ごく普通の学生向けアパートの三階角部屋。
西住まほはこの部屋で一人暮らしをしながら学校に通っている。引きこもりの後遺症もあって最初は苦労したものの、今ではこの生活にもすっかり慣れた。
そんなまほの部屋に、聖グロリアーナ女学院から一人の交換留学生がやってきたのはつい先日のことだ。
留学生の名前は西住みほ。ニックネームはラベンダー。
次の土曜日にはお別れになる超短期留学生の妹と、まほは短い二人暮らしの真っ最中であった。
「おはよう、お姉ちゃん。もう少しで朝食の準備が終わるから、ちょっと待っててね」
「私も手伝おうか?」
「あとは紅茶を用意するだけだし、私一人でも大丈夫だよ。今日はアッサムの茶葉を使ったおいしいミルクティーをいれてあげるね」
そう言うと、みほは手際よく紅茶の準備を整えていく。
朝はコーヒー派のまほであったが、ここ数日は紅茶しか口にしていない。
それでも、コーヒーが飲みたいとは口が裂けても言えなかった。
聖グロリアーナ女学院の生徒が紅茶にこだわりを持っているのをまほはよく知っているからだ。みほもご多分に漏れず、どっぷりと紅茶に染まっていたのである。
その後、他愛もない話をしながらまほはみほと朝食の時間を過ごした。
一時は姉妹の絆が断ち切れそうになった二人だが、今はもう元通りの仲良し姉妹に戻っている。
子供のころはなにをするのも二人一緒だったのだ。関係を修復するのは、まほが思っていたよりもたやすいことだった。
朝食と身支度を終えて通学の準備を整えたまほとみほ。
そのとき、玄関のインターホンが鳴った。
「まほ様、みほ様、おはようございます」
「おはよう、芽依子」
「犬童さん、おはよう」
芽依子は毎日まほの迎えに来てくれる。それだけでなく、料理や洗濯などの家事方面でもまほを献身的に支えてくれた。
引きこもりだったまほが普通に生活できるようになったのは、芽依子の助けがあったからといっても過言ではないだろう。
芽依子を仲間に加え、三人はともに学校へと向かった。
三人は一緒に歩いているが、芽依子はまほとみほの隣には並ばない。彼女は必ず二人より一歩下がった場所を歩くのだ。
西住に仕える犬童の人間らしい所作だが、まほとしては隣を歩けないことが少し寂しかったりもする。大洗に来て友達ができたまほは、芽依子とも対等な交友関係を築きたいと思っていた。
そんな芽依子にみほは積極的に話を振っていく。
昨日の放課後、学校の屋上で二人きりで話をしていたみほと芽依子。そこでどんな話が交わされたのかは不明だが、二人はかなり打ちとけているようにまほには見えた。
みほのコミュニケーション能力の高さは中学時代とは別人だ。
もともと、子供のころのみほは明るく元気で人当たりもよかった。厳しい西住流の修行の影響で徐々にその明るさは失われていったが、どうやらみほ本来の性質が復活したようだ。
おそらく、聖グロリアーナ女学院の教育とあの二人の存在がみほを変えたのだろう。
「おはようございますですわー!」
まほがみほに注意を向けていると、後方から元気な声で朝のあいさつがかけられた。
先ほどまほが思い浮かべたあの二人のうちの一人、ローズヒップである。
「おはよう、ローズヒップさん。冷泉さんは……まだ寝てるみたいだね」
「冷泉様、そろそろ起きてくださいまし。もうすぐ学校に着きますわよ」
「……あと五分寝かせてくれ」
ローズヒップの背中から麻子の眠そうな声が聞こえてくる。
ローズヒップは、半分寝ているような状態の麻子をおんぶしながら登校しているのだ。
「今日も麻子をおんぶしているのか?」
「もっちろんですわ。こうでもしないと冷泉様は確実に遅刻でございますからね」
低血圧で朝に弱い麻子の面倒を見るのは本来沙織の役目。
その沙織に代わって、なぜローズヒップが麻子の朝の世話をしているのかというと、彼女は現在麻子の家で厄介になっているからだ。
ちなみに、あの二人の片割れであるルクリリは磯辺典子の家、みほの後輩であるオレンジペコは澤梓の家に滞在している。
「冷泉先輩を毎日背負って登校するのは大変ではないですか?」
