発:海軍省 宛:トラック泊地鎮守府司令長官   作:戦闘工兵(元)

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「…嘘だろう…?」

 

 深夜−−既に日付が変わった時間帯にも関わらず竹田大尉の執務室には灯りが点いていた。

 

 机上には何枚もの用紙−−桂木が夜になるまで解き続けた各種問題用紙がある。

 桂木の解答を模範解答と照らし合わせながら彼は深夜まで採点をしていたのだ。

 

「正解ばかりだ…これは海兵や海大の入試問題だぞ…」

 

 海兵とは海軍兵学校、そして海大とは海軍大学校の事である。

 

「海兵の学術問題は…一般常識に精通しているならば正答は難くない…が無論、そう易々と解ける問題ではない。海大の軍事学に至っては…かなりの専門知識を有する士官でなければ…」

 

 う−む、と唸りつつ竹田大尉は机上に設けたベークライトの黒電話の受話器を取り、耳へ当てる。

 

<−−はい、交換台であります>

 

「竹田大尉だ。電信室へ繋いでくれ」

 

<了解しました。暫しお待ちを>

 

 鎮守府内に設けられている電話交換所の交換手に通話先を伝えると一旦、電話が切れた。

 

 交換手がジャックを入れ換えるまでは少々時間が掛かる。

 

 とはいえ内線だ。1分も掛からず電話が繋がった。

 

<−−はい、電信室>

 

「竹田大尉だ。至急、海軍省人事局長宛の電文を打て。本文を伝える。良いか?」

 

<はっ、どうぞ>

 

「“確認終了セリ。海兵ナラビニ海大甲種ニ相当セシ学力ヲ認ム"。以上だ」

 

<復唱。“確認終了セリ。海兵ナラビニ海大甲種ニ相当セシ学力ヲ認ム"。了解しました。直ちに>

 

「頼んだ」

 

 竹田大尉は受話器を戻すと椅子の背凭れに深く沈み込む。

 

「…大臣の直々の御命令と言い、桂木少佐と言い…良く判らん状況だ。…どうなる事やら…」

 

 寝室へ戻り、就寝するのも億劫だったのか彼は椅子に腰掛けたまま瞳を閉じた−−

 

 

 

 

 

 

 

 海軍兵学校は分刻みのハードな時間割で知られる。

 

起床:5時30分(冬は6時)

朝食:7時

授業:8時10分〜12時

昼食:12時10分

授業:13時10分〜14時

授業(軍事学等):14時10分〜15時20分

運動及び教練:15時30分〜16時30分

夕食:17時30分

自習:18時30分〜21時(冬は21時30分まで)

巡検準備:21時15分(冬は21時45分)

巡検及び消灯:21時30分(冬は22時)

 

 これだけハードな日々を送り、骨身に染みるまで鍛えられれば−−

 

「−−……む…」

 

−−4時過ぎに起きてしまうのは仕方ない。

 

「−−−−」

 

 独房から移され、鎮守府内に宛がわれた部屋のベッドで桂木は目を醒ます。

 

 鍛え上げ、8個に割れている腹筋を使って裸の上半身を持ち上げると彼はベッドの縁に腰掛けつつ五分刈りの頭をバリバリと掻く。

 

「……誰だったかな…“その腹筋で洗濯が出来そうだ"と言ったのは……松田だったか?…いや…後藤の奴か?……まぁ良い…」

 

 割れた腹筋を洗濯板に見立てた同期の顔と名前を思い出そうとしたが阿呆らしく面倒臭くなったのか桂木は立ち上がる。

 

 扉まで歩み寄ると内側から軽くノックした。

 

「−−おはようございます。お呼びでしょうか?」

 

 扉を開け、桂木へ挨拶と共に挙手敬礼したのは陸戦隊の柳瀬一水だ。

 

「立哨が交代したのは知っていたが貴様だったか…御苦労。……少し身体を動かしたい。外を駆けたいのだが…大丈夫か?」

 

「は、はぁ…。しかし…まだ総員起こしの前ですので−−」

 

「海兵団であれば起床前に行動すれば平手もしくは鉄拳制裁か精神注入棒(バッター)だろうが……まぁ大丈夫だ。班長には俺の所為で走らされた、と言え」

 

「…よ、宜しいのですか?」

 

「まぁ…自ら進んで身体を鍛えようとするのだ。班長も強くは言えんだろう」

 

