気合を入れなおしたカジュはすぐさま呪文詠唱。まずは、
「《魔法の縄》。」
暴れないようドックスの脚を地面に、両腕を左右の建物に拘束。さらに、
「《暗黒力場》。」
魔法の働きを阻害する黒色の魔法陣をドックスの周囲に展開。これは彼を守るための措置である。“
仕上げに、杖の先端に魔力を籠め、ドックスの口許に近付ける。この魔力はいわば餌である。すぐさま“
つまりカジュは、杖を釣り竿にして“
「ちょっとしんどいけど、我慢してよねっ。」
カジュが杖を一気に引き上げると、ドックスの喉の奥から“
「おゴッ!?」
苦しげに呻くドックス。気の毒には思うがカジュは術を止めない。触手はドックスの口からずるりずるりと伸びあがる。1m、2m……長い。カジュは《風の翼》を発動し、上空へ向かって飛び上がり、全力で杖を引き上げた。5m。10m。ついにクラゲの全体がドックスの喉から吐き出された。急に抵抗がなくなった反動で、カジュは空中に投げ出される。
「おわっ。」
術を制御し、空中で静止。カジュは状況を確認し――唖然とした。
ついに姿を現した“
“
「どんだけ存在感でかかったんだよ、あのひとの中で。」
夜風に吹かれ、“
そうはさせじとカジュから《光の矢》が飛び、触手の一本を切り落とす。《風の翼》を操って次の触手へ向かいながら、同時に《遠話》を仲間たちへ飛ばし、早口にまくしたてる。
「作戦失敗したけどいいかんじにフォローしたんで実質成功だから全員集合はやくきてっ。」
*
本体の出現と時を同じくして、“
ヴィッシュと緋女がそれぞれの敵の消えゆくさまを目にしたところで、カジュからの救援要請が飛んでくる。
「わかった、すぐ行く!」
とヴィッシュが返事したときには、既に緋女は走り出している。カジュの居場所は目と鼻の先。犬に変身した緋女の脚なら到着までほんの5秒。地面には芋虫のように丸まり嘔吐を続けるドックス。夜空を飛び回り空中から術を飛ばしているカジュ。そしてドックスの真上には、四方八方へ大きく触手を広げた“
その不気味な半透明の身体が、まるでドックスを雨から庇う、大きな雨傘のようにも見える。
どこか違和感を覚えた緋女だったが、ためらっている暇はない。執拗に《光の矢》を撃ち込むカジュに、クラゲから反撃の触手が伸びる。緋女は人間に戻りながら建物の壁を蹴りつけ跳躍、鋭く斬り上げ、空中で触手を切断。その刹那、飛翔するカジュと緋女の軌道が交差する。
――やるぞ!
――当然。
合図は視線ひとつのみ。
カジュが飛ぶ。術を次々打ち込みながら一直線にクラゲの横を飛び抜ける。痛みに怒ったか生存本能か、カジュを絡め捕らんとしてクラゲの触手が3本ばかりも背後に追いすがる。だがこれはふたりの思惑通り。触手が束になったところを狙って屋根の上から緋女が跳躍。全身を一振りの太刀の如く走らせ、全てまとめて叩き斬る。
クラゲが
ヴィッシュがようやく駆けつけたのはこの時だった。頭上の“
――すると、俺の仕事は……
ドックスに駆け寄り、膝をついて抱き起してやる。彼は石畳の上に這いつくばり、雨と泥と吐瀉物にまみれて喘ぎ続けていたが、ヴィッシュの手に背をさすられ、ようやく正気を取り戻しはじめた。
「ヴィッシュさん……」
「安心しろ。あとはあいつらがやってくれる。ここは危険だ、動いた方が……」
「……ずっと……」
ドックスが、微かに囁く。
「夢を見ていたような気がする……そうか……スエニはもう、死んだんですね……」
「お前……」
「知らなかったわけじゃないんです。ただ、今、はじめて
彼は自分を抱くヴィッシュの腕を丁重に拒み、自分の脚のみで立ち上がった。まだ膝が震えてはいたが。穢れと痛みが全身を片時も途切れることなく苛み続けてはいたが。狂気と鋭気が、脳髄の中で等しく渦巻いてはいたが。
弓をこの手に握ることはできる。
やるべきことがひとつある。
彼は素早く矢をつがえ、キッと天目掛けて弓引いた。頭上を覆うは血管色の巨大な傘。周囲を飛び回るふたりの狩人によって触手の全てを失い、丸裸にされた“
「やらせてください! 最後は、僕に!」
彼の叫びを耳にして、緋女とカジュが、潮の引くように離れていく。
その一瞬、ドックスは呼吸を忘れた。
