遊戯王Wings「神に見放された決闘者」 作:shou9029
締め切られた薄暗い部屋。そこが一体どこなのかも分からないその一室に、一人の女性が居た。
…何をするでもない、ただ椅子に腰掛け、何にも興味が無いかのようにして、その虚ろな目をただただ虚空に向かって開いているだけ。
その容姿は部屋の薄暗さと相まって見えないものの、『何もしていない』を『している』その女性は、気配を感じさせずに身動き一つ取らず座っている椅子に体を固定していて。
まるで、心臓すら動いていないかのようなその静かな姿勢。微動だにしないという言葉を、これほどまでに体現できるのかと思える程に、この女性は眉一つ、身じろぎ一つ、瞬き一つせずに座っているのだ。
…そして、それからどれほどの時間が経ったのか。
部屋の薄暗さが外の時間の経過と共に更に暗くなっていき、益々女性の姿を闇へと隠していくのが手に取るように物音一つなく、気配一つなく、静かに『夜』が近づいてくる。
それは、このまま部屋の中が『夜』に包まれればこの室内に居る女性も共に『夜』の中に溶けて消えていきそうな、そんな形容しがたい虚無感が徐々に迫ってきているような静かな儚さ。
そうだと言うのに、女性はこの世の無常がそのまま人の形をしているかのような、まるでソコに存在していないような気配の無さのまま…物音一つ立てずに、ただ『夜』に飲まれるのを待っているだけ。
そうして…
輝き始めた微かな月明かりが、カーテンの僅かな隙間からこの薄暗い部屋に中に漏れ入った…
―その時だった。
「…おかえりなさいませ。随分とお疲れのようですね。」
近づいてくる『夜』に流されるままに、これまでずっと沈黙を貫いていた女性が急に、突然、徐に立ち上がったかと思うと、このどこかの部屋の中心へと向けて、今まで閉じていたはずの口を開いて声を発したのだ。
音一つ無かったこの暗い部屋に、この時始めて女性の声が響いたその瞬間…まるでこの世界に存在していないのでは無いかと錯覚するほど存在感の無かったこの部屋に、確かに存在感が生まれて。
とは言え、この女性は一体『誰』に向かって言葉を発したのか。少なくともこの部屋には、見た限りだとこの『女性』しか居なかったはずだというのに。
―!
「…はぁー…はぁー…くそっ…『力』を使いすぎた…」
しかし、女性が口を開いたその刹那。彼女の視線上の空間が突然裂け、その空間の裂け目からこの薄暗い部屋の中心に、落下音と共に突然『フードの男』がその姿を現した。
…いや、姿を現したというよりは、やっとの思いで帰ってきたと言った方が合っているだろうか。
何せ、フードの男は息も絶え絶えになりながら今にも倒れこんでしまいそうなほど苦しそうに息を吐き…その雰囲気は誰の目にも明らかなほどに弱々しく、漆黒のフードの奥から誰の物かも分からぬノイズの声を漏らしながら、どうにか意識を保っているだけのようにも見えるのだから。
そんな憔悴しきっている男は、滝のように流れ落ちる汗もそのままにどうにか立ち上がったかと思うと、そのフードを脱いで『声』から『ノイズ』を取り払い、荒い呼吸と脱力していく体を支えることなくそのまま女性へと向かって倒れ込んだ。
「…ぅ…は、吐きそうだ…」
「…ですから言ったでしょう。努々忘れることなかれ…あなたの器ではこの『力』は大きすぎる。ここ数日で『目的』の他にも度々力を行使しておられたようですし…このままでは…」
「…わかってる!そんな事わかってるんだよ…でも、オレはこうするしかないんだ…今更、やめる事なんて…」
「…存じております。」
女性の胸に抱き寄せられ、その細腕に抱きしめられた男の口から、今にも泣きそうな声が漏れ出し部屋の中に響き渡る。
