その部屋のベッドでは、幼い少女と青年が寄り添うように眠っていた。
地下であることを忘れるような木目の壁、星空を切り取ったような星の映し出された天井、暖色系の照明、丸みを帯びた木のアンティーク家具、そしてベッドの上だけでなく部屋中に転がる柔らかなクッションと大きなぬいぐるみ。部屋に居る者を問答無用で安眠へと誘うまさに眠るための寝室である。
煖炉の薪がはぜる音と本の頁をめくる音を伴奏に、寝息のデュエットがゆっくりと奏でられている。
「……んぅっ……ふぅぁああー……」
そしてそんな演奏は青年の目覚めのあくびで締めくくられた。
「おはようございま~す。ニフル博士~」
クッションたっぷりの安楽椅子で読書をしていた藍色の浴衣姿の女性、フィリステルが読んでいた本を閉じて声をかけると、高級感のあるシルクのパジャマの青年、ニフルが彼女に気付く。
「ん……? おはよう、フィリステル。僕様に何かようかい? 起こしてくれれば良かったのに」
「あっはは、まさか~。このダッシーラボに眠っている貴方を起こそうなんて人はいませんよ~。ようがあれば起きるまで待ちます~。ところで、いい夢見れました~?」
ニフル、予知夢のクロッシングスキルを持つ天才博士である。それを知る者が彼の睡眠を阻害する理由はなく、むしろこの部屋は眠るために万全の設備を整えている。
「んにゅぅ……、すぅ……すぅ……」
起き上がったニフルに反応し、隣で寝ていたチヅルが彼のパジャマの裾を握ってくるが、ニフルが髪を優しく撫でてやると安心してまどろみからまた眠りへと戻っていく。
フィギュアハーツ、ユータラスモデル、SA-03 チヅル。
栗毛色ショートヘアの小柄な少女型フィギュアハーツ。今は眠っているが、起きている時は好奇心旺盛そうな大きな瞳が忙しなく動き、コロコロと変わる表情も愛らしく、子猫のような妹キャラで皆に愛されている。
ニフルは現在のクロッシングパートナーを優しい瞳で見つめながら、フィリステルに答える。
「古い友人に、久しぶりに会う夢を見たよ」
「ほう……。その友人って誰です~?」
「それは、今の君には言えないな」
「なるほど……、じゃあ、ボクは何をすればいいですか~?」
フィリステルの唐突な質問は一見従順そうであるが、この非対称黒髪の女が従順さに見せかけて相手の腹の中を探っていることを、ニフルは知っている。今もニフルの表情を観察して、この場面を予知していたかを探ろうとしている。
そして彼女は利害が一致しなければニフルの言ったことなど平気で無視するであろうし、逆に利用されることさえもある。
食えない女、味方であっても油断できない。ニフルの中での彼女の評価はそういったものだ。
それを踏まえて彼女に対しては言葉を選ばなければならないのだが、今回は根本的な部分で利害が一致していそうだと見て話を進める。
「一週間後、僕様をここから出して欲しい」
「それはまた、難しいことを言いますね~。ちなみにここからって言うのは、この部屋から~? それともこのラボから~?」
フィリステルが難しいというのは、この暖かい部屋がニフルの監禁部屋だからである。ニフルはサラーナに研究資料を託して逃した後、ダッシーとイトショウに投降し、それからずっとここに監禁状態で夢を見ていた。予知夢を、見させられていた。
そんな有用な彼をダッシーが手放すはずもない。彼をここから出すことは、不可能ではないが容易でもない。
「ここの鍵を開けてくれるだけでいいよ。あとは勝手に出て行くべき時に出て行くさ」
「本当にそれだけでいいの~? 言っちゃ何だけどこのラボ、ボクが居るおかげで外からと同じくらい内側への警備も厳しいよ~?」
ちなみにこれは、フィリステルがスキルによって姿を消して見回りなどを行っているため内側の警備が厳重という意味ではなく、彼女を好き勝手させないための処置として内部警備が厳しくなった。彼女の食えなさはダッシーもまたニフルと同じ認識なのである。
「それも僕様なら問題ない……、という訳じゃないけど、一週間後のその日なら大丈夫だよ」
