遊戯王Wings「神に見放された決闘者」   作:shou9029

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ep48「閑話ー紫魔 ヒイラギ 前編」

…現在より10年前、世界が震撼した大事件が起きた。

 

 

それは過去を幾ら遡っても前例が無く、その『事件』の真相を求めて世界中の人間達が声を荒げて情報の提示を訴えたほどであったことは誰の記憶にも留まっていることだろう。

 

 

何せ、当時の決闘界の歴史においても類を見ないその『事件』…

 

 

―世界に名立たるシンクロ王者【白鯨】と融合王者【紫魔】が、揃って表舞台から姿を消した、あの世紀の大事件を。

 

 

いや、当時の事件はそれだけでは終わらない。

 

 

何せシンクロと融合の王者の引退のみならず、エクシーズ王者【黒翼】までもが同時期に組まれていた試合の全てに現れることなく、その全てに不戦敗していたというその怪事件。

 

 

この召喚法の頂点に立つ3人の王者達が揃って表舞台から姿を消したことは、後世の歴史にも既に刻まれており…後に【黒翼】が何食わぬ顔で復帰したとは言え、この世界の根幹をなしている決闘界が崩れかけたことは言うに及ばない事実であって。

 

 

また、全世界が真実を得ることを望んでいたソレの詳細も、決闘界の全てを司る超巨大決闘者育成機関【決闘世界】によって、決して表に出ることは無く。

 

 

『何があった』のか、その真実を知ることの出来た存在は、本当に限られた者しか存在していない。

 

 

…そして、世界中が震撼したというのは、何も『物の例え』などでは断じてない。世界中の人間達が襲われた不安と言うのはそんな単純なこととは程遠いものであり、時間が解決してくれるようなモノでは決して無いのだ。

 

 

この世界における、『決闘者の頂点』と言うのは下手をすれば国のトップよりも重要な立ち位置を占めているのと同義。

 

単に次の王座を決めて新たな王者を置けば収まるといったような、そんな和やかに終わる程度の話であったならば、最初からこの世界で『決闘』がここまで重要視されるはずがないと言うことは、説明するにも及ばず。

 

 

だからこそ、決闘界の頂点の、全ての決闘者たちの象徴…言い換えれば、この世界に生きる全ての人間達の象徴である【王者】の『空白』は…

 

 

 

―そのまま放っておけば世界経済や国家間の均衡が崩れ、たちまち『世界崩壊』へと繋がる恐れがあると言うことは、最早誰の目にも明らかなこと。

 

 

 

それを防ぐために、【決闘世界】の迅速な対応の下、前シンクロ王者に挑戦した者の中で唯一彼に勝利した【白竜】、新堂 琥珀と、『紫魔本家』の蟲毒により新たに選別された【紫魔】、紫魔 恋介という王者が制定されたのだが、それでも着任当初は二人への風当たりもまだ強く、それを黙らせるために彼らもまた終わらない戦いに身を投じなければならなかった。

 

そうして、今でこそ新たな2人の若き【王者】も世界に認められ、そして最早その存在そのものが伝説となっている【黒翼】が継続して王座に健在してくれたおかげで、なんとか世界は均衡を取り戻したものの…

 

 

ここまで世界を、文字通り『震撼』させたその責任と鬱憤が『その原因達』へと向けられたことは止めようのないモノだろう。

 

だからこそ、王者の中の王者とまで言われ称えられた人格者である元王者【白鯨】を、メディアがこぞって扱き下ろしたのも…

 

 

全て、世界の『流れ』なのだ。

 

 

 

 

…そして、その『流れ』は【王者】だけに襲いかかるモノでもなく。

 

 

 

―無情にもその中に落とされて、巻き込まれた少女が…ここに、一人。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おら!何か言ってみろよ、この『本家落ち』が!」

「…い、嫌…」

「きっこえねーなー!ははっ!おらっ!泣け!おらっ!」

「もっと腹のとこ蹴っちまえよ!吐かせた奴が勝ちな!」

「おい石持って来い!でっかいやつな!」

「やめ…」

「うるせぇな!黙ってろよクソ女!おらぁ!」

「本家落ちー!最下層ー!」

 

 

 

暴言と暴力が闊歩し、なすがままに暴行を受けるだけの毎日。

 

 

同じような年頃の子どもからも、そしてそれよりもやや年上の子どもからも、遮ることのできない暴力をただ受けるだけの日々に、その小さい体が耐え切れるわけがないは当然であり…

 

 

