おーばーろーど ~無縁浪人の異世界風流記~   作:水野城

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勇気ある者

 旅は道中での難儀が多いという。町から町に行こうものなら、道中で何度モンスターか野盗に襲われるか分かったものじゃない。この世界で護衛を伴わない旅は大変危険なものだと、行商人から教わった。

 当面の目標は大陸を見て回るとしていたが、別に急ぐ必要のない旅である。どこかに格別の用事がある訳でもない。

 

 エ・ランテルの活気はゴンベエに合っていた。冒険者が大勢生活しており、それに伴い商人や食料がよく流れて来る。毎年行われているという帝国との戦争も一因していた。三国の境界に位置しており、交易商人たちの町でもある。昼は人々が行き交い、夜は冒険者たちの騒ぎ声が酒場から聞こえてくる。

 ゴンベエはこの町が気に入った。いざ住もうと思えばこれ位の町が丁度良いものだ。無縁であるが故に気に入ればとことん気に入るのがこの男である。正直、ブレインに世話になるのは心苦しかったが、意外と面倒見が良い男であった。断るのも忍びないので甘んじて受けていた。

 

 ゴンベエは、すっかり友人となった宿屋の親父に安い茶を淹れてもらい、ロビーでのんびりとした昼時を過ごしていた。

 

(王都の街並みはどのようなものかな)

 

 漠然とそう思うが、行こうとは思わない。当てのない旅だ。ここから帝国に行ってもいいし、法国に行ってもいい。伝説や伝承に事欠かない世界だ。何処に行こうが目新しい出会いと発見があることだろう。そういう感性は大事にしたいものだと、ゴンベエは思う。

 

 ウエスタンドアの軋んだ音が聞こえてそちらを振り返ると、ブレインが昂った顔で詰め寄って来て、突然言った。

 

「旦那。今日は一日宿に居とけ」

 

 初めて出会った時のブレインがそこには居た。野生の獣を思わせる気配を振りまきながら、そう言うのだ。その昂った感情は顔を見ただけでは判断できない。何かに怒っているのか、ぼんやりそう感じただけでゴンベエは考究しようと思わない。意味もなくそういう事を言ってくる人間ではないと分かっていた。ブレインがそうしてほしいのなら、そうするだけである。

 昂った顔のまま、用件だけを告げるとブレインはさっさと出ていってしまった。余程のことだなと、ゴンベエはゆらゆらと前後に揺れるウエスタンドアを一見すると他の客の視線を気にせずに、ゆったりと茶を飲み続けた。

 

 ブレインが戻って来たのは、夜も更けた時分であった。昼時に会った時より落ち着いていたが、少々粗暴な佇まいであった。

 

「行くのか?」

 

 何も訊かず、ブレインにそう問うた。彼は頷く。ゴンベエは椅子に立て掛けていた刀を手に取り、宿屋から出る途中で帯に挟んだ。

 夜の世界にあると、人の営みは落ち着いたものとなっていた。通行人もちらほらとしか見えない。まさか夜釣りに行こうなんて訳ではないだろうし、黙ってブレインに付いて行く。

 

「昨日会ったイカれた女を覚えているか?」

 

 イカれた女とは、あの金髪の猫みたいな女のだろうか、とゴンベエは返した。ブレインは渋い顔したが、構わずに話を続ける。

 

「昨日の夜、あいつを見かけたから後を付けてみれば、貧民街で人を攫っていやがった」

 

 そういえば、昨日の夜はブレインがどこかに出かけていたなと思い出した。大の男なのだから、色々堪っていることもあるだろうと何も言わずにいたがそんな事をしていたとは思いもしなかった。ゴンベエは妙に嬉しくなってきた。

 ゆっくりとこの世界で人生を謳歌できるとは思ってもいない。ちょうど刺激が欲しいと思っていた所だった。そこに面倒事がやって来た。口元が僅かに綻んだ気がした。

 

「今朝も見かけてずっと後を付けててな、今夜も貧民街に行ったみたいだ」

 

「なぜ、そこまでするんだ?」

 

