発:海軍省 宛:トラック泊地鎮守府司令長官 作:戦闘工兵(元)
北緯34度42分52.2秒 東経139度50分9.4秒 高度2000m
3機の一式陸上攻撃機二二型の周囲には直掩戦闘機である増槽を吊り下げた零式艦上戦闘機二二型 3個小隊12機が寄り添うように編隊を組んで飛行していた。
その内の1機の一式陸攻(他の2機は囮)の機内ーー組み立てられた椅子の背凭れへ背中を預けているのはトラック泊地鎮守府司令長官の桂木幸一。
真新しい中将の階級章、胸元には従軍記章や記念章等を示す連結用金具へ取り付けた略綬を着装し、腰には略刀帯に吊り下げた軍刀と先だって購入した自動拳銃を帯革付きの拳銃嚢へ納めた桂木は三種軍装を身に纏っている。
二発の発動機が奏でる爆音とそれが生み出す微かな振動に身を任せつつ軍刀の鞘の石突を機内の床へ突き立て、柄頭へ両手を預けながら瞑目していた彼は優しく肩を揺すられ眼を開けると右隣へ視線を向ける。
「ーーお休みの所、失礼致します。間もなく厚木へ到着とのことです」
「ーーありがとう、藤村中尉」
随伴者ーー出張中の暫定的な副官として指名した通信科の藤村という若い中尉へ礼を述べた桂木が機内の窓から見える景色に感慨深く眼を細める。
「ーー富士が見えるな」
「はっ。生きて本土へ戻って来れたと実感致します」
「……あぁ……そうだな……再び見れるとは思わなんだ……」
呟いた言葉の最後の方は副官へ気付かれぬよう溜め息と共に桂木は吐き出した。
一式陸攻の発動機が徐々に回転数を下げる中、搭乗口へタラップが掛けられる。
機体の後方で直掩戦闘機隊が厚木飛行場の滑走路へ次々と着陸する最中に狭い搭乗口をくぐり抜けた長身の偉丈夫が佩いている軍刀へ結び付けた刀緒を揺らしながらタラップを降りて来た。
それを認め、機体の前に整列した十数名の者達ーーいずれも海軍の二種軍装や三種軍装の軍服を纏った士官、下士官達が一斉に挙手敬礼する。
彼等の前へ歩み寄った偉丈夫ーー桂木中将が答礼の為に額へ右手を翳し、それを下ろすと彼の眼前に整列する者達も一斉に手を下ろし不動の姿勢へ戻った。
「ーー海軍省軍務局の真澄少佐であります。桂木長官の御案内を命ぜられました」
「ーートラック泊地鎮守府司令長官兼ねて艦隊司令長官の桂木だ。短い間だが宜しくお願いする。これは副官の藤村中尉だ」
桂木は眼前へ進み出た一人の士官へ短い自己紹介を兼ねて自身の斜め後方に控える副官の飾緒を肩から下げている藤村中尉を紹介した。
相互の敬礼を済ませた彼等を認めた桂木が案内を頼むと告げると真澄少佐は意気軒昂、はっ、と応答した後、先頭を歩き始める。
桂木は駐機場に停まっている車列まで案内されるとその内の黒塗りの公用車ーー海軍の公用車である事を示す錨のマークがフロント部分へ付けられたトヨタ・AA型乗用車の後部座席のドアを真澄少佐が開け、乗車を促される。
長身の為、やや身を屈めつつ乗り込むとその後に副官の藤村中尉が隣へ腰掛けた。
ドアが閉められ、公用車のエンジンが掛かった瞬間、助手席に真澄少佐が乗り込んだ。
車列の先頭は側車が付いた九七式側車付自動二輪車。これが前進を始め、その後に九五式小型乗用車が進み出し、それへ公用車が続く。
公用車の後にも九五式小型乗用車が一台続いている。桂木が乗り込んでいる公用車以外の車両は万が一の際の護衛という事になり、全ての車両の搭乗者は武装していた。
「ーー桂木長官。これより海軍省へ向かいますが宜しいでしょうか?」
「あぁ、宜しく頼む」
「はっ!」
首を捻りつつ桂木へ声を掛けて来た真澄少佐へ首肯すれば彼は再び意気軒昂と返事をした。
「ーー藤村中尉。貴様は確か……実家は杉並だったか?」
「は、はっ。そうであります」
