熱風渦巻く夜空をどうにかうねり進む空艇魔獣“ハンマーヘッド”。その白い腹が、不気味な緋色の光を浴びて明滅する。絶え間なく振動し続ける船室には、窓へ貼り付いた剣聖デクスタ。彼女の眉が痛恨に歪む。一文字に縛った唇の奥で奥歯が軋む。
“炎は獣。ひとたび牙剥けばもはや止まらぬ。世の万象を喰い尽くすまで”
古伝承が語るその警句を、デクスタは焼け付くような苦渋の中で思い起こしていた。大気さえ凍り付くはずの極北の冬に充満する熱気。山肌を一面に覆っていた銀雪はことごとく融けて滝川を為し、あちこちで起きる爆発が超高温の蒸気を間欠泉めいて噴出させる。ついには足元の土砂までもが飴の如くに歪んで流れ出し、大地を、山を、溶岩の沼に変えていく。
“
デクスタは地上の一点へ視線を張り付けたまま、操縦席の術士へ叫びかけた。
「もっと寄せて! 火の中心部へ!」
「無茶ですよ、船体が燃えてしまう!」
「高度をあげればいい! できるでしょっ」
「いいんですね? ……知りませんよ!」
炎が巻き起こす予測不能の突風にたびたびあおられながら、なんとかハンマーヘッドは火災中心部の直上へとたどり着いた。乗り込み口を蹴り開け見下ろせば、地面は目もくらむほどに遠い。だがデクスタは、恐れるそぶりさえ見せずに太刀やら荷物鞄やらを身に着け始めた。術士の顔が青ざめる。
「なにするつもりですか、剣聖!?」
「
「
ほとんど泣き叫ぶように制止する彼へ、デクスタはおどけてウィンクなどして見せた。
「“誰が猫に鈴をつけるのか”……ってね!」
そして、とうっ! と気炎を吐くや、船の外へ飛び出した。
眼下に広がる火炎地獄へ真っ逆さまに落ちながら魔術を発動。まずは防火に《水の衣》。さらにギリギリまで地面を引き付けておいて《重力軽減》。融解しぬかるむ地面へ流星の如く着陸するや、デクスタは雷光の速さで駆け出した。
立ち止まっている暇はない。彼女の魔術の腕は並以下、術式の出来も褒められたものではない。周囲の恐るべき高熱で《水の衣》は早くも破られはじめている。猶予は長く見つもって、あと10秒。
走る剣聖の左右から、業火が蛇のようにしなって襲い掛かった。だが彼女は止まらない。太刀風唸らせ、炎を千々に斬り散らし、速度を緩めもせずに駆け抜ける。
しかし斬っても斬ってもキリがない。炎はデクスタの動きへ呼応するかのように次々噴き上がり、行く手を塞ぐ壁となる。
逆に言えば――この道で正解!
「どっおりゃあ―――――っ!!」
気合一閃、デクスタは正面の炎壁を切り裂いて、業火の最奥へと侵入した。
思ったとおり。そこで“炎”が、
“炎”。そう、炎と呼ぶしかない姿だ。辛うじて全身の輪郭が少女の形を留めてはいる。牙や耳や手足の爪が獣の本性を物語ってはいる。だが、全身から
“炎”は腕をわななかせ、胸の前の虚空を必死に抱き寄せようとしていた。炎色の涙を流す緋女の目が、そこに何を見ているのか。あの腕が、一体何を取り戻そうとしているのか。言葉はなくとも分かる気がした。何が彼女をこうまで狂わせてしまったのか、その仕草ひとつでデクスタは察してしまった。理解してしまった。分かってしまった。
「でもね」
デクスタは胸を息で満たす。
「それでも“大人”は、やるしかないのよ!!」
咆哮とともにデクスタが走る。光を思わせる超高速の踏み込みで瞬く間に緋女の眼前へ肉迫する。ここでようやく緋女が反応を見せた。怯え、恐怖、それを塗り潰すための悲痛な敵意が、実体ある炎となって噴き出し、緋女の全身にまとわりついて鎧と化す。その姿はさながら火炎の巨狼。巨狼が唸る。灼熱の牙を剥きだし迫りくる。
対してデクスタは、反射的に太刀を握り締め。
直後、
予想外の行動に戸惑いながら、それでも巨狼は剣聖の首へ喰らい付いた。ついにその火力を防ぎきれなくなり、《水の衣》の術式が崩壊した。凄まじい熱気が一挙にデクスタへ襲い掛かる。肌が焦げる。炭化する。それでもデクスタは攻撃しない。少女の魂の熱量を、あるがままに全身で受け止める。
生きながら身体を焼かれる激痛に襲われていたはずだ。死の恐怖に魂をえぐられ続けていたはずだ。それでも、にやり、と不敵な笑みを口元に浮かべ――
――“大人”のやることなんて、ひとつでしょ。
デクスタは緋女を抱きしめた。
炎が止まった。
困惑が火炎を通じてデクスタの肌にも伝わってくる。緋女を守っていた炎の鎧が一瞬緩み、その隙間に、素裸の肌がさらけ出された。
――今なら!