胃の内容物を吐ききるだけでは飽き足らず、その吐瀉物の中に赤く鉄臭い体液が混ざっているというのに、それでも止まることのないこの痛みはただただ少女を蝕んでいて。

 

 

しかし、自分たちの置かれている境遇が『最下層』だったからと言って、その中身も無く『紫魔本家』に抱いていた燻った劣等感を、これほどまで的確にぶつけられる相手が出来た子ども達からすれば、その感情を暴力に変えることにも何の疑問を持つわけがないだろう。

 

 

…傷が絶えず、その傷も癒えるはずが無く。

 

 

子どもの回復力が高いというのは、栄養管理された食事を取っていてこそ。碌に食べる物も与えられず、毎日の少ないおこぼれを齧ることしか出来ない少女の華奢な体が、この毎日の暴行に対してその体を強くしてくれるわけが無い。

 

痣と傷とが混在する痛みに対し、ソレに抵抗する術を持たぬ少女は…それを受ける毎日だけを過ごし、それに耐えるしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やめ…て…い、いやっ、やめ…」

「んー?聞こえないなぁ…そんな声よりも、もっと良い声で鳴いてくれなきゃ困るよぉ。」

「いっ!?あぐっ!」

「ははははははははは!元本家の女はやっぱり体からして違うねぇ!」

「女つったってガキだってのに、お前も好きだねぇ気持ち悪い。」

「ひひっ、お前も一緒だろうが。」

「ぁ…ひっ…ぐっ…」

 

 

 

 

大人と子供、抵抗できないほどの体格差で抑えられ、碌な生活を送れていないらしい汚い体と、咽かえりそうなほどに臭い体臭の多くに囲まれ…

 

…無理やりに、一方的に…尊厳もなく、ただただ甚振られるのを耐えるしかない少女の悲鳴と悲嘆が狭い部屋に零れていて。

 

たった一人の少女を数人がかりで押さえつけ、その行為の意味すら理解出来ていない歳の子どもへと腐った劣情をぶつける大人たちのこの醜さは…およそ常人のまぐわりとはかけ離れたモノとなっていて、とても見ていられるような光景でないことだろう。

 

それに対して、涙を流しながら苦痛のみを感じている少女の嗚咽は、この汚い部屋にただただ悲しく響くのみ。

 

痛みと苦しみしかないから『苦痛』と言う。それを、その姿と泣き声だけでこうもわかりやすく表現できるのかと思えるくらいに今の少女の姿は痛々しく…またその行為を受け止めるにはまだまだ成長が足りない少女の小さい体は、揺り動かされるその度に傷つくだけ。

 

そんな少女の傷ついた姿に、汚い大人たちの劣情は更に募るばかり…

 

 

 

 

 

 

…始めは、もっとまともな生活を送れるモノだと思っていた。

 

少女の心に浮かぶのは、そんな始めに抱いていた思いとは裏腹の、暗く重い思い。

 

…父が目の前で連れて行かれ、自分も連れて行かれそうになった時に父となにやら取引を行った老人が掛け合って、どうにか自分だけは連行を免れた。そうして、すぐに『紫魔』の名を持った家の一つに引き取られると決まった時には、父がすぐにでも迎えに来てくれるものだと思っていたのに、と。

 

それが幻想だと少女が知ったのは…この引き取られた家が、いわゆる最下層に近い紫魔家であったことに、引き取られてすぐに気が付いた時のこと。

 

生活レベルが低く、この地域一帯の治安も悪い。辛うじて紫魔家が多く集まる『決闘市北区』には居られたものの、最下層の家の多くがここに『集められている』所為か、歴史ある名家の名残すら感じさせない下劣な者共のスラムとなっているこの一帯は最早、決闘市の外れも外れにあることから治外法権にも近い扱いで。

 

 

そうして、すぐに少女は理解した。

 

 

『紫魔本家』から追放された自分を、上位の紫魔家が引き取ってくれるわけがないことを…『紫魔本家』から遠い、本家すら把握を放棄したような『最下層』でないと、こんな自分を引き取ってくれるわけがないということを。

 

あの老人も、『紫魔本家』との諍いが増えるだけの自分を、何時までも手元に置いておきたいわけがないからこそ、金を積んでこんな最下層へとさっさと自分を引き渡したのではないか、と。

 

 

 

…その結果がこれだ。

 

 

 

劣情と劣等感による最下層たちの鬱憤を、幼いその身に受け耐えるだけの日々。

 

人としての尊厳など無い…殴られ、嬲られ、叩かれ、辱められるだけの毎日。

 

