発:海軍省 宛:トラック泊地鎮守府司令長官   作:戦闘工兵(元)

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こ、これで良かったのだろうかと戦々恐々。




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 6月5日 0820 皇居

 

「ーー此処に至っても我が事ながら信じられません」

 

「なにがだ?」

 

 掃き清められた道路を歩く桂木と海軍大臣 山本五十六は二重橋濠に掛けられた鉄橋ーー通称 二重橋へ足を踏み入れた。

 

 緑が美しく良く手入れがいき届いている松の木々を横目に眺めていた山本は桂木の問い掛けに彼へ視線を遣る。

 

「話を蒸し返してしまうのですが海大を出ていない者が司令長官に着任して構わないのでしょうか?」

 

「若くて優秀な連中は軒並み九段の鳥居をくぐってしまったのだ。海軍の伝統に縛られる必要はない」

 

 宮中参内、儀式の際は大礼服着用が慣例であったものの帝国海軍では昭和13年7月に正装・礼装を廃止してから礼装代用として二種が使われており、参内した二名もそれに従い二種軍装を纏っていた。

 

 桂木は上衣の下に巻いた剣帯の吊り革へ下げた軍刀の鞘を軽く握りつつ僅か先を進む山本の後に続く。

 

「貴様には言っておらなんだが、こっちの海兵65期は一人を除いてーーつまり貴様以外は戦死しておる。前後のクラスも名簿は戦死だらけだ」

 

「なんですって?」

 

「佐官ーー軍隊の中堅となるべき士官の人材不足は頭が痛い。加えて旧来通りのーー教範一辺倒の戦しか知らん者に艦娘達の指揮は出来ん。特に頭がゴリゴリに凝り固まった野郎にはな」

 

「…………」

 

 桂木は脳裏に昨夜の酒宴で井上軍務局長と軽い舌戦を繰り広げていた某長官を思い出したが、言葉にするのは慎んだ。

 

「ーー今、南雲の事を考えなかったか?」

 

 山本が左斜め後ろを付いてくる桂木へ目を細めつつーー悪戯っぽい視線を送ると彼は図星の為、顔を俯かせた。

 

「まぁ、奴も色々と思う事があったらしい。艦娘達の運用は自分の子供に接するような気持ちで臨んでいるようだ」

 

「…私には自身の子に死地へ向かえと下達するだけの気概はありません」

 

「あぁ……俺もだよ。俺も間違いなく躊躇ってしまう。だからと言えば良いのかは判らないが……貴様は貴様独自の運用と指揮をせねばならんぞ。ここ数年で前例は重ねて来たが……まだまだ改良の余地が残っている」

 

「肝に銘じます」

 

「それとだがなーー」

 

 唐突に山本が立ち止まり、桂木も歩みを止めると彼は振り向き様、言い放つ。

 

「見目麗しい乙女ばかりだが、劣情に駆られて手は出すなよ。不文律を忘れるな」

 

「……下世話な事を昼日中から仰いますな。厳命されずとも手を出すのは玄人(ブラック)だけです」

 

 

 

 

 

 

 

 親任官(しんにんかん)とは大日本帝国憲法下での階級のひとつだ。

 

 これは同憲法下の官僚制度における最高の位置付けで、天皇の親任式を経て任命される。

 

 文官での親任官は主に内閣総理大臣、枢密院議長、枢密院副議長、国務大臣、等々と多数に及ぶが一方の武官ーー詰まる所の軍人における親任官は陸海軍の大将だけとなる。

 

 

 軍人の場合は官(階級)と文官と違い上番する職務が分かれていた為であり、親任官となるのはあくまでも陸海軍大将に限定される。

 

 しかし親任官相当の職として宮中での親補職式を以て補職される“親補職”というものが設けられており、これに該当する職に中将が就いた時は在職期間中のみ親任官としての待遇を受けるものとされた。

 

 

 陸軍の主な親補職は参謀総長、教育総監、航空総監、総軍総司令官、方面軍司令官、軍司令官、師団長、等々。

 

 そして海軍の親補職は軍令部総長、海軍総司令長官、連合艦隊司令長官、艦隊司令長官、鎮守府司令長官、警備府司令長官、海上護衛司令長官、軍事参議官である。

 

 尚、蛇足となるが親補職の親任官待遇について現階級に関する規定は無かった。しかし「親補職には大将若しくは中将を補する」とされていた為、少将以下が親任官待遇となる事は有り得なかった。

 

 親任官は親任式を以て、親任官相当である親補職も親補職式を以て任命されるが、勅任官以下の者達と決定的に違うのは天皇から直接、官記(辞令)を賜る点である。

 

 親任官、そして親補職が賜る官記とは天皇の署名である御名御璽と共に内閣総理大臣が副署しているという大層な書状だ。

 

 従って、その式の次第は非常に厳かな雰囲気で執り行われる。

 

 まず小柄な体躯をした内閣総理大臣が官記を奉じて参進し、所定の位置ーーまるで玉座を思わせる椅子の斜め横へ着くとその対面に海軍大臣の山本五十六元帥海軍大将が着いた。

 

 その様子を親補職式が執り行われている宮中は松の間の広い室内の真ん中で見ていた桂木の耳が何名かの人間が歩いて来る足音を捉える。

 

 足音に気付いた内閣総理大臣と山本五十六が脱帽での最敬礼をしたのを認め、桂木もやや遅れ馳せながらも最敬礼を施す。

 