「なるほどなるほど……」
ということは、一週間後に何かあるということは察しがつく。フィリステルには具体的に何が起きるかは分からなくとも、いくつかの推測くらいは立てられる。おそらく、攫ってきたあの娘の絡みかなぁ? と考えていると、
「それから、フィリステル。君の能力が分かったよ」
「っ……!?」
突如ニフルの口から聞き捨てならない言葉が飛び出した。
フィリステルの目が鋭く細められる。ここで殺すべきか否かを見極める目つき。
「おっと、もちろん僕様からは誰にも言わない。けれど、ハスクバーナにはそろそろ教えた方が良い、とアドバイスだけはしておくよ」
「はぁ~……。分かったよ……。どうせハスクくんには一昨日の戦闘ログを見られた時点で、何か感づかれていただろうしね~」
フィリステルは少し考えてから、諦めたように天井を仰ぎながら言った。隠し事は得意なつもりであったが、この世界、特段PSWを言う組織の中では一般的な隠匿術など通用しない。規格外が多すぎる。
『やっとその気になってくれたかな? それでこそ世界を救う我が盟友だ』
視線を天井から戻すと、目の前のアンティークテーブルに行儀悪く座りニヒルに笑う少年が現れた。
藍色の浴衣姿のフィリステルと違い、少年はこの洋室にあった洋服を着ており、行儀は悪いが服装のTPOはフィリステルよりも弁えている。
薄く紫がかった銀髪のまだ十三歳ほどの少年、このダッシーラボを管理する生体OS、ハスクバーナである。Yシャツに黒いベストとサスペンダーで吊った短パン姿という正装でありながらテーブルに座る姿が、ホログラフの主の彼はカッコイイと思っているらしい。
そろそろ反抗期なのかな、とフィリステルは内心思ったが、実の親であるダッシーには明かさず、自分たちと秘密裏に馬鹿げた計画を進めているあたり、かなり前から反抗期だったとも言える。
そのハスクバーナが自分の推理が当ったかどうか知りたくてたまらないというように、フィリステルに視線を向ける。
「あーもうわかったから、ロザリスの装備の調整が終わったら話すよ~。それよりちょうどよかった~。今、アクセリナちゃんに会えないかな~?」
話を逸らすような申し出であったが、ハスクバーナは特に機嫌を悪くもしなかった。むしろ後で話すという言質を取れた事の方が嬉しかったようだ。
ちなみに、フィリステルのクロッシングパートナーであるロザリスは、ヤシノキラボで拾ってきた触手ユニットの調整中である。無数の触手を自在に操ったり、媚薬を撒き散らしたりするだけでなく、あのユニットはまだまだ出来ることがあるらしい。大半が戦闘よりもエロ方面の機能であるが。
作戦から帰投してからあの触手にはしこたま尻を叩かれたり、全身を好き勝手這い回られたり、フィリステルも散々な目に合わされた。気持ちよかったのも確かだが、今も彼女の臀部は赤くなって鈍い痛みもある。この部屋のクッションはそういう意味で有難かった。
『……別に構わないが、あいつに何のようだ?』
「ようってほどでもないけど、攫ってきた手前挨拶でもしておこうかと~?」
ハスクバーナは少し考えたが、結局は了承する。
彼が疑いたくなるのももっともだが、今のフィリステルは殊更暇でありこの申し出は何の企みもない酔狂である。そのへん分かって欲しいとは思うものの信頼されていないのは知っているので、言葉を重ねるよりも相手の思考に委ねた。
『まあ、いいだろう。どうせあいつも単純作業で退屈してるだろうしな』
「あ、それなら僕様もいいかな? アクセリナたちが居るのって、僕様のスキルの一端を使って作ったっていうヴァーチャルワールドだろ? 僕様も一度見てみたい」
パジャマ青年が挙手してフィリステルの申し出に乗っかってきた。
『……、まあ、そうだな、ファインティアのやつも心配してたし、無事な顔を見せてやってくれ』
そう言ってハスクバーナは二人の脳内OSに、自分の作ったヴァーチャルワールドにアクセスするためのアプリケーションソフトを転送した。
