発:海軍省 宛:トラック泊地鎮守府司令長官 作:戦闘工兵(元)
昭和20年4月7日 九州 坊ノ岬沖
「−−総員退去−−っ!!総員退去−−っ!!」
「−−総員最上甲板っ!!退艦せよ−−っ!!」
傾斜がキツくなった艦内の各部署、そして全ての甲板を伝令の水兵が駆け回る。
黒く塗装された甲板は爆弾の炸裂により塗料が剥がれ落ち、かつて日々の甲板掃除で磨き上げられ光沢を放っていた頃の美しい材木の片鱗を所々に露出させていた。
「−−退艦だ!!早くしろ、早く!!動ける者は速やかに退艦せよ!!」
三種軍装の戦闘帽を何処かへ置いて来たのか、はたまた戦闘の最中に紛失したのか、一人の海軍士官が五分刈りの頭や顔を戦闘の埃で汚しながら鬼気迫る勢いで下士官や水兵を叱咤し退艦を促している。
階級章を見る限りでは少佐のようだが−−まだ若い。三十路は超えてはいないだろう。
「−−…帝国海軍の終焉か…いや−−」
−−その終焉はミッドウェーで…もっと遡れば真珠湾の失敗で悟っていた筈だ−−
そう心中で付け足した若い少佐は粗方の下士官や水兵の誘導を済ませた事を確認し、自分も甲板へ出ようとした−−
「−−…置いてかないでくれ…置いてかないで…!!」
「−−死にたくない…死にたくない…っ!!」
「−−お母ちゃん…お母ちゃん…!!」
−−背後から耳朶を打ったのは艦内の至る所に置き去りにされた身動きの取れない負傷兵達の救いを求める魂の底からの声。
それに足を止めた彼は彼等の場所へと向かおうとしたが−−踵を返す事なく先程よりも傾き始めた艦内通路を駆け出した。
小声で“済まない"と何度も呟きながら−−
巨艦が傾斜角の限界を超えようとしていた。
破壊された機銃が、持ち主を失った鉄兜が、戦死者が、海中投棄が間に合わなかった数多の薬莢や千切れ飛んだ手足が甲板を滑り落ち、ギギギッと重苦しい音を奏でつつ巨砲である9門の三連装の46cm主砲が勝手に旋回を始める。
「−−もう限界だ…これ以上は持たん…っ!!」
「−−良いか貴様等っ!!海に飛び込んだら、とにかく艦から離れろ!!距離を取るんだ!!渦に巻き込まれるぞ!!」
「もし渦に巻き込まれたら絶対に慌てるな!!眼を開けて、とにかく海面を目指して水を蹴れ!!」
「−−…行くぞ…飛び込めぇぇっ!!」
生き残った士官、下士官、水兵を問わず、とにかく動ける者達が海へ飛び込んでいく。
「−−ブハッ!!急げっ!!急いで艦から離れろ!!“大和"から離れろ−−」
海へ飛び込んだ若い海軍少佐が周囲に浮かぶ生存者達へ指示を飛ばした瞬間−−大艦巨砲主義の究極の形とも言える大和が完全に転覆した。
時に昭和20年4月7日14時23分。
お碗を引っくり返したかのように転覆した、と後に目撃者の一人は証言している−−
(−−クソっ…思ったより渦が出来るのが早い……っ!!)
沈没によって引き起こされた渦によって海面に浮かんでいた溺者が次々と海中へ引き込まれて行く。
その中には若い海軍少佐もいた。
海兵で学び、現場で培った経験通りに眼を開き、必死で沈み逝く大和とは逆方向へ−−海面を目指して水を蹴る。
渦の勢いでボタンが千切れ飛んだ三種軍装の上衣が大和と共に海中へ消えて行く。
それを感覚で感じながら兎に角、水を蹴り続ける−−その時だ。
真下へ沈み逝く大和が突然の大爆発を起こし−−彼や周囲の溺者達が一斉に海面を飛び越え、空中へと身を踊らせた。
(……ただの一発も撃てなかったな……やはり46サンチも航空機の前では無用の長物だった。……“長官"……今…御側に参ります−−)
雲量10。黒く立ち込めた雲が隠した空を爆発で打ち上げられた若い海軍少佐は半ば呆然と見遣った後−−眼を閉じた。