勇者の後始末人   作:外清内ダク

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第16話-09 希死念慮

 

 

 あれはもう何年前のことになるのだろう。

 ヴィッシュはまだ成人したばかりの若者で、シュヴェーア軍では入隊したての一兵卒に過ぎなかった。痩せてひ弱く、平民のくせに学問の下地を仕込まれており、妙に冷静で、正しいと思ったことは誰に対しても直言する。こんな生意気な新人では、上から目を付けられるのに時間はかからなかった。

 その日もヴィッシュは、駐屯地の物陰に引きずり込まれ、そこで年長の兵たちから拳闘の訓練と称した私刑(リンチ)を受けた。はじめ1対1だった勝負はやがて1対2になり、最終的には1対3になった。背後から側頭部を殴られ意識朦朧となったヴィッシュは為すすべもなく倒れ、あとはただ、執拗な暴力に耐え続ける道しか残されていなかった。

 一体どれほどの時間、そうして背中や足腰に蹴りを浴び続けていただろうか。痛みさえ感じなくなり、いよいよヴィッシュが死を覚悟したその時、陽気に声をかけるものが現れた。

「おーっ! いいねいいね、盛り上がってるねェー!」

 敵の蹴りが止まった。ヴィッシュが腫れあがった(まぶた)を薄く開くと、幕舎の板塀に片手で寄り掛かり、ふてぶてしくニヤニヤ笑いを浮かべる男が見えた。ヴィッシュを蹴っていた兵士たちに、さっと緊張が走る。そのうちのひとりが、悪戯を見とがめられた子供のように、詰まり詰まり返事をする。

「ああ……ナダム。なんだよ……何か用か?」

「用ってほどでもねえけどよ。格下のガキを3人で囲んで蹴りまくるとかメチャクチャ楽しそうじゃん? おれも混ぜてくれよーっ、やっぱ抵抗もできないやつを安全圏からいじめるのは最高だよなーっ!」

「それは皮肉ってやつか?」

「あっれえー? 皮肉に聞こえちゃった? ひょっとして自覚あったんだ? 自分たちがクソみてえに情けねえことしてる、ってよォ……?」

「ふざけるなこのっ……!」

「おい、よせ。行こう」

 激昂しかけたひとりを、脇のふたりが押しとどめた。明らかにあのナダムという男を恐れているのだ。3人組が揃って苦虫を噛み潰したような顔をして、ナダムの横をすれ違っていく。

 ヴィッシュは息を吸った。

 助かった。生き延びた。その思いと同時に、自分でも想像もつかなかったような激情が腹の底から湧き出した。怒り? そうだろうか。悔しさ? そうかもしれない。だがそれ以上の、いまだかつて味わったことのない、煮え(たぎ)る溶岩のような興奮が、溢れ出て止まらないのだ。

「待てッ!」

 鋭く叫び、ヴィッシュは震えながら、地面に手を突いた。

「……ん」

 ナダムがその姿を見て、小さく感嘆の声を挙げる。

 ヴィッシュは立ち上がった。体中を打ちのめされ、ひょっとしたら何ヶ所か骨をやられているかもしれない、その身体で。

 彼の目は敵3人組を見るよりも、その手前のナダムを見ていた。睨んでいた。目指していた。本能によってヴィッシュは直感したのだ。ここでだけは負けられない。徒党を組まねば喧嘩ひとつできない3人組などに、ではない。今、自分を助けてくれた、このナダムという立派な男に、この人にだけは、負けたくないのだ。

 見栄を張るならなら。格好つけるなら。戦うなら――今だ。

「戦え。まだ勝負は終わってない!」

 戸惑ったのは3人組のほうだ。彼らはナダムに邪魔されたことで興を削がれ、すっかり終わったつもりになっていたのだ。それに実際、ナダムが止めてくれていなければ、勢いでヴィッシュを殺してしまっていたかもしれない。殴る蹴るは日常茶飯事とはいえ、さすがに殺人となれば軍法で裁かれることにもなろう。いじめる側としても、このあたりが切り上げ時だったのだ。

