だけど、そんな優しい夢さえも人は拒む。
まず、藤丸立香の言葉通り、カルデア全体に休暇の命令が出された。当然だ。全員が心身ともに疲弊している状態にあった。しかし、それは藤丸立香の抱える問題が先送りにされただけという悲しい決断だった。
時間がたてば回復する。今は記憶が混濁しているだけ。
それが、人理修復を目的としたカルデアの答えだった。
だって、そうだろう? 誰だって
「あっ、ダメじゃないリツカ、ちゃんと食べなきゃ!」
「…………所長」
立花はマイルームから出ることを禁じられた。部屋の中には長い紐や鋭利なものは存在していない。精神状態の不安から自殺を懸念されているのだ。
これじゃあまるで、精神病患者の病室だ。そう思った立花を責めることはできないだろう。
「はい、リンゴ。あなたみたいに器用には切れなかったけど、おいしさは保証するわよ?」
「うん、ありがと。おととっ」
「あっ、ほら気を付けてね? 八日間もの間、寝たきりだったんだから、急に動くのはよくないわよ。ふふっ、私が食べさせてあげる」
オルガマリーは、そう言ってリンゴの切れ端をフォークに差すと、立花の口へと運んだ。立花もおとなしくそのリンゴをかじる。
「……おいしい」
「よかった! たくさん食べて、あなたの料理を早く食べたいわ」
立花の世話係を買って出たのは、オルガマリー自身だった。曰く、今の立花を放っておけないとのこと。ロマンたちドクターも記憶を刺激するのにいいかもしれないと言って許可を出した。それは、一つの医療行為としても正しいだろう。
事実、彼女は立花が考えているより、ずっとずっと――――優しかったのだから。
オルガマリーは献身的だった。立花を支え、癒し、回復へと向かわせるにはこれ以上ないと言える存在だろう。そう、それこそ、立花が間違っているんじゃないかと思わせるほどに。
本当にマシュ・キリエライトは存在したのか?
おかしいのは自分なのか?
オルガマリーは、救えたんじゃないか?
そう思い込みそうになる度に、オルガマリーは立花の心を優しく甘く心を溶かしていく。
「ねえ、リツカ。人理修復が終わったら、その……私に仕えない?」
ああ、やめてくれ。そんな目で、そんな顔で俺を見ないでくれ。立花は、何度かオルガマリーを拒絶するように、そんなことを言ったことがある。だが、それが無駄なことだと気づいてからはもうしていない。だって、彼女にはわからないのだから。
立花が言ってることも、立花がマシュなんて女の子と冒険していたことも。
オルガマリー自身が死んでいるということも。
彼女はおろか、立花以外にはわからない。そして、わからないがゆえに、誰しもが彼女の話をする。食堂に行ったとき、ふと誰かがやってきたとき。まるで、大事な仲間を、上司を、戦友を誇るように、誰もがオルガマリーの話をする。
『俺は、オルガマリー所長が発破をかけてくれたから頑張れた』
『私は、オルガマリー所長に励ましてもらった』
『俺は、オルガマリー所長がいるから頑張れてるんだ』
『僕は』
『俺は』
『私は』――――そんな話をたくさんした気がする。
それは、立花のサーヴァントにも言えることだった。
アルトリアはこう言った。オルガマリーは立花のために頑張ってきたのだと。
ジャンヌは言った。悔しいけど、あんたたちは嫌いじゃないと。
メドゥーサは言った。オルガマリーには幸せになってほしいと。
まるで、彼女を知らない立花を責め立てるように、誰しもがオルガマリーを慕っていた。多分、それは本当なのだろう。本当に大切な人だからこそ、歯がゆいのだろう。悔しいのだろう。困惑しているのだろう。どうしようもなく、思い出してほしいのだろう。
だから、彼らはしつこく立花に話しかけてくる。
ドクター・ロマンは、藤丸立花の記憶を取り戻そうと頑張っていた。
ダヴィンチは、念のため、マシュ・キリエライトの記録を探そうとしていた。
アルトリアは、立花を慮るオルガマリーに遠慮して訓練に誘わなかった。
ジャンヌは、オルガマリーと立花の仲を認めていた。
メドゥーサは、オルガマリーだけの幸せを願っていた。
職員は、立花にオルガマリーのことを思い出させようとして話していた。
ああ、そういえば、あれからどれほどマシュの話をすることができただろうか?
(あ――れ? マシュってどんな子だっけ?)