言葉と暴力による支配だけが彼女を襲い、血と汗と涙と汁と液に塗れるだけの日常。

 

 

父に名付けてもらった『ヒイラギ』と言う自分の名前すら、ここに来てからは一度も呼ばれたことがなく…そんなに日数が経っていないはずなのに、少女の中には毎日受ける痛みの所為で、もう長いことずっと苦しみの中にいるような感覚があるだけなのか。

 

…何時まで続くのかわからないこの苦痛の日々に、文字通り『身』も『心』も痛めつけられていた…

 

 

 

 

 

―そんな、ある日のこと。

 

 

 

 

 

「いいザマね…本家だからって今まで下層をバカにしてきた罰よ。」

「…ぅ…」

「ほら、何か言ってみなさいよ!ねぇ、今どんな気持ち?本家から落ちたあんたと、下層だからってバカにされてきた私が本家に近い地位まで行って!ねぇ悔しい?悔しいでしょ?ほらほら、何か言ってみなさいってば!」

 

 

 

幼少期において特長的な、一際甲高い子どもの声が小さく汚い納屋に木霊して…ソレに伴って、苦痛から気を失いかけている少女の頭を無理やり踏んづけて悦に浸っている、綺麗な格好をしたもう一人の少女。

 

 

紫魔 サクラ

 

 

このボロボロの少女がまだ本家に居た頃には、とても会ったことすら無いような元々は下層だった紫魔の子どもの一人。

 

何やら最近、彼女の親類が本家に呼ばれたとか何とかで、その地位を一気に上位のモノまで引き上げられてこの場所を去っていったらしい、同じくらいの歳の少女。

 

しかしここで傷付いている少女からすれば、幼いとはいえ今までの人生の中で下層の者達を見下したこともなければ、馬鹿にした覚えもなく。例え会った事が無くても、同じ紫魔の名を持った親類を馬鹿にしたことなど無かったというのに。

 

…サクラは感情的に、一方的に、直情的にボロボロの姿の少女を捲くし立てるだけ。

 

ソレに対し、体中に傷が耐えないこの少女がサクラの言葉を返せるわけがないだろう。体中に傷が絶えず、体の中も痛めつけられているのだからそれも当然で…

 

そんな苦痛によって気を失いかけている少女に対し、己の感情と言葉をぶつけているだけのサクラは少女の態度にとても詰まらなさそうな顔をしたかと思うと、ポツリと言葉を漏らした。

 

 

 

「…もう、何も言わないからつまらないじゃない…あ、そうだ、あんたのその髪、前からずっと邪魔そうだと思ってたのよねー。」

「ッ!?や、やめて!」

 

 

 

そのサクラの言葉を聞いた瞬間、声を出す事もままならなかった少女が、一瞬でその後に起こるであろうことを理解してしまったのか。

 

突如として焦ったような声と表情を見せ、またそれに連なってサクラの表情もいやらしい笑みを零して。

 

 

…なぜならサクラの手には、納屋に落ちていたらしい大きな鋏が握られていたのだから。

 

 

しかし、既に体は日々の暴力によってボロボロで、とても抵抗できるような力は残っては折らず。抵抗しきれない少女の髪を持ち上げ、その顔を無理やりにサクラは引き起こして。

 

 

 

―そして…

 

 

 

「あら、まだ喋れるんじゃない!ねぇこれ邪魔よね?最下層のあんたにはこんな物必要ないわよね!?」

「やめ…」

 

 

 

―!

 

 

 

無残に散りゆく、少女の髪。

 

痛んでいるとはいえ、長く伸ばした髪。少し前までは手入れが行き届いていて、艶やかで美しいその髪が本家の間中でもてはやされるほど、少女の自慢だったモノ。

 

それが、ジョキジョキと響く鋏の嫌な音だけが少女の耳に木霊して、その絶望感をさらに加速させていくのか。

 

父に褒められた自慢の髪、全てを無くして汚れてしまった少女に、最後に残った誇れるモノが…

 

 

 

…目の前で、散っていく。

 

 

 

 

 

「あははは、気持ち悪ーい、何その頭!ほらここ禿げてるじゃない!こっちももっと切ってあげるわね!あはははは!」

「あ…ぁ…」

 

 

 

その行為が、彼女の最後の柱を折った。

 

…たかが髪、いずれまた伸びる。

 

そう言ってしまえば済む話ではあるものの、それでも少女に残っていた最後の自信を、ものの見事に散らせたこの行為は彼女の心を折るには十分すぎたのだろう。

 