ファインティアとは、ニフルラボでシステム管理をしていた生体OSである。ニフルが投降した時に、両親とともに身柄をイトショウラボに移されたため離れ離れになってしまったが、今はハスクバーナたちとヴァーチャルワールドで何かをしているらしい。
クロッシングチャイルドたちはその数の少なさから互いを兄弟のように考えており、その考え方で言えばファインティアは末の妹にあたる。
ファイルを受け取ったニフルは、当然のようにファイルスキャンを行いながら感心する。
「これは……、脳内OSを使った完全没入型ヴァーチャルリアリティソフトか。よく出来ている……。さすがはダッシーの息子か」
『まあな、あの親に似てるって言われるのは癪だけど、よく回る脳ミソをくれた事だけは感謝してるさ』
ハスクバーナは褒められた照れからか、絶賛反抗中の親の事を出されて不機嫌になったからか、唇を尖らせて顔を背けた。
「うにゅぅ……。お兄ちゃん博士……、何してる、の?」
そこで眠っていたチヅルが起きて目を擦りながらニフルを見上げる。
「ちょっとファインティアに会いに行くのさ。チヅルも行くかい?」
「ティアちゃんに会いに!? チヅルも行く!」
完全に目を覚まして元気に返事をするチヅルは、元々ニフルラボに居た頃もファインティアとはよく遊んでいたのだ。数日前まではグランとマリィと遊ぶことが多かったが、彼女たちが任務で出て行ってそれきり帰ってこなくなってからは、時折り寂しそうに本を読んでいた。
『……あまり大勢に公開するつもりはなかったんだけどな……。仕方ない、チヅルにも送るぞ』
結局、秘密裏に進めていた計画の一端を三人に公開することになったハスクバーナは渋面ではあるが、ファインティアとアクセリナという二人の妹を持つせいか妹キャラには甘い。今回の事はチヅルが元気になってくれただけで、良しと出来る性格なのである。ちなみに、年齢はチヅルの方が上。
「それで、これ起動しようとしても動かないんだけど、どうするの~?」
『完全没入型VRと言えば、音声起動と相場が決まっている!』
決まっているのか……?
「へぇ~、それでなんて言えばいいの~?」
正直この子の感性に合わせるのは面倒くさいなとフィリステルは思っているが、口には出さない。
『リンクスタ……、じゃなかった。……コネクトオン、だ』
この子は今、一体何を口走ろうとしたのかな?
とにかく、パスワードを教わった三人は揃ってハスクバーナの作ったヴァーチャルワールドへとログインする。
「「「コネクトオン!」」」
掛け声とともに三人の体からクタリと力が抜ける。
体の感覚が別の世界へと繋がる奇妙な体感をしながら、意識は電子世界に入っていく。
気付いた時には、真っ暗な空間に浮かんでいた。地に足が付いていないが、落ちているような感覚もない。フィリステルにとって一番の違いは、現実の感覚が切り離されたおかげで、お尻の痛みが無いことだった。
視界の隅にいくつかのアイコンが見え、意識を向けると点灯し、中のタブの一覧が表示される。少し前の脳内OSもこんな感じだったが、戦闘時に邪魔になるなどの意見から淘汰された機能だ。今の脳内OSは更に直感的に直接アプリケーションを展開できる仕様である。
服装は部屋にいた時と同じ物を[aracyan37粒子]によってスキャン、キャリブレーションして用意したらしく、浴衣やパジャマ姿がこの空間では異様に浮いている。
『ちょっとまってて、落ち合うのにちょうど良い場所を探すから……』
そう言ってハスクバーナはしばしの思考を開始した。
「ほほぉ……これが僕様のラプラスの悪魔を元に作った世界か」
感心するニフルのクロッシングスキル、予知夢は、世界に拡散した[aracyan37粒子]から受け取った現在の量子情報を演算し、未来の可能性を導き出す。ハスクバーナはその過程で収集された量子データを脳内OSから掠め取り、そこから過去の世界を電子世界上に再現したのである。
概要は簡単そうだが、実際の作業量、データ量は膨大であり、言うほど簡単なことではない。
