勇者の後始末人   作:外清内ダク

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第14.5話 “一矢一途に”
第14.5話-01 春の嵐


 

 

 ひどい雨の夜のことだった。

 分厚い雲に遮られ月の光も届かぬ街を、大粒の雨が洗っていく。細い石畳の路地を、頼りない蝋燭の灯りがひとつ、ゆらり、ゆらり、不安定に揺れながら近付いてくる。やがてぼんやりと浮かび上がってきたのは、死人のように無表情な旅人の顔。ひょろりと蟷螂(かまきり)めいて背が高く、手には軋むほどに強く弦を張った弓を握り、もう一方の手には防水提灯(ランタン)を不気味にぶら提げている……

 と、不意に旅人が脚を止め、提灯(ランタン)を足元へ()えた。

 矢筒から一矢を引き抜き、そっと弓につがえ、口を開いて息を吸う。一息ごとに緊張は高まり、高まるごとに呼吸が荒れていく。不思議なことに、荒れれば荒れるほど、乱れれば乱れるほど、かえって意識が弓矢と的とに集中していく。

 ()

 彼は瞼をくわと引き剥き、雨だれの黒空を凝視した。()()()。灯りは足元の提灯(ランタン)ひとつきりで、伸ばした腕の先さえ黒い影としか捉えられないこの闇夜に、しかし彼は獲物を()()。四肢がしなやかに伸びあがる。弦が力強く引き絞られる。血走った目が獣ごとく敵を威迫し、矢が咆哮とともに放たれる。

 直後、甲高い悲鳴が雨音の奥から湧き上がった。空中の獲物が落下する、湿った激突音が聞こえる。旅人は提灯(ランタン)を取り上げ、またゆらりゆらりと獲物に歩み寄っていく。

 照らし出された死骸は、奇妙な怪物のそれだった。一見して人間の女のようではあるが、全身は青黒く半透明の――クラゲに似た質感。全身を幾重にも覆う(ひだ)は豪奢なドレスのようにも見える。そして本来手足があるべき場所には、腸のように波打つ細い触手が、一束ずつぐったりと垂れ下がっているのだ。

「近づいている……やっぱり第2に戻ってるのかい」

 (ひざまず)いた旅人が、死んだ獲物の耳元に口を寄せ囁いた。憎い敵に向けるような声色ではない。むしろ心から愛する誰かに、愛の言葉を贈るかのような。切なく、温かく、悲しく澄んだ声だった。

「きっと僕が仕留めるからね。ただ、この一矢で」

 しかし、降りやまぬ雨の夜のこと。

 街を打つ雨音に飲み込まれ、彼の言葉は誰にも届かぬまま、消えた。

 

 

   *

 

 

 こうして自宅の居間に籠っていると、木窓を叩く雨だれが胸を打つ哀歌のようだ。その重厚なリズムに乗せて、冷たく忍び込む隙間風がランプの灯りを踊らせる。気ままに揺れ動く光ばかりを頼りに、ヴィッシュたちは居間の机を思い思いに囲み、明日の仕事の段取りを打ち合わせている。

「……なので、最初は谷の西側尾根からだ。グルッと回り込んで追い詰める。質問は?」

「ん。」

「ないでーす」

「以上だ。雨が止んだら出発だな」

 ヴィッシュは地図を丸めて荷物にしまい、緋女は寝椅子から立ち上がって大きく背伸び。

「んじゃ先に寝るね。おやすみー」

「おう。おやすみ」

「雨、止むかなあ」

「降った雨が止まなかったことは歴史上一度もありません。」

「わかんねえぞ、史上初かもよー?」

「む。一理あるな……。」

「あるかよ」

 苦笑するヴィッシュを残し、他愛もない言葉を交わしながら3階(うえ)の寝室へ上がっていく緋女とカジュ。階段の軋む音が遠ざかって聞こえなくなり、ひとりになったヴィッシュは、寝椅子へ横に座って脚を投げ出した。だらしなく背中を壁に預け、不精にも座ったまま指を伸ばして酒瓶と杯を引き寄せ、舐めるようにしてのんびりと、呑む。