 当然の疑問であった。ブレインが義侠心でも目覚めたというのなら納得できるが、あれから半月も経っていない。心境の変化なんてそうそう簡単に起こることじゃなかった。

 

「さあ、なんだろうな」

 

 何かを誤魔化すような言い方だった。ゴンベエはその言葉の奥に隠されているものを見抜いた。それは気恥ずかしさであった。普段は気さくな男である。隠し事という言葉はブレインには似合ってもいない。

 

「あんたに影響されたのかもな………」

 

 ゴンベエは疑問を頭に浮かべた。正直に言って今まで何かをしたような記憶はない。影響を与えるような行動は何も起こしていないつもりだ。

 すると、ブレインの口から立て続けに言葉が飛び出す。それはゴンベエが思ってもみない物言いであった。歯切れ良くぽんぽんと言葉が続く。

 

「あの女はこの町で何かをやってやがる。具体的には分からないが、俺はそれを見逃せるほど腐っちゃいない」

 

「お前………」

 

 素直にゴンベエはブレインの言葉に感動していた。突然惚れたなどと言い出すかと思えば、常に刀を振っていたり手入れをしていたり、その他への興味が薄い男だと考えていたが違った。

 

 ブレインが変わろうとしているのだと気付く。ブレインの過去に何があったかは正確には聞いていない。ガゼフという男に負けたなどの断片的な情報を他の人から又聞きしたに過ぎない。本人から語られたことは無いのだ。それを直接訊くような無粋な真似をゴンベエはしなかった。ある日酒でも交えながら、ふと話してくれたらそれでいいと思っている。

 

「今夜も貧民街に行ったみたいだ。旦那―――」

 

「もちろん行こう」

 

 最後まで聞かずにゴンベエは答える。ブレインは自分の我が儘にゴンベエを付き合わせるのは忍びないと思っていたのだろうが、そんな事はこの男には関係ない。友が何かをなそうとするなら、黙って手を貸してやらねばならない。

 

 肩を並べながら脇道を歩き、大通りに出る。永続光(コンティニュアル・ライト)が唱えられた街灯が等間隔に設置されていた。夜中であろうと足下が見えないことは無いだろう。

 石畳の道を酒場から聞こえてくる陽気な声をBGMとして二人は歩く。

 

 ブレインが不意に口を開いた。

 

「漆黒の剣の奴ら………」

 

 突然、何を言い出すのかと思えば、予想外の言葉であったのでゴンベエは目を見張った。ここで彼らの名を出すという事は、この行動に何かしら関係しているのだろうと考えるが、本心までは見抜けない。

 

「あいつらのチーム名の由来、覚えてるか?」

 

「ああ。確か黒騎士の魔剣だったか?」

 

 かつて存在した十三英雄の一人である黒騎士と呼ばれた者が持っていた四本の魔剣。それをメンバー全員で持つことを夢見ていると言うのだ。大それたことだと思う、現在も残っているのか分からない魔剣を探してメンバー全員で持つなど。

 

「若気の至りと言っていたが、それを持てば英雄の仲間に入れるとでも思ったのだろうな。俺にはあいつらが眩しく見える」

 

 ブレインは、どこか遠い眼をすると頭の後ろで両手を組み、夜空を見上げる。大きな月がブレインを照らしていた。

 

(そうか………)

 

 ブレインもこの町と漆黒の剣のことを気に入っているのだ。だから、こんな事をする。気恥ずかしさの正体はこれだったのだ。良い男だと心底思った。

 

「だが、夢はいつまで経ったって夢なんだ」

 

 ガゼフ・ストロノーフの顔が頭に浮かぶ。彼の記憶の中にあるガゼフの強さを抜いた確信はあったが、あれから長い時間が経っている。それに伴いガゼフも強くなっているはずだ。

 なら、ブレインはどこまで強く鍛えればいいのか天井が見えてこない。ガゼフを倒すために作った技もゴンベエの前には児戯のようにあしらわれた。まだまだ強くならなければ。

 

「そうか? やってみなければ分からないだろ? 無いのなら無いで、自分で作ればいい」

 

