妄黙の骨蛇どもが倒れる。廃墟に立ち並ぶ石塔の倒壊するが如くに崩れていく。蛇どもばかりではない。棒立ちとなった直後に砕けて散らばる骸骨。空中で制御を失い、城壁に頭から突っ込んで沈黙する骨飛竜。今しも緋女に咬みつかんとした、その姿のまま凍り付く不死竜。
魔王城の全ての死霊が一斉に機能停止したのだ。死術士の命と魔力が尽き果てたのと、時を同じくして。
事態を悟った勇者軍の将兵たちが、ざわり、ざわりとざわめき始める。ざわめきはほどなく勝利の雄叫びにかわり、狂騒的なうねりを伴って天までも伸び上がった。ついに討ち倒したのだ。この半年間で何万、何十万の命を奪い、数え切れぬほどの悲劇を生んだ憎き敵、四天王筆頭死術士ミュートを!
勝敗は決した! ここまで魔王城をひとりで支えていた死術士ミュートの脱落は、戦況を一気に傾けるに充分すぎるものだった。前方の圧力から解放された勇者軍はすぐさま部隊を再編し、二手に分かれて走り出した。
一隊は背後へ転進、老将ブラスカと呼応して魔貴公爵ギーツを挟撃。もう一隊は最終城壁を突破し、魔王城中枢の占領へ向かう。
魔貴公爵ギーツ率いる魔王軍本隊は、伏兵によって隊列をずたずたにされたところへ更なる追い打ちを受け、大混乱に陥った。戦おうと前に出ればたちまち槍で串刺しになる。隙間をぬって逃げだせば法撃と矢の雨に射抜かれる。といって守りに徹しても、多方面から押し込まれ、行き場をなくした者から擦り潰される。軍の統率は乱れきり、情報は錯綜するどころかろくに伝わりもしなくなり、もはやどこで誰が誰と何のために戦っているかすら分からない体たらく。
一方、魔王城中枢においても夥しい血が流れようとしていた。
ひとたび最終防壁を抜いてしまえば、中にあるのは防衛には不向きな宮殿ばかり。戦闘員も配置されておらず、残っているのは荒事に不慣れな文官・侍女のみなのだ。
そんな別天地に眼を血走らせた軍勢が雪崩れ込めば何が起きるか?
蹂躙だ。
精緻な細工を施された門扉は破城槌でひと突きに倒され、目にも艶やかな毛織の敷物は泥まみれの足で踏みにじらる。庭園を満たす静謐は怒号と悲鳴に引き裂かれ、恐怖が宮殿に雪崩れ込む。
侍女たちは美しい顔を悲痛に歪めて奥の一室に転がり込んで、重い家具を必死に引きずり扉へ内からつっかえをした。外へ敵が攻め寄せてくる。粗野な掛け声とともに扉へ鉄槌が叩き込まれる。侍女たちは最低限の教養として学んだきりの攻撃魔術を思い出し思い出し構築しながら、抱き合い、震え、涙を落とす。扉に走ったひび割れに、己を待ち受ける過酷な運命を予感しながら。
また、宮殿最奥の玉座の間には、夢見人たちが立て籠もっていた。魔王の特別の厚意を受けて、最も安全なはずの玉座に避難していた異形の者たち。だが今や勇者軍の攻撃はこんな所にまで及んでしまった。外から丸太を叩き付けられ竜骨の扉が大きく撓む。罵声が隙間から漏れ込んでくる。
この危機に、しかし夢見人たちは泰然として、他人事のように達観していた。夢見人たちは誰もが怪物そのものの形だ。だが戦いに役立つような気の利いた能力は誰も持たない。だから皆落ち着いている。持たざる者は、なんでもかんでも受け入れるしかない。不条理な蹂躙。道に外れた虐待。耐え難いまでの侮辱と凌辱。まるで他人の食べ残しを漁るように、どんな汚れも受容して、むしろ糧にして命を繋ぐ。それが弱者がたどる運命、どうにもならない世の理と、腹の底から諦めている。
だから勇者軍にも恨みはない。敵もただ“生き残りたい”、その一念で必死なだけだ。その必死が、生への渇望が、より良い世の中にしたいという正しい思いそのものが、敗者に残酷な苦痛を強いる。
彼らを咎められはしない。この半年、魔王軍に友を殺され、家族を犯され、必死の働きで築き上げてきたごく細やかな幸福を根こそぎ魔族に奪われたのだ。文字通り我が身の一部を喰い千切られた者たちなのだ。絶望の反動による報復の苛烈さを、一体誰が咎められよう。これは応報、当然の帰結。そして誰かが振るった暴力のしわよせは、いつだって一番弱い者の所へ行く。
十数度目の打音の後、ついに扉が突き破られた。敵兵が潮の満ちるように駆け込んでくる。玉座の周りで団子になった夢見人たち。あまりにも醜すぎる怪物を目の当たりにして、引きつったうめき声が兵から洩れる。
「化け物だっ……殺せ!!」
夢見人たちは、もはや抵抗しなかった。諦観に満ちた虚ろな目で、己へ迫りくる正義の槍を見つめた。どうにもならない世界という名の牢獄へ、せめてもの抗議の意を表すように。
夢見人たちの身に、冷たい刃が今、突き刺さる。
……と、そのとき。
!!
