掏った財布をズボンに挟み込み、アンリは路地裏を走る。
向かう場所は盗品を扱う市場だ。
今の時間は締まっているが、買い取りはこの時間でもやっている。
ほとんどの孤児やスリを生業とするものはこういう闇市場に品を流すしかない。
そのためアンリのような子どもでも少しは買い叩かれるものの、おおよそ適正価格で買い取ってくれる。もちろん、闇市場の価格だが。
だが、アンリのような子どもの対応をするのは大半が見習い以下の者たちだ。
中には悪質なものも居て、それとなく騙そうとしてくる。
そのため、馴染みの店といえど、あまりに隙だらけだとぼったくられてしまうこともザラだ。
「こんちわー。いつもの兄さんいる?」
「は?誰だ、オマエ」
アンリの前に姿を見せたのは顔の知らない軽薄そうな若い男だった。
髪は金髪だったが、かなり前に染めたのか、黒い地毛が半分ほど見えていている。
嘲りを隠そうともしない目でアンリを見ていた。
「あー、買い取りか?いいぜ、俺がみてやるよ」
「…いつもの兄さんがいいんだけど」
「は?俺でなんか文句あんのかよ、ナメてんのか、オイ」
面倒な奴に捕まった。
アンリは内心で深いため息をついた。
闇市場はガラの良くない者は多いが、その分信頼関係が非常に重要だ。
だが、信頼関係を築こうと相手が思わなければ、高圧的な態度も当然取られる。
まして、アンリは小さな少女だ。
初見の相手がまともな応対をしてくれた試しは滅多にない。
そういう時はどうするか。
答えは、逃げるが勝ちだ。
「おーっと、お嬢ちゃん、どこいくの?売りたいんでしょ?ほら、品物出せよ」
(チッ、勘のいい奴)
「は?なんつった?」
「なんでもないってー」
肩を掴まれた。解ける気がしない。
念を覚えても力で負けているのだ。
捕まえられたらアンリにはもうどうしようもない。
殴ればアンリが悪者にされるから、念を込めて殴ることもできない。
ここはそういう場所だ。
闇市場で騒ぎを起こせば自分に返ってくる。
何故か。
それは闇市場側の立場が圧倒的に強いからだ。
黒が白になり、白が黒になることも珍しいことではない。
もし男を殴る、あるいは何か害を与えでもしたら、アンリは確実に闇市場から弾かれる。
アンリに非がまったくなくても、だ。
ガキが物を盗もうとして暴れた、と言われれば、よほどの有力者が知り合いで、その人物が庇いでもしなければ、即効叩きのめされる。
物を売りに来た、後ろ盾もなにもない小娘と、下っぱとはいえ闇市場の売り場を任されている若い男。
どちらが信用されるかは言うまでもない。
だから、アンリは捕まってしまえば何もできない。
男もそれを承知だろう。
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。
悔しい。
拳を握りしめる。
殴れば、この男を倒すことは造作もない。
石が割れるほどの力だ。うまくやれば殺せるだろう。
だが、それでは社会的にアンリが殺される。
我慢するしかなかった。
だが、ただ我慢できるほどアンリは大人ではない。
だから今決めた。
いつか絶対、絶対コイツ殺す。ぐちょぐちょに殺してやる。
原型とどめないくらいに。
そんな殺意を隠して笑顔を見せながら、アンリは男を見上げた。
「持ってきたのは財布だよ、普通の」
取りだしたのは皮張りの財布だ。
殴られて盗られるより、最初から出して少しでも足しにした方がいい。
ジッパーを開けて中身を見せる。
あの、よくわからない薬だ。
「なんか、変な薬入ってんだよね。お兄さん、これ買い取れる?」
「ッ!あ、あー、そうだな。ちょっと見せてみろよ」
変な反応を見せながら、男は薬を確かめる。
100粒ほどあることを確認して、男は引き攣った笑みを見せた。
「なぁ、オマエ・・・、まあ、まあいいや。いいぜ、買い取ってやる」
これでどうだ。
そういって男が見せたのは3本の指。
3千だろうか。
だが、100粒だ。薬にしては安すぎるから、たぶん3万。
…まじ?
そんなに良い薬なのか。
「え、お兄さん、まじ?3万でいいの?」
「…ああ、いいぜ。お前も運がいいな、ちょうど不足してたんだ、値段が高騰しててよ、困ったぜ」
視線が泳いでいる当たり、かなり怪しいが、くれると言うならアンリとしては全く問題ない。
まさか、30万のはずもないし。
目を財布に向けて、『D』と書かれた薬を見る。
何かのイニシャルだろうか。
「ん、じゃあ財布は?」
「そいつは、まあ、3千ジェニー程度だな」
「わかった。じゃあ、その値段でいいや、買い取って」
「おう、少し待ってな」
男は奥に引っ込んで、3万3千ジェニーを手に戻ってきた。
ちらり、と男の視線が財布に行く。
そんなに気になるのか。
少し様子がおかしい。
だが、そんなアンリにおかまいなく、男はジェニーを手渡した。
「ほら、3万3千ジェニーだ。間違いねえな?」
「…うん、間違いない」
だが、もう金は受け取ってる。
やっぱりなし。といえば、どうなるかは一目瞭然だ。
たぶん、力づくで持っていかれる。
(面倒だし、別にいっか)
男は見るからにソワソワしている。
さっさと出て行けといわんばかりの視線だ。
「じゃあ、また来る、よ?」
「おーう、まってるぜ、お嬢ちゃん」
ニヤニヤした、嫌な笑みだ。
やっぱり、何か騙されたっぽい。
たぶんあの薬だろうけど、正体が何かわからない。
見たい顔でもないのでさっさと出るに限る。薬はいいや。今度同じの見つけた時に確かめよう。
恨みは忘れないけど。
闇市場の買い取り場の幕を潜って、スラムの広場に出る。
大半の市場は広場に集まっている。
それはスラムでも変わらない。闇市場も広場で広げられる。
とはいえ、開かれるのは深夜なので、アンリが行くことはない。
話によればかなり盛況らしい。
その分、殺し、脅し、盗み、強姦、賭博、麻薬、盗品販売。違法の楽園となっているとも聞いた。
「あんまり興味ないかな」
闇市場には特に魅力を感じない。
麻薬も賭博も、所詮お遊戯だ。
まったく興奮しない。
ただ、外部の者、マフィアや裏筋の者などが訪れるとも聞いたので、そこには少し興味がある。
アンリの今の目標はそこだ。
真っ当に生きられないなら、真っ当ではない場所で頂点を獲ればいい。
マフィアに入るのもいいし、殺し屋として活動するのもいい。
『念能力者』としての実力があれば、どちらでもやっていける。
ただ、現状ではどちらも難しい。
マフィアは紹介がなければ入れない。
殺し屋は信用がなければ仕事がこない。
アンリはそのどちらの伝手も持っていないから、前途多難だ。
空を見上げる。
少し時間は経ったが、まだお昼を回って落ち着き始めた時間だ。
市場には人が少なくなるが、それでも今のアンリなら盗みは出来る。
軽い足取りで路地裏を進む。
果物でも盗みに行きますか。
癖毛の茶髪を機嫌良く揺らしながら、アンリは表の市場に足を向けた。