たかが数日ぶりだというのに、体を打つぬるま湯がとても気持ちよく感じた。濛々と沸き立つ湯気を眺めながら、球磨川は泡だらけになった全身を流す。
『こんな広い銭湯を作るとは、ここの設計者はいい趣味してるね』
本来カルデアの職員やマスターら全員が使う予定であったであろう、だだっ広い浴室は実質球磨川の貸切状態だった。かつてこのカルデアを指揮し、この規模まで成長させたというオルガマリーの父は日本に馴染みのある人だったらしい。それ故、少ない予算をやりくりしてでもこの大浴場を設計したとか何とか。
『こう伸び伸びと浴槽を使えるというのは』『逆に気持ち悪いような気もするなあ』
檜で出来た立派な浴槽に飛び込み、そこを悠々と遊泳した後球磨川はそんなことを呟いた。こほっこほっと気管に入った水を吐き出すため噎せつつ。一人で風呂の中を泳ぎ溺れかけるとは、本当に伸び伸びと浴槽を使っている。気持ち悪くなるのも当然である。
軽く潜って、ぶくぶくぶくぶくとジャグジーの隣で息を吐き出す下らない遊びを続けていたが、そのうちに脱衣場の中から布の擦れる音が聞こえてきたので何となくやめた。
『この大きい風呂を独り占めなんていう贅沢は、やっぱり僕の性にはあってないみたいだ』
そういうと大人しく体育座りの姿勢になって、入ってくる誰かを待った。藤丸はさっきシャワーを浴びに行ったと聞いたし、アンリが風呂に来るとは何となく思えないので、恐らく知り合いではないだろうが。まあこれから一年間、運命共同体で過ごしていく職員の誰かだとすれば、ここで親睦を深めておくのは悪くないことだろうと判断した。遅かれ早かれ、関わることはあるわけだし。そんなことを考えていたが、しかし開かれた扉の先にいたのは。
「あ、禊ちゃん」
『びぶばばん』『ぶくぶくぶくぶく』
「禊ちゃん!?」
入ってきたのは藤丸立香だった。潜ったままモゴモゴと何かを喋り、彼に手を振った球磨川は水中へと沈んでいった。
「顔赤いけど大丈夫か!?」
『このくらいなら何ともないぜ』
フラフラと浮き上がり、立ち上がってきた球磨川は、冷水を浴びるためシャワーへと向かう。入れ替わりに藤丸が浴槽へと浸かった。
『そういやあ立香ちゃん』『ロマンちゃんから、もうシャワーを浴びた後だって聞いてたけど』
「あー、そうだよ。シャワー浴びて体洗って、部屋帰って寝ようと思ったんだけど……何となく落ち着かなくてね」
『まあ、慣れない環境だし』『その上慣れない状況だからね。しょうがないよ』
冷たいシャワーの温度差が祟ったか、くしゅん、と球磨川は小さく可愛らしいくしゃみをした。
「俺さ、割と温泉とか巡るの好きでね。爺臭いだとか言われたりもするんだけど、何も考えずに上せるくらいのんびり浸かるのが好きなんだー」
『いいねえ』『無事に帰れたら、立香ちゃんのオススメの温泉千選を巡りたいところだね』
「流石に千は知らないかなー……百くらいなら全然教えるよ」
『上せない程度によろしく頼むぜ』
球磨川は再び湯船に潜り込む。マナーとしてはあまりよろしくないため温泉好きだという藤丸は注意するかと思ったが、それが気にならないほど、ぼんやりと何かを考えている様子だった。
『……ねえ立香ちゃん』
「ん?どうした禊くん」
『立香ちゃんは例の話、受けたんだよね』
「まあ、ね」
ふうー、と大きな溜め息が漏れた。その瞳は何処と無く憂いを帯び、温かいはずなのに体が震えているのが見て取れた。
『怖くないのかい?』
「……そりゃあ怖いさ」
ははは、と笑う声が聞こえたが、無理しているのは一目瞭然だった。