 だが、このヴィッシュと言う男は、戦え、と言う。

 勝負はまだ終わっていない、などと。

 勝負! 馬鹿げている。3人組には(はな)から勝負などというつもりはなかった。これはただの遊びだ。

 そのはずだったのに。

面白(おもしれ)え。やれよ」

 心底面白そうに余計な口を挟むのはナダム。

「ただし1対1でな。おれが審判してやるよ」

「おいナダム! 俺たちはもう……」

「あ、そう? じゃあつまり、ビビって逃げるんだな? あのガキから……?」

 この一言が決定打だった。

 逃げられない。逃げられるわけがない。入隊したばかりの新人に1対1の勝負を持ち掛けられ、それを拒んで逃げたなどと! もし部隊内に知れ渡ったら、明日からいじめの対象になるのは自分たちだ。そしてナダムなら。ああ、あの生きた広告塔男なら! シュヴェーア全軍に噂が広まるのに3日もかかりはしないだろう。

 かくして試合が始まった。

 勝敗は一瞬でついた。蜂の一刺しのようなヴィッシュの拳が、相手の(あご)に鋭く突き刺さったのだった。

 

 

 ナダムは勝者に肩を貸した。

 軍医の幕舎へ向かう道。夕陽が山際で揺れている。ヴィッシュの呼吸が、ひゅうひゅうと苦しげに、しかしどこか誇らしげに、耳元で鳴っている。ナダムは笑った。吐息の音がこちらへ向いた。ヴィッシュの目が声もなく問いかけていた。何が面白いんだ、と。

面白(おもしれ)えさ。まったく愉快だ。

 お前さ、どうして立ち上がったんだ? やり返したいってのは分かる。でも、今戦ったって勝ち目は薄いだろ。理屈で言えば、身体を治して後日再戦ってのが順当なとこだ。だろ?」

「……分からない。ただ、戦うなら今だと思った。それだけだ」

 ――正しい。

 おくびにも出さないが、ナダムは内心、舌を巻いている。はっきり言ってヴィッシュは大して強くない。入隊したての新人で、年齢的に肉体も完成していないのだから、弱くて当然だ。では、なぜ彼は格上の兵士に勝てたのか?

 理由はひとつ。相手の意気を(くじ)いたからだ。

 相手の連中は、もう終わったつもりでいた。そもそも対等の勝負をする気もなかった。それが予期せず真剣勝負に巻き込まれ、明らかに動揺していた。しかも向こうには勝って得る物はなく、負ければ“新人に負けた”という汚名ばかりが付いてくる。これで戦意が湧くはずがない。むしろ日を改めて再戦となれば、相手も相応に準備し、精神集中もするだろう。そうなれば勝ち目は全くなかった。

 一瞬の隙を逃さず衝いたから勝てたということだ。まるで手練れの喧嘩屋の手管(てくだ)だが、それをこのヴィッシュという新人は嗅覚だけでやってのけたのだ。

 ――気に入ったぜ。

 ナダムは上機嫌に、ヴィッシュの肩を撫でてやる。

「おれはナダム。ボイル小隊だ。お前は?」

「ヴィッシュ……コンラット小隊」

「コンラットおぉぉぉー! あそこはカスの集まりだよ。よし決まった! お前、ウチに来いよ。異動させてやる」

「はあ?」

「軍人が全員クソ野郎ってわけじゃねえ。ボイルさんはいい人だぜ」

「あんたも一兵卒だろ。そんな権限があるわけない」

「そ・こ・が! このおれ、ナダム先輩のすごいとこよ。何しろおれは? 有能な軍人であると同時に、帝国いちの色男でもあるわけだから? 中隊長が囲ってる愛人と最近仲良しで」

