発:海軍省 宛:トラック泊地鎮守府司令長官   作:戦闘工兵(元)

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 カチコチと大臣室の壁に掛けられた時計が時を刻む音だけが室内を支配している。

 

 誰一人として口を開こうとはしない。

 

 そしてーー1100の時刻を報せる時計の一際高い音が鳴り響いた時、パタンと紙の束のような物を閉じる音が聞こえた。

 

 次いで室内にいる四名の軍人達の中で一番年若い男ーー桂木がソファから立ち上がり、部屋の片隅に置かれていた水差しの水をグラスへ注ぎ、煽るように一気に飲み干した。

 

「ーー大丈夫か桂木?」

 

 対面するソファに腰掛けている横須賀鎮守府司令長官 南雲忠一大将が心配気に桂木の背中へ問い掛ける。

 

「……はっ。ですが…これはあまりにも……」

 

 桂木は彼へ返答しつつ唇の端から零れた水を手の甲で拭いーー次いで額に浮かぶ汗の滴も拭った。

 

「貴様でも驚愕に値する事のようだな」

 

 南雲大将の横に腰掛ける海軍次官兼ねて軍令部総長 山口多聞中将が皮肉混じりの苦笑を零す。

 

「ーー緒戦で……それも二日余りで連合艦隊や主力の艦隊はほぼ壊滅。残存する艦艇も僅か……これを驚くなと言う方が無理であります」

 

「そうだろうな。だが事実、実際に起こった事だ。海軍だけでも人員の損害は万を越え、艦艇、航空機もほぼ損失。民間人の死傷者も2万以上。亡国の足音が耳元で聞こえていたよ」

 

 海軍大臣 元帥海軍大将 山本五十六は桂木の驚愕を肯定した。

 

 山本の“亡国の足音”は比喩でも、ましてや誇張でもない事を桂木は身をもって知っている。

 

 日本列島は四方を海に囲まれている為、国防の最前線は常に海であり、国家の自衛ーーその最先鋒となるべき海軍が死に体では満足な自衛戦闘すら出来ない。加えれば食糧や燃料等の必要物資はその殆どを海外からの輸入で賄っている日本が近海の制海権を敵に許してしまえば、ジワジワと真綿で首を締め上げるが如くに自滅の一途を辿る事となる。

 

 事実、大戦末期は連合国軍による海上封鎖により必要物資の枯渇は明らかとなっており、辿るべき道は降伏かそれとも一億玉砕という名の滅亡かのいずれかだった。

 

 桂木はソファへ腰掛けるとローテーブルの机上へ戻した二冊の戦闘詳報の表題をもう一度見る。

 

 一冊は四国沖海戦における戦闘詳報。そしてもう一冊は房総沖海戦に関するそれだ。

 

 いずれの海戦も桂木の見聞きした事のない名前である。

 

 二つの海戦は同時期ーー照和16年4月23日から翌日までに起こった海戦だ。

 

 同時多発的な民間漁船の音信途絶の報告を受けた帝国海軍は全艦隊へ自衛警戒を達すると同時に消息不明の漁船を捜索する為、哨戒を兼ねて航空機による空からの捜索を実施した。

 

 しかし出動させた航空機からの音信がいずれも途絶という異常な事態が続きーー時の軍令部総長はこの事態を国籍、所属不明の勢力による攻撃の可能性が高いと考え、お上への上奏等を後回しにし、全艦隊へ日本近海での哨戒を実施する名目で出港を命じた。

 

 そして出港した艦隊が哨戒する海域へ到達した時ーーそれは起こった。

 

 突如として艦艇が爆発を起こし、次々と沈み始めたのだ。

 

 最初は火薬庫の爆発による爆沈かと考えたがーー沈み逝く艦艇の舷側に穿たれた破壊孔はいずれも“被弾”により出来た物と酷似していた。

 

 日本海海戦以来の伝統とばかりに帝国海軍は艦隊決戦思想ーー砲術の腕を練りに練っていた。その鍛えられた目に敵艦の姿が捉えられない、というのは異常な事だ。

 

 各艦の見張員がそれこそ目を皿にして我が方に攻撃を加え、僚艦を沈没せしめた敵艦の姿を捉えようと血眼となって探している時ーーひとりの見張員が“異物”を捉えた。

 

 その異物を一言で表すとすれば“鋼鉄(くろがね)の鯨”の群れだ。

 

 鯨は哺乳類だ。生物が鋼鉄に覆われている事など有り得ず、そして潮吹きも確認出来なかった。

 

 見張員が異物を発見した事を伝声管で艦橋に伝えようとした時、その鋼鉄の鯨の口がガパッと開きーーその中から艦砲が飛び出した。

 

 そしてーー単横陣を組んだ鋼鉄の鯨の群れが一斉に“砲撃”を加えて来た。

 

 

 発砲の砲火がカッと光り、耳をつんざく砲弾の飛来音。そして次々と艦隊に浴びせかけられる直撃弾と至近弾の数々。

 

 艦隊も負けじと応戦するものの艦艇に搭載されている艦砲は“同様の艦艇に対抗する為の物”だ。

 

 鯨程度の大きさの敵を狙い撃つには明らかにサイズが合わない。

 

 運良く直撃弾を喰らわせる事が出来た鯨ーー“敵艦”は生物故の断末魔か、それとも鋼鉄が擦り合う金切り声に似たそれを吐きながら沈んでいくが、彼我の損害は帝国海軍の艦隊側が明らかに多大であった。

 