 冗談めかして頼み込む桂木に対して柳瀬一水はなんとも言えない表情をしたが−−やがて首肯した。

 

 

 

 

 

 

 

「−−いかんな…独房にいた所為で身体が鈍っておる……あぁ…飯も食っておらんからか…」

 

「−−はぁ゛はぁ゛…っ…か、桂木少佐…!!も、もう10周ですよ…!!?」

 

「−−貴様は3周遅れだな柳瀬。俺より若いのだ、気張らんか…先に行くぞ」

 

 やっと東の空が白み始めた頃、運動場の一周500mのトラックを走り続ける二人の人影。

 

 運動服が貸与されていない桂木は(尤も体格が体格なのでサイズが合う服の在庫があるかは微妙)上半身裸、裸足のまま走り続けている。

 

 一方の柳瀬一水は軍装を解き、袖を通している麻襦袢(シャツ)は汗を大量に含んでいた。

 

 息が上がり、顎が出るモノの少佐である桂木に対して柳瀬は一等水兵。つまり下っ端だ。

 

 上官が走り続けているのに下っ端の柳瀬が途中で止める事など出来る訳がない。

 

 ぜぇぜぇと荒い息を吐きながらも脚を上げ、腕を振って走り続ける。

 

「−−そら柳瀬。走れ走れ。海兵団で海軍精神ぐらいは学んだだろう?」

 

「−−は、はいっ!!」

 

 もう追い付いたのか、桂木が柳瀬一水の隣に並びつつ声を掛ける。

 

 柳瀬は走り続けながら息も絶え絶えの中、海兵団で時には言葉で、時には鉄拳制裁や精神注入棒を用いられて嫌というほど叩き込まれた海軍精神を諳んずる。

 

「−−スマートで!!目先が利いて!!几帳面!!負けじ魂!!これぞ船乗り!!でありますっ!!」

 

 スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り。

 

 これが帝国海軍の伝統のひとつだ。

 

 “スマート"とは敏捷である、機敏である、スピィーディーである、頭の回転が速い、身のこなしが良い、洗練されている、颯爽としている、無駄が無い、形式に拘らない、明朗である、ユーモアがあるなどの感覚をまとめて表現したもの。

 “目先が利く"とは先見の明がある、人より先の事を考えている、臨機応変で視野が広い、進歩的である、周囲に対する気配りに優れている、大勢が把握できる、危険予知能力があるということ。

 “几帳面"とは整理整頓がされている、責任観念が旺盛である、時間を守る、確実である、清潔である、他人に迷惑をかけない、物・心両面の用意が出来ているということ。

 そして“負けじ魂"とは、苦しく困難な局面においても任務を投げ出す事なく、全力で最後まで努力しようとする心持ちの事だ。

 

 これこそが海軍精神である。

 

「そうだ。…息が苦しいか?そんなモノ気にするな。気の所為だ。死ぬ訳じゃあるまい。−−貴様にも負けじ魂があるなら走れ走れ走れ!!」

 

「は、はいっ!!」

 

 この朝のランニングは“総員起こし15分前"の放送が流れる寸前まで続けられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「−−桂木少佐、失礼致します」

 

「−−応」

 

 宛がわれた自室の寝具を整えたは良いが何もする事がなく暇を持て余していた桂木に扉の向こうから声が掛けられる。

 

 応、と入室の許可を出せば、扉を開けて入って来た給仕の水兵が立礼する。

 

「−−失礼します。…あの…本日は…如何致しますか?」

 

「…毎度毎度、喫食を断ると貴様や烹炊の者に申し訳ないからな……頂くとしよう」

 

 入室して来た水兵は桂木が独房に収監されていた間、毎日のように食事を運んで来た者だった。

 

 彼も柳瀬一水のように特年兵のようで、今日も断るのは気が引けたのか桂木は朝食を食べる事にした。

 

 それを聞いた水兵は安心したように肩の力を抜き、手に持っている朝食が載ったトレイをデスクの机上へ置く。

 

 献立は玉葱と白菜の味噌汁、昆布の佃煮、大根新漬、そして米を混ぜた麦飯だ。

 

 食事の支度が整ったのを見て桂木が椅子へ腰掛け、食事の前に黙想を終えると一礼した。

 

 箸を掴み、まずは味噌汁の椀を取って一口を静かに啜る。

 

