ドックスは
気の迷いだった。ほんとうに、いっときの気の迷いだったのだ。
妻スエニが死んでから半年ほどが過ぎた頃。自傷行為に等しい無謀な狩りで己をどれほど苦しめても、彼女を失くした心の穴は少しも埋まらないと悟った頃。寂しさのあまり、猛烈な人恋しさのあまり、彼は、娼婦を買った。
娼婦は年のころ18ほどの小柄な娘だった。名前は知らない。何か名乗ってくれたはずだが、覚えてはいないし、どうせ本名ではあるまい。彼女は顔が小さく目が大きく、なんとなくスエニに似ていた。それでつい、目を惹かれた。
「あーあ。お兄さん、こんなに濡れて」
その日はぬるい雨が朝から降り続けていたが、ドックスはろくに雨具もつけず、一日中仕事に走り回っていたのだ。一方、娼婦の方は宿の軒先でぼんやり座り込んで客待ちをしているところだった。雨の日は客足が遠のく。ふらりと通りかかったドックスが、一体何時間ぶりの通行人だっただろう。これを逃しては飯の食い上げ、とばかり、娼婦はいつも以上の親切さでドックスの腕に絡みついた。
「かわいそう、冷え切ってる。おいでよ。いい具合に温めてあげるね」
手を引かれるままにドックスは売春宿に上がり、服を脱がされ、ひとつの寝床に引き込まれた。やるべきことをやり終え、その後に来る無感動な恍惚の中で、ドックスは泣いた。娼婦は優しい娘だった。なぜ自分の上で客が泣いているのか、事情は全く分からなかっただろうに、気味悪がるでもなく彼を撫でてくれた。
その温かな手のひらが、ドックスの肌には――
その時だった。娼婦が突如、耳元で金切り声を上げた。彼女はドックスの背後、天井のほうを見て、恐怖に目を引き向いて震えていた。驚いたドックスが振り返ると、そこに“スエニ”がいた。
ドックスは娼婦もろともに寝床から転がり落ちた。娼婦が這いずるように逃げ出すのも構わず、ドックスは茫然とその場に立ち上がった。スエニ。確かにスエニだ。身体は青黒く半透明になってはいたが。手足の代わりに不気味な触手が垂れさがってはいたが。部屋の天井近くへ、支えもなく浮遊してはいたが。顔は確かにスエニだったのだ。
“スエニ”がドックスへ触手を伸ばし、抱きしめるように包み込む。
その途端、恐るべき激痛がドックスを襲った。まるで身体中を無数の針で突き刺されたかのよう。電撃が四方八方から一斉に肌を貫いたかのよう。皮膚という皮膚を
無限にも思える苦痛の時間の中で、ドックスはしかし、微笑んでいた。
――スエニ。来てくれたのか。僕の浮気を叱りに……戻ってきてくれたのか!