「……所長がレフの手にかかって殺されかけた時、これが魔術師の世界なんだなと思って怖かったし不気味だった。消えてった彼女を見て、悪い夢だと思いたかったけどこれは紛うことなき現実だった」
『痛いほどわかるぜ、その気持ち』
「今でも悪い夢だと思ってるくらいだよ。でもさ、俺しかいないんだと思ったとき、何となく『あー、やらなくちゃ』って吹っ切れたんだ。俺がやらなきゃ家族や親戚、仲の良い友達はみんな消えちゃうんだなって。いや、そのときは俺も一緒だろうけどさ!」
『…………』
「それにさ、俺。死ぬ時は大往生って決めてるんだ。嫁さんとか、子供とかに看取られてね!」
『それにはまず、彼女を作るとこから始めなきゃいけないんじゃないの?』
「うー……痛いとこ突くなあ」
『ま、それもおいおい頑張っていこうぜ』『大丈夫。この程度の問題、さっさと解決するだろ』
「そうだね……」
人類の危機をこの程度と言い切って笑う球磨川の豪胆な精神に少し気圧され、苦笑いする藤丸。そろそろ上がろうと脱衣場に向かうとき、思い出したように振り返る。
「あ、そういえば禊くんはどう答えたの?」
『ん?』
「ドクターからの話にだよ」
『ああ』『そんなの決まってるだろう?』『――無論、協力させてもらうぜ』
―――――――――
風呂から上がった二人はドクターの元へと向かった。現在のカルデアの状況や次の特異点のことなど、気になる点が沢山あったからである。
『で』『次の特異点とやらにはいつになったら行けるの?』『さっさと向かって、異常を全てなかったことにしてやろうよ』
「あれ?球磨川くんって確か、カルデアでバックアップの方に回るんじゃ……?」
『おいおい』『何を寝惚けたことを言ってるんだいロマンちゃん』『人理の危機だぞ、こんな場面でバックアップなんかしていられるか!折角前線に出られる力があるんだから、僕は精一杯立香ちゃんと共に戦うよ!!』
「…ま、まあやる気になってくれたならいいやそういうことで……で、次の特異点か。今スタッフの皆で座標を割り出してるから、もうしばらく時間がかかるかな。一日二日くらいは要するから、その間は二人共ゆっくり体を休めていてほしい」
「二日かー……あ、そうだドクター。ここってトレーニングルームみたいなところある?」
「あるよ。実戦的な模擬戦がしたい場合には戦闘用の空間やシミュレーションプログラムもあるから、遠慮なく言ってくれ」
魔術師としてもマスターとしても経験の薄い藤丸は、己を少しでも高めておきたかった。先刻の特異点Fにおいて初めて命のやり取りを経験した。戦ってくれるマシュの負担を和らげる為、自分に出来ることを広く、深く増やしたいのだ。
「――そうだ。戦力アップの為に英霊を呼ぼう」
「『えっ!?』」
声が重なった二人。それほど驚いていたということである。
『呼べるの!?』『英霊呼べるの!?』
「あ、ああ……この前の特異点で藤丸くんが幾つかおかしな石を拾っただろ?」
「もしかしてあの虹色に光ってたヤツですか?」
「うん。調べてみたところ、アレは高密度の霊子結晶でね。サーヴァントを呼ぶ触媒として申し分なさそうだ。宝石魔術の要領で一度使ったらなくなってしまうけれど、恐らく聖杯や特異点の影響で生まれたものだから、どの特異点でも回収できるはずだ」
『サーヴァントが!?』『サーヴァントが呼べるんですね!?』
「呼べるのが英霊だけとは限らないけど、恐らく大丈夫なはずだよ……何か食い気味だね球磨川くん」
『呼びましょ!』『早く呼びましょサーヴァント!』
