絶望の先にある絶望を超えてこそ、人は希望へと至るのだ。
妹の話をしよう。なに、大したことはない。
どこでもいて、どこにだっている、そんなごく普通の妹の話だ。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん。あたしさ、大きくなったら救いたい人がいるんだ」
小さいころ、妹はそんな話をしていた。立花が中学に上がるころにはやめていたが、今思えば小さいころに何度もしていたその話を忘れてしまったのは、少しだけ悲しいことなのだと思う。誰だって気にも留めないようなそんな物語を忘れてしまったのは、どうしてだろうとたまに思い出そうとして、できない。
「まずね、所長さんを救いたいんだ。本当は優しくて、きれいな人なのに、脆くて壊れてしまった人」
その人を語る妹の目は、寂しげだった。その話を妹は、忘れないように、忘れてはいけないように噛みしめて話していた。妹の言う所長さんは、いわゆる不幸な少女だった。誰にも認められず、誰にも優しさを向けてもらえず、唯一信じたものにさえ裏切られ、最後は絶望の淵に命を落とした少女。
子供のころの立花には、どうして妹がそんな悲しい話をするのかわからなかった。だけど、立花は決して妹を怖がることはなかった。まるで、ボタンを掛け違えたかのようにズレていた立花は、純粋に妹の話が好きだった。
妹の話は続く。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんはさ、ジャンヌ・ダルクって知ってる?」
最初は、フランスという外国の話だった。誰しもに崇められ、奉られ、運命に踊らされた少女の
「ハハッ、そうだね。多分、普通に考えれば復讐するのが正しいと思うよ? でも、その人はそれ以上に正しくて清らかで、そしておかしかったんだと思う」
妹は言う。正しすぎる人間は、いつだっておかしいのだと。人間が描く線はいつだって不規則で不格好で、醜く愚かしい。その中で一本のまっすぐな線があると目立ってしまって、気味悪がるのだと。どこかわかったような口調で妹は言った。
じゃあ、復讐することが正しかったのだろうか?
「ううん、違うよ。どちらも正しかった。どちらも間違ってない。勝った負けたにかかわらず、二人はあるべきものに従い、生きたんだよ。その生き方を否定することなんて、神様にだってできやしないんだ。だってそうでしょ? 神様は生を知らず、死に至らない存在なんだから。自分の知らないものを否定しようだなんて、いくら神様でもひどいもん」
妹は皮肉気に笑った。
「じゃあ、次のお話は赤い皇帝のお話だよ、お兄ちゃん」
ローマ皇帝の話。幾代にも及ぶ帝国で、人の歴史の尊さを学ぶ話。妹は、浪漫を語っていた。
「ねぇ、お兄ちゃんは感動したことがある? 不意に胸打たれて、涙を流して、生きていてよかったーって肩を組んで叩き合って踊ったことある?」
あるわけがない。小さな子供の生涯で、そんなことを経験するのは稀だと思うからだ。
「うん、あたしもないよ。でもさ、本当ならこうやってご飯食べて、歌を歌う、絵を描く、勉強をする。これってすごく素敵なことじゃない? 生きているだけで丸儲け! これはたぶん、世界で最高にいい言葉だよ!」
そうなのだろうか? テレビのニュースをつければ、暗い話や未来に絶望する話が多い。子供が、大人が、貧困が、殺人が、戦争が――もしもその全部が本当なのならば、生きているというのは、悲しいことなのではないだろうか?