 魔剣を作るなんて発想自体、おかしいと言わざるをえない。ブレインは苦々しく笑った。

 

「強くない奴らが大層な夢を持つことがおかしいんだよ。この世は才能だ」

 

 ブレインは何も本心でそう言っているのでない。漆黒の剣の四人はとても将来性がある男たちだった。ブレインは彼らの才覚を見抜いていた。いつか必ず有名な冒険者として名を馳せることになるだろうと、確信にも似た何かをブレインは彼らに抱いていた。

 

「何も剣を振るって、モンスターを倒すのが強さではないだろう」

 

「なら、旦那の言う強さって何だ?」

 

「さあ、何だろうな。俺にも分からないよ」

 

「なんだよそれ」

 

 拍子抜けの答えであった。ゴンベエのような強い者なら、何か心を打つような言葉でも言ってくれるのかと思っていたのだ。

 

「ただ、勇気のある奴は強いと思う」

 

「勇気?」

 

「ああ、自分の弱い心を認めそれに打ち勝ち、正々堂々と言いたいことは包み隠さず口にする。俺はそういう者が本当に強い奴だと思う」

 

「弱い心に打ち勝つか………」

 

 ブレインは何か思うことがあったのだろうか。ぽつりぽつりと言葉を発する。

 

「旦那には直接は言っていなかったが、俺はある男を越えることが夢だ」

 

「ああ」

 

 ゴンベエは何となくは分かっていた。時々聞く、ガゼフ・ストロノーフの名前と御前試合の話。

 

「俺はそいつに勝てるだろうか?」

 

「どうだろうな。やってみなければ判らないとしか言えないが、そういう考えは大切にした方がいい。出来るか分からないという疑問が、勇気を生む第一歩だと思う」

 

 ブレインは何も言わなかった。何もゴンベエの言葉に納得した訳ではないが、そういった考えもあるのだなと覚えておくことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 貧民街はこの世から見放された区画である。そういった場所は当然のように犯罪者や物乞いの巣窟となっている。後ろ暗い者たちが潜伏するのにも持ってこいの場所である。治安は悪く、犯罪は横行していた。

 今夜もワーカーと呼ばれる金に汚い者たちが仕事の依頼を受けにここに集まっていた。だが、彼らが生きて金を受けることはなかった。依頼の主はクレマンティーヌ、彼女の依頼はあらゆるマジックアイテムの使用可能というタレントを持った、ンフィーレア・バレアレの監視を頼むことだったのだが、頼み方が尋常ではなかった。

 

 まず目の前の三人の男を瞬く間に殺した。彼女の持つスティレットはミスリルにオリハルコンをコーティングした逸品だ。人体など容易に穴だらけにできる。最後に一人だけを残すと、クレマンティーヌはその男と話を始める。

 

 その様子を、ゴンベエとブレインの二人は古びた建物の陰から観察していた。少し距離が離れていたため、正確には聞き取れなかったが先ほどの虐殺と打って変わって意外と話し込んでいる。

 

 ゴンベエは背後のブレインをちらりと見た。柄に手を掛け女とやり合う気満々といった感じだ。

 

 ゴンベエには一抹の不安があった。彼はユグドラシルではダメージを稼ぐアタッカーを務めることがほとんどであった。それ故に誰かを守るという戦い方を知らない。

 女の強さは不明、他に仲間がいるかもしれない。ブレインを交えて戦うとなれば、守る自信がなかったのだ。弱気とも取れるかもしれないが、まだこの世界での戦闘はブレインとの差しの勝負しかない。ブレインの強さを信頼していない訳ではないが、彼はここで死ぬには惜しい男なのだ。

 

 加えて、ブレインは歴戦の戦士である。もしかすれば女との一対一の勝負を願うかもしれない。もし、そんな事を願われればゴンベエには断る自信が無かった。安全策を取って二人で戦おうと提案をしても、彼は一言の下に拒否するに違いない。そして、それを邪魔をする無粋な真似などゴンベエには出来ない。そんな事をしてしまえば、ブレインの顔を潰す事にもなる。大怪我はもとより、討たれても構わない。そういう決意が彼の顔にあったことをゴンベエは素早く察した。立派な男である。だが、この世界で初めて友となれた男を、ここで死なせる訳にゆかなかった。

