あれからもう3年も経ってしまった。今、嵐の中を駆けながら、ヴィッシュは痛いほどの悔恨に苛まれている。スエニが病に倒れた時も、彼女が死んでしまった後も、なにひとつ役に立てなかった。それどころかドックスの一番触れてはならない傷へ、無分別にも触れてしまった。その結果彼は生来の繊細さを悪い方へ働かせ、誰にも行く先を告げることなく、姿を消した。
自分ひとりの責任だ――などと
だがもしあの時、ほんの少しでも、彼の気持ちを和ませてやれていたら。
時間が心の傷を癒し、血を洗い流してくれるまで、待つことができていたら。
結果は全く違うものになっていたのではないか?
正直に言えば、ヴィッシュはドックスがとうに死んだものと思っていた。どこかの辺境か、あるいは知る者のない異国の都市へ流れ行き、そこで寂しく息絶えてしまったのだろうと。それが生きて、無事に顔を見せてくれたというだけで、どれほど嬉しかっただろう。
だからこそドックスの奇妙に静かな態度が気にかかった。
思えば、玄関口でのあの口ぶりは、まるで最期の挨拶のようではないか。
死にたがっていた男が、3年の時を経て、生きて古巣へ戻ってきた。ひょっとして――死ぬために帰ってきたのではないか?
「ドックス! どこだ!」
声を張り上げ、彼の名を呼ぶ。
その呼び声も、けたたましい雨音に飲まれて消えた。
*
雨が身体を洗うに任せ、ドックスは街を
途中で二度、雨の中客待ちをしている気の毒な娼婦とすれ違った。ひとりはドックスを慎重に避けて裏路地へ引っ込み、もうひとりはドックスの形相を目の当たりにして小さく悲鳴を上げた。
「亡霊だよ」
その娼婦はなじみの男の家へ逃げ込み、震えながらそう訴えたという。
「亡霊射手を見ちまった。私、殺されちまうよ……」
言い得て妙。確かに今のドックスは幽霊のようなものだ。3年前、この世の全てとさえ思えたものと死に別れてしまった。あの日ドックスは死んだのだ。その亡霊が弓を握り、ただ魔物狩りの中に己の居場所を見出しているなら、“亡霊射手”よりふさわしい
一体どれほどの間、雨に濡れた石畳を歩き続けたか知れない。亡霊射手ドックスは大通りの広場にいきあたり、そこで、ひたりと足を止めた。
「い……た……」
弦がにわかに軋み、
「そこに!」
直後、恐るべき俊敏さで虚空へ矢が放たれた。雷光さながらに闇を貫いた一矢が、肉を抉る耳障りな破裂音とともに敵の胸へ突き立つ。夜の街に響く悲鳴。空中の魔物の痛みに暴れ狂うさまが、
好機と見たドックスは息もつかせず二の矢、三の矢と畳みかけた。二本目が腰に
ドックスは焦りながら弓を引き、至近距離からの矢を脳天へ撃ち込まんとした。だが動きを読まれている。“淑女”は空中で身を捻って矢を避けると、そのままの勢いで触手をしならせドックスへ叩きつける。ドックスは咄嗟に背後へ跳んだ。が、間に合わない。
腕が触手に絡めとられ、その瞬間、想像を絶する激痛が彼の脊髄で暴れ狂った。
毒である。この“淑女”の触手には、ほとんど目に見えない小さな毒針が無数に生えているのだ。即死するほどのものではないが、痛みは強烈。怪我や苦痛には慣れているはずのドックスが、痛みに耐えかねて弓を手放してしまうほど。
