発:海軍省 宛:トラック泊地鎮守府司令長官   作:戦闘工兵(元)

28 / 41
25

 海軍士官には心掛けるべきモットーが多数存在する。

 

 頭より早く艦を走らすな、海の上には待ったなし、タラップは駆け足で、メモは手離すな、訓練には比率も制限もなし、靴の踵を良く磨け、等々と多岐に渡るモノである。

 

 青春を過ごした江田島は海軍兵学校で鬼の伍長達から挨拶代わりの鉄拳による制裁と共に叩き込まれたモットーは当然ながら桂木にも受け継がれている。

 

 士官用の男子便所へ差し掛かった桂木は用を足そうと中へ入る。当番兵達が良く掃除を行っているのか不快な臭いが何ひとつしない事に満足しつつ小便器へ赴くと壁に貼り付けられた張り紙が桂木の目に映った。

 

 【もう一歩 捧げ銃 帽振れ】

 

 これも海軍士官の心掛けるべきモットーのひとつだ。

 

 何を何に例えたのかは言うまでもない事だが流石はユーモアにおいて帝国内で一、二位を争う組織だ、と改めて思った桂木は張り紙の文言通りに行動した。

 

 

 

 

 

 長官室へ戻った桂木を本日の秘書艦である雷が出迎える。

 

「ーーお帰りなさい司令官」

 

「ーーあぁ。何か至急電とかはあったかな?」

 

「ないわ。それに緊急の用件があったら士官の人達が皆で司令官を探すわよ」

 

「それもそうだ」

 

 雷の言葉も尤もと思い至り、桂木は苦笑いを零しながら自身の執務机へ戻る。

 

 チラリと秘書艦用の執務机に腰掛ける雷に視線を遣る。

 

 身を乗り出すかのような格好のまま体格と合っていない執務机へかじりつき、算盤を弾いている様子を見た桂木は更に苦笑いを深くした。

 

 小柄な体格の者が秘書艦となっても大丈夫なように専用の机でも探すか、と考えつつ彼は机上の書類へ手を伸ばす。

 

「……司令官」

 

「どうかしたかね?」

 

「ご、ごめんなさい……計算間違っちゃったみたい……」

 

 おずおずと雷が彼へ声を掛けて来た。

 

 先に書類へ捺印を済ませた桂木は腰掛けたばかりの椅子から立ち上がり、隣の秘書艦用の執務机に歩み寄る。

 

「ーーあぁ、なるほど……算盤を貸してくれ」

 

 雷の背後から彼女が計算していた内容を確認した桂木は算盤を手にし、ご破算と呼ばれる状態とした。

 

 そして右手の人差し指を左から右へ滑らせ五珠を押し上げる。

 

「ーーさて、と」

 

 書類上の数字を視線で確認しつつ桂木は算盤の珠を弾き始めた。

 

 自身とは比べ物にならない早さで次々と弾かれる珠の動きに雷は圧倒されてしまう。

 

 計算は物の数分で終わってしまい雷は呆然といった様子だ。

 

「ーーうむ。これで合っているな」

 

「な、なんでこんなに早いの!?」

 

「雷ちゃんは加法で計算していただろう?」

 

「えっと…足し算…?」

 

 自信なさげに問い掛けて来る雷へ桂木は頷いてみせる。

 

「そう。俺は乗算を使って計算したから早いだけだ。まぁ主計の士官の方がもっと早いし確実だろうがね」

 

「それって海軍兵学校で学ぶの?」

 

「主計は経理学校だな。俺の場合は実家が小さいながらも雑貨屋を営んでいてね、子供の頃から色々と教えられたよ」

 

 思いも掛けない桂木の特技を目の当たりにした雷はただ感嘆の溜め息を零す。

 

 その様子を見た桂木は再び苦笑しつつ眼前の少女へ声を掛ける。

 

「幸いな事に現状、急を要する案件や書類はない。少しだけなら教えてあげよう」

 

 桂木の提案を聞いた雷が弾かれたように顔を上げた。

 

 彼は自身の執務机へ戻ると抽斗の中から白紙を数枚取り出して椅子へ腰掛ける。

 

「算盤を持ってこちらへ来なさい」

 

 頷いた雷は算盤を手にし彼の下へ歩み寄った。

 

 すると桂木は彼女の両脇へ手を差し入れて抱き上げると自身の膝の上に乗せる。

 

「見えやすいかね?」

 

「う、うん」

 

「そうか。少し待ちなさい」

 

 桂木は取り出した白紙へ数字の羅列を次々と鉛筆で書き記していく。

 

「ーーまず最初はこの数字を足していきなさい」

 

「わかったわ!」

 

「宜しい。では、ご破算で願いましてはーー」

 

 

 

 

 鎮守府庁舎内の電信室では通信科の士官、下士官、水兵達が受信した電文の整理作業を行っていた。

 

 定められた様式の書類へ受信時間や発信、受信の略号、本文等を書き記し、種別毎に分けていると時計の針が聴取の為に決められた沈黙時間が間近である事を告げた。

 

 それぞれが作業を中断し、送受信機の前へ腰掛け、両耳を音響器へ収める。

 

 下書き用紙と鉛筆を用意し、室内の全員が沈黙した。

 

 そして時計の針が沈黙時間きっかりを指し示した時、一台の送受信機が電文を受信する。

 

 発信元から絶え間なくトンツーと打電される符号を聞き取りつつ素早く下書き用紙へ書き綴っていく。

 

 

【-・・--- -・-・ ・- -・ ・-・・ ・-- -・・- ・・--】

 

 通信兵は受信が終わると解読した符号を平文へ直し、その内容を書類へ書き綴った。

 

 電信室に詰める士官の一人である藤村中尉がその書類を受け取り、内容を確認するとそれが至急電である事に気付く。

 

「ーー室長、確認願います」

 

 同階級であるが先任の電信室の室長が受信と確認の印鑑を捺し、彼へ告げる。

 

「急ぎ、長官室へ」

 

「はい」

 

 電信室を飛び出した藤村中尉が足早に庁舎二階の長官室を目指す。

 

 階段は二段ほど一気に登り、長官室までの廊下を進みつつ身形を整えた彼は扉の前に立ち、数度のノックをした。

 

 室内から応という入室許可の返事が聞こえ、藤村中尉はドアノブを捻って入室する。

 

「ーー失礼します」

 

「藤村か。どうした?」

 

 小柄な雷を膝へ乗せて執務机で何かを計算していたのか算盤を手にしている桂木の姿が藤村中尉の眼に入る。

 

 幼い妹へ算法を教える年の離れた兄の姿に映るが思考を切り換え、敬礼と答礼もそこそこに藤村中尉は桂木の下へ歩み寄る。

 

「軍令部よりの至急電を受信しました」

 

「至急電?本文を読んでくれ」

 

「はっ。【ニイタカヤマノボレ。後ニ送信スル補充戦力デ対処可能カ送レ】以上であります」

 

 藤村中尉の言葉を聞いた桂木の表情が一気に強張った。

 

 




主計科は庶務や会計、物資調達等の仕事の他に戦闘詳報の記録を書くのも仕事です。

ちなみに作戦や航海の為に出航すると次の港へ辿り着くまでは補給を受けられないので出航寸前まで主計科は地獄のような忙しさだったとか。

主計長「医薬品も手に入れて糧秣もだしFU(褌)も大量にーー何?被服?員数外でもなんでも良いから片っ端からかき集めて来い!!」

もっと酷いか。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。