「うーん、お兄ちゃんはそう思うのか。じゃあ次の話にいこう!」
次に語ったのは、とある海賊たちの話。略奪し、殺して、疎まれるそんな愚か者たちの話。だけど、妹はそんな人たちをまるでおとぎ話の勇者のように語っていた。おかげで、海の男というのが格好いいのだと思い込まされたものだ。
「ノンノン、お兄ちゃん、ここで格好いいのは海賊女王の方さ」
そう、海賊女王。妹が好きな登場人物の一人だ。女性として、彼女の後悔のない生き方というのには、憧れを抱くそうだ。
「違うよ、お兄ちゃん。後悔のない生き方じゃなくて、後悔しても後悔した分だけ、頑張る人のお話だよ。やらずに後悔するくらいならやって後悔する。そして、最もいいのはやって後悔しないことだ――なんていうけど、それはあたしとしては少し違うと思うんだ。だって、やったってやらなくったって後悔はするんだよ。どんなハッピーエンドでも最上級のハッピーエンドには、どんな人間もたどり着かない。でも、大事なのはその後悔の受け止め方なんだ」
それは妹の考え方だった。妹は、最初の後悔を一生背負っているんだといった。妹の背負う後悔の意味を当時も今も理解できないけど、それでも後悔している妹は胸を張ってこういうんだ。アタシはなんの後悔してないってね。
「それじゃ、次のお話だよ。次はなんと、ラスボスさんの登場なのだー!」
妹の語るラスボス。彼の王は、なんというか、すごく怖い人だった。妹のおどろおどろしい話し方も相まって、涙目になっていたのを、妹に抱きしめられたのを覚えている。
でも、どうしてその人は人類を滅ぼそうとしたんだろう。
「簡単だよ、あの人は人間ってやつが大好きなのさ!」
人類悪。そういう存在である彼の王は、誰よりも人を愛しているのだという。だからこそ、人間をやり直そうとした。そんなことせずに、憎いなら終わらせてしまえばよかったのに、彼の王は続けようとした。どうしてなのだろうと思った。好きな料理でも食べ損ねたのかな?
「ははっ、お兄ちゃんらしいね。うん、案外そうなのかもね。どこかで食べた料理が忘れられなくて、でもその料理を作った人はもういなくて――だから悲しくなっちゃったのかもね!」
妹は冗談めかして言っていたが、それが立花の料理人を目指すきっかけだったのかもしれない。妹が語ったそのラスボスに忘れられない料理を作ってあげるため、あるいは、そのラスボスを語る妹の目が寂しげだったからか。ラスボスにまで優しいとは、なんという妹だろうか。
「ああうん、お兄ちゃんにそういわれると照れちゃうなぁ、たはは。でも、違うよ。最初はあたし、ううん。
そうして妹は再び語り始めた――それは、全部で七つの特異点を廻る物語。そして妹が本当に救いたかった人は――――
――――――…………
「おい、いつまで突っ立っているつもりだ」
「――――ハッ!」
目の前には、アヴェンジャーがいた。訝し気な目で立花を見ている。周囲を慌てて見回す立花は、ここがいまだに監獄塔の中であることを確認した。
「先ほどからどうした、虚飾よ。様子がおかしいぞ」
「ああ……なあ、アヴェンジャー。一つ話をしてもいいか?」
「なんだ? 己の価値でも見つけたのか?」
「いいや、妹の話さ。どこにでもいる、どこにだっているそんな妹の話だ」
「ほう、聞かせて見せろ」
アヴェンジャーは聞く体勢に入った。しかし、笑みを浮かべている時点でこいつは勘違いしている。立花が話そうとしているのは、
「まず、妹のバストサイズについて教えよう」
「――――――は? いや、待て虚飾、それは――」
「いいから聞け。まず、妹のバストサイズはCカップだ。しかし、もう高校生だというのに、いまだに成長が著しく、すでにDカップに到達しそうな勢いなんだ」
「いや、だから待てと言って――」
「次は下着の好みだ。あのバカはなんなのかは知らんが、とにかく兄を誘惑するために大胆な下着を着用する。しかも常時臨戦態勢であると言わんばかりの勝負下着仕様だ」
「おい、聞け――」
「しまいにはあの妹、兄が部活がなくて早く帰宅した際に、シャワーを浴びたあと全裸で体をふきながら廊下を移動していてな。そのときのアイツの赤面っぷりと言ったらほかにはないほどだ。極めつけはその際に目に入ったんだが、アイツ実は毛が生えていないいわゆるパイパ――――」
「待てっつってんだろうが、馬鹿アニキーッ!」
「まさかのドロップキック!? どぐほぉぉぉぉぉっ!?」
額に手を当て天を仰ぐアヴェンジャー、その付近から唐突に現れた少女は、飛び出してきた勢いのまま、立花にドロップキックを浴びせる。オレンジ色の髪を靡かせた少女は、立花の妹、立香だった。
