お題が来ない限り更新ないです。
五月二三日、この日の始まりは、延珠からのキスであった。
「いきなりなんだよ」
目を擦りながら、何か延珠がご機嫌になることでもあったのだろうかと寝ぼけ気味の脳味噌を働かせる。いや、働かせている場合か。延珠からのキスに慣れてしまっている自分に危機感を持て。常識的に考えればアウトだろう。
追撃が来ないうちに、蓮太郎は延珠から距離をとった。
「なんだもなにも、今日はキスの日ではないか」
キスの日、一九四六年に日本で初めてキスシーンが登場する映画『はたちの青春』が封切りされた日を、日本が記念日として制定したためにできたものだ。
寝間着姿の延珠の瞳はキラキラと輝いている。ついさっき知った情報をろくに調べずに使う若者特有のそれと、蓮太郎にアプローチするには絶好のチャンスだといった欲が入れ混じっていることを、一年も一緒に過ごしている蓮太郎は即座に感じ取った。
「テレビか、テレビで知ったのか」
「グークルさんだ!」
延珠はドヤ顔でソースを公開する。ああそうだ、延珠がろくでもないことを覚えている時の発信源は大体がグークルだった。
頭を抱えながら、蓮太郎は間違った情報を訂正する。
「だからグークルさんとは関わり合いになるなって言ってんだろ。それとな、キスの日は別に『キスしましょう』って勧める日じゃねぇぞ」
「そ、そうなのか⁉」
「そうだ」
延珠は心底驚いたようで、たたらを踏んだ。よほど好機と思ったのだろう。あってたまるか、キスを勧める日など。もしあったのなら、延珠は街中でキスをしてくるだろう、見せつけるように何度も。根拠はある。延珠は多田島警部の目の前でキスをしてきたのだから。
そんなことをされるなら、聖天子様の所まで行って「東京エリアだけキスの日を無くしてくれ」と一世一代の土下座をするのもやぶさかでない。
「だから、キスはさっきの一回だけにしてくれ。世間体的にもこれ以上は拙い」
延珠はわなわなと震え、何かに耐えている。いや、ダメージが大きすぎるだろ。
「わかった、妾からはしない」
いやに物分かりが良かった。少し心配になるくらい。延珠ならもう少し粘ってもいいのではと蓮太郎が思ったその矢先。
「代わりに蓮太郎から一回、妾にキスするのだ」
「はぁッ⁉」
人生で最も裏返った声が出た。高音すぎて自分のものだとは一瞬気づけなかった。それよりもだ。
「お前何言ってんだよ! バ、場罵馬バッカじゃねぇの⁉」
「馬鹿は蓮太郎のほうだ! 妾がキスの日を知ってどれだけ喜んだと思っているのだ! お互いの愛を確かめるようにキスしキスされといった一日を想像していたのに!」
「知るかぁ!」
パニックに陥った二人で狭い室内をばったばったと駆け回り、下の階の住民は物干し竿か何かでこの騒音に対する抗議の床ドンをしてくるわで、小一時間はめちゃくちゃであった。
冷静になって下の階の住民に謝罪した後、部屋に戻るとそこには不貞腐れて三角座りしている延珠の姿があった。
覚悟を決めるしかなかった。
「キスもしてくれないヘタレな蓮太郎が帰ってきた」
的確な罵倒に、覚悟がへし折れそうになる。確かに自分からしたことはない。木更さんに真正面から気持ちを伝えられてもいない。改めて自覚した。里見蓮太郎はヘタレだ。
なら、これはそのヘタレから脱却するチャンスじゃないのか。再度覚悟を決める。
「悪かったよ。だから、その、なんだ。キス、してやるよ」
「その言葉を待ってたぞ蓮太郎!」
直後に延珠の表情が一転、晴れやかなものになり、姿勢はキスを待ち焦がれているのがあからさまに見て取れるものに。
「目、瞑ってくれ」
延珠は蓮太郎の指示に従って目を瞑り、彼からのキスを待った。延珠の頬は赤く染まっている。それに気づいた蓮太郎も、自分の頬が紅潮していることに気づく。
「いつか、唇のほうにもやるからよ、今はこれで我慢してくれ」
蓮太郎は延珠の小さな手をとり、そこに口づける。軽く、触れるように。
「まったく、蓮太郎は仕方のないやつだな」
そう言った延珠は、幸せそうな笑みを浮かべていた。
キスの日も、悪くないもんだな。と蓮太郎が思ったその時、何者かが玄関を勢いよく開ける音が室内に響いた。
「里見くん、今日がキスの日って言われてるのは本当なの⁉」
「お兄さん、今日はキスの日と聞きました!」
木更とティナの来客により、蓮太郎はこの後の展開を察した。
ちなみに、蓮太郎は延珠の手をとった状態のままである。
「前言撤回だ……」
キスの日、聖天子様に頼んで無くしてもらおうかな。