「おほほほほ! これくらいどうってことないですわ。わたくし、小さい子の面倒を見るのは得意ですの」
芽依子の問いかけにそう答えたローズヒップは、自慢気な表情で胸を張る。
「……小さくて悪かったな」
「あ、違うの。冷泉さんのことをバカにしてるんじゃないんだよ。ローズヒップさんはお姉さんとお兄さんの子供の面倒を見てたから、手のかかる子の世話をするのが得意って言いたかったの」
「ラベンダー、それではフォローになっていませんわよ」
「もうっ! そんなこと言うならローズヒップさんが弁解してよー!」
にぎやかな会話を繰りひろげるみほとローズヒップ。
みほはローズヒップに文句を言っているが、ご機嫌な様子なのはまほには一目でわかった。うれしくて仕方がないという思いが顔いっぱいにあふれているのだ。
そんな二人の姿を見ていたまほの心に少しずつ暗い感情が広がっていく。
まほを襲った暗い感情の正体、それは嫉妬だ。
かつてまほが引きこもりになった原因の一つである醜い感情。みほに対する強い依存心が引きおこした負の思いは、いまだにまほの心のどこかに潜んでいる。
大洗で友達を得たことで、以前のように心がぐちゃぐちゃになることはない。それでも、みほの一番ではなくなったという事実は、まほの心に少しずつダメージを与えていた。
ローズヒップに対する嫉妬心を隠し通し、まほはなんとか平静を装ったまま学校に到着した。
しかし、まほの試練はまだ続く。学校にはみほのもう一人の一番がすでに登校しているからだ。
「おーい、ラベンダー! ボール取ってー!」
ルクリリは体操服姿でバレー部と一緒にバレーボールをしていた。
彼女は朝だけバレー部の練習に付きあっており、まほたちが登校するころはいつもグラウンドで白球を追いかけている。
「ルクリリさんは今日も朝からバレーボールをしてるみたいだね。たしか精神修行の一環だっけ?」
「磯辺様の影響をモロに受けてますわね。ちょっと心配になるレベルのチョロさですの」
「でもでも、スポーツは健全な精神を養うってよくいうよ。ルクリリさんには大事なことなんだよ、きっと」
みほとローズヒップの会話を耳にしたまほは、嫉妬の感情が暴れないように心を抑えこむ。
ローズヒップとルクリリ。この二人がそろうとみほはさらに機嫌がよくなる。表情もやすらぎと安心に満ちているように見え、それがまほの心をさらにささくれ立たせるのであった。
「みほ様の言うことも一理あります。一緒にバレーボールをしている三郷さんを見てください。芽依子はあんな清々しい表情をしている三郷さんを初めて見ました」
芽依子に勝負を挑んで敗北し、オレンジペコからきついおしおきを受けた三郷忍。彼女は大洗を騒がせた罰として、バレー部の練習に強制参加するように角谷杏に命じられた。
もちろん忍は猛反発したが、杏が耳元でなにかを囁くとすぐに首を縦に振った。おそらく、杏はある人物の名前を出して忍に脅しをかけたのだろう。
その人物は十中八九ダージリンで間違いない。みほたちの短期留学があまりにスムーズに進んだ件といい、どうも杏とダージリンの間には深いつながりがあるらしい。
「よし、次はレシーブ練習。いくよ、忍!」
「はい! キャプテン様!」
三郷忍はノリノリで練習に参加している。
意外にも忍は磯辺典子と相性がよく、それがやる気につながっているようだ。
「三郷先輩、ナイスレシーブです」
「ありがとうございます、河西様」
忍に声をかけているのはバレー部の一年生、河西忍であった。
「私のほうが年下なんですから、様付けなんてしなくていいですよ。遠慮なく呼び捨てしてください」
「では河西さんとお呼びしますわ。それとも忍さんのほうがよろしいかしら?」
「私はどちらでもかまいませんよ。同じ名前同士、一緒にがんばりましょう」
「はいですの!」
この短期間で三郷忍はずいぶん変わったように見える。
芽依子との戦いの決着とオレンジペコからの制裁。そして、バレー部との交流。なにが彼女の心境に変化をもたらしたのかはわからないが、人は変わることができるのだ。
