殺生院キアラは不機嫌であった。マスターを籠絡しようと試みた。禁欲を決めていた故、一線は越えなかったが――反応を見る限り、いつかは耐え切れず襲いに来るであろう。それが楽しみでならなかった。
今の彼女の心境としては、人理なぞどうでもよかった。確かに修復された方が良いに越したことはないが、このままカルデアという人類の難破船――最後の
多少旋毛を曲げたキアラは。特にすることもなくなったので、まだ起きて作業しているであろうスタッフの元にでも行こうと球磨川の部屋を出て、そちらの方へ向かおうとしたが――
『あっ』『キアラさんじゃないか!』『こんな夜更けに出会うなんて奇遇だなあ、もしかしてこれって運命?』
「……!」
流石のキアラも驚いた。先程までこの男は――我がマスターは。ベッドの上ですやすやと眠っていたはずだ。それは己の目で確認している。確認したからこそ、外出しようとしたのだから――
「マスター、こんな時間に起きてよろしいのですか?まだ疲れが取れていないのでは……」
『え?大丈夫だよ、キアラさんの顔を見たら疲れなんて吹っ飛んだから!』
「それはそれは」
――もう堕ちたか、つまらない。球磨川の反応にはそんな感想すら抱いてしまった。だがそれはそれで悪くない展開だとも思った。
『そうそう。僕はキアラさんのことキアラさんって呼ぶから、キアラさんも僕のこと禊って呼んでよ!』『マスターなんていう他人行儀な言い方だと寂しいぜ、それはそれで悪くないけど』
「ええ、そうですねぇ……それでは禊様と呼ばせて頂きましょうか」
『きゅんっ』
頬を赤らめ目を見開く球磨川の様子に、キアラは苦笑する。なんと可愛らしい殿方。弱くて、甘くて――全てを思い通りに出来てしまいそうなお方。
しかしキアラの観察は少し間違っていた。確かに球磨川は弱い。弱いし惚れっぽい。簡単に人を好きになるし色仕掛けで罠にも掛かる。だが、球磨川という過負荷のかつての行動原理を思い出してほしい。仲間には優しく、とことん甘い。好きな者と堕落し、愛する者と破滅していくことを望む。
『あーあ』『女の子にだけは僕は絶対に勝てないな。全く、可愛い子には弱くて弱くて仕様が無い』
「まあ、可愛いだなんてそんな……」
『でも一つ気になったんだ』
球磨川は先程までと何も変わらぬ瞳、声、挙動で手を伸ばす。
『僕はキアラさんのことが好きだと思いながらも、その実君の上っ面しか見てないんじゃないかって』『アイドル好きの同級生と同じように、君の顔しか見てないんじゃないかって』
『
「冗談でしょう?」
返答はない。そのまま球磨川は、キアラの顔面を剥がしにかかる――
「ッ……!」
『ありゃりゃ』
その手を払いのけ、キアラは三歩後ろに下がった。この男は今、本気で先程の所業に臨もうとしていた。自分としてはそれはそれで昂るし悪くない。しかし、何よりもそんなことを平然と行えるこの男の精神性にキアラは、多少なりとも驚いていた。
「どういうおつもりですか?」
『いや、言った通りだよ?』『僕は君の顔だけに惹かれているんじゃないかと思ったんだ。だからそれを確かめる為に顔を剥がそうとしたんだけど……僕としたことが、面白手品の存在を忘れてたよ』
そう言って球磨川は再び、キアラの顔へと手を伸ばす。後ずさるキアラだったが、そんなことは彼の
『『
「何を馬鹿なことを…………!?」
「嫌ァっ!?」
『くぅっ!?』
咄嗟にキアラは、球磨川の鳩尾に掌底を叩き込んで吹き飛ばす。壁に罅が入るレベルで打ちつけられたにも関わらず、音は何も響かず。流石に死んだわけではない……とキアラは予想するが、ぐったりと力を失って、生気を感じぬ表情で倒れていたというのに球磨川は、次の瞬間何事もなかったかのように立ち上がる。
『どうしたんだよキアラさん?』『そうそう、僕の君への想いは結構変わったよ!今ののっぺらぼう状態もなかなかに可愛いけど、やっぱり顔があった方がいいなあ。そういう点では僕の想いはまだまだ偽物みたいだぜ』『ああでも悲観しないでね。顔があろうとなかろうと結構好きな部類だから!』
「…認識をずらす魔術か何かでしょうか?元に戻してほしいわ……」
『魔術?おいおい、僕にそんな高等な物は使えないよ』『それに元にも戻せない。僕の『
「は……?」
――取り返しがつかない?何だ、それは。ずっとこの状態で過ごさなきゃいけないというのか。しかも魔術ではないとはどういうことだ。
『『
「………………」
『黙られちゃうと表情が無い分、何を考えているかわからないミステリアスな印象を受けるよ。でもやっぱり不便だなあ。可愛いお顔が見られなくなっちゃうしやめときゃよかったぜ』
『だからなかったことにした』そういって球磨川はキアラの顔を指差す。瞬間、何かが返ってきたような感覚があった。手を伸ばすと鼻があり目があり口がある。なかったことになったものが、元に戻っていた。
「なかったことにしたものは、更になかったことには出来ないのではなかったのですか?」
『あれれー!キアラさんの顔が元に戻ってる!』『なかったことにしたことはなかったことに出来ないはずなのにどうして!?』『わかった!きっとこれは僕たちの愛情だとか友情だとかそういった物が起こした奇跡だ!』
――意味がわからない。訳がわからない。埒が明かない。キアラの心情は混迷を極めていた。この男の思考がわからない。嗜好がわからない。志向がわからない。人の欲を知るキアラからしてもこの男が、どういう欲望を持って今動いているのかがわからない。
とはいえ、この男が自分に好意を抱いていることだけは確かだろう――とキアラは気を取り直す。仕組みはわからないが顔は元に戻してくれたようだし。体の方を求めているだけかもしれないが、そんなのは一回寝れば解決する。事実、そういった目的で近づいてきた男も何人も彼女の信者としてきた。もう禁欲などしていられない、今すぐこの男を魅了してどうにか傀儡に――
『その目だよ』
球磨川は何も映していないような空っぽの瞳で、キアラの目を指さす。
『見覚えがあると思ったら、
思っていたよりもこのマスターは、人を見る目を持っていたらしい。最早隠す必要もないか、とキアラは口角を歪めた。
「この世に人は私だけ。私以外の人間はすべてケダモノ。私はそのように育てられました」
そのような世界で生きたのです。
『なるほど。箱入り娘ってことかな?』
少しズレた解釈をして、球磨川は螺子を持つ。
『僕は自分を上げて人を見下すヤツが何より嫌いなんだ』『じゃあこの世の理不尽さを。不条理を。無慈悲を。』『マイナスの道理を、骨の髄まで叩き込んでやるぜ……!』
「あんっ、激しい……!」
螺子と拳が激しくぶつかり合う。戦闘の余波も、音も、損傷さえもなかったことにして――。
不毛な争いは、まだまだ終わる気配がなかった。
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