甲高い高笑いと、感情的な行動が子どもらしさを更に増長させてはいるものの、これが子どものいたずらと片付けるには悪ふざけが過ぎているし、他人の大切なモノを意図も簡単に奪い去っていくこの理不尽な行為も、それがどれだけ少女を傷つけているのかをサクラは気付いてもいない。

 

父に褒められた、艶やかに伸びた髪。それが彼女の何よりの自慢であり、それが彼女に残されていた最後の自信であったというのに。

 

 

―涙も出ず、声も出ず。

 

 

サクラの手が動く度に、心の奥底から昇ってくる『絶望感』だけが…少女を、取り巻いていた。

 

 

 

「…ふん、いい気味だわ、気持ち悪い。」

 

 

 

そんな泣き喚かない少女に飽き飽きしたのか、または自分の劣等感を埋めることに成功したのか。無残なことになってしまった少女の頭髪を再び嘲笑して、その場から立ち去っていくサクラ。

 

その姿を見る事も出来ずに、汚い納屋の中に散乱している自分の髪を呆然と見て、少女の中にはさらにその悲しみが募ってくるだけ。

 

 

 

「…どうして…私が…こんな…目に…父…様…」

 

 

 

嗚咽と絶望、消沈と困惑。

 

少し前までは綺麗な部屋と、温かい食事と、優しい従者と、大好きな父と、何不自由ない生活の中に居たはずだというのに…

 

それが今では汚い納屋に押し込められ、碌な食事も無く、暴力しかしてこない子ども達と、汚い大人に囲まれて、抵抗の出来ない理不尽を受けるしかない。

 

 

…だから、少女は理解した…いや、理解せざるを得なかった。

 

 

 

…この世界が、元から理不尽に溢れていたことを。

 

 

 

今までの生活は、全て『父』がいてくれたからこそ暮らせていたに過ぎない。そこにあったモノは全て当たり前などではなく、全てが『父』に守られていたからこそ、自分に与えられていた生活だったのだ。

 

…だからこそ、ソレがなくなったときに自分に残されたモノは無く…力も無く、デュエルも出来ない自分は、ただただ世界の理不尽に飲まれるしかないのだ、と。

 

日が落ち、外が薄暗くなってくるのに比例して、灯りなどないこの汚く狭い納屋にも『闇』が広がり始め…

 

 

そして、こんなにも汚れてしまって、傷ついてしまった自分を…何故か今、『父』がどこからか『見ていた』ような気が、少女は感じていて…

 

 

 

 

 

「あは…はは…は…」

 

 

 

 

 

 

そして、不意に…少女の口から笑いが零れた。

 

 

それは、果たしてどんな精神が引き起こしたモノなのだろう。

 

 

 

苦痛からの異常か…

 

 

現実からの逃避か…

 

 

それとも、悲嘆からの狂いか…

 

 

 

『父』がいなければ、こんなにも自分は無力。何も無い、何も出来ない、何もすることが出来ないこんな自分に価値などないのだと思い知らされたこの現状に、ただただ少女は笑うしか出来ず…

 

 

きっと明日にはまた子ども達から暴力を振るわれ、大人たちから劣情をぶつけられ…そして、そのまま…

 

 

 

 

 

 

 

「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」

 

 

 

 

 

 

 

…その夜、決闘市北区の一地区から一人の子どもが行方不明となったが…

 

 

その地区の治安も治安であったためか、ろくな報告も捜査もなく…その件はすぐに、下層たちの手によって明かされぬ闇へと追いやられていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

刺すように痛い夜の冷えた空気と、容赦なく襲いかかる地面の硬さが少女の柔肌を幾度と無く傷つけているその中で…そんな些細なことに気を向けている暇など、少女には無かった。

 

 

 

…逃げ出した。己の足で。

 

 

あの場所から、逃げるために。

 

 

―狂いたかった、逝きたかった。

 

 

そんな、きっと父が疾うに逝っているであろう『この世』では無い場所へと、すぐにでも逃げてしまいたかったはずの少女だというのに…それでも、自らの足であの場所を飛び出したその少女の足は、決して止まることを知らないかの様に走り続けていて。

 

 

―死にたくはなかったから。

 

 

最後の最後に見えた『父』の姿が、少女にソレ思い出させたのだ。あの『雨の日』、父が連れて行かれる間際に言った、『生きてくれ』という、その言葉を。

 

 

…それを、最後まで少女は覚えていた故に。

 

 

だから、少女は逃げた。

 