やがて階下が騒がしくなり、階段をやかましく軋ませながら宿の男衆が駆けあがってきた。彼らが部屋に飛び込むや、“スエニ”の姿はすうっと薄れ、消えてしまった。唖然とする男たち。気を取り直した彼らが、床で蛆虫のようにぴくついているドックスを助け起こしてくれた。あの小柄な優しい娼婦は、裸体にシーツを巻いただけの姿で心配そうに見守ってくれていたが、もう、どうでもいいことだ。
今となっては、何もかも。
身体の痺れが取れ、身動き取れるようになるや、ドックスは荷物をまとめて旅に出た。やるべきことはひとつ。“スエニ”を狩るのだ。
後始末人たるドックスには無論分かっていた。スエニは何らかの魔法によって蘇り、魔獣と化してしまったのだ。ならそれを討つのは狩人の役目。いや、その役目を担うべき者が、ドックスをおいて他にあろうか。
“スエニ”はドックスの行く先々に現れた。街道に。森の奥に。街の裏路地に。洞窟の中に。ドックスは背骨のあたりに感じる“スエニ”の気配を追い、どこまでもどこまでも旅を続けた。そして“スエニ”を、己の愛妻を射殺し続けた。不思議なことに何度殺しても彼女はまた現れた。それが……
それが嬉しくてならなかった……
何度でもまた会える。ずっと彼女を殺し続けられる。
だからドックスは、
3年間、1日も休むことなく、ずっと。
*
雨宿りのため、ヴィッシュたちはひとまず運河へかけられた橋の下へ逃げ込んだ。ぶるぶる全身を震わせて水気を切る緋女。橋の下から降り続く雨の空を見守り、敵を警戒しているヴィッシュ。乾いた石の上へひょいと腰かけたカジュが、ぽつりと敵の名を呟いた。
「“
耳慣れない単語に、ヴィッシュが眉をひそめる。
「聞いたことねえな……」
「見るのはボクも初めてだよ。
最も低級な神の一種。普通はマナ・プールの中で上位の神と共生しているけど、ごく稀にはぐれ個体が
「存在感?」
「そんなもん食えんの?」
「美味しいかどうかは知らないけどね。
喰った存在感を材料にして“
「宿主はドックス……」
「そして彼自身はそのことに気付いていない。
魔獣化し何度でも復活する妻を、我が手で始末し続けている……と思ってるはず。
殺せば殺すほど“
……まあ、控えめに言っても地獄だっただろうと思うよ。」
沈黙を、雨音が飲み込んだ。ヴィッシュは石像のようにじっと空を睨み続ける。橋の支柱を握る手に力が籠り、皮手袋が痛々しく軋む。雨宿りなどしながら、安らかに息をしている自分。頼りになる仲間たちがすぐそばに居てくれる自分。戦いのさなかにふざけてじゃれ合うことさえできる自分。
そして、なにひとつ持たない――ドックス。
「どう戦うのが正解なんだ」
絞り出した問いに、カジュの答えは極めて流暢だった。さも『そう来ると思ってましたよ。』と言わんばかりに。
「1、あの人を捕まえる。
2、ボクが“
クラゲにしてみれば、せっかく寄生した宿主を横から掻っ攫われた形になるので……。」
「はいはいはい! わかった! クラゲ本体が邪魔しに来る。そこを斬っちまえばいいんだ!」
「正解。それが3番ね。」
「やったぜ。やっと話についていけた」
心底嬉しそうに両手の拳を突き上げている緋女の姿が、微笑ましいやら物悲しいやら。
「それはいいけど、気を付けてよ緋女ちゃん。ひとり分の存在感を分配したようなものだから、ドックスさんも“
「匂いも気配もしないってこと?」
「そゆこと。ましてこの雨、隠れるには絶好でしょ。」
逆に言うと、ヴィッシュたちにとっては最悪の条件。
ヴィッシュは覚悟を決めた。もはや自分ひとりでどうこうできる話ではない。ドックスを地獄から救い出すには仲間たちの力を借りるしかない。仕事でもなく、金にもならないことのために、仲間を危険に晒すことになってしまうが。
そして彼女たちに頼るなら、自分の弱弱しい心根を、包み隠さず打ち明けるのが筋だ。
「実は……」
緋女とカジュがヴィッシュへ目を向けた。
「ドックスとスエニを引き合わせたのは俺なんだ。