男と女、やはりその容姿はこの部屋の暗さの所為で全く分からないものの…今の男の声はフードを被っていた時の様な、ノイズに阻まれていた声とは違う。この男の、どこか幼さすら感じる本来の声は、悲痛な叫びを歳相応のモノへと変化させていて。
―満身創痍、疲労困憊
この男が行使した『力』とは何なのか。それを知るのはここにいる男と女の二人だけであり…この男の様子を見るに、男の持つ『力』とは自身を削って行使される代物であることに先ず間違いないだろう。
そうして、女性は己の胸の中で憔悴しきっている男を一瞥したかと思うと…
静かに、今にも部屋の暗さに吸い込まれて消えて行きそうな声で、男へと声をかけて…
「…一度、帰られますか?しばらく休息が必要でしょう?」
「あぁ、頼む。…ユイ、後のことは任せた。オレはしばらく眠る。」
「…承知いたしました。では、お送りしましょう」
そして、女性がそう言ったその瞬間のこと。
再び、裂けるはずのない空間の一部がひび割れ始め、突如として空間に裂け目が入り始めて。そのままひび割れはみるみる広がり、人が通れそうな幅までその裂け目を大きく広げ始めるではないか。
…普通ではありえない。ありえるわけがない。
しかし、そんな超常的な現象すらさも当たり前のようにして、女性とフードの男はその裂け目へと足を進めるのみ。
「…帰りましょう、デュエリアへ。」
「あぁ…」
―そうして、消える。
二人が空間の裂け目へと完全に入り、その裂け目が完全に閉じた時。まるで、この場に初めから居なかったかのようにして、男と女、その存在全てがこの小さな部屋から一瞬にして消え去ったのだ。
それは、フードの男がこの部屋に現れた時と同じ。まるで瞬間移動したかのように、まさに瞬間移動したかのように。
今までこの部屋にあった2つの息使いが…
…一瞬にして、どこかへと消え失せた。
―…
「遊良…遅いなぁ…」
日も暮れ、すっかり辺りが暗くなった夕食時。
デュエルディスクの修理に行っただけだと言うのに、未だ家に帰ってこない遊良の身を案じたルキが、小さな溜息と共にそう呟いた。
いくら店が混んでいるのだとしても、ただ修理に出すだけならばそこまで時間がかかるはずもなく。あの遊良がこの時間まで何の連絡もよこさずにいるということが、ルキにはどうにも引っかかるのか…落ち着かないその様子は、心配にざわめく胸の内をどうにか押さえているかのよう。
またルキの居るリビングには、ソファーにだらしなく寄りかかり、襲い来る空腹と戦っている様子の鷹矢の姿があった。
しかし、その無気力に天を仰いでいる鷹矢の姿は、いつもならば既に食べ始めているはずの夕食を、未だに食べられていないことに伴う脱力に違いなく…『飯抜き』という鷹矢への最大の罰の時と同じ、鳴り止まぬ腹の音が鷹矢の体力を奪い続けていて。
そして、そんな鷹矢の腹の音に少々苛立ちを感じながら…ルキはコーヒーを一口啜ってから、空腹ゆえに脱力しきっている鷹矢を一瞥し、少々不安げな声でその口を開いた。
「ねぇ鷹矢、やっぱり遊良探しに言った方がいいんじゃない?」
「…子どもじゃないんだ、放っておいても帰ってくる。それより腹が減ったぞ…」
「もう、どうして鷹矢はそんなに呑気なの?だってあの遊良が連絡一つ入れないんだよ?ちょっと電話入れるくらい…」
「…この俺が生きているのだ、遊良に何かあったわけないだろう。…いいから早く飯を作ってくれ…」
「何そのトンデモ理論…はぁ、本当にお馬鹿なんだから。」
しかしルキの心配を他所に、どこまでも自分の空腹との戦いに明け暮れている鷹矢。
いくら遊良が同年代と比べてしっかりしているとは言え、遊良がこの時間まで何の連絡もしないで遅くなるようなことなど今までなかったというのに…