「すごいキレー! あれって地球だよね!」
チヅルの声にフィリステルが後ろを向くと、だいたい七割ほどが青い大きな球体が浮かんでいた。
「これは……、すごいな~」
圧倒的スケール。普段生活している時は気にも留めない地球というものの存在感を、こうして俯瞰することで初めて知ることが出来た。
『ここで驚かれてもな……。これくらいの景色、君たちならちゃちゃっと飛んでいって本物を見て来れるだろうに……。まあいいや、移動するよ』
ハスクバーナの方を見ると、彼の先に宙にぽつんと扉だけが現れた。
「来た時みたいにぱぱっと移動するんじゃないんだ~?」
『手順を踏んだ方が情報への負荷が少ないんだ。ここでは今、アクセリナとファインティアが終末の因子を探して世界その物をスキャン中だからね。下手に干渉すると邪魔になる』
フィリステルはなるほど、と思った。しかし計画の概要を知っているフィリステルは理解できるが、説明されていないニフルは違った。
「ハスクバーナ。その、終末の因子、というのは何だね?」
『アラーチャンから聞いていないのか?』
質問したニフルに、ハスクバーナが思わず質問で返してしまったが無理もない。未来を見ることが出来るニフルがに知らないことなど無いと思っていたのである。もちろんニフル本人からすればそんなものは全くの誤解ではあるのだが。
終末の因子。フィリステルもハスクバーナから散々聞かされていながら、未だに意味の分からないものである。なんでも世界を終わりへと導き、新しい世界の種になるとかそんな骨董無形な話だった、とだけは覚えている。
なんだか神話とか宗教の話のようで、宗教的な話にはまったく興味のないフィリステルであるが、この話の出処があの天才、アラーチャンだということには驚いた。
現実主義で合理主義なアラーチャンだからこそ骨董無形な話であれ信憑性が生まれ、彼に心酔しているハスクバーナを始め数人の協力者が、世界の裏のそのまた影で暗躍している。
そのアラーチャンとおそらく最も中の良かったのがニフルであったし、そのニフルがこの話を知らなかったのはハスクバーナとしては意外であった。
「ふむ、聞き覚えはないが……、いくつか繋がるものがあるな……。まあ、今度会ったら直接聞いてみるさ」
顎に手を当て考えるニフルをチヅルが引っ張りながら、一同は扉を潜った。
扉の向こうは草原の真中の小さな家の玄関扉に繋がっていた。
温かみを帯びた風が、背の低い草花を揺らす草原。少し遠くに小さな湖が見え、そのまたさらに遠くには頂上に雪を被った山々が見える。
先程の真っ暗な宇宙空間と違い、草の匂いも陽光の暖かさもヴァーチャルとは思えないほどに感じられる。
そして草の匂いに混じって、かすかに紅茶の香り。遠くの景色から近くへと目を移すと、小さな家の小さなテラスで、ハスクバーナよりも少し幼い程度の女の子が紅茶を嗜んでいる。
『こんにちは皆さん。はじめまして、アクセリナです』
金髪碧眼の幼女は、薄緑のシフォンドレス姿こそ初めて見るが、フィリステルがヤシノキラボから攫ってきたクロッシングチャイルド、アクセリナであった。
「こんにちはアクセリナ~。フィリステルだよ~」
「久しぶりだねアクセリナ。と言っても君は覚えてないかもしれないが……。ニフルだ」
「こんにちわ、セリナお姉ちゃん!」
チヅルだけはアクセリナとは初対面ではない。セリナお姉ちゃんと呼んでいるが、背格好も実年齢もチヅルの方が年上だ。元来妹キャラとして作られたチヅルは、たいてい誰かれ構わずお兄ちゃん、お姉ちゃん呼ばわりする。
相変わらずのチヅルにアクセリナも微笑ましく思う。
『セリナ、調子はどうだい?』
ニフルたちが挨拶もそこそこに草原へと散策に行き、テラスにはフィリステルとハスクバーナが残った。
ニフルたちはいつの間にかパジャマ姿からハイキングにでも行くような格好になっていたが、フィリステルはこの浴衣が一番落ち着くので着替えなかった。着替えなどのシステムコマンドも、視界の隅のアイコンから行えるのだろう。