閉じ込められていたのが、古く汚い納屋だったことが幸いだったのか。腐って壊れそうだった壁板の隙間から、やせ細っていた小さい体を上手く通して…その場所を、乱雑に散らばっていたガラクタで隠して、少しでも追っ手から逃れようとして。

 

全て、あの『雨の日』に父が本家から逃げ出すときの行動を真似しただけ。それでも何とか走って走って、あの臭く汚く醜い一区から抜け出すことが出来た少女は、落ちた体力を無視してただただ走り続けることしか出来ず。

 

 

…しかし、行く当てなどあるはずが無い。

 

 

この広い決闘市の各地区に多く散らばっている、『紫魔』の名を持つ家にはそもそも期待など出来ないし…こんなに汚い自分を匿おうとするような奇特な人間が、この世に存在するはずも無いことは少女は疾うに理解していて。

 

そして、警察も当てには出来ない。

 

政界や財界に強大なパイプを持った紫魔本家においては、たかが国家権力の上層部など頭を垂れて紫魔本家のご機嫌を取りに来るしか能が無いのだと言うことを、ソコに住んでいたときから少女は知っているから。

 

だからこそ、助けてくれる者など居ない、手を差し伸べてくれる者も居ない夜の街が、どうしても少女の絶望を更に加速しかさせてこないのか。

 

つまり言い換えれば、行くところなど無い少女は臭く汚く醜いあの場所から、暗く冷たく残酷な場所へとただ『移動』をしただけに過ぎないのだろう。

 

そんな力のない少女が行き着く場所などたかが知れている…

 

決闘市の『裏』、一般人は見向きもしないような、気が付きもしないような暗く汚い路地に身を隠すことしか出来ないのだ。

 

 

日を跨ぐ度に、いつ捕まるかも分からぬ恐怖から逃れるために隠れ、全ての人間が眠りに落ちたような時間にしか行動が出来ない少女の体は、更に傷付き壊れるのをただ待っているだけ。

 

 

…残飯を漁り、泥水を啜って。

 

 

やっていることは野犬と変わらぬ、およそ『人間』の生活では無いモノ。暖かく豪勢な食事が運ばれてきていた、心配など無い豪華な屋敷に住んでいた、何不自由していたあの頃とは全く違う。

 

金など無い、家など無い、デュエルディスクも無い。

 

 

…少女は悟った。

 

 

すべてを持っていたはずだというのに、ソレらがすべて奪われるのはまさに一瞬。

 

社会はこんなにも理不尽で、力のない者を誰も助けてはくれない。すべてを『与えられていた』だけの自分に対し、救いの手を差し伸べてくれるほど、世界は優しく出来ていないのだ、と。

 

 

 

「…父…様…」

 

 

 

世界は、こんなにも残酷で…世界は、こんなにも醜くて。

 

 

元々、父と一緒にこの世から消えるはずだった自分なのだから、きっとこの世界は自分を救ってくれないだろう。それを理解しているからこそ、『父』の残した『生きてくれ』という言葉を最後の時まで実行するしか、最早この少女に『生き続ける理由』は無くなっていて。

 

ぼろ切れを纏い、ガラクタを重ねて身を隠す…それが出来たのは、もっと汚く酷い場所に居たから。

 

胃に入れられるモノをただその口から入れて、どうにかその日の命を繋ぐ…それが出来たのは、もっと臭く醜いモノを口に押し込まれていたから。

 

 

そうして、小さく幼いその身が削られていくだけ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな、世界から隠れて生きていた少女は…

 

 

 

 

 

 

―ある日、出会った。

 

 

 

 

 

 

逃げ出してからどれほど経った頃だったのか。逃げることに必至で、日を数えることを忘れた少女からすれば『すぐ』であったかも知れぬし『悠久』の果てであったかも知れぬが…

 

 

夜の街、小さい体を隠しながら、臭い箱の中から喰えるモノを漁り探していた時…

 

 

身震いするような寒気と絶望感、そんな泣き喚きだしてしまいそうな『圧力』と…ただの純粋な『恐怖』が、少女の居た路地の『表』を通ったのだ。

 

その今にも世界そのものを壊してしまうのでは無いかと錯覚するほどに荒ぶった、単なる純粋な『力』が、今にも消えてしまいそうな一匹の少女に気付くはずも無く。

 

そして、少女はすぐに理解した。その怖いくらいの気配の内の一つに、昔に数度『会った』ことがあったから。

 

そう、それが父と同じ王座に着いていた、【黒翼】なのだと。

 

