少し薄暗くなった、バーが映る。
――ああ、これは。
眼前に黒いモヤに包まれた人型のシルエットが現れる。
力が入らないが、なんとかファイティングポーズをとる。
目が霞む。視界がぼやけている。姿勢が安定しない。ゆらりゆらり、と揺れてしまう。
足場の影響もあるのだろうか。揺れは、さっきよりも大きい気がした。
モヤが襲い掛かってきた。
―この動きは。
モヤが何度も攻撃を仕掛けてくる。
回避しようと、後ろに下がるが足から崩れ落ちる。
――ッ
立とうと足に力を籠めるが、膝がわらうばかりで立ち上がれない。
黒いモヤは、近くにきていた。
――せめて、一発。
そう思いながら、全く力の乗っていないパンチを打つ。
モヤはそれを最低限の動きで避けて、俺の手首を掴んだ。
「―!~~!!」
モヤが、何か言っている。
――また、変な話か。
「―い!」
モヤが、少し薄れていく。何か喋っている。聞く気はない。
まだ、油断できない。この状態から、上半身を丸めて、頭突きをする。
全く速度の乗ってない、軽くて、遅い頭突きは。
ぽすり、と音をたてて、当たった。
――やった。
少し喜んだが、次の瞬間にそれは霧散する。
モヤが上半身をホールドしてきた。これでは、動けない。
――詰んだ、か。
いや、まだだ、まだ、体を揺すれる。抵抗できる。
――理子。
ヒュウ、と掠れた息をする。
――理子ォ...!
「―ぃ゛...こ゛ぉ゛...ヒュゥ...ヒュゥ...ゴボッグブゥ」
声が掠れる。口の中が切れているからか、血が出る。それでも、なお。
「り゛ぃ゛こ゛ぉ゛ぉ゛お゛!!!!」
叫ぶ。体を揺すって、抵抗する。
「―もう、いいんだ。終わったんだ、ハヤト」
聞こえたのはキンジの声。
――終わってない、理子はそこにいるんだ。キンジ、アリアはどうした。キンジ、早く逃げろ。
だが、意思とは別に、体は鉛のように重くなっていき、瞼が静かに降りていく。
――ああ、クソ。
意識もとうとう沈んでいく。
――俺は、無力だ。
目が覚めると、そこは武偵病院のベッドの上だった。
「知ってる天井だぁ...」
誰かに話すわけでもなく、ポツリと漏らす。
目が覚めてから、どれだけ時間が経ったのかは分からない。
だが、扉が開く音が聞こえた。
「あら、もう起きたの。やはりアンタのその能力、随分と発達したみたいね」
そんなことを言いながら入ってきたのは、矢常呂先生だった。
「どーも、先生」
とりあえず挨拶をして、事の顛末を聞き出す。
「あれから、どーなった?キンジは、アリアは、大丈夫か」
「落ち着きなさい、先にアンタの状態を言うわ」
矢常呂先生は落ち着いた様子で、俺の隣にきて、喉に手を触れた。
「まず、アンタは首に注射針のような物で軽く刺され、何かを注射された痕があった」
注射?ナイフじゃなくて?
「それが、遠山から聞いた話。こっちに来て検査をしてみたけど、ただの強力な麻酔でしかなかったわ」
麻酔? 麻酔!?
「俺麻酔にやられたんスか!?」
「ええ、事実よ」
クス、と矢常呂先生は嗤う。
ああそれと、と矢常呂先生は次の話をする。
「全身に打撲、一部に強い衝撃を受けた痕、左腕の骨折、肋骨のヒビ、顎にもヒビ、顔面左頬に切り傷、胸部にガラス片が数個侵入、一部筋肉の損傷、血管の損傷」
他の病状をズラリと挙げていく。多い...多くない?
「私が処置しておいたわ、まぁほとんどアンタが治したみたいだけど」
「生きてるってすげーなぁ」
それより、と言いながら顔をぐっと俺の近くまで持ってきて矢常呂先生は興味深そうに俺を見つめる。
「アンタのその速くなる能力で自然治癒速度を上げた状態。どれだけ速く傷が治せるかみてみたいわ、バラバラにしていい?」
「良いワケねーだろ!このサイコパス!」
「あら、残念」
なんで病院で殺されかけなきゃいけねーんだ。
「まぁいいわ、残念なのは本当だけど...アンタのその顔の傷、肉が少し盛り上がってるから、結構目立つと思うわ」
左頬に触れる。すこし、肉が盛り上がった部分が一直線に伸びているのが分かる。
「―これくらいなら、大丈夫っスよ。俺武偵だし」
「そう。じゃあ次の話、アンタが一番気にしてた、遠山と神崎の話をしてあげる」
そうだ、キンジたちはどうなった、大丈夫だったのか?
「ハイジャックされた機体を奪還した遠山たちは、羽田に引き返すことが出来なかった」
「なんで?」
「空港側が拒否したのよ」
「えぇ...」
「で、羽田に降りられなくなったから、代わりに空き地島を使った。風車に羽をぶつけてピタリと止めたわ」
「すごいなぁ」
驚愕だ、そんなムチャをするなんて。
「で」
「へ?」
「目が覚めたのならもう帰っていいわ」
話は以上よ、と打ち切って矢常呂先生は部屋から出て行った。
制服に着替え、ぼさっとした髪を整える。
「―復活!」
何度目かの、快復。
治療費もバカにできないのでお世話になることは避けたいなぁ。
あ、そういえば...理子の話を、聞き出せなかったな。
キンジたちにでも尋ねるか。
もう学校だろーな、行けば会えるだろ。
そんな事を思いながらブラブラと男子寮まで歩いていると、バラバラとヘリのローター音が微かにだが聞こえてくる。
女子寮にヘリでも来てんのかな、と思いつつ自室に戻り、鞄を担ぐ。
そして、ゆっくりと武偵高校へ向かって歩いている途中で、キンジと遭遇する。
アリアを、お姫様だっこした状態で。
「あっ」
「あっ」
「あっ」
ブワッ
「わー!泣くな!泣くな!」
「ちょっとキンジ!速く逃げないと!」
「おろろーん!人が退院して帰ってきたら開幕それかよ!おろろーん!」
「ちょ、も、ほんと、頼むから!後で話すから!逃げるぞハヤト!乗せてくれ!」
「テメー俺の背中は嫌だって言ってただろーが!」
「ケースバイケースだろうが!時間がないんだ!」
「どーすんのよコレ!カオスよ!カオス以外の何物でもないわ!」
アリアがきてから、キンジは元気になった気がする。何処となく無気力だったキンジと違って、なんやかんやで楽しそうだったり、忙しそうだったり、動き回っている。
「グスッ、しゃーねーな、ぐすんぐすん、乗れよ」
アリアがキンジに背負われ、俺がキンジを背負う。
行先は何方まで?と尋ねる。
「とりあえず、全速前進!」
「ヨーソロー!」
ゆっくり、ゆっくり加速していく。
急激に加速することなく、思い通りに動ける。俺もまた、成長できたってことだ。
台風一過。文字通り台風が通り過ぎた後の青空は、何処まででも透き通っていて。太陽は何処まででも俺たちを照らしていた。
やべー日常は続く!
武偵殺し編おわり
これにて武偵殺し編は終了です。
次回からは魔剣編に行きます。