ふとした拍子に、忘れそうになってしまう。このカルデアには、彼女が存在していたという記録は一切残っていない。自分の記憶だけが頼りなのに、そんな記憶さえも正しいものなのかわからなくて、ここにいることが、ここにマシュがいないことがどうしようもなく怖い。
だけど、そんなとき、
「大丈夫! 大丈夫だから……」
オルガマリーは、幼子をあやすかのように、立花を抱きしめる。どうしてだろう。どうして、この人はこんなにも優しくしてくれるんだろうか? そう訊ねた。すると、彼女は顔を赤らめながらこう言った。
「あ、あなたが私を認めてくれたからでしょ」
ああ、そうだった。彼女は、いや彼女こそが愛情に飢えている人間だった。立花にはわからないが、彼女が見てきた立花との冒険を知りたくなった。
だから、寝る前だけじゃなく、彼女には一日、思い出を語ってもらっている。
「――で、私がアルトリアに言ったのよ。そしたらジャンヌが火に油を注ぐようなことを言ってね」
彼女の語る思い出は、美しかった。色彩にあふれていた。
「ああそうそう、あのとき食べた料理、私気に入ったから今度作ってみるわね。その、食べて……くれる?」
胸が痛くなるくらいに、泣きそうになるくらいに、彼女はその物語を誇らしげに語っていた。
「そういえば、あのときのリツカ、とってもおかしかったわ」
彼女の愛情が伝わってきて。彼女のぬくもりが愛おしくて。それで泣いて、また慰めてもらっていた。そんなことを何度も繰り返した気がする。そのたびに彼女は、「もうやめようか?」と訊ねてくるが、立花は絵本をねだるように彼女の思い出を何度もせがんだ。
だって、仕方ないじゃないか。彼女が語る思い出は、俺が、藤丸立花がマシュ・キリエライトと一緒に歩んできた思い出そのものなんだから。
ときどき、わからなくなる。
ときどき、どうでもよくなる。
人理修復? マシュ・キリエライト? 藤丸立香? そんなことがどうでもよく思えてくる。だって、オルガマリーがいる。彼女がいてくれれば、それでいいとさえ思えてくる。この甘い毒に、とろけるような夢に、心の奥底まで浸っていたくなる。
(ああ、もういいんじゃないか?)
だって、頑張ったじゃないか。頑張ってきたじゃないか。これからも頑張るんだ。だったら、少しくらいこの世界に甘えても――――。
「っと、いい時間ね。それじゃ、リツカ。おやすみ――」
「いか――ないでください」
立花は、オルガマリーを後ろから優しく抱きしめた。彼女は、それを振りほどくことなく、受け入れてくれた。
「どうしたの? また、眠れないの?」
「違う。違うんだ」
脳裏に少女がチラつく。薄紫の髪で、メガネをかけた後輩の笑顔が。
「所長、俺、俺――――あなたのことが――!」
先輩と呼ぶ声が聞こえる。
「うん」
「本当に、好きで!」
ああ、どうしてだろうか? 涙があふれてくる。胸が引き裂かれるような痛みが走る。つっかえて、何度も嚙みそうになって、それでもいいたいことがあった。
「大好きで! 大切なんです!」
「――――うん」
「だから――――!」
そう、大切なんだ。小さい時間だけど、思い出に負けないくらいに嬉しかったんだ。救いたい人、救えなかった人が生きていてくれて。
だから――――。
「だから、俺と一緒に――――!」
言え。
「俺と一緒に――――!」
言ってしまえ。
「世界を救って――――!」
言え! 言ってしまえ!
「一緒に生きて――――」
言え――――。
「駄目よ。私はあなたとは生きられない」
ないよなぁ。この人なら。
わかっていたさ。この人なら、言わせてくれないことなんて。
「ありがとう、フジマル。私の夢に付き合ってくれて。でも、もう大丈夫よ、私」
ドクター・ロマンは、藤丸立花の記憶を取り戻そうと頑張っていた。違う。
ダヴィンチは、念のため、マシュ・キリエライトの記録を探そうとしていた。違う。
アルトリアは、立花を慮るオルガマリーに遠慮して訓練に誘わなかった。違う。
ジャンヌは、オルガマリーと立花の仲を認めていた。違う。
メドゥーサは、オルガマリーだけの幸せを願っていた。違う。
職員は、立花にオルガマリーのことを思い出させようとして話していた。違う。
ドクターは立花を信じていた。だから、思い出させようとしていたのは、自分たちの記憶。
ダヴィンチは違和感を感じていた。だから、本気でマシュ・キリエライトの記録を探していた。
アルトリアは直感していた。だから、マシュじゃないオルガマリーとの訓練を避けていた。
ジャンヌは信じていなかった。だから、一時の優しい夢を与えていた。
メドゥーサは願っていた。だから、立花の、オルガマリーの――マシュの幸せを願っていた。
職員は忘れたくなかった。だから、忘れないようにオルガマリーの話を立花を通して自分に何度も刻んでいた。
立花は知っていた。みんながわかっていることを知っていた。だから一日中、彼女のそばにいた。
オルガマリーは気づいていた。
「だって、あなた、私のことを名前で呼んでくれなかったじゃない」
彼女の記憶にある立花は、オルガマリーのことを愛称で『オルガ』と呼んでいた。ありきたりだけど、彼が呼んでくれるだけで暖かい気持ちになれた。誰も、誰もがわかっていた。この世界が、この夢に終わりが来ることを。だから、だから立花は離せなかった。
この優しい少女のことが、本当に大切だったから。
「でも、フジマル。甘い夢はもうおしまいよ。私は死んでいる。レフに裏切られて殺されたの」
わかっていたのに、それでも優しくしてくれたこの人が大切だったから。本当は弱いのに、強がって涙をこらえているこの人のことが、大好きだから。
「さあ、助けに行くわよ。あなたの大切な相棒を。あなたの愛した女の子を」
ドクターは言っていた。新しい特異点が見つかったと。
「でも、その前に私の最後のわがままをお願い。最後に――あなたの料理を食べさせて」
特異点の名は、孤高忘却空域ヘヴン。時代指定なし。場所は、マチュピチュ上空三千メートルにできた大きな結界の中だった。
最後に彼女と一緒に食べた料理の味は、少しだけしょっぱかった。