見るとはなしに遠くを眺めていると、少し歩いたニフルたちの上に、アクセリナよりもさらに小さな女の子が虚空から飛び出してきてチヅルに抱きついてきて、チヅルもそれを嬉しそうに受け止める。
ニフルラボのシステム管理をしていた生体OS、ファインティアである。名前とは裏腹に母親譲りの黒髪をオカッパ頭にし、着物姿の彼女は日本人形のような見た目だ。
ハスクバーナがいくら気を使おうと結局、世界に無茶な干渉をして飛び出してきたらしい。彼はもう苦笑いするしか無い。
『ハスク兄さん。第二次世界大戦が始まったあたりまでは、それらしい物はあったのですが……。大戦中のこの時期になると消えてしまってますね。第一次大戦と照らし合わせてみても、まるで何かが足りなくて断念して眠りについたって感じです。とりあえずこの後は、確認できた反応を土塊の戦争開戦前後に戻ってスキャンしてみるつもりですよ。また時間を動かすけど、いい?』
『そうか、スキャンの順は任せるが、一区切り付いたなら休憩だ。現代に戻すのはその後でいいだろう? こっちもガーメント兄と打ち合わせしてくる』
そう言ってハスクバーナは着いて早々、また家のドアから何処かへ行ってしまう。家の中、ではないのだろう。ドアをくぐってからの足音が消えている。
ガーメントはイトショウラボを管理するクロッシングチャイルドであり、彼もまた秘密の協力者である。
アクセリナもここに来た時は、すでに三人もの兄妹たちがこんな骨董無形な計画に参加していると知って驚いたものだが、フィリステルと違ってハスクバーナの説明を正確に理解した彼女は、すぐに協力体制に入ってくれた。
ちなみに理解の浅いフィリステルがこうして協力しているのは、ひとえに「面白そうだから」というだけである。
「それでアクセリナちゃん、ここでの生活はどう~?」
『快適ですよ。この世界にいると、まるで自分にちゃんと動かせる身体があるみたいな気がします……。気がするだけで、本物の身体の方は動かせないままなんですけどね』
そう言って紅茶を口に運ぶ彼女の動きは、とても滑らかに動いている。
ハスクバーナいわく、クロッシングチャイルドが目覚めることが出来ないのは、クロッシングチャイルドのAIプログラムと人間の精神が混ざった特殊な精神の中に、体を動かすデバイスドライバのような物が無いのが原因と考えられている。
彼の理論で言えば、クロッシングによってフィギュアハーツとデータを共有することで、AIの中からその体を動かすデバイスドライバのような物をコピーできるのではないか、との話だが、クロッシングチャイルドがフィギュアハーツとクロッシングを結ぶことが、どうしても出来ずに研究は頓挫している。
「喜んでもらえたなら、連れて来たかいがあったよ~」
『あ、もちろんヤシノキラボのことも心配ですよ!? 誘拐は良くないことです! 終末の因子の位置特定が出来たら帰してくださいよね!』
思い出したようにアクセリナがプリプリと怒り出した。
怒っても可愛い子だなと思いながら、浴衣姿のフィリステルに合わせたのか、いつの間にか現れた緑茶に口をつける。とても美味しい緑茶の味がする。
本当によく出来た世界だと思いながら、アクセリナに返答する。
「実は帰すのも難しいんだよね~。ダッシーさんには君を電子精神体化しようとするヤシノキさんたちから匿う名目で連れてきたからね~ ボクらの用事が済んでさっさと返しちゃうと怪しまれちゃうんだ~」
『そんな……。あ、ではそのダッシー博士にも協力してもらうのはどうでしょうか? ニフル博士にはもう知られてしまったのでしょうし』
「そう出来たら最初からそうしてる~ 行動が慎ましいニフルさんと違って、ダッシーさんは思慮深くはあっても結局行動は大胆になることが多いからね~。終末の因子を見つけるために、それこそ世界でも滅ぼしかねないよ~」
我が子の命を守るために、世界征服をしようとしている天才である。確かにそれくらいはしかねない。