そう、この家からそう遠くないショップの位置を考えると、ここまで遊良の帰りが遅くなるのは明らかにおかしい。いくら代用器で連絡が取れないとは言え、家の固定電話の番号にかけるくらいは出来るだろうし、鷹矢の『食欲』を把握している遊良が、『飯抜き』でもないのに鷹矢をこの時間まで食べさせずに放っておくことなどないのだから。
また、先ほどからどうにも胸騒ぎが収まらないのもルキの心配に拍車をかけているのか。不穏…とまではいかないものの、いつもは感じないような胸騒ぎがルキには浮かんできている様子。
「遊良の帰りを待っていたら餓死してしまう…」
「もう!じゃあカップ麺でも食べてれば!」
「今日は肉なのだぞ!肉で腹を満たさないでどうする!…うっ、大声を出したらまた腹が…」
「はぁ…」
しかし、そんなルキの心配すら鷹矢の空腹の前では無力と化してしまうのか。
まるで遊良のことを心配していない様子の鷹矢に、どうしてそこまで気楽で居られるのか不思議で仕方がない表情をしたルキには鷹矢に対する呆れの感情しか浮かび上がってはこず…
どこまでもペースを崩さぬ鷹矢を前に、ルキは募る心配に溜息をつくばかりだった。
今、遊良の身に何が起こっているのかも…
…二人は、知らずに。
―…
闇、暗闇、無明…
『何もない』という表現をそのまま形にしたかのように…『無』しかないこの場所には、音も光も匂いも何も、本当に何から何まで存在してはおらず。
まるで、世界の裏側。
存在というモノが無く、まるで『無』という概念の広がりのようなこの空間は…およそ人の理では言い表せぬ、理解の範疇を超えた『無』その物に違いなく。
虚無と深淵、『何』も無いただの暗闇。いや、この『暗闇』すら、この『無』の中には存在しているのかすら怪しいと言えるだろうこの場所。
ここがどこなのか分かる者など居らず。ここがどんな空間なのか分かる者など居らず。
そんな、『無』だけが広がっているこの場所で…
―遊良は、ただ漂っていた
(ぅ…)
体が動かない。
どこかを動かそうとしても、『意識』が『体』と繋がっていないような感覚だけが走り抜けるだけで…頭の先から指の先まで、何から何まで動かすことが出来ず、また意識と体のその気持ち悪い乖離感に、声を漏らすことも出来ないでただ彷徨っている。
それは、確かに『そこ』にあるだろう身体の実感を感じることも出来ず。この真っ暗な世界の中に、まるで意識だけが放り込まれたかのよう。
…また、何も考えられない。
頭の中が痺れているような、思考が抜け落ちていくかのような…
自分が自分であることは理解出来ていても、先ほどまで自分が何をしていたのか、何を考えていたのか、『何があったのか』すら遊良は思い出せないでいるのだ。
それ故、ここがどこなのかも遊良には分からず。どうしてこんな場所に浮いているのかも理解することが出来ずに、この『無』だけがある真っ暗な世界で、浮遊感に流されているしかないのだろうか。
―そして、そんな虚無感に、遊良は一体どれほどの時間流されていたのだろう。
音すらないはずのこの『無』の中で、徐々に遊良の耳に振動が届き始め…痒くなりそうなほどに微細なその振動は、少しずつ『音』となり始めて、遊良の耳に反響し始める。
そして…
徐々に大きくなっていくその『音』は、確かな『声』となってこの『無』の空間に響き渡った。
『努々忘れることなかれ…自分が一体何なのか…』
(…あ…また…この声…)
それは、どこかで聞いたような、でも思い出せないような…どことなく心がざわつく声。不安を煽られ、不安を掻き立てられているかのような錯覚が、何も考えられない遊良の頭の中に否応にも響き渡って反響していて。
…自分が一体、『何』なのか。
そんなことを聞かれたところで、ソレに対する答えを持っている人間などそうは居ないはずだというのに…まるで、ソレが分からないことを攻めているかのような『その声』は、音など響かなさそうなこの『無』の中に、益々大きくなって響き渡るのみ。