呼吸ばかりではない。思考も、思念も、あらゆるものから彼は解き放たれた。的に
その瞬間、ドックスは視た。弓を引き絞る自分の手に、そっと、外から添えられる小さな白い指があるのを。肌の触れ合うその場所から、懐かしい温もりが伝わってくるのを。
――そうだ、スエニ。求める必要なんてなかった。君はずっとここにいたんだ。
確信が彼の脊髄を走った。
我に返った時、既に矢は離れ、的は中枢を射貫かれていた。
茫然と見上げるドックスの頭上で、“
ドックスは静かに、弓を下ろした。
そっと彼の肩に手のひらが添えられた。振り返ればそこには、安堵の笑みを見せるヴィッシュ。ドックスは目を閉じ、ずっと忘れていた息を吸い込み、吐きながら再び瞼を持ち上げる。
静寂。
ふと気づくと、あれほどしつこく振り続けていた雨もようやく弱まり、止む気配を見せ始めていた。
*
それから半月ばかりが過ぎた頃。
第2ベンズバレンから少し離れた森林の中に、脱兎の如く逃げ回る魔獣の姿があった。“地獄ウサギ”というやつで、大仰な名前のわりに強くはなく、人を襲いもしないのだが、とにかく食欲旺盛。1匹が1シーズンで農村5つ分の畑を喰いつくすという厄介者である。そのうえ臆病で逃げ足が極めて速く、敵の気配も敏感に嗅ぎ分ける。狩人にとってはこれ以上ないというくらい面倒な相手であった。
これを最前から追い回しているのが、赤犬に変身した緋女である。驚くべきことに緋女の全速力をもってすら追い詰めきれない。“地獄ウサギ”の素早さがどれほどのものかよく分かる。
だが今回、緋女の任務は獲物を斬り捨てることではない。しつこく追いすがりながら敵の行動範囲を削り、ある一点へと追い込むことだ。
逃げ続けるうち、唐突に森の木々が途切れ、ウサギは小さな沢へと飛び出した。突然のことで進路を変えるのもままならず、“地獄ウサギ”はそのまま沢へ突っ込む。身体の半分ばかりも流れ水に浸かり、脚を取られて僅かにその速度が緩む。
――今だ!
と緋女が念じたその瞬間、まるで彼女の合図が聞こえたかのように、横手から飛来した矢が“地獄ウサギ”の耳の下に突き刺さった。
その衝撃で横倒しに倒れ、沢の中に沈むウサギ。追いかけてきた緋女が数歩たたらを踏みながら足を止め、人間に戻って獲物を確認に行く。脳を射貫かれ即死した“地獄ウサギ”の、首辺りを掴んで引っ張り上げ、森中に散らばった仲間たちへ報告のひと吼え。
「仕留めた―――――!!」
矢を放ったのは、狩人として復帰したドックスであった。
今回は敵の特性上、いつもと違う面々で臨時のチームを組んで仕事に臨むことになったのだ。緋女と他3人の狩人が獲物を追い立て、射線が通り敵の脚も鈍る沢に追い詰めたところで、ドックスの弓矢で止めを刺す。先の一件で気配が希薄となったドックスなら、敵に待ち伏せを察知されることもない、というわけだ。
この場にはいないが、人選も含めてヴィッシュが立てた作戦である。
――やっぱすげえなあいつ。
と感心しながら、獲物を担いで街への帰り道を進んでいると、先頭を行くドックスがなにやらブツブツ言い始めた。彼の眼は左手側、誰もいない空中の一点へ向けられている。
「ありがとう。君のおかげだ。いい仕事ができたよ……え? いやあ、そんなことはないよ……」
片方の眉を持ち上げる緋女。その背後でひそひそと囁き交わす3人の狩人。
「なんだあいつ……」
「死んだ嫁さんの幽霊が見えてるんだとさ」
「勘弁してよ、気持ち悪いって……」
聞こえないよう言っているつもりだろうが、いかんせん、緋女の聴力は並外れている。聞こえてしまえば、彼女の性格上、一言言わずには言われない。緋女は歩きながらくるりと振り返り、後ろの連中に冷たく言い放った。
「直接言えば?」
それで狩人たちは黙った。
――で、黙るのかよ。
緋女は小さく鼻息ひとつ。脚を早めて狩人たちから距離を取り、ドックスの横に並んだ。彼がにこやかにくれる笑顔には、狂気の色など微塵も感じられないのだった。
*
「一体ドックスに何が起きたんだ? クラゲは倒したはずだろ……なぜまだスエニの幻覚が見えてるんだ」
自宅ではヴィッシュが寝椅子に腰を下ろし、膝の間に組んだ両手を、沈痛な面持ちで見つめていた。奥の階段に腰かけたカジュが、膝の上に頬杖をついて、むーんと低く唸っている。
