? 彼女の願いは違って、俺がむりやり付き合わせてしまっているのだとしたら? 最初に助けてやったという“弱み”に浸け込んで、とんでもなく独り善がりな行為にアキリヤを巻き込んでいるだけだとしたら? まるで地面がなくなったかのような心もとない不安が沸き立ってきて、無性に怖くなった。

 

 その日の夜、川沿いに山を登り、水源に近い上流に差し掛かった時のことだ。それまで無言だったアキリヤが突然「止まって」と俺の腕を引っ張った。その視線の先の川辺では、数え切れないほどの旭光虫が発光して一帯を七色に染めていた。透き通る水面に映り込む無数の煌めきは、まるで天の川のようだ。山奥育ちの自然児()には見慣れてしまった風景の一つは―――だけど、別の世界から来たエルフにとっては、思わず足を止めて見入るほどの絶景だった。

 彼女はまるでセイレーンに誘われるように馬から滑り降り、靴を脱いで素足になると、そのまま冷たい清流に踝まで浸した。旭光虫が麗しい客人を歓迎して音も無く宙を踊り、さらに光を増す。その光を吸い込んで、銀長髪が虹のように煌めき、翠緑色の瞳が一番星のように輝いた。幾重もの光の膜が、彼女を中心にして絹のように風に舞う。女僧侶を届けた教会の飾り窓(ステンドグラス)でそっくりの題材を見た。たしか―――女神、だった。

 

「オレがいた世界より、ずっと綺麗だ」

 

 星が流れる川で、光の中心に佇む彼女がそう囁いた。女神が美しいと感じるのなら、それは間違いなく最高に美しい光景なのだろう。ひどい思いをしても、それでもこっちの世界は美しいのだと……美しいお前に相応しい、お前が留まるだけの価値がある世界だと、伝えたかった。でも、俺にはそんな回りくどく難しいことを伝える頭は無かった。だから俺は、見惚れるアキリヤの傍にそっと寄り添い、彼女が見飽きるまでずっと付き合ってやった。

 『この女を幸せにしてやりたい。今まで一緒にいてくれた彼女に報いたい。それは自分の義務だ』。この時期から、心にそう決めた。でも、決意する度に漠然とした疑問が立ちはだかった。アキリヤにとっての幸せとは何なのだろうか? 旅を続けることなのか。どこかに落ち着いて、誰かと一緒に安らかな日々を送ることなのか。もしそうなら―――その一緒にいる人は、俺でいいのだろうか? “黒衣のエルフ”の隣にいるべきは、馬鹿な脱走兵ではなく、もっと相応しい男ではないのか……?

 今思えば、腹を決めてしまえば答えは手の届くところにあった。だというのに、ガキの俺は物事を斜めに考えて、無意識に遠回りをしてしまった。その所為で彼女を深く傷つけてしまうことになるなんて、想像もしなかった。




眠い。

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