「……逃げやがったな日和見野郎」
空を泳ぎ去るコバンザメを見上げ、
彼の周囲では残り少ない
この状況でのコープスマン逃亡は痛い……本当に痛い。増援のアテがひとつ潰れたというだけではない。そもそも占領地の統治運営は
一方それに対する勇者軍の、なんと意気盛んなことか。
歴然たる士気の差が、そのまま戦力の差となり重くミュートにのしかかってくる。
劣勢だ。もはや壊滅は目前だ。
それでも。
「負けるかよ。お前にだけは」
濁りきった両の
勇ましく
「行くぞ相棒ォーッ!!」
応えて勇者軍が進み出る。横1列に整然と並び、雄叫びを合図に走り出す。
双方から押し寄せた両軍が、火花を散らして激突する。たちまち巻き起こる
大混戦のなか勇者の剣を縦横に振るい、手当たり次第に
「っく!」
ヴィッシュは
「抱きしめてやるッ!」
急速に輪を狭め、ヴィッシュを締め殺さんとするミュート。逃げ場はない。絶体絶命。
その時。
「きも。」
ごあ!!
地面から伸び上がった《凍れる
――カジュ!
シーファとの戦いを終えた彼女が、早くもこちらへ駆けつけたのだ。
「相手の気持ちも考えずに『抱きしめてやる』ってさあ。」
「あァ!?」
「ないわー。」
「うっせえわクソガキ! 待てコラァ!!」
蠅のようにミュートの眼前を飛び回り、散発的に術を撃つカジュ。もちろん、ただおちょくっているだけではない。敵の目を
「オッラァ!!」
緋女が加勢に来るまでの時間。
無警戒の所に横からブチ込まれた炎剣が、
恐れたとおり、砂塵切り裂き飛び飲んでくる白銀の勇者。
――ヴィッシュ!
「うおおッ!?」
雄牛の構えから突き込まれた魔剣の切っ先。ミュートは慌てて身をひねり、すんでのところでどうにか回避。再生したばかりの胴をうねらせ、
間一髪だ。相手は万物に絶対の《死》をもたらす勇者の剣。
などと、自分のことにばかり気を取られている間に、周囲の戦況が一変している。
ただでさえ劣勢のこの状況に、緋女とカジュという爆弾が投げ込まれたのだ。右翼方面で歓声が湧いたかと思えばたちまち溶断される
彼女らの戦いには
「ちくしょう。いい仲間だなあ」
ミュートは声を
綺羅星の如き勇者軍。それに引き換え
いつもそうだった。シュヴェーアの軍にいた頃だって、ヴィッシュの周囲には、いつも才気溢れる
一方ミュートに……ナダムにすり寄ってくるのは、腹に一物抱えた油断ならない奴ばかり。
日頃さんざん他人をバカにしてきたツケ、自業自得だ、とは考えない。かつて自分もヴィッシュの「素敵な仲間」だったのだ、なんて事実も慰めにならない。悪いことは世の中のせい。評価されても不満たらたら。腐った男の性根は
それでも――腐った者には腐ったなりに、譲れないものがある。
「負けられねえ……負けたくねえ……」
ミュート=サイレントラインが伸び上がる。長々しい尾でとぐろを巻いて、塔の如くに
「ずっとお前が」
羨ましかった。
「いつかお前を」
乗り越えたかった。
「お前にだけは」
なめられたくない。
「お前はおれの」
だから今、ミュートは叫ぶ。
「大っ嫌いだ!!
おれを見てくれェ―――――ッ!!」
天地引き裂く絶叫の中、骨の大蛇が憧れの勇者へと暴走する。
*
一方、そのころ。
魔王城の外に設営された勇者軍の後陣に、ロバの背からノソノソと荷物を
「包帯の在庫ォ! おっそいんだよォ!」
「へいへい、ただいまァー。
……畜生、これじゃー普段と変わんねーっつーのォー」
通りすがりの上官から怒鳴りつけられ、愚痴りながら医薬品満載の袋を下ろすのは、若き兵士、名はパンチ。かつては王都・第2ベンズバレン間で馬借をしていた彼は、戦乱で仕事を失い、義憤に駆られて勇者軍に参加した。『俺も緋女さんみてーな英雄になってやらァー!』なんて野望もあったかもしれない。だが本人の希望とは裏腹に、パンチは後陣での輸送任務に回されてしまった。
後陣は前衛の支援が主任務。とめどなく
だが、地味だ。華々しい活躍に憧れて入隊した若者には、いささか退屈だったかもしれない。
溜息をつくパンチのそばでは、長年の仕事仲間、ロバのローディおじいちゃんが、気ままに枯れ草をもぐもぐしている。
「ま、しゃーねーかァ。お前にまたがって『騎士でござーい!』ってのも
「ぶしゅ」
「あん?」
ロバのローディが不意に顔を上げた。つられてパンチも腰を伸ばし、ローディの凝視する方へ目を向ける。
そちらは魔王城とは反対方向。この半年手入れする者もなく放置され、ほとんど荒れ野のようになってしまった耕作地の間を、広い街道が緩やかにうねり走っている。その道の果て、南の稜線へ吸い込まれていくあたりに……
淡い、煙……のようなものが、立ち上っている。
はじめパンチは目の錯覚を疑った。眉間に
「あ……ああっ……?」
「来た……来たッ! 来た来た来たァー!?
隊長! 将軍! いや皆ァ! 来た! 来ちまったあああああ!!」
*
「や……やったッ!?」
無数の靴が巻き上げるもうもうたる土煙の中で、ひとりの男が歓声をあげた。半ば倒れ込むように足を止め、疲労
自慢の名馬は長時間の全力疾走で潰れてしまった。そこから先は自分の足で走って来た。運動らしい運動などしたこともない、なんなら衣服の着替えひとつさえ召使いに手伝わせるほど高貴な彼だ。この強行軍は身体に
だがやりとげた! 破裂しそうな心臓に鞭打ち、鉛のような足を引きずり、柳の枝さながらにふらつく身体を気合と根性で奮い立たせて、ついに
「やっ……ぅぇっぽ! やったぞッ! まおゥゲホ!! オウエ!! ゲッ!! ぶっふ」
「閣下、閣下、深呼吸、落ち着いて」
「ぅんえい! 落ち着いてなどいられるかっ! ィやったぞハハッ! それ見たことか、
「いかさま!」
「愚か! 愚か! 人間! 愚か! この
男は意気揚々と右腕を振り上げる。彼の隣には、牙を
「魔貴公爵ギーツ!!
四天王ナギ!!
そして魔王軍本隊13万!!
ただいま参上であ―――――るっ!!」
*
「まァじかっ!?」
この有様を
「まじだ! 来た! 来やがったぞあの
高笑いを戦場に轟かせ、ミュートはひとりヴィッシュを見下ろした。見よ! 勇者が立派な兜の奥で緊張に眉寄せるあの表情を。彼にあの顔をさせたい一心で身命を
「見たかよヴィッシュ!
これで……形勢逆転だァァッ!!」
(つづく)