発:海軍省 宛:トラック泊地鎮守府司令長官 作:戦闘工兵(元)
「ーー全く……貴様という奴は…」
苦笑いと共に山本は隣の桂木へ苦言を呈する。
皇居の前に待機していた車列の一台ーー黒塗りの公用車へ乗り込んだ山本の第一声はそれだった。
「総理や侍従達の顔を見たか?呆気に取られておったぞ」
「は…申し訳ありません」
紫色の布で包まれた官記を膝の上に置いた桂木は素直に謝罪するが山本の苦笑は深くなるばかりだった。
やがて苦笑いを一通り済ませると山本は胸の前で腕を組みつつ桂木へ視線を向ける。
「まぁ何はともあれ、これで正式に司令長官だ。急かすようで悪いが今からトラックへ戻ってもらう」
「はっ。では海軍省へ大臣をお送り次第ーー」
桂木が言葉を途中で言い止めた。
車列の行き先が目と鼻の先にある海軍省までの道行きではない方向へ進んでいたからだ。
「大臣、行き先が違うのでは…?」
「ん?いや、合ってるぞ。今から厚木へ向かう」
「ま、まさかお見送りを…?」
十中八九そのつもりだろう、とは思いつつも桂木はそうではない事を願い、山本へ視線を遣る。
だが願いも虚しく、彼の唇がニッとつり上がったのを見てしまった桂木は盛大に溜め息を零した。
「…海軍大臣が直々に外地へ赴任する将官を見送るという話は聞いた事が…」
「まぁそういうな。毎日毎日、書類仕事ばかりで気が滅入っておるのだ。少しは逃げさせてくれ」
肩を叩かれた彼は、もはや何も言うまいと二度目となる溜め息を吐いた。
厚木飛行場に車列が到着した瞬間、整列していた各機の搭乗員、そして整備兵達は「かかれ」の合図と共にそれぞれの機体へ走り出した。
操縦席へ飛び込んだ搭乗員達が素早く機体の三舵の点検を行う最中、整備兵達はプロペラを手動でゆっくり回し、発動機全体へ燃料を流し込む。
「ーー
零戦の搭乗員達が発動機付近で待機している2名の整備兵へ吠える。
整備兵が発動機右下にある挿入口へクランクを差し込み、重いエナーシャを2名がかりで回し始めた。操縦席の計器盤にあるエナーシャ回転計が毎分80回転を示すまで回し続けなければならない。
そして回転計が目標の回転数を指した瞬間、操縦席の搭乗員が飛行眼鏡を下ろしつつ叫んだ。
「ーー前離れっ!!」
合図を聞いた整備兵達が素早く発動機から離れたのを認めた搭乗員が頭上へ掲げた右手を振り回す。
「ーーコンターーック!!」
搭乗員がT字形のクラッチ操作索を引き、発動機の回転軸とエナーシャを結合させた。
瞬間、発動機と共にプロペラが回り出す。
戦闘機隊の発動機が一発で掛かった。一式陸攻の発動機も内蔵の発動機電動起動装置を用いて回り出す。整備の腕前に感謝しながら搭乗員達は離陸までの細部点検を続ける。
全機の発動機の爆音が飛行場全体へ響き渡る中、公用車から山本と桂木が降り立つ。
すると搭乗員待機所から彼等の下へ駆け寄って来る三種軍装を纏った士官ーー出張中の副官である藤村中尉は海軍大臣の姿を認め、彼と桂木へ対して挙手敬礼する。
それへ二人が答礼し腕を下ろすと彼も敬礼から直った。
「ーー親御は元気だったか?」
「はっ!息災でありました!長官、お荷物は?」
「公用車の中だ」
「判りました!それと今朝がた海軍省に出頭した際、井上軍務局長よりこちらを長官へお渡しするようにと!」
挨拶もそこそこに桂木へ藤村中尉が風呂敷に包まれた何かを差し出して来た。
首を傾げつつ、差し出されたそれを受け取ると山本は官記を預けるよう告げて手を差し伸べた。桂木は頭を下げ、素直に彼へ官記を預けると包みを解く。
その中身は一冊の本。表紙には墨書きで「大東亜戦争備忘録」と書かれていた。