(俺が…何なのか…)
そして、『その声』を聞いて、遊良の意識も無意識にその答えを探し始めたのか。
しかし、今の遊良の痺れた思考では、到底その答えなど浮かび上がるはずがないというのに…
自分は一体、『何』だというのだろうか。一体、『何』であろうとしているのか。
(俺…は…)
遊良には、分からない。自分が一体、『何』なのかが。これまで、何をして過ごしてきたのか。自分は、人から『何』として見られているのかが。
鳴り止まぬ反響、繰り返す問答。
この空間にも、この感覚にも、この『無』の中に漂っていることにすら違和感を感じられない今の遊良では、『わからない』という唯一の答えのみしか導き出せぬ今の遊良には…ここから先の思考に、至ることすら出来ず。
そんな何も出来ない遊良が、ただ無意味に『無』の中に流されていた…
―その時だった。
『…とーさん…かーさん…』
―突然、闇の中に浮かび上がった、とある光景。
どこかの暗い部屋から、泣き声が聞こえる。とても小さい、子どもの泣き声。
絶望に塗れ、悲しみに潰れ…
世界の片隅で震えて怯え、一人孤独に襲われながら小さく小さく縮こまり、酷い恐怖と絶望に包まれているその姿は、縋る者も居ないという孤独に感情が溢れているのか。
(あ…れは…)
そして、それを見た…いや、見てしまった遊良の心に、不意に浮かび上がった悲痛な感情。
すすり泣き、むせび泣き、暗い部屋の片隅で嗚咽を漏らすその姿を見て、遊良は思い出す…いや、無理やり思い出させられる。
(…ぁ…ぁぁ…)
それが、自分だということに。
ソレを理解してしまったその瞬間、遊良の心の奥底からまるで塞き止めていたモノを開放するかの様にして『何か』が溢れだし…胸の奥から冷たい痛みを心の表面へと浮かび上がらせ、閉じ込めていたはずの『あの頃』の痛みを我が身に蘇らせているのか。
ここまで生きてこられて、『あの頃』の絶望をどうにか押さえ込めていたというのに…これまで思いださないようにして記憶の奥底に仕舞いこんでいたはずの『あの頃』の記憶が、その封を破って浮かび上がってきているかのよう。
―否定された、侮辱された、嘲笑われた、貶された。
世界の全てが『敵』となったあの頃。神を呪い、世界を恨んだ…突然襲ってきた絶望に、生きることすら諦めようとしていた。
自分の存在を否定され、『出来損ない』と言われ続けた彼の過去。それは、幼い少年が受けるにはどれほど酷な日々だったのだろう。きっと、周囲から蔑まれ続けるという人生は誰が思っているよりも、決して楽な人生ではなかったはず。
…全ては、Ex適正が無かったから。
(…い…やだ…やめ…くれ…)
―見えるのは、記憶
虐げられ続けた過去、蔑まれ続けた過去。
愛してくれる人が突然目の前から姿を消し、あまりの絶望に自ら命を絶とうと考え、自分と一緒に居た所為で大切な人達が傷付く場面を何度も目の当たりにし、それでも必死になって生きてきた彼のこれまで。
幸せだった日々が、突如として絶望の日々へと変貌を遂げたあの頃…生きることすら否定され、壊された世界の片隅で、静かに一人隠れて命を捨てようとしていたあの時期の、あの地獄のような日々など思い出したくも無いと言うのに。
世界の全てが敵になり、世界の全てから蔑まれ…
それがまるで映像のようになって、今までコレを意識的に思い出さないように努めてきた遊良の意識へとわざわざ見せ付けているのか。
それは、自分が一体『何』なのか…それを、思い知らせているかのように。
そうして、遊良は思い出す。
自分が一体、『何』と呼ばれていたのかを…
―物語は、一度過去へと遡る。
幸せだった日々の何もかもを失った、世界の全てが敵となった…全てが始まった『あの頃』…
―10年前の、あの頃へと。
―…