『むむー……。難しいですね……』
眉間にしわを寄せて愛らしい苦悶顔で悩むアクセリナではあるが、そもそもこの娘は自分が誘拐されて来たということを分かっているのだろうか? お兄ちゃんの家に遊びに来たくらいに思っているのではないかと、フィリステルも心配になる。
「だからまあ、ここが気に入ったならずっとここに居てくれるに越したことはないんだよ~」
『なるほどそういう話でしたか……、とはいえ考えてみれば決定権はアクセリナには無いのですよね。この世界は電子的に閉じられていて、外の情報を得るにはハスク兄さんの許可が必要ですし……。牢があまりにも広大で忘れていましたが、監禁されてるんですね、アクセリナは……』
もしもこの世界の抜け目を発見し、アクセリナが外の世界に電子的に出ることが可能になっても、彼女の身体が動かなければ物理的な脱出は不可能……、というわけではないのがこのクロッシングチャイルドのとんでもないところである。おそらくアクセリナであれば、ダッシーラボ内のツーレッグを動かして自らの身体を確保させ、物理的に脱出するくらいはやってのけるだろう。
そうなればダッシーラボ所属のフィリステルも、手を降って見送るわけにも行かない。追って連れて帰って来いと面倒事を命じられるのは目に見えている。
そんなわけでフィリステルとしては、アクセリナにはここを気に入ってもらって、大人しくしててもらうのがもっとも都合がいいのである。
「そういうこと~。ところで、アネさん、アーネストってどんな人だった~? クロッシングスキルはもう分かったの~?」
話題を切り替えて尋ねる。世間話に交えて情報収集も怠らない。
『アーネストさんですか……? アクセリナもあまり沢山お話したわけではありませんが、たぶんフィリステルさんも一度会ったのでしょう? 見た通りですよ。どこにでも居そうな普通の男の方ですね。クロッシングスキルは、ヤシノキ博士が見てもわからないって言ってました』
「へぇ~。そんなスキル、あるもんなんだな~」
こっちはスキルを知られないために危ない橋を渡るハメになった事も、一度や二度ではないというのに羨ましい限りである。
ここで突然、アクセリナが何かを思い出して声を上げる。
『あっ、そうです! ロザリスがアーネストさんの骨盤内臓神経に何かファイルを寄生させたみたいなんです! 最終的にどうなったかは見れずじまいでしたけど、アーネストさん今頃、チンチン勃たなくなるかもしれなくてきっと困ってます。どうにかしてあげて下さい!』
「ぶっあはははははは――」
楽しい会話はしばらく続き、戦争の真っ最中とは思えないほどに、世界はゆっくりと流れていく。
『さて、そろそろ帰ろうか』
再びハスクバーナが現れ、お茶会はお開きとなった。
『フィリステルさん、また遊びに来てくれますか?』
もし断られたらどうしよう、というようにうつむいた上目使いで金髪幼女が聞いてきた。
「ん~? 気が向いたらね~」
ハスクバーナによってアバターに余計なファイルがついてないかスキャンされながら、そんな風に答える。
『言っておくがフィリステル、ここに来るには管理者の許可が必要なんだからな。気が向いたらいつでも来れるわけじゃないんだからな』
「はいはい~。大切な妹たちを悪いお姉さんから護らないといけないもんね~。ハスクお兄ちゃん~」
『っ、な、違う! 作業の邪魔をされてはかなわん、という意味だ!』
真っ赤になりながらフィリステルのログアウト処理を行う。
フィリステルの体が薄い光りに包まれて、ゆっくりと消えていく。
またねとフィリステルが手を振ると、アクセリナも手を振り返してくれた。
ヴァーチャルワールドから帰ってきたフィリステルは、何故かロザリスの腕の中にいた。
いわゆるお姫様抱っこの体勢。
ロザリスはスクールユニフォームのような濃い茶色のブレザーとチェックのスカートである。
どうやらヴァーチャルワールドに行っている間に、ニフルの部屋から連れ出してきたらしい。