その表題を見た桂木と山本の表情が一瞬で強張る。
「ーー藤村」
「はっ!」
「貴様、この中身は見たか?正直に申せ」
「い、いえ!中身に関しては一切存じ上げません!」
桂木は腰に佩刀する軍刀の刃以上に鋭利な視線を藤村中尉へ向けつつ低い声で尋ねると彼は激しく首を横へ振った。
「………判った。貴様を信じよう。済まんが荷物を積んでくれ。ーーあぁ、頼んでおいた物はどうなった」
「はっ!羊羮2ダース購入致しました!既に積載しております!」
「苦労を掛けて悪かった。済まんが宜しく頼む」
「はっ!」
藤村中尉は二人へ敬礼し、答礼を受けた後に公用車へ掛けて行った。
それを認めた二人は顔を見合わせる。
「ーー何故、井上局長はこれを私へ…」
「…彼は終戦後の日本を知っているからな。貴様が死んだ後、日本がどうなったかを伝えたかったのだろう」
「終戦……戦は終わったのですか…?」
「そう聞いておる。…結論から言えば我が民族は滅びなかった」
桂木は傍らの山本の言葉を聞きつつ本を挟むように糊付けされた短冊ーー恐らくは盗み読み防止のそれを千切るとパラパラとページを捲る。
「ーー昭和20年8月6日…廣島に原子爆弾投下。8月9日…長崎に原子爆弾投下。同日未明、ソ連軍、満州侵攻開始。………8月15日正午……玉音放送……ポツダム宣言受諾…帝国は連合国へ…無条件…降伏……9月2日……東京湾 米戦艦ミズーリ艦上にて降伏文書へ調印……無条件……降伏……」
発動機の爆音に桂木の言葉は掻き消される。
「ーー確かに世界史を見れば無条件降伏というものはあった。紀元前にあったとされるペロポネソス戦争、ディアドコイ戦争。そして英仏百年戦争のカレー包囲、米南北戦争はドネルソン砦。昭和16年、ナチスドイツに攻められたユーゴスラビア王国。…だが、その当事国となってしまうと……うん、まぁ…なんとも言えんな」
「ーーー」
山本の静かな声を聞きつつ桂木はやや呆然としながらも本を閉じると風呂敷で元通りに包み直し、それを左の小脇へ挟む。
次いで山本が預かっていた官記を桂木へ差し出した。それを彼は両手で受け取ると小脇に挟んだ本を取り、その上へ官記を乗せる。
「…向こうに到着するまでゆっくり読め。それぐらいの時間はあるだろう」
「はっ…そう致します」
山本に頷いてみせた桂木の下へ副官の藤村中尉が乗機となる一式陸攻から駆け寄って来る。
「ーー長官!離陸の用意が整ったとの事です!」
「ーー応。では大臣」
「あぁ、何かあれば気軽に連絡を寄越せ。ーー藤村中尉、こいつを宜しく頼むよ」
「はっ!!」
桂木は両手が塞がっている為、室内での敬礼の要領で、そして藤村中尉は挙手で山本へ敬礼した。
山本からの答礼がなされ、二人は直ると乗機へ向け歩き出す。
搭乗口へ掛けられたタラップを昇っていると直掩の戦闘機隊が先んじて滑走路に向かい地上滑走を始める。
機内へ足を踏み入れ、椅子に腰掛けると膝の上へ官記と井上から預かった本を置く。
藤村中尉も椅子に腰掛けた瞬間、タラップと機体の車輪を停めていたチョークが外された。
3機の一式陸攻が地上滑走を始める中、桂木はチラリと窓から外の景色を見た。
これでしばらくは本土の景色は見納めか、と思っていると公用車の付近にいる山本が被っていた軍帽を脱ぎ、それを右手で頭上に掲げると円を描くかの如くゆっくり回し始める。
ーー帽振れである。
それに気付いた地上の手空きの者達が同様に帽子を振り出す。
手空き総員による帽振れを受けた桂木は挙手敬礼で応じーーやがて空へと飛び立って行った。
文献、資料によってエナーシャかイナーシャと呼び方は違いますが本作ではエナーシャと表記します。