その触手がさらに20本余り、“淑女”の周囲へ大輪の花の如く広がり、ドックスを抱き締めんと覆いかぶさってくる。
あんなものに包み込まれたら、死なぬまま激痛だけをひたすら味わわされ続けることになる。自分を待ち受ける恐るべき運命に恐怖し、ドックスが叫び声をあげた――そのときだった。
「ドックス!」
彼の名を呼ぶ声。それに反応して“淑女”の注意が一瞬横に逸れる。その一瞬の隙を見逃さず、ドックスは抜き放ったナイフで己の右腕を絡めとる触手を切断した。苦痛に呻く“淑女”。そこへ救い主の剣が鋭く走る。
ヴィッシュである。
駆けつけざまの一閃は横一文字に“淑女”を薙ぎ払い、脚の触手を数本まとめて斬り落とした。“淑女”が半狂乱で逃げ出し、間合いの外へ後退する。ヴィッシュはドックスの前に庇い立ち、敵を睨んで剣を構える。その口からドックスにかけられたのは、彼らしく簡潔で厳しい問いかけ。
「やれるか?」
「……やれます!」
ちら、と顔半分だけ振り返るヴィッシュの視線の優しさが、ドックスの瞳に宿る狂気を僅かに薄めてくれた。
「あてにしてるぜ、ドックス」
ヴィッシュが走る! 弾丸のように一直線に“淑女”に接近する。それを迎撃せんとして“淑女”が触手の鞭を繰り出す……が、ヴィッシュのこの動きは囮。敵の攻撃が届く直前、ヴィッシュは素早く横っ跳びに跳んで回避。
その直後、ドックスの矢が“淑女”の右目を狙いたがわず貫いた。
ヴィッシュが真正面から突っ込んだ理由はただひとつ、自分の背後にいるドックスの動きを敵の視界から隠すためである。ヴィッシュが横に逃げて射線を空け、ドックスの姿が敵の目に入った時にはもう手遅れ。矢は放たれた後というわけだ。
悲鳴を上げて“淑女”が怯む。その好機を無論ヴィッシュは見逃さない。すぐさま石畳を蹴って折り返し、横手から剣の一撃を“淑女”の胴に叩き込む。幾本もの矢をその身に受け下半身まで失った“淑女”が、ふらつきながらも空中へ飛び上がり逃れようとする。
しかしその動きも折り込み済み。
触手を避けた時ついでに射出しておいた
再び動く気配は――ない。ヴィッシュは安堵の溜息を吐いた。
「腕に磨きがかかったな。あの距離で目を狙って射貫けるとは恐れ入ったよ」
「……ちがう……ちがうんだ……」
「何が違う?」
「あれじゃない……
ドックスが上の空で呟いた、そのとき。
ぞわり、と脊髄を掻きむしるかのような不快感がヴィッシュの全身を這い上り、彼は納めたばかりの剣を反射的に抜き放った。見れば、墜落して無残に潰れ、雨に打たれ続けている“淑女”の死骸。その周囲に――いる。
夜の暗闇にぼんやりと浮かび上がる、黒い影。初めは見まちがいかと思った。降りしきる雨が風で吹き流されているだけかと。だが違う。あるものは地に跪き、またあるものは宙を頼りなく浮遊し、仲間の死を悼むかのように死骸を取り囲んで、じっと雨を浴び続けている。
“淑女”の群れ。その数、少なく見ても30以上!
――うそだろ!?
