─壁に赤い火の灯った松明が何本と立て掛けられてもなお、そこは足元の見えない暗い室内だった。
そんな部屋の中央に、彼は立っていた。
「……フゥッ」
と息を吐いた彼が1歩、2歩と後退りすれば、その足元には見えにくいが赤い線で何か円形の模様が描かれている。
また、彼の手には、首があらぬ方向を向いた血塗れのニワトリが握られている。
「遂に……やるんですか?」
突然、背後からそんな声がした。
彼が振り返ってみれば、そこには見慣れた少女の姿があった。短めのおかっぱ頭の少女が。
「……言峯(ことみね)、何のようだ?」
と告げた彼。
言峯は、手を背中で組み、スキップで近付くと、彼と互いの鼻が当たりそうな位置でもってこう言う。
「そう怖い顔をなさらないでくださいよぉ、ご当主様……御様子からお察しするに、今宵、召喚の儀を執り行うおつもりで?」
と。
「まぁ……そんなところだ」
「……へぇ」
その返事と共に、ゆっくりと後ろへと下がった彼女だったが、その後向き直って、例の赤い線のサークルのその中央へと近付いた。線を踏まないよう爪先立ちで、1歩進む毎に彼の顔を笑みを浮かべるその顔で一瞥しながら。
そうして中央に置かれていた物を掴み上げ、
「……何ですか?このボロい板切れは」
などと口走る。
彼女の手に握られていたのは、目の部分に傷がある鳥を象った木製の人形だった。
「こんなんで……どんな英雄様が出てきてくれると言うんです?」
言峯は笑っている。
「ヒンドゥー教の聖典の1つ『マハーバーラタ』にいわく……その者の名は『純粋な行為の実行者』を意味する……」
というのが、男の答えである。
「それより……クラコビチャックの件はどうなった?」
更に続けて、こうも言った。
「抜かりなく……ただ」
「……ただ?」
「エミヤなる助手の存在が確認されていますが……クラコビチャックの証言にあった期日に、特定の場所に現れなかった……なので、今はクラコビチャックが拠点を置いていた辺りにランサーを回らせておきます。怪しいものがいれば、迷わず殺せ、と」
言峯が近付きながら、そう告げる。
「クラコビチャックは……令呪を何者かに譲渡した形跡があったそうだな?」
「えぇ……」
ゆっくりと目を閉じる男。
「円卓の欠片……召喚に成功すれば、厄介な相手となるだろうな……」
「インドの大英雄様より強い?」
言峯が冗談っぽく笑いかける。
対する男の反応は重く、少しばかりの間、唸り声を上げていたかと思えば、
「何にせよ……苦戦は免れまい」
とゆっくりとした口調で返す。
すると、言峯は、どうしたことか、クスクスと笑い出し、
「これだけ用意周到に準備をしてきても、苦戦は免れないだなんて……謙虚なんだか臆病なんだか」
などと言うのだ。
「全てのサーヴァントを手中に置き、戦わずして勝利する。それこそが最上の策であり、聖杯は我が遠坂の悲願だ」
とは、男の弁。
「その信念を否定する訳ではありませんが……」
言峯は、そんな台詞と共に、人形を元あったサークルの中心部に置き直す。
それから向き直って、こう話を続けた。
「……そんなに上手くいきますかねぇ?」
そう言いがちに、またも笑いかける。
「いかせるさ……この未熟者の為に多くの遺産を遺してくだされた御先代の為にも」
この一言を言う途中で、何故だか男は身を翻し、言峯には背を向けた。
すると、当の言峯が足音は殺しつつ、ゆっくりとその背後まで忍び寄り、男の耳の側で、
「期待してますよ…… “御兄様” 」
と告げた。
少しばかりの間を挟み、男がゆっくりと振り返ったときには、もう言峯は彼の視界から消え失せていた。
男はそれから一言、
「……若刃(わかば)」
と呟くのだった……
─この2日前。
ロンドン郊外に位置し、それは中世と近代とが入り混じったような街並みの中に立つ昔ながらの時計塔。その中を行き交う人の群れに、彼女の姿はあった。
黒いトレンチコート、黒いジャケット、黒いスラックス、黒いベスト、ダークグレーのシャツに、黒いネクタイ。暗い茶色の髪を編み込んだ、長身の女性である。
トランクケースを引き摺りながら、廊下をそそくさと歩いていく最中、
「……エミヤ」
そんな声が彼女を呼び止める。
声の主は、藍色の詰襟の服を着た、長めのボブカットをした青年だった。
彼女の背、窓際に立つ彼は、物憂げな表情を浮かべ、
「……行くのか?」
と尋ねた。
女は、振り返らず、ただ、
「えぇ」
とだけ答えた。
「出発は……明日だと聞いていたが」