「おいおいおい」

「バーベキューしたりとかね?」

「そういう仲良しかよ!」

「あっれー? なに想像したのかなー? んー? 純真無垢なヴィッシュ君はーっ?」

「ち……鬱陶しい……」

「で? 嫌か?」

 ヴィッシュは言葉に詰まった。

 考える。歩む。殴られた傷が無性に痛む。だが、ナダムの肩に預けた半身だけが、たまらなく温かくて。彼の筋肉の肌触りが、岩盤のように頼もしくて。

「……嫌じゃない」

「OK! おれがうまく段取りしてやる」

 ナダムが器用に、憎みようもないウィンクを送ってくれた。

「まあ見てな」

 

 

   *

 

 

 ナダムは――否、死術士(ネクロマンサー)ミュートは、ご機嫌に鼻歌など歌いながら、廃城の大広間を忙しく駆け回っていた。そこら中にかかった蜘蛛の巣を払い、朽ちかけたカーテンを新品と交換し、大テーブルに層をなす埃を丁寧にふき取る。次には城中の銀の燭台を掻き集め、磨き砂でもってひとつひとつぴかぴかに磨き上げていく。

 ミュートは燭台磨きに勤しみながら、頭の中では休みなくこの後の段取りを思い描いていた。掃除が済んだら買い出しに行こう。蝋燭の在庫もないし、庭を照らす篝火(かがりび)の薪も必要だ。酒だって麦酒(ラガー)ってわけにはいかない。ちゃんとしたワインを用意せねば。それから余興に、なにか愉快なゲームでも考えよう。誰でも参加できて、ルールが複雑でなくて、そのくせ熱くなれるものがいい……

 パーティの準備、であった。彼はヴィッシュに宣言したのだ、パーティの準備をして待っているぞ、と。彼は言葉通りにやっている。それだけのことだ。

「あっ」

 思わずミュートは声を挙げた。燭台磨きの手が止まる。

 ――しまった、音楽がない。今から詩人が捕まるかなあ……?

「あ、あ、あ、あの、ミュートさま……」

 横から声がかけられた。見れば恰幅のいい中年の男が、かわいそうに、怯えた子犬のように震えながら立っている。彼の持参したトレイの上では、湯気を立てた料理の皿が小刻みに揺れて金音を鳴らし続けている。

「ああ、料理できた?」

「ひ、はははいっ、それであのっ」

「分かってる。味見な。持ってきてくれって頼んだもんな」

 ちょいちょい、と指で床を指すが、料理人は震えたまま一歩も動けない。ミュートが僅かに身を乗り出すと、料理人の頬が悲痛に引きつった。

「ここに置いて。そぉーんな怖がんなよォー! ぼくちゃんショック受けちゃうでしょーっ? 大丈夫大丈夫、床でいいよ。おれはおおらかな男だから」

 料理人が決死の思いで膝をつき、トレイをそっと床に置いた。ミュートが燭台を脇に寄り、料理に擦り寄る。地元の郷土料理、牛飼い煮(グーラシュ)。いささか田舎っぽくはあるが、仲のいい同郷の友を招くパーティにはぴったりだ。

「おほ! うっまそー! いっただっきまーす!」

 ぱくり、と、スプーンにしゃぶりつくように一口。

 噛んで、噛んで、噛み締めて……

 眉間に皺をよせ、肉を吐き捨てる。

 料理人が震えあがった。

「すみませんっ! お口に合いませんでしたか……」

「口に? そりゃ、合わねえよ。おれ、味が分かんないもん」

「え?」

「ん?」

 ミュートの夜色の瞳が、初めて料理人の目を捉えた。

「お前、今、思った? “じゃあなんで味見するんだよ”って……?」

「いえ、そんな……」

「“余計な仕事させるんじゃねえよ”って……?」

「思ってません!!」

「じゃあ今の“え?”は何なんだ“え?”はよお―――――ッ!!」

「いッ……ぎゃあああああああああ!!」

 突如床から生えた数本の《骨剣》が料理人の下半身を滅多刺しにした。さらに剣。さらに剣。さらに剣。下から順に這い上るようにして皮膚と肉とを(えぐ)られ、恐るべき苦痛に料理人は絶叫する。ミュートもまた叫ぶ。どうにもならない憤怒を爆発させて。