 心に染み入る雨音。街のどこかを吹き抜ける風の唸り。お気に入りの酒と、ひとりきりの気楽な夜。風雨が彼を包み込み、世間の喧噪から切り離してくれているかのよう。

 ――春の嵐、か……

 えも言われぬ(おもむき)に、ヴィッシュは感じ入って溜息を吐いた。

 と、その時だった。外から扉をノックする音が、無粋に彼を呼び立てた。こんな夜更けに来客とは。コバヤシが大至急の仕事でも持ってきたか? 杯を片手にぶら提げたまま扉に寄って行き、片腕で壁に寄り掛かりながらぞんざいに誰何する。

「どちらさま?」

「ヴィッシュさん……僕、ドックスです……」

 扉越しに聞こえる、くぐもった男の声。ヴィッシュは驚きに目を見開き、大慌てで鍵を開けた。扉を押し開ければ、外の激しい雨音が家の中へ雪崩れ込んでくる。冷風が刃のようにして襲い掛かってくる。

 大雨に長いこと襲われ続け、雨具の裏まで雨水が染みて、ずぶ濡れに濡れた旅人がひとり、戸口に寂しげに立っていた。

 ヴィッシュは息を飲んだ。この男の顔に見覚えがあったのだ。無残にやつれ果て、かつての若々しく溌剌とした姿は見る影もないが、この糸のように細い目と、その奥に確かに灯る意志の輝きは、昔とちっとも変わっていない。

 男の名はドックスという。かつてこの第2ベンズバレンで働いていた後始末人のひとりである。

「お久しぶりです、ヴィッシュさん」

「無事……だったのか……! まあ入れよ、こんなに濡れちまって」

「いえ、ここで……」

「遠慮するこたぁない」

「いいんです。一言お礼を言いに来ただけなので」

 礼。礼だと。ヴィッシュに罪の意識が湧き上がる。ドックスには恨まれる覚えこそあれ、礼を言われるようなことなどありはしないのに。

「色々ありがとうございました。ヴィッシュさんがいなければ、()()とも出会えなかった。命だってなかったかも」

「大げさだよ。でも……面白かったな、あの時は」

「ええ。本当に」

 しばらく会わないうちに、どんな苦労を重ねてきたのだろうか。元々表情豊かな方ではなかったが、今やドックスの顔面は岩のように凝り固まり、笑顔を作ることさえ苦しげに見える。

「それじゃ僕はこれで。夜分にすいませんでした」

 早口に別れを告げると、止める暇もなくドックスは雨の中に走り出した。ヴィッシュは慌てて外へ半身を突き出し、深夜であることも構わず声を張り上げる。この激しい雨の中だ、叫ぶくらいでなければ届くまい。

「おい! またこの街に住むんだろ? 仕事、回すからな! また来いよ!」

 ドックスが雨の中に立ち止まる。

 振り返り、無言で小さく礼を返してくれはしたものの、それっきり。再び走り出した彼は、そのまま夜の中へ消えてしまった。

 それをヴィッシュは、茫然と見送ることしかできない――

「今の誰?」

 と怪訝に声をかけたのは、水を飲みに階段を下りてきた寝間着姿の緋女。我に返ったヴィッシュは閉めた扉を見つめながら、低く呟くように答える。

「まえの狩人仲間だ。この街を去って、もう3年になるか……」

 不意にヴィッシュは顔を上げ、出かける支度(したく)をはじめた。剣を腰に差し、雨具をしっかりと着込み、防水の靴に履き替える。水を飲み干した緋女が、片方の眉を跳ね上げる。