 

 ならどうするか、ゴンベエは思案する。

 

(脅すか)

 

 出た結論はそれであった。もちろん相手は女、クレマンティーヌのことである。生半可ではなく、本気で脅さねばならない。危険な男だと、印象付ける。とんでもない男と敵対してしまった。心底そう思わせ、こんな男に勝てるかと逃げてもらえれば大成功である。

 

 ゴンベエは優しすぎた。

 この世界では、命のやり取りは殺すか殺されるしかないのだ。

 この世界では、強者は冷酷でなくてはならない。

 

 結論が出たのを見計らったように動きがあった。クレマンティーヌと話し込んでいたワーカーが、彼女に後ろを見せて逃げ出したのだ。クレマンティーヌは追おうとしなかったが、一呼吸するとその背に跳び付いた。

 咄嗟にゴンベエが陰から飛び出し、逃げる男を横合いからぶん殴った。もちろん手加減してだ。そのまま彼はゴミ溜めに頭から突っ込み伸びてしまう。彼を助けるために仕方がないことであったとゴンベエは開き直り、クレマンティーヌと向き合う。互いに抜けば、すぐに命を取れる距離で立っていた。

 

「おんやぁ~~? 誰か後をつけてるのは気付いてたけど、いつかの釣りのお兄さんじゃない。ストーカーなんかして、私に惚れちゃったの?」

 

 からかう様にそう言った。口元は可愛げに笑っているのだが、ゴンベエを見る目は警戒そのものだ。

 続いてブレインが後を追って姿を現した。クレマンティーヌの顔から笑みが消え、両者の手が腰の獲物に伸びる。

 

「待て」

 

 そう言ったのはゴンベエである。凄味のある声が両者の間で響いた。獲物に手を掛けた状態で二人は動きを止めた。

 

「武器を抜けば生きるか死ぬかふたつにひとつだ。その覚悟はあるのか?」

 

「ああぁ!? 何言ってんだテメェ!!」

 

「死ぬ覚悟はあるかと訊いている」

 

 クレマンティーヌの肩が、どっと重たくなった。まるで巨岩を載せられたような、それほどの重みがゴンベエの声に込められていた。敵ではないブレインさえ、身体が硬くなったのを感じたほどだ。

 

「な、なにを偉そうなこと言ってんだぁ! このクレマンティーヌ様に向かってぇええっ!!」

 

 クレマンティーヌは自分の強さに絶対的な自信がある。人外、英雄の領域に足を踏み入れてもまだまだ伸び代があると自負し、勝てないと思う相手でもいつかは抜けるという確信があった。

 だが、別格というものはどんな世でも存在した。彼女の故郷であるスレイン法国には神人と呼ばれる者達がいた。過去に存在した神々、プレイヤーの血を受け継ぐ存在である。漆黒聖典の隊長と聖域を守るアンチクショウ。絶対に勝てないと思えたのはこの二人だけだが、いつか越えてみせるという向上心は外道になろうが持ち続けていた。

 その終着点は、自分を見下してきた兄や両親に分からせてやるという復讐にも似た願望。彼女の真正面にいるこの二人も、その長い道のりの道中にしか過ぎない。

 

(手足をもぎ取ってから謝らせてやる)

 

 スティレットを握った手に力を伝えようとしたその時、気が付いてしまった。

 いつ抜いたのか、ゴンベエの右手には抜身の刀があった。クレマンティーヌがスティレットを抜こうものなら、そのまま切り捨てる構えである。

 クレマンティーヌには、彼がいつ抜いたのかさえ分からなかった。知覚できない一瞬の抜刀、その気なら首が飛んでいたことだろう。背筋に悪寒が走った。

 動揺して揺れる瞳で、ちらりと刀身を見る。その白刃は波打つかのように美しく、それでいて濡れていた。露であった。掲げるように持ち上げていたため露は付け根に溜まる。やがて雫となりゴンベエの足下に落ちた。クレマンティーヌの爪先を凍り付くような寒気が襲う。小さく「ひっ」と彼女は悲鳴を上げた。

 

 強力なマジックアイテム。法国の至宝にも勝るとも劣らない武器だと、一瞥するだけで分かった。

 

 敵愾心が滾る。あのバケモノに似た者がこんな所にいるのが信じられない。

 

(何で、なんで、なんでこんな所に!!)