「悪いか!? いけないか!? ひょっとしたら食べられるかも! うまくいくかも! いつのまにか治ってるかも!! そんな期待を持って悪いか!? おれが希望を抱いちゃいけないってのかよ! 食えなくたってなあ!! 味が分からなくたってなあ!! 食欲だけは!! 美味いもの食いたいって気持ちだけは!! 今でも変わってねェんだよ―――――ッ!!」

 切り刻み、踏み潰し、すりおろして――

 どれほどの時間が経ったかも分からないが、ミュートが我に返った時、あたりには血と肉片と骨の欠片と、それらと見分けがつかなくなった牛飼い煮(グーラシュ)とが、混ざり合ってぶちまけられていた。

 ミュートは茫然と立ち尽くす。針山のように連なっていた《骨剣》が、役目を終えて風化し、崩れた。

 べったりと脳漿(のうしょう)のついた燭台を取り上げ、彼は目を伏せ、首を横に振る。

「……あーあ。掃除のやり直しだよ」

 

 

   *

 

 

 夜が明けた。昼が過ぎた。また夜がやってきた。

 ヴィッシュはまだ、死に絶えたノルンの街に留まっていた。

 戦いが終わり、ぼんやりと空が白み始めた頃、ようやく彼は立ち上がり、のろのろと歩き出した。それから丸一日。ミュートの待つインネデルヴァル古城を目指すでもなく、かといってベンズバレンに逃げ帰るでもなく、ただ漫然とノルンの街をうろつき回っていたのだった。

 この10年で大いに発展したとはいえ、見覚えのある通りや建物はそこかしこに見つかった。だが胸にこみ上げる懐かしさも、今は冷たい秋風のようなもの。虚しく通り過ぎ、ヴィッシュの心には何も残さない。

 懐かしんで何になろう。この街は死んだ。ミュートにみんな殺された。在るのはただ骸だけ。骸同然のヴィッシュ自身だけ。

 ふと気づくと、彼はシュヴェーア軍の兵舎の門前に立っていた。無意識のうちに脚は昔の習慣通り動いていたのだった。ヴィッシュは吸い寄せられるように兵舎に入った。中はほとんど昔のままだった。壁際にずらりと並べられた竿槍。薪のように束ねられ、積み上げられた剣。格子型の棚にひとり分ずつ押し詰められた鎧兜。修練場には藁人形、木剣、生々しい血の痕跡。荒っぽいシュヴェーア流の戦闘訓練が目に浮かぶ。

 ルーニヤは強かったな。一度も勝てなかった。ワッケーニの投げナイフは百発百中だった。ペーター、誰より勤勉だった。チッコロ、少し見習えよ。メイルグレッドに治癒魔法かけてもらいたくてわざと怪我してるだろ、お前は……

 ヴィッシュは一歩一歩、思い出を踏みしめるように奥へ進み、宿舎に入った。昔と同じ寝台が、他の誰かの名札をかけられて静かに佇んでいる。だがこの寝台の主が戻ることはもはやあるまい。今はただ、ここに横たわるものは虚無のみだ。

 そこに身体を投げ出してしまいたかった。横になり、目を閉じて、永遠に眠ってしまいたかった。だがベッドに入ろうとすると、異様な吐き気と頭痛に襲われ、ヴィッシュは床に座り込んでしまった。寝台の柱に背中を付け、膝を抱えて丸くなる。

「……帰りたいな」

 ヴィッシュは呟く。

 だれひとり聞く者のない暗がりの奥で。

 

 

(つづく)

 


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