またねって。
例えばの話をしよう。本来のあるべき正史。つまりは原作において、マシュ・キリエライトは魔術王ソロモンの言葉を否定することができなかった。
それはそうだ。彼女の命は儚いもの。無菌室の中で育てられ、空さえも知らずに育てられた彼女に、生に対する価値など見いだせるはずもなかった。
じゃあ、今回の話をしよう。本来の歴史において、そんな魔術王の考えを最初に彼女に否定してあげたのは誰だ? 生きるってことのすばらしさを自然と教えることができたのは、誰だ?
じゃあ、そいつは今まで何をしていた?
「だから、遅かったんですよ、先輩。何もかもが」
答えは簡単だ。絶望していた。もう嫌になるくらい、逃げだしていた。
だったら、仕方ないじゃないか。
「ね、先輩。だから私は、魔術王に縋ったんです」
少女がいた。上空三千メートル。本来なら人が生きることなどできないはずの領域に、少女は聖杯で結界を作っていた。何もかもを拒むように、しかし、彼女は二人の人間だけを通した。ほかの四人。サーヴァントに関しては中に入れることさえなく、ただその二人を目の前に呼んだ。
少女の髪は鮮やかな朱色に染まっていた。紫陽花のような薄紫色はなく、夕焼けのような色に変わっていた。少女の目は黄金に変わっていた。世界を希望と期待で満たしてた優しい瞳ではなく、人間を見下すようなそんな攻撃的で悲しい眼差しをしていた。
少女の盾は変わっていた。大切な人を守るための盾は、己さえも傷つけかねないほどの鋭い刃が張り巡らされた武器に変わっていた。
少女は、優しいはずの少女は変わっていた。
「どうして、来ちゃったんだろう。先輩、本当にどうしてでしょうか? 来なくてよかったのに、そのまま甘い夢に溶かされて人理ごと――――死んじゃえばよかったのに」
そうは思いませんか? 相棒のオルガマリーさん。
「ふざけっ、ないでっ! この馬鹿の相棒はあんたでしょう、マシュ!」
オルガマリーの恰好は、以前のマシュと同じシールダーだ。本来、彼女が持つべきはずの盾をオルガマリーがかざしている。一見すると、マシュと相違はないはずだ。だが、彼女の持っている記憶も経験ももとはマシュのものであり、彼女自身は戦ったことがない。
イメージにどうしても体がついていっていない。
「あははっ! そうかもしれませんね! ああでも、こんな無様な姿、私だったら恥ずかしくてみせられませんよ、ねっ!」
「ぐぅっ!」
マシュは盾を振りかざす。刃のついた悲しい盾を。
オルガマリーは盾でそれを防ぐ。大型の盾だ。力量に差はあれど、それ自体は傷つけるには及ばない。だが、マシュは違う。
己を傷つけるようにさえ生えている刃は、マシュが盾を振るうたびに自分自身を傷つけていた。
「くっ、いい加減にしなさい、マシュ! あんた、もう腕がボロボロじゃない!」
「だからなんなんですか!? それで優位に立っていると思ったら、大間違いですよ!」
違う。そうじゃないんだ。どうしてお前は自分を傷つけることを厭わないんだ。優位だとか、勝ちたいとかじゃないんだ。優しいお前がそんなことをしているのが、どうしても悲しいんだよ。
「つぅっ、痛っ!」
「だから言ってるでしょう! あまり調子に乗ったことを言うと――――殺しますよ」
マシュの殺意は本物だった。だから、だんだんとオルガマリーの体を傷つけていく。その間も、自分の体を傷つけながら。
そんな光景を様々と見せつけられた。
「ハァ……ハァ……ハァッ……」
「…………無様ですね。もう立っているのもやっとじゃないですか」
先に限界が来たのはオルガマリーだ。それは当然の結果だと言えるだろう。どうしようもなく、彼女ではマシュには勝てない。当然だ。彼女は、マシュに勝ちに来たんじゃない。彼女を救いに来たんだから。だが、そんなきれいごとさえもマシュは切り捨てる。
「ああもう、イライラしますねっ!」
「うっ、ぐっ!」
オルガマリーは防ぐことで精一杯だ。マシュはそんなオルガマリーを嘲笑うかのように、執拗にその盾を狙い続ける。
「ほらほらっ! どうしたんですかっ!? 反撃しないんですか!?」
ああもう、やめてくれ。
「アハハハハハハッ!」
頼むから。
「死ね」
それ以上、
「それ以上、自分を傷つけるのはやめなさい、マシュ」
「ぐっ!」
オルガマリーがやったことは単純だ。盾を
戦闘経験がないとはいえ、腕力はマシュと同じだ。そこを殴られたマシュは、己を傷つける盾を放り投げるほかなかった。そのままだったら、最悪自分の盾に殺されていただろう。