自身からは話していないにも関わらず桂木に実家の所在地を言い当てられた藤村中尉は些か狼狽しながらも肯定する。
「折角だ。今夜一晩、暇を出す。実家へ顔を見せて来い」
「いえ、しかし…!」
「ーー構わん。戦時下だ。命ある内に親御へ孝行しておけ」
「は……はっ!ありがとうございます!」
帝都 東京は麹町区霞ヶ関に海軍省は所在している。
赤レンガ造りの建築物で設計者は明治政府がお雇い外国人として招致したイギリス出身の建築家 ジョサイア・コンドルだ。
その海軍省の正面玄関へ横付けされるように黒塗りの公用車が停まり、助手席に座っていた士官は下車すると足早に後部座席のドアを恭しく開ける。
下車した海軍中将の階級章を三種軍装へ取り付けた桂木が佩いている軍刀の鞘を軽く押さえたのを認めた案内役の真澄少佐が先導を始めた。
正面玄関を潜り抜け、屋内へ入れば庁舎内では軍服を纏った士官達が書類等を片手に忙しなく廊下を行き来し、または階段を登り降りしている。
「ーーこちらへ」
案内を受け、桂木は彼へ応と返事をしつつ被っていた略帽を傍らの副官へ手渡した。
海軍省へ向かう道すがら、桂木は案内の真澄少佐から到着しだい海軍大臣との面会が予定されている事を聞かされていた。
桂木本人としても海軍大臣へは問い質したい事が山程あった為、これはまたとない好機である。
大臣室は海軍省の二階にある。階段を登り、二階へ到着すると真澄少佐の案内のまま歩き続ける。
やがて彼等の前に大臣室とプレートが掛けられた扉が現れ、その一室の前で真澄少佐は立ち止まると振り返り様、桂木へ向かい口を開く。
「こちらになります。既に大臣、次官、横須賀鎮守府司令長官がお待ちになっております」
「なに?」
「尚、ここから先は桂木長官のみ御入室をお願いします。副官の藤村中尉はこちらでお待ちを」
ここに来て面会する人数が増えた事に桂木の心中は困惑の嵐で吹き荒れた。
しかしそれをおくびにも出さず、背後に侍っていた副官へ目配せで待機を命じると扉の前へ立ち、ノックを数度した。
「ーートラック泊地鎮守府司令長官 桂木中将 入ります!」
扉の前で入室の申告をするとややあって室内から応との返事。
意を決して扉を開け、入室すると静かに扉を閉めた。
桂木は正面へ向き直り、室内を確認する。まずは屋内での敬礼の要領に従い最上級者ーーこの場合は海軍大臣へ敬礼しなければならない。
室内には三名の人物がいたーーがガラス窓からの逆光で顔を窺い知る事は叶わなかった。
内の二名は応接用のソファへ並んで腰掛けており、残る一名は海軍大臣用の執務机の椅子へ腰掛けている。
状況から見て、そして常識から考えても執務机に座る者こそが最上級者である海軍大臣と捉えた桂木は両足の踵を鳴らして合わせると頭を下げて敬礼する。
ーーその時だ。
「ーー久しいな桂木。最後に会ったのは……前線視察の朝だったか」
ーー朗らかな声ーーそれも聞き覚えのある男の声が桂木の耳を打った。
まさか、と思い桂木は無礼とは知りつつも敬礼から直り、逆光の眩しさに眼を細めながら声を発した本人である海軍大臣へ視線を向ける。
執務机から立ち上がった海軍大臣が静かな足取りで桂木へ歩み寄りーーその姿を完全に捉えた時、彼は今度こそ驚愕と困惑で眼を見開いた。
「ーーそんな……まさか…!?」
「おいおい……まるで化け物か幽霊にでも出会したような顔だぞ?」
「大臣、お戯れが過ぎますよ」
「とはいえ……奴からすれば我々は幽霊にしか見えんだろうよ」
桂木の反応に苦笑する大臣に続き、ソファへ腰掛けていた二名も言葉を発したーーその声も聞き覚えがある。
桂木は呼吸を調え、唾を飲み込むとーー意を決して眼前の三名の名を言い放つ。
「…山本長官……南雲長官……山口司令……でありますか?」