子どもの記憶力の中にも刷り込まれるほどの圧力と気配。それが、人通りのない路地…いや、彼らのせいで人が居なくなっていたその路地を、我が物顔でただ通り過ぎていくだけ。

 

 

 

 

…その瞬間に、少女の中に芽生えた新たな感情。

 

 

 

―復讐心

 

 

 

…自分をこんな目に遭わせた世界を壊したいという、禍々しい感情。あれほどの力が自分にあれば、きっと紫魔家を壊し、世界を壊し、そして自分を傷つけた人間を全て壊してやることが出来るだろう、と。

 

それは、まだ幼い子どもだったからこその短絡的な思考だったのだろう。しかし、こんな歳の子どもにそう言った感情を芽生えさせてしまったこともまた、あるべき世界の理に違いなく。

 

しかし、少女には分かっている。ソレの為には、力が足りないことを。

 

 

だからこそ、すぐに少女は後をつけた。

 

 

常人ならば近づいただけで気を失ってしまいそうなほどに張り詰めた空気感と、重く圧し掛かるような雰囲気の圧力が好き勝手に決闘市の一角を闊歩しているというのに…

 

それに怯むことなく、己の復讐心だけでソレら【化物】の後をつけている少女の表情からは、恐怖もなく絶望もない。何せ、恐怖はすでに通り越し、絶望はすでに少女を襲っていたのだから。

 

その内の一つ…『純粋な恐怖』は途中でどこかへと去っていったものの…少女の目的、潰されるような『圧力』の方へと、少女は歩みを続けて。

 

 

 

 

 

―そうして…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「テメェ、今なんつった?」

 

 

 

街のはずれの一角にある森の中、そこにまるで隠されているかのように建っている、とある『古家』。

 

マスコミにもパパラッチにも、そして自身の家族にだって知られていない、【黒翼】が若かりし頃から『何か』ある度に隠れ家として利用しているアジトの一つの、その玄関口でのこと。

 

苛立ちを隠していない表情のまま、【黒翼】はいきなり玄関に現れた小汚い子どもへと向かって、その言葉をぶつけていた。

 

全力でぶつかっても壊れない【化物】相手に一暴れしてきて、とても気分良くこの隠れ家で酒を引っ掛けようと意気揚々と帰ってきたというのに、その矢先に誰も知らないはずのこの隠れがの玄関口が叩かれたのだから、その苛立ちも当然といえば当然ではあるが…

 

その眼の前に立っているのが、ぼろぼろの布切れを纏い、痛々しいほどに痣だらけの体と折れそうなほどに痩せ細った体をした汚い子どもだったのだから、それがその苛立ちを更に加速させたのは言うまでもないだろう。

 

 

そんな汚い格好をした子どもが、王者である【黒翼】へと向かって放った一言に対して…常人ならばすくみ上がりそうな声のトーンで聞き返した【黒翼】へと向かって、先ほどと同じように子どもは返すだけ。

 

 

 

 

「…おれに、デュエルを…おじえでぐだざい…」

「あぁ!?テメェ自分が何言ってんのかわかってんのかぁ!あぁん!?」

「…お、おれに、デュエルを…おじえで…ぐだざい…」

 

 

 

泣きそうな顔で固まっている表情と、絶望だけに染まった濁りきった目。

 

喉を痛めているのか声は掠れ、病気かと思えるほどに乱雑に生えている髪はより一層この子どもから人間らしさを失わせていて。

 

ソレが到底この歳の子どもには表現できないであろう表情だというコトは、一目みて【黒翼】も理解していただろうが…

 

子どもが繰り返す同じこの言葉は、それ以外に発する言葉を知らないのではないのかと思うほどに痛々しく。

 

ソレに加え、ガキ一匹程度、彼が本気で圧をかければ一目散に逃げていくか気を失うはずだというのに…それでも同じ言葉を投げてくるこのボロボロの子どもに対して、力ずくで追い出すと言うのも気が引けるのか。

 

 

 

「チッ…なんで俺様がテメェみてぇな汚いガキにデュエルを教えなきゃいけねぇんだよ。他当たんな。」

「…他は駄目。父様と同じくらい強い人間じゃないと…意味が無い…」

「あぁん?父様って誰の…つか、俺と同じぐれぇ強いだと?」

 

 

 

初めからこの子どもの申し出など受ける気すらなかった【黒翼】に対し、始めて少女が発した『異なる言葉』は彼の興味を引き出すには十分だったのか。

 