好機を見出した途端、デクスタの手が走った。“折り合いの首輪”を少女の首へ巻き付け、流れるように留め金を
緋女の身体が小さく痙攣した。口から弱々しく啼き声が漏れた。
炎が急速に薄れ始めた。地を焼いていた火炎は風に吹かれ、寒気に冷まされ、みるみるうちに雲散霧消していく。明々と照らし出されていた天に、漆黒の夜が戻ってくる。緋女は意識を失い、その場に崩れ落ちた。デクスタが慌てて手を伸ばし、倒れる寸前で抱きとめる。が、そこでデクスタ自身にも猛烈な痛みが走り、支えきれなくなって、ふたりもろともに転がり倒れた。
終わった。
とにかくどうにか、火は止まった。
もはやデクスタには立ち上がる気力も残っていなかった。何しろ身体は半分以上炭になりかかっているのだ。今まで動けていただけでも奇跡のようなものである。
しばらくそのまま仰向けに寝転がっていると、遠くから術士たちの歓声が聞こえ始めた。誰かが残り火の消化を命じ、他の誰かがデクスタの名を呼ぶ。デクスタは倒れたままパタパタ手を振り上げる。
「こ~こよ~」
「あっ……剣聖! ご無事で!?」
「あんま無事って感じじゃないわねえ」
なんとも気楽な調子で答えるデクスタへ、術士が魔法の光を向ける。彼女の身体のありさまを直視し、術士が「うっ……」と低く呻く。
「おい! 《大治癒》ができる者、全員来い! 《復活の奇跡》も……最優先だ急げっ!!
……お疲れ様でした、剣聖。これは偉業ですよ。あなたはまた世界を救ったんだ!」
興奮気味の術士へ、デクスタは疲れた果てた顔で、どうにか笑みを作って見せた。
治療の術を受けながら、デクスタは、己の腕の中でいまだ眠り続ける少女へ視線を落とした。その首には、しっかりと首輪が
これでもう、二度と“炎”が暴走することはない。だがその代償に、この子は生きる力を失った。歩くことも、喋ることも、手を伸ばして物に触れることもできない。ベッドの上で誰かに世話されながら、一生涯の退屈をやり過ごすことしかできない。
これが
少女を社会へ縛り付ける首枷。
デクスタは腕に力を籠め、小さな緋女を抱きしめる。
「大人の都合を……押し付けてごめんっ……」
唸るように囁かれた慚悔は、幸いにか、呪わしいことにか、周囲に聞きとがめられることはなかった。
*
それから2ヶ月。
緋女は毎日ずっと天井を見ていた。ベッドの上に手足を投げ出し、枕の中へ頭を沈めて、ひたすら木目の流れを追っていた。
好きで見ていたわけではない。寝たくて寝ていたわけではない。魔法学園が技術の粋を凝らして創った“折り合いの首輪”は、十全にその力を発揮した。手も、脚も、首も、指も、舌ひとつすらも、緋女は動かせなくなっていたのだ。辛うじて操れるのは
体中ひどい火傷になっている、と聞かされてはいたが、皮膚の感覚が失われたから痛みらしい痛みもない。まともに
こうなってしまえば、肉体なぞは重荷に過ぎない。無意味な生をこの世へ繋ぎ止める脱出不可能の牢獄に過ぎない。
息を吸い、吐き、
これが、自分。
これが、人生?
これが、いのち……
肉の中で生きていく、ということ……
「緋女ーっ! おっまたせ! お昼ご飯ができたわよーん!」
陽気に声を弾ませながら、剣聖デクスタがやって来た。胸には似合わないエプロンを着け、手には粥の皿をつまんでいるのが視界の隅に見える。ベッドの脇に椅子を引き寄せ腰を下ろし、緋女の上体を助け起こし、背の後ろに丸めたクッションを挟んで支え、
「お腹空いたでょー? 今日のは最っ高にうまくできたと思うのよね! お口に合えばいいんだけど!
はい、あーん」
などと口走りながら、粥の匙を口元まで運んでくる。
この2ヶ月、ご丁寧に毎日毎日、繰り返し続けた行為。耐えがたい空腹がために受け入れるしかなかった媚態だ。だが緋女はこの日、口を開こうとはしなかった。
固く唇を結んだまま、じっと、壁の染みを睨んでいた。
吐息の漏れる音。
遠い梢の鳥の声。
匙が皿の上へ戻され、小さく鳴った。
「……ま、お腹が空かない日もあるか」
見当違いの作り笑い。デクスタはそばのテーブルに皿を置き、今度は他愛もないおしゃべりを始めた。今日はあったかいわね、とか。いよいよ梅のつぼみが膨らみだしたのよ、とか。最近このあたりに野良犬が迷い込んできちゃって、とか。どうでもいいことを、一方的に。うるさいと思っても、鬱陶しく感じても、拒絶する方法さえ緋女にはない。黙らせるための声も、逃げ出すための足も、既に失われた。保護者
思いは届かない。緋女の心は、閉ざされている。
「……おっと。今日は出かける用事があるんだったわ」
ようやくデクスタは話を切り上げ、重い腰を上げた。
「オムツはまだ大丈夫そうね。ごめん! ちょっと行ってくるわ、夕飯までには戻るから」
騒音は消えた。あの見飽きた天井も、緋女の視界にまた戻ってきた。
用事がある、というのは半分本当。もう半分は、あの場から逃げ出すための口実。
デクスタは己の住まいへ緋女を引き取った。かつて魔法学園との交渉の終わりに、デクスタが提案した条件がこれだったのだ。
「封印はあたしがやる。そのかわり、後はあたしに任せてほしいの」
「任せろとは、具体的には?」
「世話する。育てる。一緒に暮らす。
“
学園の使者たちは互いに顔を見合わせた。ひとりが頷き、他も無言で賛同した。
「よろしいでしょう。“首輪”さえ
こうして緋女の養育を自ら買って出たデクスタなのに、わずか2ヶ月で
粥の皿を台所に戻したデクスタは、胸に重い息を吸い込むと、握り拳を己の頬へ叩き付けた。
「……へたくそっ」
(つづく)