音にさえならない。
声にさえできない。
“意志”という概念を超えて圧縮された情報の塊が、稲妻と化して戦場の全員の脳を貫く。それと同時に天守閣から空へ駆け昇る漆黒の雲。殺気を孕んだ暗闇が滑るように頭上を塞ぎ――
次の瞬間、無数の《闇の雷》が戦場めがけて降り注いだ!
「が!」
「ぎゃっ」
「ひ……!」
「何……」
「避け……」
「ッラ!」
「《盾》ッ。」
「あっ?」
「来た!!」
駆け抜ける絶望。暴れ狂う恐怖。魔王城の下にある全人民が、主の来臨を直感した。だが気づいても何になる? 身構えたから何ができる? 《死》を予期したとて避ける術など無いように、《悪意》を知ったとて捨て去りきれはしないように、あらゆる抵抗がここでは無価値。
ひとり絶対者の憤怒の前に、今、世界の全てが平伏す。
「来てくださった」
夢見人が感激に吐息をもらす。まだ生きている。死ぬはずなのに、殺されるはずだったのに、彼に迫った鋼の槍は胸に突き立つその寸前に、持ち主もろとも《雷》に灼かれ、塵と化して吹き散らされた。剣もまた。槌もまた。玉座の前に充満していたあらゆる武具が、猛り狂う兵士と共に一掃された。
夢見人の六対の目から、滂沱の涙が流れ落ちる。
「カスみてえな俺らを救いに……あのおかただけは」
天地を貫く《闇の雷》がヴィッシュの左半身を捉えた。
――ヤベぇ!!
と思うより速く緋女が疾走った。音速の太刀に“万物を斬る”炎を纏い、飛び上がりざまに《雷》を切断。肉体の半分炭化しかけたヴィッシュを抱えて疾風の如く離脱する。
「カジュ!」
「任せて。」
緋女の腕の中で痙攣するヴィッシュにカジュがすぐさま治療の術を施す。間一髪だ。あと10分の1秒遅ければ彼は完全に塵に帰していた。
「ハッ……! ふっ、くっくっ……ほらな!」
「喋っちゃだめ。」
カジュの制止すら耳に入らず、勇者は――否、ヴィッシュは額に脂汗を浮かせてほくそ笑む。
「ざまあ見やがれっ……
引きずりだしてやったぜ……!」
*
「――哀しいね」
うずたかく積み上がる屍の上に、ひとりの少年が立っている。そっと差し伸べた手のひらから、乾いた骨灰が風に溶けていく。一縷の望みを託して施した術は無駄に終わった。この死屍を材料にして、三度び友を蘇らせんとしたのだ。
友の形を成すことなく崩れ去っていく骨の硬さが、取り返しのつかない残酷な事実を少年の皮膚に突きつけてくる。人間たちが“勇者の剣”と呼んでいるあの存在――至高神《死の女皇》の愛剣にして自身も十二皇が一柱たる《月魄剣》は、その気になればこの世そのものすら殺しうる究極の《死》だ。あの剣に下賜された真の《死》は、もはや魔神の力をもってすら覆せない。
ミュートはもう、帰らない。軽妙な冗談でからかってくれない。積み上がる難問に共に頭を悩ませてくれない。魔王の重責に苦しむ彼を、二度と励ましてはくれない……
「あ……ああ……ああぁあっ……!
これがっ……これが本当の哀しみなのか……!
すまないミュート! 僕が不甲斐ないばっかりにっ……」
灰を抱きしめ少年は震える。止まぬ慟哭を聞きつけて雑兵たちが集まってくる。「あれは?」「まさか」「奴だッ!」「魔王!?」有象無象の敵意の声が後から後から湧き上がり、酷く耳障りに少年へ群がる。
「……そうかい」
少年は、王者の尊大さをもって振り返る。その背から漂うものは血染めの憤怒。その指を走り出るのは濡鴉の決意。彼を辛うじてヒトの枠に留めていた最後の箍、ミュートはもはやこの世にない。
「震えるがいい、悔悟の風に。
蹲うがいい、銷魂の沼に。
君たちがどうしてもそれを望むなら、演じてみせよう、究極の役割を」
膨れ上がる《悪意》を止められるものは、もう何処にも存在しない。
「我が名は魔王!
クルステスラ!!」
to be continued.
■次回予告■
戦火渦巻く魔王城についに姿を現す魔王。超絶的な魔力の脅威が人々の奮闘を嘲笑うように暴れる中で、狩人は静かに、静かに時を待っていた。張り巡らせた究極の罠が、獲物を絡めとるその瞬間を!
次回、「勇者の後始末人」
第22話 “戦い(後編)”
The Battle (Part 2)
乞う、ご期待。