この広い世界において、【王者】と同じくらい強いとなれば同じ座にいる者しか居らず。…いや、つい最近になってソレを超える者が目の前に現れたのだから、『例外』は確かにあるにはあるのだが…

 

それでも【王者】として世界中を飛び回って強者を捜し求めていた【黒翼】と、同じくらい強いと言わせしめるような人間など…彼にはそれこそ同じ【王者】くらいしか思い当たらず。

 

…それに加え、こんな歳の子どもがいるような奴といえば、彼に思い当たるような人間などたった一人しか居ないだろう。

 

 

 

「…カカッ、クソガキ、テメェもしかして、れんぞーのガキか?随分とまぁ汚くなっちまったもんだなぁ。見るに耐えねぇぜ、おー汚ねぇ汚ねぇ。」

「…おれに…デュエルを…おじえでぐだざい…」

「つか何が『おれ』だ。男みてぇなマネしたってよ、テメェ確か女だったろ。今じゃ見ちゃいられねぇナリだなぁおい。」

「…おれに、デュエルを…おじえでぐだざい…」

 

 

 

大人たちに非道な扱いを受けた少女だというのに、それでもその恐怖を抱えながらまた『大人』の元に訪れるというのはどれだけの思いが少女にあったのだろうか。

 

【黒翼】に言葉を放つ度に少女の眼が更に濁り、より一層そのどす黒い感情を深くさせていくのが誰の目にも明らかであり…それに伴って、悲痛な声が更にその掠れ具合を増加させていく。

 

 

 

「やなこった。テメェにデュエル教えたって、俺にゃ何の得もねぇ。大体俺様は忙しいんだっての、やぁっと相手になるような奴が見つかったってーのに、もうすぐどっかいっちまうってんだからよぉ。俺様も一緒に行くつもりだってんだから、んな暇が俺様にあるかってんだ、ったく。」

 

 

 

それでも、【黒翼】にとって何のメリットもないもの申し出を、彼が簡単に引き受けるはずもなく。

 

彼にとっては所詮、負けて折れた人間の子ども。関係もなければ義理もなく、面倒をみる責任もないのだ。それが例え、同じ王座に着いていた旧知の間柄の人間の子どもであっても、彼の欲求…有り余るほどの『決闘欲』を満たしてくれるはずが無いことは一目瞭然。

 

そして、それはこの少女とて疾うに理解していたこと。誰も手を差し伸べてくれるような優しい世界でないことは、これまでの痛みに既に教えられていたから。

 

…だからこそ、少女はずっと考えていた。それは、父と老人の取引を見ていたからこそ、何かを得るには見返りが必要なのだと思い知らされていて…

 

 

 

「得なら…ある。」

「あん?…なんだってんだよ。」

「おれが強ぐなる…そうじだら、まだ相手になる奴が増える。」

「…あ?」

「…強ぐなっで、ぶっどばじであげる…だがら…デュエル…教えで…」

「…」

 

 

 

それは、単なる子どもの戯言。

 

例え元【紫魔】の娘であっても、世界に名立たるエクシーズ王者【黒翼】を相手に発言するには過ぎた言葉。

 

その自殺行為にも似た発現を聞いた【黒翼】が黙ったものの…彼が言葉を失ったのではなく、言葉が彼から逃げ出したことは容易に想像ができ…

 

復讐に塗れたそんな眼で、汚さに塗れたそんな姿で…そう『なれる』保障などどこにも無く、こんな子どもの軽い言葉一つで対価になるはずもないというのに…

 

 

 

 

 

「カカッ…」

 

 

 

 

 

しかし…【黒翼】はふと、思う。

 

 

釈迦堂 ランという【化物】に、まず一番初めに負けたのが【黒翼】。

 

 

もしそこで彼が他の王者と同じく、その心をランにへし折られていれば、きっとこの時に世界はここまで混乱はしなかっただろう。

 

何せランに負けた【黒翼】が、気を良くして他の【王者】たちに取り次ぎをしなければいかに【化物】とはいえ年端もいかない少女の申し出を誰も受けなかっただろう。現に【紫魔】も【白鯨】も、ランの最初の申し出を簡単に切って捨てていたのだから。

 

 

しかし、彼は嬉しかった。

 

頂点まで上りつめ、体裁と威厳だけが一人歩きして、他の『王者』相手にも好き勝手に暴れることも出来ない退屈さに飽き飽きしていたそんな時に、今までの自分を笑い飛ばしてくれるような【化物】が現れたことに。

 