ずっと責任を感じていた。俺が余計なことをしなければ、ふたりが不幸になることもなかったんじゃないかって……分かってる。これは思い上がりだ。少し関わっただけで全部俺のせいにしてしまえるわけじゃない。
でも……だから……俺はあいつを助けたいんだ」
仲間たちの視線を、ヴィッシュは堂々と受け止める。
「力を貸してくれ。今夜のうちにカタを付ける!」
*
第2ベンズバレンの街は、ドックスの想像以上に複雑な変貌を遂げていた。大雨の夜で視界が悪いのも災いした。そこに3年間ですっかり薄れてしまった曖昧な記憶が追い打ちをかけた。なじみの通りひとつ見つけるのにも小一時間を費やし、見つけてからも迷路のような路地にさんざん悩まされた。先の戦いで味わわされた苦痛がいまだ残る身体を引きずりながら、ドックスはひとつところを目指して歩き続けた。
かつてスエニと共に暮らした、あの家。
やっとのことで辿り着いた古巣は左右を真新しい3階建てに挟まれ、暗がりの中に肩身狭く縮こまっていた。
扉にはひどく錆びた錠がかけられていた。ドックスがナイフの柄で力任せに叩くと、錠はいともあっさり砕けて落ちた。扉を
家には何も残っていなかった。
テーブル、食器、壺や桶、ふたりで毎夜明け方近くまで愉しみあったひとつの寝床。壁の燭台、狩り道具の棚、下足箱に物干し紐に歯ブラシ、櫛、果てはかまどの灰に至るまで。ありとあらゆるものが取り払われ、人の暮らしの痕跡が執拗なまでに消し去られていた。
ただひとつだけ残っていたのは、壁の片隅に石灰石で描かれたらくがき。子供がいたずらしたのだろう、父親と、母親と、子供がふたりと、やけに大きく描かれた犬……
スエニが死に、ドックスが失踪した後、名義上の家主であったスエニの父はこの家を投げ捨てるようにして売り払った。彼にとっても辛い思い出の象徴なのだ、無理もない。家は別の地主の手に渡って貸し家とされた。若い子持ちの夫婦が借りて2年余り住んでいたようだが、子供が大きくなったのを機にその一家もよそへ移り、それからは空き家のままろくに手入れもされず放置されていたのだ。
ドックスは拳を岩のように固く握りしめる。
ここにはもう、何もない。ここがドックスの居場所であったのは、拠り所であったのは、もうずっと遠い昔の話なのだ。蛾が炎に惹かれるようにしてここへ戻っては来た。しかし得るものは何もなかった。
ドックスは裏口を開け、あの狭い裏庭に出た。かつてすがすがしい青空が見えていた板塀の向こうは、背の高い石造りの建物の外壁に塞がれている。スエニが季節の花などを植えてかわいがっていた花壇では、廃材が横倒しに放置されたまま朽ちかけている。そして、ふたりして腰を下ろし、いっしょに弓の弦を引き絞ったあの場所は、雑草に覆い尽くされて土を見ることさえできない。
「い……たい……」
ドックスは喘ぎながら身を折り、両腕で己の身体を懸命に抱きしめた。恐るべき苦痛が突然彼の意識に襲い掛かってきたのだった。妻との思い出。かつての幸せ。本来温かく甘やかであるはずの記憶が、今、かえって残酷に彼の心を抉る。庭の草に膝をつく。為すすべもなくうずくまる。雨滴のひとつひとつが鋼鉄の針のように突き刺さる。
「いたいよ、いたい……!」
彼は気付いていなかった。いつのまにか虚空から出現していた“
“
だが、クラゲの触手がドックスの頬を撫でようとしたまさにその時、風を裂いて飛来したナイフが深々と触手に突き刺さった。悲鳴を上げて反射的に手を引く“
ヴィッシュ!
彼はドックスを庭から家の中へ引き込み、間髪入れず合図を飛ばした。
「カジュ!」
「《石の壁》。」
どん! と中庭に突き上がった《石の壁》が、庭と家を繋ぐ戸口を塞いでしまう。まさにドックスを追おうとしていた“
「走れ!」
「ヴィッシュさん!? 一体……」
ドックスが戸惑い足を止めかける。それをヴィッシュは強引に手を引いて走らせる。
「
ヴィッシュは後ろを確認し、暗い雨の夜空に違和感を認めた。雨の中に揺らいで浮かび上がるシルエットがある。半透明のものが宙に浮かび、雨粒を遮りながらこちらへ向かってきているのだ。
“
「大挙しておいでなすったな。走れ、罠に誘い込むぞ!」
(つづく)