「仕事?」

「いや。ただ胸騒ぎがするんだ……寝ててくれていい、鍵は持って出るから」

 ヴィッシュが家を出たのと入れ替わりに、カジュが顔に保湿の軟膏を塗りながら降りてきた。

「なにかあったの。」

「なんか、嫌な思い出があるみたい」

 緋女は洗い物の桶にちゃぽんと陶器のカップを沈め、不満そうに唇を尖らせる。

「辛いことはすぐ隠そうとするんだから」

 

 

 雨の夜をヴィッシュは走る。

 アテはあってないようなもの。ドックスが街を去ってからの僅か3年で人口は倍近くに膨れ上がり、街並みもすっかり様変わりした。ドックスも戸惑っているだろう。馴染みの場所も大して残ってはいまい。なら彼はどこへ向かうだろう。なぜ急にヴィッシュを訪れたのだろう。そしてあの追い詰められた気配はなんなのか……

 思えば、ドックスは昔から思いつめる性質(たち)だった。それが彼のおかしみでもあり、親しみやすいところでもあった。だが、今は、それが不安ばかりを掻き立てる。

 ヴィッシュの脳裏にドックスとの思い出が蘇ってくる。そう、あれはもう5年も昔。緋女やカジュと出会うより、ずっと前のことだった――

 

 

   *

 

 

「ドックスが病気?」

 ある昼下がり、ヴィッシュの独り住まいをコバヤシが訪れ、狩人ドックスの不調を伝えた。

 ドックスは当時ようやく18歳になったばかりの若者だった。ヴィッシュもかなり長身のほうだが、ドックスはそれよりさらに頭半分ばかりも背が高く、体つきが細いこともあって随分(ずいぶん)ひょろりとして見えた。口数少なく、性格は控えめ。いつも糸のように細い目をして、人の輪の片隅に添え物のように立ち、笑っているのか、困っているのか、曖昧な表情ばかり浮かべて場を取り繕っているような男だった。

 ところが、そんな煮え切らないドックスが、弓矢を取らせれば天下一品だった。動いている的にも十中の八、九は当てるという凄腕で、この街はおろか国中探しても並ぶ者はないと言われるほど。

 ヴィッシュも彼の腕前を高く評価し、難しい仕事で幾度か手助けを頼んだことがある。他人とつるむことを極端に嫌がっていたこの当時のヴィッシュには珍しいことだ。余計なことを喋らず人の懐に決して突っ込まないドックスの淡白さが、人付き合いを拒絶するヴィッシュにはむしろ好ましかったのだろう。

 このように知らぬ仲というわけでもなかったはずだが、ヴィッシュは彼の病状を聞いても、仮面のように表情を強張らせたままだった。寝椅子に足を投げ出し、壁にだらりと背中を預け、無関心を装って煙草をふかした。そして煙交じりに冷たい言葉を吐き捨てた。

「俺は医者じゃねえ。モンド先生のとこでも行くんだな」

「それがもう(さじ)を投げられた後でして」

「なおさら俺の仕事じゃねえ」

「気の病だというんですよ」

 拒絶の気配を強引に押し退けて、コバヤシが彼の向かいに座る。ヴィッシュは舌打ちして背を向ける。かまわずコバヤシは話をつづけた。たとえそっぽを向いていようと耳に入ったことはしっかり聞いている、ヴィッシュはそういう男だと、コバヤシはちゃんと心得ていた。

「何人もの医者に診てもらったのですが、みな口を揃えて言うことには、身体はどこも悪くないと。ですが事実としてドックス君は呼吸も荒く、食も細り、ベッドから起き上がることもできなくなった。

 これはどうやら心を病んでいる。何か深く思い悩んでることがあるのだろうと、そういうわけでして」

「だから俺に何の関係が……!」

「本人に尋ねてみたんですよ。悩みがあるなら言ってくれ、私たちでできることならなんでもするから、と。しかしどうしても話してくれない。誰にも言えない。ところが、彼がぽつりと漏らしたんです。ヴィッシュさんになら話してもいいと」

