プロローグ
無限の楽しみを追求できるDMMO-RPG
―――ユグドラシル―――
嘗ては日本を代表するゲームとして名声を馳せたが、それももう過去の栄光。各所に多大なる影響を与えながらも、今夜、その幕を下ろそうとしていた。
サービス終了はネットゲームならばいつか必ず訪れるものである。だが、このゲームだけは誰もが別だと考えていた。栄華を極めた文明も一度崩壊すると二度と栄えることはないと言われるように、ユグドラシルも一度右肩下がりになれば、あれよあれよと見る間に下がり続けた。何ともあっけない物であった。
自分は社会という柵に呑まれ、息をつける時といえばユグドラシルをプレイしている時だけだったろう。伸び伸びと感じ、考え、動く。それが出来る唯一の場所であった。
終わっても別のゲームをすればいいと割り切った考えはできるのだが、ユグドラシルで生きてきたもう一人の自分という存在が死んでしまうという事実に、何とも言えぬ歯痒さを覚えてしまう。形容しがたい哀しさが胸にあるのだ。
ソロプレイヤーであった。己の好きなロールプレイを続けてきた。ギルドに誘われたこともあったがやんわり断り、時には野良パーティに入ってアイテム採集に費やすこともあれば、傭兵として雇われ小金稼ぎをしたこともあった。
自由なプレイを行ってきたつもりだ。時には苛烈に戦い、一時の平穏を過ごせばまた戦う。ゲーム内では何よりも喧嘩が好きであった。ゲームの中であろうと身の内にグツグツと滾り立つものを感じたことは数知れず。派手に戦い、暴れ、遮二無二突き進む。
そんな無茶なプレイングであったがやはり思う。本当に悔いは無いか、一つの人生といってもいいユグドラシルをこのまま終えてもいいのか。自由気ままに振舞い、現実でのストレスを散らしていただけであったが、そこそこ名の知れた、知る人ぞ知るプレイヤーの一人にもなれることができた。
だからつい、こぼれてしまう。
「あっけないなぁ………」
湖の傍らで肘をついて寝ている男が、ボソリと呟いた。その言の葉には、言い表せぬ哀しみが込められている。なんとも憂鬱な。
「この辺の自然の美しさには驚いたなあ」
男はゲームプレイ初日の思い出に浸る。ユグドラシルを始めて幾年、色々ありすぎた。だからこんなにも別れが惜しい。
所謂カンストプレイヤー。最も人口の多い人間種のありふれたポピュラーなプレイヤーの一人として、長い時間を他プレイヤーと同じように捧げてきた。
だが、男の装備は何とも見窄らしい。和服の着流し一枚に刀を一振り佩しているだけで、アクセサリーの類はちらほら見受けられるがとてもカンストプレイヤーには見えない風貌である。
しかし勘違いすることなかれ。彼は侍を、正確には浪人をロールプレイしているだけであり、ガチ装備がまた別に用意してある。彼はあらゆるユグドラシル史の場面にふらりと現れては掲示板で叩かれ、称賛された。
背中まで届くポニーテールを振り上げながら彼は立ち上がると、コンソールを開いてフレンド覧を見てみた。やはり何人かログインしている。
メッセージを送るでもなく、ただ載っている名前を見流す。自分と比べて何とも個性的な名前を見ながら彼らとの思い出に浸り、すっかり感傷的な気分に入りきっていた。広いが浅い友好関係、中には親友と呼べた者もいた。そんな者たちと現実では体験できない広く美しく闇が見え隠れする世界を、気ままに見て回った。時には剣を振るって闘い、強者たちと立ち合い、一時の中で親睦を深めた友と語り合う。
自由にプレイしたつもりだ。
「最後にバカなことでもしたら綺麗に終われるか?」
視界の端に映る数字が何かに駆り立てる。最後だ、記念だ、誰だって派手なことをしてこの世界に別れを告げている。プレイヤーが大勢集う街の方からは花火の爆音と閃光が、男の背中にまで届いていた。
時計が、流れる時を数えている。終わりが近い。
終焉を告げる数字が、男を突飛な行動に走らせた。入水自殺とでも言うべきか、湖に飛び込んだ。忽ち水泡が視界を埋め尽し、そのまま時が来た。
0:00:00――――
男は自分の体温が失われていくの感じたが、
気付いたのは直ぐであった。息苦しさに耐え兼ねて水面に顔を出した時だ。
(何だ? 終わってない?)
予定ではリアルに戻っている時間のはずだが、どういうことかまだゲーム内に残っていた。
(いやそれどころか辺りが明るい。夜のはずだったが寝落ちでもしたか………?)
周りの異変にも勘付く。先ほど飛び込んだ湖畔の光景ではなかった。うっそうとした大自然の中、吹く風に木々たちが枝を揺らし、ザラザラと自然の音楽を奏でている。水に浮きながらであったが感動が胸を一杯にした。だが、すぐに冷静になる。妙に肌の感触が気持ち悪い。
(ん? 感触だと………)
おかしい。水の感触が、肌に着流しが張り付く感触にリアリティがあり過ぎる。ゲームではこのような処理は働かなかった。
暫し水面に顔を出しながら無心になった。
「さっさとここを出よう。分からんがイベントでも起こったのかもしれない」
浮いているだけでは何も始まらないと思い畔に上がり、コンソール画面を開こうと手を動かした。
「なに?」
本来なら浮かんでくるはずのメニューが出てこない。他の機能も呼び出そうとするがそのどれもが反応を示さなかった。こんな時にバグか何かしらの不具合が起きたのか、途端に怒りに似た感情が湧き出す。焦っている時のバグほど厄介なものはない。
(俺以外のプレイヤーは近くにいないのか? いや待て先ずは装備を………)
濡れてピッチリと自分の肌に張り付いた着流しを脱いだ。ゲームの中で装備欄を選択せずに装備を脱ぐという行為にある種の感動すら覚える。
防具〈洗練された至高の着流し〉はこれ一つで胴、腕、脚の三つの装備欄を埋めてしまういわばネタ防具の一種なのだが、浪人のロールプレイをしている男には非常に合うので気に入り、よく装備していた。
着流しを二度三度絞り、水気を払って皺を伸ばした。
(今までこの服にこんな深い皺なんて出来たことないんだけどな………)
知らない内に大型アップデートでも実装されたのか、そもそもサーバーダウンのはずじゃなかったのかと思考を巡らせていると、何かに勘付いた。
(何だ………)
何らかの生き物の鋭い視線、敵意とも取れるモノを背後から感じた。
「誰かそこにいるのか?」
低いが良く通る声が湖畔に響くと草葉の陰からひょっこりと雑多に伸ばした青い髪の男が顔を出して、明らかに警戒した様子でこちらを見てきた。