「う、うん……藤丸くんが特異点で発見した石は全部で十二個。三個一セットで触媒としての役割を果たすから、二人で分けて二回ずつ召喚してほしい。カルデア内であれば石を三個並べて魔力を通せば何処でも呼び出せるはずだから、好きなタイミングで召喚してくれ」
手渡された石を持って球磨川は弾むように何処かへと駆け出す。しかしすぐさま手に何かを抱えて舞い戻ってきた。
『ロマンちゃん……』『何か……変なの出た……』
「えー、何だこれ……麻婆豆腐……?」
球磨川が抱えていたのは皿に入った、妙に赤みを帯びた麻婆豆腐。無論、何故こんなものが出てきたのかはロマニにはわからない。
『ひひゃも……』『めひゃくひゃかひゃい……』
「見るからに辛そうだもんなー……水持ってこようか?」
『おねひゃいひゅりゅよ』『りふひゃひゃん……』
運ばれてきた水を一気飲みして、それでも辛味が残っているのか部屋の中を数秒走り回り、疲れたのか辛味に慣れたのか、息を切らしながら手に持つコップを置いた。
『一体何なんだろうコレ……』
「さあ……?恐らく英霊や聖杯戦争に関わる何かだろうけど、ボクにもわからないな。ダヴィンチちゃんなら或いは――」
「呼んだ?」
『うおぉっ』
「「うわああっ!?」」
ロマニの後ろから黒髪のお姉さんが飛び出す。驚く一同を見て楽しそうに口元を押さえた。
「うん、良い反応だ」
『人を驚かせて面白がるなんていい性格してますね』
「よく言われるよ。そういえば初対面だね、球磨川くん?」
『この前も会わなかったかなあ?』
「我々に面識なんてなかっただろう、変な子だね。――初めまして、私はダ・ヴィンチという。あーでも、考えてみれば既視感を感じるのは有り得ることだね。わかるわかる。こんな美人を見たらそうなっちゃうよなあ!」
『ダ・ヴィンチ……?』『あ、もしかしてレオナルドさん?』
「正解〜♪私こそ天才で万能の発明家、レオナルド・ダ・ヴィンチその人さ!気軽にダ・ヴィンチちゃんと呼んでくれたまえ!」
豊かな胸を張るダ・ヴィンチ。球磨川はそれを見て何かを思い出した。
『レオナルド・ダ・ヴィンチってさ』『史実だと男性じゃなかったっけ?』
「うんうん、定石通りの反応ありがとう。立香くんも同じ反応だったから個性がなくて寂しい気もするけれど」
「いや、そりゃあ驚くでしょ……男だと思ってた人が女だったわけだし。しかも美人だったし。まんまモナ・リザだったし」
「見る目があるね君は!ふむ、もしマスターを作るなら君みたいな子がいいなあ!」
「えー……」
ポンポンと藤丸の頭を撫で出すダ・ヴィンチ。出会って間もない筈だというのに速くも女性(?)に好かれる立香を見て球磨川の心の中で何かが燃え上がるような心境だったが、グッと堪える。
「んー?何だい球磨川くん。嫉妬か?嫉妬なのかな?美女に撫でられたい気持ちはわかる。わかるから撫でてあげようか?」
『お生憎様』『僕のタイプじゃないから遠慮しとくぜ』
距離を取る球磨川。残念そうなダ・ヴィンチは嘆息して、話題を戻した。
「それは所謂概念礼装って奴さ。サーヴァントに装備させるとステータスが上昇したりする」
『麻婆豆腐を装備か……』『え、麻婆豆腐を装備?』
「何が出るかわからないけど、俺もとりあえず召喚してみようかな」
聖晶石に魔力を通すと、それらは浮き上がり砕け散り、ぐるぐると円環を描く。
『あれ……何か虹色に光ってない……?』
一瞬虹色に光って見えたが、即座に収まる。円環は三本に広がり、天を衝き、降り注ぐ。光の晴れた後には、金糸のような髪を靡かせる、一人の少女がいた。
「――問おう。貴方が私のマスターか?」
「あっ……はい」
美少女を呼び出した罪は重いぜ、と球磨川は拳を強く握った。