「ハッ、接近戦ですか? いいですよ、やってやろうじゃないですか!」
「ああそうね。まずはそのわからず屋のドタマ勝ち割ってやるくらいじゃないと、ダメみたいね!」
そこからは殴り合いだった。キャットファイトなんて言葉があるが、あれは猫の喧嘩なんかじゃない。あれは、女の意地と意地のぶつかり合いだった。すでに傷ついている腕で、二人は拳を振りかざしあう。
「なんでっ、来たんですか!?」
マシュが腕を振りかざす。血しぶきが舞った。
「あんたを助けるためよ!」
オルガマリーが防ぐ。その血が顔についた。
「望んでませんよ、そんなこと!」
「だったら、なんで私たちを招いたの!」
「二人を殺すためです!」
「嘘ね! あなたがそんなことできるわけないでしょうが!」
ああそうだ。できるわけがないんだ。
「できます! やるんだ! 人の命は儚いもの。人間は死を克服できないんだったら、その恐怖を捨てるべきだったんです! 私にはそれができる! 私には、あなたたちを殺せる!」
「ふっざっけんじゃないわよ! 死を克服? 恐怖を捨てるべき? そんなの、生きてるって言わないでしょうが!」
「いいんですよ! 生きていなくて! 死なないなら、選択肢はたくさんあるんですから!」
「死なない世界なんて、クソくらえだわ! 終わりがあるから頑張れる! 終わりがあるから人は続いていくんでしょうが!」
「終わりがあるから頑張れる? ふざけるな! 終わりたくないんだ! 終わらせたくないんだ! 私は、私は――――」
先輩と最後まで旅を続けたかった。
「でも、ダメなんですよ! この体が言ってるんです! お前の命はあとわずかだって、もう頑張れないんだって! だったら、託すしかないじゃないですか! あなたみたいに! 生きるべき人間に!」
それが彼女の願いだった。優しい彼女の本当の願いだった。
大好きな人に、救いたかった人に世界を託して、自分の代わりをしてもらうことだった。儚い自分ではなく、確かな命を持っている人に。
だが、オルガマリーはそんな甘えを許さない。
「いい加減にしなさい!」
ヘッドバット。つまりは頭突き。目と目をガンつけ合わせて、対面で語る。
「いい!? 私はね、死んでるのよ! もういないの! そんな人間にあんたの大事なもの全部託すだなんて! 馬鹿げているにもほどがあるでしょうが!」
「――にが、何が悪い!」
ヘッドバット。拳を振り上げることすらできない彼女たちの唯一意地を張れる攻撃。
「私だって、そんなことをしたくはなかった! でも、あなたならいいと思えたんですよ! 弱いくせに意地っ張りで、寂しがり屋のくせに強情なあなたになら! 先輩が泣いて助けたかったって本気で後悔していたあなたには!」
「そうじゃないでしょ! 誰だってダメなのよ! あんたのやるべきこと、やりたいこと、やってきたことは! 全部あんたのもんでしょうが!」
ヘッドバット。鼻から血だって出ている。顔だって腫れている。無様で不格好で、美しい少女たちの願い。優しい少女たちの最後になるはずの願い。
「――んで、なんでいうこと聞いてくれないんですか!」
「そんな顔して、そんな目をして、そんな盾をかざそうが見え見えなのよ! あんた、いい加減自分のやさしさに気づきなさいよ! 自分のこと、少しは大切にしてあげてよ!」
「それは私のセリフだ! あなただって、あの幸せな夢に囚われていればよかった! そうすれば、全部解決したでしょう! 私なんかいなくっても、私の代わりができたでしょう! あなたは、どうして辛い現実に立ち向かおうとするんですか!」
「あ、の、ねぇ! 私はね! リツカのことが大好きなのよ!」
言い切った。恥じることなく、誇りさえもって、彼女はその言葉を発した。一瞬、マシュの動きが止まった。その隙にオルガマリーは、マシュを押し倒し、馬乗りになった。
「偽りの記憶だとか、もう死んでいるとか、所詮夢だとか、そんなことがどうでもよくなるくらいに! 私は、私のために泣いてくれたあいつが! 私を支えようとしてくれたあいつが! 私を救いたいと最後まで悩んでくれたあいつが! 大好きになっちゃったのよ!」
「――――じゃあ、じゃあどうして!」
「あいつが、あんたしか見てないからに決まってるじゃない!」
彼女は言う。残酷なことを言う。だけど、それを言えるのは彼女だから。もう、終わってしまっている彼女だからこそ、そんなことを言う。