「アドリアノと私の間じゃ、いつもやってることよ。予定をわざと守らないのは……どちらかが合流前に敵に捕まるなどの自体に陥った場合に、共倒れを避ける為」
「それは……つまり」
青年は口を左右に開き、上下の歯を噛み合わせ、苦悶の表情を浮かべた。
「……信用の話でもする気?」
対する女は、首だけを動かし、横顔で青年の方を見た。次いで、ゆっくりと視線を落としながら、
「そんな感情論でリスクを生むのは……馬鹿げてるでしょ?」
そう言い捨てる。
この後、彼女はゆっくりと向き直り、また同じ進行方向へと歩み出す。
こうして、1歩、2歩と歩を進めたところで、
「……死ぬなよ」
との声が聞こえた。青年の声だった。
もう1度足を止めた彼女は、依然背中を向けながらであったが、
「努力はします……私だって、死にたくはないので」
と応えた……
─同日のこと。
ここは、とある古びた教会の、聖職者たちの休憩室のような場所。
部屋の奥のテーブルには積まれた書類がそれはさながら山脈のように連ねられた。
その合間には多種多様な言語で書かれた新聞記事も交じっている。例えばギリシャ語の記事なら、「クノッソス宮殿の牛のフレスコ画が盗難に遭った」だとか、「クノッソス宮殿に出入りする謎の銀髪の男」なる特集記事もある。またロシア語の記事ならば、「資産家のゾォルケン氏がシェリダン・レ・ファニュの短編集を購入した」などの記事が見受けられる。
そして今、ドアを開けて、一人の男性が入ってきた。
「……あら、ブラザー・オルテンシア。どうかしたの?」
首を横に伸ばし、書類の端より一人の老女が顔を見せ、そう告げた。
彼女は東洋人らしいが、その姿はまた「天使にラブソングを」のマギー・スミスのようでもある。
「お伺いしたい……日本の秋津なる都市で開かれる、聖杯戦争について」
と、それがオルテンシアの用件であった。
すると老婆は、
「聖杯といえど、あれはもののいい贋作に過ぎません。アナタが気にかけるような代物ではありませんよ?」
と優しげながら諭すような物言いで応えた。
「しかし……その名がつく以上は、教会としても見逃す訳にはいかないハズです。事実として、教会から人が送られている……前回はアナタ自身が、そして今回はアナタの娘さんがそうであるように……そうでしょう?シスター・言峯」
こうして言峯の名で呼ばれたこの老婆は、チェーンのついたメガネを机上の隅に置くと、年齢を疑う程に速くサッと立ち上がり、そこから後はゆっくりと、けれども確かな足取りでオルテンシアの横まで歩み寄ると、
「どこで知ったかはあえて問いませんが……それを知り、アナタは何をするというのですか?」
と尋ねた。
「勿論……叶えたい願望があるのですよ。あの杯の奇蹟で」
それを聞いて老婆は、ゆっくりと彼の側から離れていくと、その周囲に円を描くように歩き出したかと思えば、
「それで……アナタはどこまでを知っているのですか?あの杯について」
と次の問いを投げかける。
「秋津の聖杯戦争……その起源を」
「……ほぅ」
「遠坂、間桐、アインツベルン……始まりの御三家と評される三者が、魔術師の悲願たる根源への到達を目的として敷設したものと……窺いました。しかし、今なお、根源に至れた試しはない、と」
「それは当然でしょう……何せ、血で血を洗う争いの末、聖杯は破壊されてしまったのですから……どのように戦うかも、ご承知か?」
「サーヴァントの召喚でしょう……人類史に名を残す英雄たちを聖杯の力を借りることで召喚し、従者として使役する……」
「……令呪を、用いて、ね」
その一言を聞いた瞬間、突然、オルテンシアは自身の右腕の袖をまくり上げた。
そうして、
「これは……令呪、ですよね?」
と言った。
そうして見えた腕には、3本の赤い線が波を描くように刻まれていた。
「この令呪、1本につき、1度の命令をサーヴァントに強制することができる……違いますか?」
言峯が足を止めた。その身は今、例のテーブルに手をつき、オルテンシアに背を向けている。
「召喚したのですか?……サーヴァントを」
「いえ……」
「では……触媒は私が手配致しましょう。丁度、いいものが手に入ったところでした」
そう言った言峯が手をゆっくりと引くと、1枚の新聞記事がそこにあった。
イタリア語で書かれたそれには、「音楽家モーツァルト直筆の原稿がイタリアで発見された」との記事であった……
(To Be Continued……)