 

 ―――勝てない。

 

 そう確信した。ただ剣を抜いただけなのに、圧倒的な実力を見せつけられた。屈辱と怒りで頭が狂いそうになっていた。この手で絞め殺してやりたい。

 素手でなら引っ掻き傷の一つでも作れるかもしれない。スティレットを抜けば死ぬだろう。メイスではまず無理だ

 

 クレマンティーヌは行き場を失った両手を握ったり開いたりしている。凍えるような寒気に襲われているのに汗が出てきていた。

 

「抜かないのか」

 

 唸るようにゴンベエが言った。クレマンティーヌの身体がビクッと飛び跳ねる。

 

(これはいけるか?)

 

 上手く演じられたと、ゴンベエは安堵する。見るからにクレマンティーヌの顔は青ざめていた。

 

「旦那、逃がすことはない」

 

 ブレインはゴンベエの思惑に気付き始めていた。逃がして後で厄介なことになるのは自分らなのだ。それならここで禍根を断っておけば、今後彼女に襲われることはない。 

 彼の言いたいことは十分理解していたが、ゴンベエはただの一般人でもある。ただのゲームのプレイヤーなのだ。いざ、人を斬ることに躊躇しても仕方がないのだ。剣を持つものは時に薄情にならねばならない。

 

「に、逃がしてくれるの?」

 

「ん、ああ。そうだな………」

 

「おい!」

 

「ほ、本当に……!?」

 

 クレマンティーヌは媚びを売るような上目遣いをしてくるが、その眼の奥にはまだ火のようなものが燻っているように思われた。

 

「俺の気が変わらん内にだ」

 

「わ、分かった。すぐに目の前から消えるから」

 

 クレマンティーヌが摺り足で徐々にゴンベエから距離を取り、刀の間合いから完全に抜けると、瞬く間に闇の中に消えていった。

 ゴンベエは一息付き、刀を鞘に収めていたところ、ブレインが声をかけた。

 

「どういうつもりだ?」

 

「すまん。何とか穏便に済ませたかった」

 

「逃がしたら元も子もないだろ」

 

「これであの女が心を入れ替えてくれればいいが………」

 

「あの様子じゃあ、また何かしでかすだろうな。旦那、あんた俺の時もそうだったが甘いんだよ」

 

「むむ………」

 

 言い訳はしない。またあの女が何かしでかせば、責任を取って斬り殺すしかないと腹を決めていた。もしも、自分の命を狙うのであればそれはそれで良い。ゴンベエにとって命を狙われるのは、退屈凌ぎのようなものに過ぎない。

 

 

 

 

 

 共同墓地に秘匿に作られたズーラーノーンの隠し神殿に逃げ帰ってきたクレマンティーヌは、腹を括っていた。町は法国の追っ手に監視されている。ただでは逃げ出せない。叡者の額冠を用いて騒ぎを起こしてもらい、それに便乗して逃げる算段であったがあんなバケモノに目を付けられたのだ。騒ぎを起こせば、すぐにでも殺されるだろう。俎上の魚であった。

 

 だが、追い詰められた鼠は猫にも噛み付く勇気を見せる。もしも、あの男を倒せたのなら兄や両親と法国の者たちを、今まで見下してきた者たち全員を見返してやることができる。

 クレマンティーヌは一人。宛がわれていた部屋で、自分の心は折れていないと、何度も何度も自分を騙すかのように心の中で言い続ける。戦意喪失するのはまだ早い。殺されたくはないが、逃げられないのならば牙を剥くしかない。


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