ヴィッシュに衝撃が走る。まさかこれほどの数の魔獣が街に入り込んでいようとは。通常ならありえないことだ。街には城壁もあれば門もあり、数は不足しているとはいえ夜警の兵も配置されている。1匹や2匹ならともかく30匹以上も侵入していて、何の騒ぎにもなっていないのは不自然すぎる。
何かある――それは確かだが、敵は思考する暇を与えてはくれなかった。“淑女”の瞳の、闇の中で瞬く異様な青光が、一斉にヴィッシュを捉える。“淑女”たちのうち3体が、悲哀と憤怒の入り混じった咆哮をあげ、ヴィッシュ目掛けて触手を振り上げる。
「ドックス!」
警告を飛ばす、が、いけない。ドックスは先ほど受けた毒が効いているのか、膝をついたまま立ち上がれずにいる。敵はこの数。しかも動きの鈍ったドックスを庇いながら戦うのは無理。彼を連れて逃げることさえ難しい。なのに敵の触手は容赦なく迫ってくる。
「おらァ!!」
その瞬間、横手から閃光のように飛び込んできた真紅の煌めきが、全ての触手を正確無比に切断した。かと思えば、閃光は眼にも止まらぬ速度で石畳を蹴り、“触手”3体の真ん中へ肉迫。彼女らに痛みを感じる暇さえ与えず、竜巻の如き一太刀で3体まとめて斬り捨てる。
なんたる早業。ヴィッシュには目で追うことさえままならない。こんなことができるのは――
「緋女! すごい!」
雨に濡れた石畳の上へ、余勢で滑るように着地し、太刀を肩に担いで緋女は力強く鼻息を吹く。
「もっとほめろ!!」
「かわいい!!」
「えっ……ばか……ころすぞ」
緋女が照れてもじもじしていると、その後ろから、《発光》の杖と雨傘で両手を塞がれたレインコート姿のカジュが、長靴で水たまりをぱしゃぱしゃやりながら現れた。
「は―――――。ためいき。は―――――。《闇の鉄槌》。」
無造作にカジュが放った闇色の球体は、緋女の耳の横をかすめて飛ぶと、その背後に忍び寄っていた“淑女”を撃ち抜いた。
「うお。ありがとカジュ」
「いちゃついて気ィ抜いてんじゃねーですよー。」
横に並んだ緋女とカジュが、“淑女”の群れを睨みつける。仲間があっさり倒されたのに恐怖したか、あるいは不利を察したか、“淑女”たちは一瞬戸惑いの色を見せると、鳩の群れが一斉に飛び立つようにして宙へ浮かび上がった。それに反応してカジュが術を飛ばすが、撃ち落とせたのはほんの1、2匹。残りは夜空の中へ溶け込み、消えてしまった。
「逃げられちゃった」
「しょうがないね。街ごと吹っ飛ばしていいならやれたけど。」
「すまない、来てくれて助かった」
ヴィッシュが剣を納めながら寄ってくる。その無事な顔を見るや、緋女は激怒して赤毛をぶわりと逆立てる。ずいずいヴィッシュに詰め寄っていき、指で彼の胸を小突いて小突いて小突きまわす。
「アホ! テメ! この! コラ!」
「無事でよかった、すごく心配したんだよ、と申しております。」
「オー!? ああ? テメー! ゴラァ!!」
「ひとりで抱え込まないで、ちゃんと話してよ、と申しております。」
「カジュァ!!」
「なにか。」
「ありがと」
「なんのなんの。」
自分は良い仲間と巡り会えた。その実感がこそばゆくて、ヴィッシュは逃げるようにして狩人としての仕事に戻ってしまった。“淑女”の死骸のひとつ、うつぶせに倒れているものそばにしゃがみ込み、直接触れないよう気を付けながら剣の鞘でひっくり返す。
「で、一体こいつは何なんだ?」
「なんか変なの。あんまり匂いもしねえしさあ」
「不意打ちを喰らいかけてたのはそのせいか。つまり普通の生き物じゃない……カジュの領分か?」
「心当たりはあるけどね。」
ひょい、とカジュが《発光》の杖を“淑女”の上に掲げた。それまではドックスの
見覚えがある。
この顔を……ヴィッシュは知っている。
「貸してくれ!」
カジュから杖を借り、他の“淑女”の死体へ向かう。これも。これも。全て同じ女性の顔。ヴィッシュは愕然として、ついさっきまでドックスがうずくまっていた方を振り返る。
「ドックス! これはどういう……」
だが、いない。ほんの少し目を離した隙に、ドックスの姿は忽然と消え失せていた。
「ドックスはどこだ?」
「えっ? あれ?」
「いない……。」
馬鹿な。ありえない。魔獣ならともかく、ドックスは生きた人間である。匂いもあれば音もたてる。彼が移動したなら緋女が察知できないわけがない。しかし現実に、彼は誰にも悟らせず姿を消したのだ。ということは……
もはや疑う余地はない。ドックスの身に、何か異常なことが起きている。その確たる証拠、足元に転がる“淑女”の死骸を見下ろす。旧知の女性とうりふたつの顔。苦悶に歪んだその表情を見つめながら、ヴィッシュは彼女の名を漏らした。
「どうして君なんだ、
(つづく)