「−−旨いな。…ところで外に立哨−−柳瀬一水はおらんのか?」

 

「はい…妙ですが…おりません。奴が勝手に持ち場を離れるとは思えませんし……」

 

「現に居らんがな。…確か…貴様は熊谷一水−−あぁいや…烹炊班だ。一主だな。貴様も特年兵のようだが…歳は?」

 

「はっ。柳瀬と同じ海兵団に入団致しました。歳は17であります」

 

「…そうか…」

 

 やはり特年兵だったか、と桂木は熊谷一等主計兵を横目に見ながら食事を続ける。

 

「…同期は生涯の友にして良き好敵手だ。大事にせい」

 

「はっ」

 

 熊谷一主が了解の返事を短く伝えた瞬間、部屋の外から微かだが物音がした。

 

 耳聡く聞き付けた桂木は食事を中断し、扉へ視線を向ける。

 

「−−誰か?」

 

 鋭く低い声で桂木が誰何すると外から小さく、柳瀬一水であります、と返事が来る。

 

「柳瀬か……入れ」

 

「−−…はっ…失礼します」

 

 彼は柳瀬へ入室を促すと一旦中断した食事を再開した。

 

 躊躇いがちに扉が開かれ、柳瀬一水が顔を覗かせる。

 

「厠にしては長かったな?」

 

 食事中にも関わらず桂木は顔色ひとつ変えずにそんな事を平然と抜かした。

 無論、箸を止めないままでだ。

 

「持ち場を離れ申し訳ありません。点呼後に班長に呼び出され遅くなりました」

 

「…怒られたか?」

 

「…はい。早朝に私が桂木少佐と運動場を駆けていたのを班長に見られ…」

 

「…そうか。しっかり俺の所為だと言ったな?」

 

 無作法だとは知りながらも桂木は昆布の佃煮を口へ運びつつ問い掛ける。

 

「−−いえ、申しませんでした。いずれにせよ、やった事には違いないので。ですが身体を鍛えようと思った、とは申しました」

 

「…それで何と言われた?」

 

「これからも続ける気か?と問われ、はい、と答えると、以後黙認する代わりに本日の朝飯はなし、と」

 

 それを聞いて桂木は嘆息すると箸を置き、柳瀬一水へ向き直る。

 

「柳瀬、俺は言った筈だぞ。班長に何か言われたら俺の所為にしろ、と。…だが…まぁ過ぎた事を言っても埒が明かん」

 

「申し訳ありません…」

 

 頭を垂れながら謝罪する柳瀬一水を見ながら桂木は立ち上がった。

 

「−−食い掛けは嫌かも知れんが…朝飯抜きでは午前の体力が持たん。残りは貴様が食え」

 

「は……?」

 

「熊谷一主。折角、持って来てくれたのを済まんが貴様の同期を助けると思って眼を瞑ってくれ。こいつが空腹のあまり烹炊所からギンバイするよりはマシだろうからな」

 

「はっ、了解しました」

 

「お許しが出たぞ。さっさと腹に入れろ」

 

 着席して朝食を摂るよう促す桂木だが、柳瀬一水はとんでもない事を言われた心持ちがした。

 

 なにせ士官の食事を一介の兵が食べるなんて事は、まず有り得ない。

 

 それこそギンバイしなければ口にする事は叶わないだろう。

 

「し、しかし…」

 

「貴様はまだ若いんだ。それも今が食い盛りだ。四の五の言わず、さっさと食わんか」

 

「柳瀬。桂木少佐もこう仰っておられるんだ。早く食べてくれ、冷めてしまう」

 

 桂木と熊谷一主が渋る柳瀬一水へ畳み掛けると−−

 

「い、頂きます…!!」

 

「応。全部食って構わんぞ」

 

「はっ!!」

 

−−柳瀬一水は桂木に礼を述べた後、着席して箸を取り、猛烈な勢いで食事を掻き込み始めた。

 

 相当、腹が減っていたのだろう。

 

「桂木少佐。お茶をどうぞ」

 

「あぁ…済まん」

 

 熊谷一主から手渡された湯呑を取った桂木は必死に食事を摂る柳瀬を見て苦笑する。

 

 

(しかし……やはり煙草が欲しいな。…食後の一服ぐらいはしたいモノだ)

 

 心中で煙草が吸いたいとぼやきながら桂木は茶を啜った。


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