場所はダッシーラボの無機質な廊下。車一台分ほどの広さから見るに、主要通路から三、四本奥まった通路だと推測し、ニフルの部屋からロザリスが向かいそうな場所をピックアップして現在位置を割り出す。
「ん? おはようロザリス~」
「フィリス、気が付いたのね。何をしてたの?」
「ちょっとハスクくんとニフルさんたちと一緒にね~」
フィリステルはロザリスの調整中にあったことを話した。
「ふぅん、なるほどね。私以外の女の子と楽しくお茶会をしていたと……」
「えっ、そこ~!? 確かにそうではあるけど、ただの情報収集だよ、情報収集~」
思わぬ嫉妬で機嫌を損ねたのかと一瞬慌てるフィリステルだが、クロッシングからそういう感情がない事を感じ取ってホッとする。
「まあいいわ。じゃあここからは、私達の時間ね」
「ッ!?」
――fyristelがFH-U CA-01ロザリスのクロッシングスキルを使用――
――CA-01ロザリスがクロッシングスキルを使用――
危機を感じ取ったフィリステルの方が一瞬早くクロッシングスキルを発動し、ロザリスの胸を押して転げ落ちようとするが、逃げるには一瞬では足りなかった。
すぐさまロザリスも意識を加速させると、その背から無数の触手が伸びてくる。スカートの後ろがめくれ上がっているが、じっくり見る暇はない。
フィリステルは二歩も進まないうちに捕まってしまい、四肢の自由を奪われる。
「危ないじゃない、フィリス……。それよりも、ねえ見て、これが乳首とかを吸引する触手。それにこっちが尿道にも入る極細の触手よ。他にも色々と使えるようになったの」
「くっ! 三回~! 三回イッたら終わりだからね~!!」
先日さんざん弄ばれてお尻が痛いフィリステルが、悲鳴のように条件を提示する。
「わかったわ。……ふふふ、三回イクまで何時間でもシテあげる」
条件指定を間違えた。回数じゃなくて時間にしておくべきだった。
「コネクトオン! コネクトオン! ハスクく~ん!!」
ロザリスに触手にぐるぐる巻きにされて運ばれながら、叫ぶ。
『うるさいなぁ。今はアクセリナたちが作業中だから入れられないよ』
壁に背を預けて腕を組んだポーズで現れたハスクバーナは、ヴァーチャルワールドへのログインを拒否した。
せめて意識だけでも電子世界に逃げ込もうとしたが、ダメだった。
『それよりもフィリステル、逃げる方法があるんじゃないか? ロザリスの調整が終わったら教えてくれる約束だったろう』
ハスクバーナがフィリステルにだけ聞こえるように囁く。
「うっ……分かったよ~。でもどうなっても知らないからね~。後片付けは任せる~」
――fyristelがクロッシングスキルを使用――
フィリステルが自らのクロッシングスキルを発動させると、彼女の体がスルリと触手から抜けて廊下へと落ち、さらにその廊下も抜けて下階に着地する。
『なるほど、やはりこういう類の物だったのか……。量子トンネルの応用かな……?』
一目見ただけでハスクバーナが分析するが、フィリステルはもっと単純にこの能力を透過、とだけ認識している。
フィリステルの真のクロッシングスキルは、透過。光だけでなくすべての物質を透過させる能力であった。今までは光だけを透過させることで、光学迷彩として偽ってきたのである。
――ちょっ!? それ卑怯、ここで使っていいの!?――
虚を突かれたロザリスが思考通信で抗議の声をあげる。
――ハスクくんにはもうバラすことにしたの~。それから、ニフルさんにも予知夢でバレてる~――
――FH-U CA-01ロザリスがfyristelのクロッシングスキルを使用――
ロザリスも同じスキルを使って追ってくるが、大量の触手を背負った彼女よりも浴衣姿のフィリステルの方が逃げ足は速い。
――他の人にはバレないように使ってよ~?――
この後、ダッシーラボは前代未聞の媚薬蔓延というバイオハザードが起こり、ハスクバーナは妹であるアクセリナに媚薬の中和剤とクリーニングスフィアのマルチコントロールについて教え乞うことになり、ロザリスは再び調整室送りとなった。