 艦砲、果ては対空用の高角砲や機銃までも用い、艦隊は応戦したものの損害大を判断し、母港へ退く他なかった。

 

 この損害は帝国海軍始まって以来の悪夢という他なかったーーが悪夢は更に続く。

 

 

 艦隊は各母港へ夕暮れまでには逃げ帰る事が出来た。しかし敵はそれを送り狼の如く追跡し、艦隊が投錨したのを見計らって攻撃を仕掛けて来たのだ。

 

 

 母港の近くには民間人が数多く住む市街地がある。

 

 最寄りの陸軍の歩兵連隊、海軍陸戦隊が出動し必死の民間人の避難誘導を行う中、市街地へ艦砲射撃が加えられた。

 

 一度は投錨した艦隊も残存の艦艇で防戦を繰り広げるも市街地への砲撃は翌日未明まで続いた。

 

 

 この未曾有の被害を受け、時の内閣は総辞職。

 

 新たな組閣となった物の内閣が変わった所で事態が好転する訳がなかった。

 

 

「ーー無事だったのは訓練で朝鮮沖にいた艦艇か舞鶴の艦艇、修理中、建造途中の艦ぐらいだ。それと攻撃を受けなかったトラック泊地の艦隊……つまるところ本当に僅かだ」

 

「あの後も散々だった。向こうで負け戦はーー慣れたくはないが慣れていたが、関門海峡や津軽海峡までも一時は敵の手に落ちたのは堪えた。……敗戦に次ぐ敗戦でまた腹を切って詫びたいぐらいだった」

 

「宣戦布告なき戦がこれほどとは……思いもせんかったよ。何が戦争目的なのか、敵はなんなのか、彼我の戦力差は如何程か、全く判らん事だらけだったよ。もっともそれは現在でもそうだが」

 

 三名の海軍将官が心底疲れきったように溜め息を零す。

 

 その時、再び大臣室の扉がノックされた。

 

「ーー応」

 

「ーー失礼します」

 

 桂木の耳朶を打ったのは年若い女の声。扉が開けられた音が鳴った瞬間、思わず視線を向ける。

 

 そこには自身と同様の三種軍装を纏った長い黒髪に長身の若い女がいた。彼女は大臣の山本へ敬礼すると南雲の下へ歩み寄る。

 

「あぁ、長門か。遅かったが何かあったかね?」

 

「少々、姉妹艦の陸奥に捕まってしまいまして遅くなりました。申し訳ありません」

 

「いや、気にせんでくれ」

 

 南雲に長門と呼ばれた若い女は彼から親しげに話し掛けられている。

 

 海軍きっての武闘派とまで揶揄された南雲の口調が非常に穏やかである事が桂木を更に驚嘆させる。

 

「大臣。失礼ですが彼女は?」

 

「あぁ。彼女は戦艦長門だ。現在は横須賀鎮守府ーー南雲の指揮下にある艦娘だ」

 

「そうでしたか……」

 

 自身が乗り組んだ事のある戦艦ーーその艦娘を初めて目撃した桂木の反応は

 

(ーー随分と……別嬪だな)

 

 という素直なものだった。

 

「…提督、そちらは……」

 

「前に話したトラック泊地鎮守府の桂木中将だ。まだ若いが……優秀な奴だ」

 

 南雲と話していた長門の紅玉の瞳が桂木を捉える。

 

 桂木はソファから立ち上がると彼女へ相対し、頭を下げた。

 

「海軍中将 桂木幸一と申します。お会い出来て光栄であります」

 

「戦艦 長門であります。以後、お見知り置きを」

 

 挨拶と自己紹介を済ませると彼は彼女へ歩み寄り、握手を求めた。

 

 桂木にとって幼い頃から戦艦 長門は憧れの艦。

 

 その憧れの艦が言葉を話し、感情を持った状態で眼前にいる以上、握手を求めない訳にはいかなかった。

 

 一方の長門は困惑しきりだった。

 

 桂木と名乗った偉丈夫の年若い海軍中将が突如、歩み寄って来たかと思うと自身へ右手を差し出して来たのだ。

 

 握手を求められている事は判るが何故いきなり、と長門は桂木の顔と差し出された右手の双方へ視線を忙しなく向ける。

 

 やがて意を決して右手を握り、何の気なしに桂木の顔を見上げるとーー何故か初めて会った筈の彼を何処かで見た事があるような気がした。

 

「あのーー」

 

「ーー良しっ!辛気臭い話はここまでだ。桂木、今夜は付き合え」

 

 唐突に山本が膝を打って立ち上がる。

 

 何事か、と桂木は握っていた長門の手を離して背後の山本へ向き直る。

 

「は、どちらまでお付き合いすれば?」

 

「貴様の親補職の就任を祝って飲むぞ。二人も今夜は予定を空けておけ」

 

「おや、大臣は下戸だったのでは?陸で轟沈は勘弁して頂きたい」

 

「KAが待ってますので余り長くはいられませんが…それでも宜しいのならお付き合い致します」

 

「折角だ。軍務局長も誘うか……南雲、取り押さえる桂木はいるが暴れてくれるなよ?」

 

「宜候、ご心配なく」

 

 桂木本人の否応関係なしに決められる予定に彼は苦笑するーーその背後では桂木に握られた右手を逆の手でそっと触れつつ彼の後ろ姿を見詰める長門がいた。

 

(ーーあなたは一体)

 

 心中で問い掛けるが、当然ながら彼は答えなかった。




南雲忠一、井上成美、山口多聞、この三人が酒に酔って暴れ始めたら……通報で出動した憲兵も逃げ帰る。

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