 彼等が最敬礼をする中、室内に響く静かな足音。

 

 そしてーー椅子へ腰掛けたのだろう衣擦れの音が聞こえた。

 

 ややあって彼等は不動の姿勢へ戻り、桂木は併せて剣帯に佩く軍刀の鞘を軽く握り締める。

 

 改めて桂木が眼前へ視線を遣ればーー玉座に腰掛ける一人の男の姿があった。

 

 この御方こそが天皇、と桂木は緊張の余り生唾を飲み込む。

 

 次は勅語を賜らなければならない。

 

 微かに震える足を内心で叱咤し、桂木は玉座の前まで進み出ると再び最敬礼を現人神へ捧げる。

 

「ーー朕茲に親補職式を行い、海軍中将 桂木幸一に告ぐ。帝国と締盟各国との交際は益々親厚を加う。然れども今や世局の騒乱甚しく、帝国の使命益々重大なる。汝、隷下の将兵及び艦娘等と奮励し協心戮力。朕が股肱たるの本分を竭し、以て天壌無窮の皇運を扶翼せよ」

 

 朗々たる声で紡がれる勅語に桂木はただ頭を垂れる他なかった。

 

 悠久とも言える時代(とき)の大河。その大河は時代によって大きく荒れ狂った事だろう。

 

 しかし一度たりとも途絶える事なく連綿と紡がれて来た万世一系の血統が持つ言葉の力は思わずこの場で平伏してしまいたくなる程の衝動を桂木へ与えて来た。

 

 不意に玉座から衣擦れの音が響いたーーまだ式の次第では天皇は退出しないのにも関わらずである。

 

 最敬礼する桂木は磨き上げられた床へ視線を遣っていたが、その視界に影が出来る。

 

「ーー桂木、顔を見せよ」

 

 先程、勅語を賜ったその声が自身の頭の直ぐ側で聞こえた事に桂木の身体が打ち震える。

 

「ーーさぁ」

 

 優しく親しげな声が最敬礼からの直れを暗に促していた。

 

 これは式の次第にはない。前例すらない事だろう。

 

 意を決して静かに最敬礼から直るとーー二歩も離れていない距離に天皇の御姿がある。

 

 その奥では内閣総理大臣と山本が正に仰天といった滑稽な表情を顔に浮かべていた。

 

「ーー歳はいくつになる?」

 

「…先月の5日に28となりました」

 

「ーー妻子はおるのか?」

 

「…いいえ、残念ではありますがおりません」

 

「ーーそうか。父母は元気か?」

 

 他愛ない質問を下問していたが、父母のそれを聞いた桂木が微かに表情を歪ませたのを見て、天皇が微かに困惑する。

 

「…父母は…妹と共に……」

 

 その返答を聞いた天皇は沈痛な面持ちを浮かべつつ更に桂木へ下問する。

 

「ーー辛くはないか?」

 

「……辛くない、と申せば嘘になりますが…今は皇国の大事。私事は総てが終わってから整理致します」

 

「……そうか」

 

 眼前の若い海軍中将の家族に起きた不幸に心を痛める天皇は溜め息を吐きつつ何度も頷く。

 

 やがて天皇は長身の桂木を見上げると口を開いた。

 

「ーー桂木よ。お前はまだ若い。若いからこそ失敗する。だが失敗を恐れてはならない。失敗を恐れての現状維持はただの停滞に他ならぬ。だが若いからこそ新たな学習が叶う。幸いな事にお前には敬うべき海軍の先達がおる。ここにいる山本もその一人だ。彼等に良く指導鞭撻を受けよ。それがお前の血肉となる」

 

「はっ」

 

「そして、もうひとつーー」

 

 やおら天皇は桂木へ歩み寄り、直立不動の姿勢を保ったままの彼の右手を取るとそれを己の両手で優しく包み込んだ。

 

「お前はこれよりこの本土を離れ、遠くトラックへ赴く。隷下の将兵、艦娘達を気遣い、励まし、そして何よりお前自身も身体に気を付けて職責を果たせ。……宜しく頼むぞ」

 

 補職されたばかりの若造へ対して過分とも言える激励を送る大御心に触れた桂木は思わず目頭が熱くなってしまった。

 

 御前で粗相は出来ない、と自身を叱咤し感謝の言葉を告げようと口を開くが呂律が上手く回らず、ただ頭を垂れるのが精一杯だった。

 

 天皇は数度、桂木の右肩を優しく叩いた後、身を翻して玉座へと戻る。

 

 それを認めた内閣総理大臣が天皇へ一礼すると桂木の眼前に進み出て、手にしている官記を差し出した。

 

 官記を恭しく賜った桂木は改めて視線を玉座の天皇へ向けると息を軽く吸い込んだ。

 

 既に予定に無い事が起こった後だ。これぐらいの予定外があっても良いだろうという勢いだけで口を開く。

 

「ーー海軍中将 桂木幸一。これより皇国防衛の任に就きます」

 

 桂木の予定外の口上を天皇は微笑みをもって受け取った。

 

 彼は兵学校入校以来11年に及ぶ軍歴の中でも最も美しい最敬礼を送り、天皇が答礼したのを見計らうと静かに元の場へ退下する。

 

 玉座から立ち上がった侍従を伴って天皇が退室する。

 

 それを室内へ残る彼等は最敬礼で見送った。

 

 

 

 

 




作中の勅語に関しては勅語集からの引用となります。

親補職式は親任式と同等らしいので親任式の式次第を参考に書きました。


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