「本格的な説明するなら半年分の講義になっちゃうけど……。
めちゃくちゃかいつまんで言うと、ドックスさんが“
「じゃあ、ドックスの中にあのクラゲはまだ生きてる……?」
「生きてるねえ……。」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫なわけないよ。もうこれで彼とクラゲを切り離すのは不可能。彼は一生存在感を喰われ続けることになる。
ただし、喰った存在感で生み出されるのも彼自身の魂の部分コピーになるので、クラゲの
「あ? ちょっと待て、混乱してる。
えっと……つまりドックスは、自分の魂に自分を喰われて……喰った分で喰われたところを埋めて……元に戻ったらまた喰われる……それを繰り返す? 一生?」
「理解が速くて先生はうれしい。」
「あいつを苦しめてた痛みはどうなる?」
「感じるだろうね。前よりはだいぶマシだけど。」
「なんとかしてやれないのか!?」
「無理でしょ。仮にできたとしても、やるべきかどうか。」
カジュはお手上げとばかりに両手を掲げ、そのままだらりと背中を階段の柱にもたれかけた。
「彼は自分で選んだんだよ、苦痛を感じながら生き続けることを。誰がそれを邪魔できるっていうの。」
長い長い溜息。
「他人として尊重し、他人として距離を置く……それ以外に、できることはない……か」
深く沈み疲れ果てたヴィッシュの声に、カジュはたまらなく憐みを覚えた。
「ハグしてあげよっか。」
「いや? 気持ちだけでいいよ。ありがとう……」
「あ、そ。」
*
緋女はそこから第2ベンズバレンに帰り着くまで、ずっとドックスの隣を離れなかった。
彼女のことだから、ヴィッシュやカジュが語っていたような理屈を承知していたわけではない。単に並外れた嗅覚によって、彼との最も適切な距離を理解していただけなのだ。横に一歩半。家族でもなく、敵でもなく。仲間ではあっても、友ではなく。
ドックスはよく喋った。
大半が、彼だけに見える“妻の霊”との会話ではあったが。
彼は笑っていた。あの夜、ヴィッシュに釣られて見せた笑顔とは違う。心からの微笑み。愛に満ちた目線。ふと胸に響くものがあって、緋女は、彼の会話が途切れたときを狙って問いかけてみた。
「あのさ」
「はい?」
「なに話してたの? 今」
「ああ、いや。別に大したことじゃなくて……」
照れて彼が頬を掻く。
「今日のごはん、何が食べようか、って」
――ああ。やっぱりな。
緋女はしっくりと得心した。
彼の中で、スエニは活きている。ドックスは何もかも飲み込んでしまう道を選んだ。感傷からでもなく、罪悪感からでもなく、自分自身が生きるためにだ。死んでしまった妻の霊と、今夜の献立について話し合う。明日の仕事について話し合う。時には人付き合いや、夜の生活についても話し合うだろう。生きるためにこそ、死と語り合う。それがドックスの選択なのだ。
なら、これ以上なにを干渉する理由があろうか。
緋女は、ニカと笑ってドックスの肩に腕を回し、引き寄せた。ひょろひょろと背の高い、枯れ枝のような彼の身体が、よろめきながらされるがままに寄ってくる。
「じゃあうちに来いよー! 晩飯食おうぜーっ!」
「ご迷惑じゃないでしょうか?」
「あたしがお願いしたら一発よ」
「ああ。
そしてふたりで笑いあう。
ヴィッシュは無論、こうなることを意図して緋女とドックスを組ませたわけではない。だが期せずして絶妙の人選となったようだ。これができるのが緋女なのだ。ヴィッシュのように、関わった人々へひたすら親身になってしまうでもなく。カジュのように、注意深く他人との距離を取り続けるでもなく。他人を他人としたまま、馴れ合いではなく、しかし親しく肩を叩き合えるのが緋女なのだ。
緋女は力強くドックスの首を抱えたまま、ひょうきんにウィンクして見せる。
「優しいボスが、きっと美味い物作ってくれるから、な」
THE END.
■次回予告■
言葉はなくとも
次回、「勇者の後始末人」
第18話 “愛の火を探して”
Such das FEUER der Liebe
乞う、ご期待。