なら、西住まほが変われない道理はない。
みほに依存してばかりの人生にピリオドを打ち、前に向かって進む。今はまだ完全には無理かもしれないが、いつかきっとみほの友達ともしっかり向きあうことができるはずだ。
それに、まほはもうみほだけが全てではない。この大洗でまほはかけがえのない友を得ることができたのだから。
「まぽりーん! おっはよー!」
遠くから聞こえてくる沙織の声がまほの決意を後押ししてくれる。
あまりにタイミングがいい沙織の登場の仕方は、まるで恋愛漫画の主人公のようであった。
日ごろからモテたいモテたいと言っている沙織だが、もしかしたら男性ではなく同性にモテる星のもとに生まれたのかもしれない。
午後からは戦車道の授業の時間。素人集団である大洗はまだまだ基本が不足しているので、訓練は今日も基礎的なことがほとんどだ。
みほたち聖グロリアーナ勢の手助けもあり、訓練は滞りなく進んでいる。
とくに助かったのは、素人である戦車道履修生の質問に答えられる人員が増えたことだ。まほしか経験者がいないせいで四苦八苦していたころに比べると、忙しさには雲泥の差がある。
その浮いた時間を使い、まほは新たなチャレンジに乗りだしていた。
校内の駐車場で新たに発見された大洗の新しい戦力、三式中戦車。
自動車部のがんばりのおかげで整備は万全。戦車を動かす人員が不足しているという問題をクリアすれば、次の試合で大きな力になれる。
まほはその三式中戦車に操縦手として乗りこむことを決めた。
車長という目立つポジションは西住流やみほに迷惑がかかる。その点、操縦手は車外に姿を見せる必要もなく、どちらかといえば地味なポジション。今のまほにはうってつけである。
「私たちはこの戦車に慣れることが最優先だ。芽依子、あや、今日もよろしく頼む」
「必ずまほ様のお役に立ってみせます」
「がんばりまーす」
三式中戦車のほかの乗員はウサギチームの芽依子とあや。
ポジションは芽依子が車長兼通信手、あやが装填手兼砲手だ。
チームワークが売りのウサギチームのメンバーを減らすのはそれなりにリスクがある。それでも、大洗には一輌でも多くの戦車が必要であった。
偵察を終えて帰ってきた優花里から、アンツィオ高校が新戦車を入手したという情報がもたらされたからだ。
「P40は重戦車だが前面装甲は50㎜しかない。三式中戦車の火力なら遠距離からでも貫通可能だ。三輌のP40のうち、最低でも一輌、できれば二輌は私たちが撃破したい」
イタリア製の重戦車、P40が三輌。それがアンツィオ高校の新戦車だ。
購入資金を貯めていたのか、それとも大口のスポンサーでもついたのか。詳しいことはわからないものの、アンツィオ高校が手強くなったのはだけは確かである。
「責任重大ですね。私の腕で当たるかな?」
「あや、芽依子もできるだけ手助けします。力を合わせてP40を撃破しましょう」
「芽依子ちゃんが助けてくれるなら大丈夫かも。よーし、次の試合で活躍して男友達に自慢しよーっと」
急造チームだが雰囲気は決して悪くない。これなら次の試合までに、それなりの連携が取れる出来には仕上がるはずだ。
アンツィオ高校がP40を三輌購入したと優花里から聞かされたときは、正直勝てないかもしれないという不安もあった。
アンツィオ高校の隊長である安斎千代美は、中学時代に名を馳せた優れた戦車乗りだ。豆戦車が主力のアンツィオ高校では目立った実績を上げられなかった人物だが、戦力が整ったのなら話は別。一回戦のサンダース同様、もしくはそれ以上の壁となって大洗の前に立ちふさがるだろう。
しかし、絶対に勝てない相手ではない。
相談や疑問に答えてくれる聖グロリアーナの生徒のおかげで、戦車道履修生の訓練には熱が入っている。
士気の高さは試合の勝敗に直結する重要な要素。それが保たれていれば勝機は見出せる。
さらにもう一つ、士気の向上に一役買っていることがある。この試合を突破できれば大幅に戦力を増強できるのだ。
三郷忍が学園中をくまなく捜索してくれた結果、フランスの重戦車B1bis、ドイツの重戦車ポルシェティーガー、それに43口径75mm砲を大洗は得ることができた。