「おい、不肖の我が妹よ……あの勢いでのドロップキックは殺人級だと思うんだが、そのあたりどうお考えで?」
「ちっ、死に損なったか」
「おい、腐れ妹。殴るぞ?」
「誰が腐れだ!? あたしは腐女子なんて属性ない!」
「性根が腐ってるっつってんだよ!」
「んだとっ!? メンタルが一般ピーポーなアニキに言われる筋合いはないぞ!」
「うるせぇっ、なんだ転生者って二次創作か!?」
「そうですー、あたしがここにいる時点で、この世界は誰かが書き記している二次創作の一つなんですー、ばーかばーか!」
舌を出してのあっかんべーポーズ。子供かと思うようなポーズではあったが、かわいらしい妹には似合ってしまうのが腹立たしい。
「いや、それはアニキがシスコンなだけだから」
「心を読むな。まあ、それはいい」
事実だしな。
「それで、なんでお前はここにいるわけ? 俺、己の価値を見いだせって、そっちのアヴェンジャーに言われてんだけど」
立花はアヴェンジャーを指さす。アヴェンジャーはもはやこれ以上語るつもりはないのか、そっぽを向いて葉巻を吸っていた。
「ああうん、だからその価値だっけ? それを示すためにあたしがいるんだよ」
「なんだ? お前が俺の価値を証明してくれんのかよ? 本物のお前が」
毒を突くような言葉になってしまったが、それは事実だ。ここにいる立花は偽物で、立香が本物。これはそういう物語のはずだった。
「ああ、それ? アニキ、それ前提から間違えてるよ?」
「何? いやだって、お前が本当ならカルデアに来るはずだったんじゃ……」
「うん、だけど、それはあたしという存在があるから起きるべき可能性だったんであって、もともとこの世界にはあたしがいないんだから、それは成立しないんじゃないかな?」
「――――おい、立香。お前、何をするつもりだ?」
妹が笑っていた。どうしてここにいるのかもわからない妹が、一人で笑っていた。
「だからさ、
「ちょっと待て、さっきから何を言って――――立香? お前、体が透けて――」
徐々にだった。目を見て話していた立花は気づくのが遅れたが、立香の足元が透けて消えていた。久しぶりに名前を呼ぶことができた妹は、立花を『お兄ちゃん』と呼ぶ妹は、存在が薄れつつあった。
「あはははっ、もうわかってるでしょ? お兄ちゃんの価値を取り戻すには、お兄ちゃんの価値を奪ったあたしが消えなくちゃいけないんだ、この世界からね。ねぇ、知ってる? お兄ちゃんは本当はすげぇ奴なんだぜ? 女の子のために世界だって救っちゃうホンモノのヒーローなんだよ?」
「やめろ、待ってくれ!」
「あたしの自慢で、あたしが育てた『藤丸立花』。ほら、あたしって結構なゲーマーなんだよね。だから課金はそんなにできなかったけど、でも、絆はみんなと紡いでいったんだ。だから、大事にしてあげてよね」
「救うんじゃなかったのかよ! 救いたい人がいたんじゃなかったのかよ!?」
「……そうだね、だからそれはお兄ちゃんの役目なんだ。
そうして、妹は笑って消えた。
「話は終わったか? これでお前の価値は元に戻った。あとは帰るだけだ」
「――――ざけるな。ふざけるなっ! 何が元に戻っただ! 妹を犠牲にしてのうのうと生きてる奴なんざ、アニキでもなんでもねぇ! ただのクズ野郎じゃねぇか! それでも生きろって言うのか! そうしてでも世界は救わなきゃならねぇものなのかよ!」
アヴェンジャーの胸倉をつかむ。納得がいかなかった。いくはずがなかった。
だが、アヴェンジャーはその非力な腕を振りほどいた。
「ふんっ、お前がどう思おうと勝手だが、お前の妹とやらが残した言葉を教えてやる」
「言葉?」
「お前は昔、妹の話を聞いて、こう思ったそうだな。生きることは悲しいことだと。そんなお前に向けた言葉だ」
アヴェンジャーはらしくもなく、天に指を振りかざしてそう告げた。妹が兄に残した言葉を。それはどこかで聞いたことのあるヒーローの言葉。胸を張り、くじけず、恐れず、前に進む、そんな希望を背負うヒーローを好きな妹が一番口にしていた言葉だった。
「『墓穴掘っても掘りぬけて、突き抜けたのなら
藤丸立花が意識を失って八日目、彼は目を覚ました。胡乱な目をしていた彼は、その意識をはっきりさせると職員やサーヴァントの腕を振り切り、召喚の部屋へと急行。そこで召喚されたアヴェンジャー巌窟王と殴り合いの大喧嘩をしたという。
喧嘩の原因は、のちに正座をして説教を受けながら、ふてくされた彼がこう言ったという。
『妹は奴には渡さん』と。