だからこそ、他の【王者】たちにも同じ場所に来て欲しかったのだ。そうすればこんな退屈な世界など早く壊して、もっともっと【化物】を増やして…そうして、自分の長年の退屈を埋めようと、そう思ったから。

 

 

 

 

 

「…そうだよなぁ、確かにそりゃそうだ。」

 

 

 

 

…そんな彼だからこそ、思い至れるモノがある。

 

 

 

 

 

「何で今まで気がつかなかったんだろうな、相手になる奴がいねぇんだったら、俺で作りゃいいだけじゃねーか。」

 

 

 

まるで『当たり前』の事を、世紀の大発見のようにして思い至った彼の思考は、先ほどまでの苛ついた雰囲気から一転…どこか腑に落ちたように、悪巧みをする時の顔をして立っていて。

 

 

…それは、形こそ違えど彼が他の王者にしようとしたことと似ているだろう。

 

 

相手が居なくて退屈していた所に、突如現れた【化物】。

 

それが心の底から嬉しくて、己もまた【化物】の壁を飛んで…そこで見た景色が、何にも言い表せない程に素晴らしい景色だったものだから、ランの手で他の【王者】も【化物】にしようとしたのだが…

 

 

―しかし、ソレは失敗だった。

 

 

所詮、自分とは違う人間に、同じ思考を持って同じ立ち位置に来て『貰おう』という考えが甘かったのか…それとも、自分の考え方自体が異端だったのか…まぁ、おそらく後者であるコトは確実なのだが、それでもその経験を経た彼だったからこそ、思い至れるモノであることには違いなく…

 

 

 

「ランに着いていくのも面白そうだけどよ、こっちで一手間加えてからランのとこに行くのもアリっちゃーアリか。これまで随分長けーこと退屈だったけどよぉ、だったらもう少し程度退屈が伸びたって大したことねぇよなぁ。我慢すればそれだけ、その後の見返りが大きくなるってなもんだ。」

 

 

 

先ほどまでの苛立ちを嘘のように消し去り、目の前に立つ得体の知れない汚い子どもへと向かいなおした【黒翼】。

 

まさかソレに思い至らせてくれたのが、こんなに汚れた薄汚い子どもだったのだからこそ、彼の面白みを更に倍増させて。己がやっと出会えた【化物】と饗宴することを、我慢してでも後の楽しみを増やそうというのだ。

 

長年に渡る退屈が、彼の思考回路を複雑かつ迷宮にしてはいるのだが…その思考が行き着く先は、いつだって単純なモノ。

 

 

―見た目も臭いも生い立ちも、彼にとってはどうでもいいこと。要は強いか弱いか…ただそれだけ。

 

 

常人ならば逃げ出したくなるほどの【黒翼】の圧力にも、気を失わせるほどの覇気にも、この少女は屈しなかった。それだけでも、彼と話す権利は確かにこの少女にはあり、さらにこの少女はいずれ自分をぶっ倒すと言い放ったのだ。

 

絶望に塗れた悲痛な眼。世界に見捨てられた孤独な体。この汚い子どもにそれだけの才能があるようには到底思えなく、途中で潰れる可能性のほうが大きいとは言え…

 

 

 

 

「おもしれぇガキだな、俺には他人を鍛えたことなんてねぇし、ガキの扱いなんて知らねぇからよ…どうなっても知らねぇぞ?」

 

 

 

彼が何を思ってソレを『承諾』したのか、それを知っているのは【黒翼】自身のみ。

 

そして、絶望を味わったからこそ、誰の圧力にも屈することなく…この少女に芽生えているのは、この世界へと向けた復讐心だけ。

 

自分を傷つけた人間も、自分を見放した世界も…その全てを壊したいと思う濁った思いからなる、歪んだ感情。

 

それを感じ取ってもなお、【黒翼】はソレを引き受けるのか。

 

ただの己の欲求を満たすためだけの道具。もしかすれば自分の所為で、世界がこの少女の手で壊れるかもしれない可能性だってあるというのに…『そんなこと』など、どうでもいいかのように。

 

 

 

 

「うん…それで…も………ぁ…」

 

 

 

そして、【黒翼】の承諾を得た瞬間に、少女の中で『何か』が切れたのか…

 

 

 

…静かに、その場で意識を失った。

 

 

 

 

 

「…おいおいマジか。いきなりぶっ倒れるとか聞いてねぇぞコラ…やっぱ止めときゃよかったか…」

 

 

 

 

自分の子どもすら扱ったことのない、渋い顔をしている【黒翼】をその場に残して…

 

 

 

 

 

―…

 

 

 

 


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