人員と整備の関係で次の試合には出場できないが、戦力として計算できるようになればこれからの戦いがぐっと楽になる。
「まずは射撃練習から始めよう。芽依子、指示を頼む」
「了解しました。では、パンツァー・フォーでお願いします」
「忍者の芽依子ちゃんにドイツ語は似合わないよー。戦車も日本製なんだし、戦車前進でいいんじゃない?」
「……まほ様、日本語で指示を出してもよろしいですか?」
戸惑ったような表情の芽依子に、まほは穏やかな表情で答えを返す。
「この戦車の車長は芽依子なんだ。私に気を使う必要はない」
「ありがとうございます。目的地は射撃練習場、戦車前進!」
芽依子の指示を受け、まほは戦車を走らせる。
次の試合に向けた大事な訓練の時間が今日も始まった。
あたりが茜色の夕日に包まれ始めたころ、戦車道の授業は終わりを告げた。
しかし、まほたち三式中戦車チームの訓練はまだ終わらない。これからみほたち聖グロリアーナチームとの居残り練習を行うのだ。
次の試合まで残された時間は少ない。急造チームを成熟させるためには、二部練習がどうしても必要であった。
「今日は私たちボコさんチームと模擬戦をやりましょう。クルセイダーが白旗を上げたら、そこで訓練は終了になります。クルセイダーを撃破しないといつまでも訓練は続きますので、がんばってくださいね」
授業とは違い、みほは二部練習では鬼になる。
まほたちのチームは連携不足なのだ。オレンジペコが装填手を担当することで、明確な弱点がなくなったみほのクルセイダーに勝てるわけがない
言葉は丁寧だが、みほの容赦のなさは母であるしほにそっくりであった。どうやら、みほは西住流の後継者として順調に育っているらしい。
「芽依子ちゃん、私今日死ぬかも……」
「あやを一人では死なせません。死ぬときは一緒です」
「いやいや、本気で死ぬつもりはないからね!?」
「ジョークです」
「芽依子ちゃんが真顔で言うとジョークに聞こえないよー」
芽依子とあやが耐えられるか少し不安はあったものの、冗談を言い合えるのならまだ大丈夫だろう。
「私も全力を尽くす。最後まで諦めずにがんばろう」
まほの声に芽依子とあやが無言でうなずきを返す。
これでいよいよ地獄の特訓の始まる。だが、そこに待ったの声がかかった。
「先輩、私たちも参加させてください!」
声のしたほうにまほが振りむくと、そこには梓を先頭にしたウサギチームのメンバーが立っていた。
いや、ウサギチームのメンバーだけでない。そこには解散して帰ったはずの、戦車道履修生が勢ぞろいしていたのである。
「まぽりん、私たちも戦うよ!」
「今日はバレーボールの練習は休みにします。ルクリリさんと忍のおかげで、朝と昼に内容の濃い練習ができましたから」
「いくらラベンダーちゃんが強いといっても、この人数で戦えばなんとかなるっしょ?」
これで勝負は五対一。
しかし、みほは優しそうな表情をいっさい崩さず、次のように言い放った。
「どんな不利な状況でも西住流に後退の二文字はありません。私も本気で戦いますので、全員でかかってきてください」
まほの背筋に悪寒が走る。みほのまとっている雰囲気がある人物とそっくりになったからだ。
「この圧倒的な強者のオーラ、まるでローマ史上最強の敵と恐れられたハンニバルのようだ」
「いや、アメリカに我らの最も恐るべき敵と言わしめたマインシュタインだろう」
「尊攘派の志士が恐れた新選組の一番組組長、沖田総司ぜよ」
「後の天下人、徳川家康に粗相をさせるほどの恐怖を与えた甲斐の虎、武田信玄!」
『それだっ!』
みほにぴったりの人物が決まったのか、歴女の面々は満足そうにうんうんとうなずいている。
ちなみに、まほが想像した人物は母の西住しほであった。
こうなってくると、無事に訓練が終わるのかも怪しい。
どうかみんなの心が折れませんように。まほは心の中でそう祈ることしかできなかった。
その後、なんとか訓練は終わったものの、本気のみほは怖いというのを全員が思い知ったのは言うまでもない。