「あいつはね! あんたのことを一日も忘れないようにしていた! 不安なときも、本当に忘れそうになるときも! それでもあんたのことを考えて考えて考えて! 絶対に離さないんだって! 救うんだって頑張っていたのよ! アタシが惚れたのはね、大切な人のために頑張れる藤丸立花だったのよ!」
彼女が好きになった少年は、好きな人がいた。好きな人が別の好きな人のことを考える。だけど、その姿が素敵に思えてしまった。だってそうでしょう? 離れていてもお互いを思いあえる。そんな恋は、そんなロマンティックな恋は、彼女の憧れだったんだから。
「あんただって本当はわかってたんでしょう!? だからリツカの思い出は消さなかった! 消せなかった! だって、あいつは私を犠牲にしてでもあんたを選ぶって! そう思っていたんでしょう!」
「ちがっ、私は――」
「違わないわよ! あんたはあたしと同じだ! 誰かに認めてもらいたかっただけだ! 儚い命だけど、最後まで付き合えないかもしれないけど! それでも私はあなたの隣にいていいですかって。そんなことを考えてただけの普通の女の子だ!」
だから、オルガマリーは言う。己の痛みを食いしばって、それでも目の前にいる優しい女の子を救いたいがために、好きな人が幸せになってくれますようにと願いを込めて。
「もう一度言うわよ。私はリツカのことが、あんたなんかよりね。ずっとずっと好きなんだから!」
「――――違う。私の方が、私の方が――――!」
少女はその先の言葉を戸惑う。だって、言ってしまったら最後、認めてしまうことになるから。でもさ、だから言っただろう、マシュ。目の前にいるその女はさ、そんな甘えを許さないんだぜ? 俺たちが考えてるより、ずっとずっと強くて優しい。そんな女なんだぜ。
「言いなさいよ! あんたの気持ちを! あんたの願いを! あんたのやりたいことを! それが言えないんだったら、リツカは私がもらっちゃうから!」
「いや」
「キスだってするわよ! 手だって繋ぐし、料理だってする!」
「いや」
「一緒にお風呂だって入って、いっぱいイチャイチャして!」
「いやだ」
「セックスだってするんだから、子供だって作っちゃうんだから!」
「いやだよぉ」
「結婚だってして、幸せになってやるんだから! あんたが羨ましがるくらい、本当に本気で、幸せになってやるんだからぁ!」
「いやだ! 私は、私だって先輩のことが好きなんだから! アルトリアさんに料理を食べさせてるときだって、ジャンヌさんに弄られてるときだって、メドゥーサさんに相談してるときだって、ずっとずっと! 私は先輩のことが好きだったんだから! あなたなんかに、私の先輩は渡さないんだっ!」
言った。
「そう、それでいいのよ。マシュ、馬鹿な子、優しい子」
終わった。
「あんたみたいな子が幸せにならなくてどうするのよ?」
夢が覚める。
「でも、だったらその言葉、信じるからね」
物語が終わる。
「私の大好きな人、私たちが好きになった人。最後まで、お願いね」
オルガマリーが消える。
「でも、そうね。今ならあなたの気持ちがわかるわ。誰かに託したい気持ち。だから、あなたに託すわね」
世界が修正される。
「私が生きるはずだった残りの人生。死んでしまった私に残された最後の夢。聖杯よ、私は願うわ。この子に、一生分の幸せが訪れるように。天寿ってやつを全うできるように。私の
ああ、どうしてだろう。どうして俺はこんなにも無力なんだろう。最初から最後まで見ていることしかできなくて、最後は傷ついた彼女たち二人を抱きしめることしかできないなんて。
「馬鹿ね、それでいいのよ。だって、それがあんたらしさじゃない。ちゃんと最後まで、私を救いたいと願っていた優しいあんたの」
オルガマリーは笑う。幸せそうに。
「リツカ、私ね。すっごく幸せだったわ。マシュの思い出には勝てないけど、短い時間で本当に幸せだったわ。あなたと生きて、あなたと過ごせて、あなたみたいな人が人理を救ってくれる人で」
立花は泣く。幸せそうに。
「だから、これが終わったら涙を拭きなさい。そして、みんなのいるカルデアに帰ったら、マシュにこう言ってあげて」
その瞬間、世界がほどけた。だけど、彼女が最後に口にした言葉は覚えている。
マシュが目覚める。その周囲には、ドクターが、ダヴィンチが、職員が、アルトリアが、ジャンヌが、メドゥーサが、巌窟王だっていた。
そして、みんなで声をそろえて言うんだ。泣きたい気持ちを、うれしい気持ちに変えて。
『おかえり、マシュ』
ってね。
帰ってきた少女の髪には、少しだけ銀色が混ざっていた。