「俺ェ?」

「何度か仕事で一緒になったでしょ。よく面倒見てたそうじゃないですか。慕われてるんですよ、ヴィッシュさん」

「馬鹿言うな……」

「話を聞いてやってくれませんかね」

 しばし、無言。

 やがてヴィッシュは喉に物の詰まったような声で答えを返した。

「……俺の知ったことかよ」

「そうですか……」

 聞えよがしの溜息とともにコバヤシが立ち上がる。沈んだ挨拶を残して彼が去り、静まり返った我が家にヴィッシュひとりが取り残された。表でチィチィ啼く小鳥の声が木窓の隙間から()れ込んでくる。定規で線を引いたように伸びる陽光の中で埃がゆっくりと舞っている。

「くそぉっ」

 吸いかけの煙草を灰皿で揉み消して、ヴィッシュはやけくそ気味に立ち上がった。

 

 

   *

 

 

 第2ベンズバレン東教区6番通りの界隈と言えば、下町気質で知られたところだ。大通りからは少し距離があり港湾区からも随分遠いこのあたりは、地価も店賃も割合に安く、土むき出しの路地の両側に平屋建ての集合住宅がずらりと並んでいる。金のない若者や外国からの移住者がたむろし、そうした客が目当ての安くて怪しげな露店がそこかしこに(むしろ)を広げ、一度通りを行き過ぎる間に三度は喧嘩と出くわすという、荒っぽくも元気に溢れた街である。

 その一角にドックスの住まいはあった。ノックしたヴィッシュを迎え入れたのは若き狩人2人。金のない彼らは1軒の借家を3人で借り、部屋を共有して暮らしているのだ。と言葉で言うのは容易いが、実際にはよほど気の合う仲間でなければできることではない。それだけに病気の友を心配すること一方(ひとかた)ならぬものがあろう。それが証拠に狩人たちの顔には重苦しい不安の色が浮かんでいたが、ヴィッシュの顔を見るなり、そこに一筋の明るさが差し込んだ。

「ヴィッシュさん! 来てくれたんすね」

「ドックスの具合はどうなんだ?」

「全然だめで……今日はもう一口も食べません」

 奥の部屋に通されたヴィッシュが見たものは、ベッドの上に死体のように横たわり、虚ろな目で天井を見上げるばかりの狩人ドックスの姿。身体は痛々しくやせ細り、もともと乏しい覇気が完全に消え失せ、一気に10も20も歳をとったかに見える。ドアを閉めてふたりきりになり、ヴィッシュはベッドの横の椅子にそっと腰を下ろした。

「よう。辛そうだな、ドックス」

 ドックスの眼がのろのろと動き、ヴィッシュを捉えた。目尻に涙が浮かび、痩せた体を震わせて起き上がろうとする。ヴィッシュは彼の肩に手を添えて、いいから、と囁きながら再び寝かせてやった。

「話は聞いたよ。俺でよければ話してみてくれ。役に立てるかどうかは分からないが……」

「ヴィッシュさん、僕は……僕は……!」

「何も泣くこたぁないよ。困ったときはお互い様だ。象獅子(ベヒモス)狩りの時には随分助けてくれたじゃないか、な……遠慮せずに言ってくれ、一体何を悩んでるんだ」

「笑わないで聞いてくれますか?」

「ああ。笑わないよ」

「きっと聞いたら笑われると思うんです。僕が聞くほうだったとしてもきっと笑うから……でもヴィッシュさんなら、ちゃんと聞いてくれると思って」

「約束するよ、笑わない」

「実は僕……」

 ドックスが震える指でヴィッシュの手を握る。

「僕、恋しちゃったんですっ!!」

 ヴィッシュの顔が固まった。

「……こい? っていうとその……ラブ?」

 ドックスの眼は真剣そのもの。

「ラブです!!」

 

 

(つづく)


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