知恵先生が日誌をぱたりと閉じた音をよーいドン!の合図に、小さなクラスメイト達は一斉に校庭へと駆けていく。
岡村君なんかは自分のロッカーからボールを取り出しているあたり、ドッチボールで遊んだりするのだろう。追いかけて混ぜてもらい、放課後は体を目一杯動かして汗を流すのも楽しい選択の一つだろうけれど、それは別に今じゃなくてもいい。今日は放課後花屋に注文をしに行こうと、昨日の内に計画していたのだ。
鞄に荷物を詰め込んで校庭へ出ると、男の子が靴の踵で土の運動場にドッチボールに使うコートの線を引き終わった頃だった。
校門までに彼らの近くを通るので、無言では感じが悪いだろうと手を振って「じゃあね」と言えば、あどけない笑顔で返事が返ってきたのが少しだけ嬉しかった。
不用心だとは思うけれど、帰り着いたばかりのこの家には、鍵が掛かっていない。
今の自分がそうしたように、夏場なんかは泥棒がその気になれば回り込んだ縁側から家の中のどこへでも入れてしまうのだから、気にしないことにしている。平らな石段の上に靴を脱いで上がり込んだ俺は、冷蔵庫の冷えた麦茶を飲んで一息ついたら、しばらく畳の上でだらけた。一度壁掛け時計を見て、腰をあげたら勉強机の引き出しから自転車の鍵と財布を持って街へ向かった。
畦道、砂利道、公道、石畳・・・景色が変わるのを楽しむ余裕を持って興宮に降りて来た俺は、クリーム色の壁に緑と白のストライプ模様のシートの雨除けが可愛らしい花屋の、邪魔にならない場所を探して自転車を止めた。
白い粒ぞろいの花弁と蟻の脚ほどの茎の花や、ちょっとえぐみを感じるピンクの花と、少女趣味の者なら喜ぶだろう光景も、店内に入ってから脳に刺さるような花の匂いに頭がクラクラしている俺は、さっさと病院に花束を届ける注文を済ませてしまおうと、二十代後半くらいのチェックの襟シャツに前掛けを着た女性に声を掛けた。
「すいませーん」
「はい、お求めの花が決まりましたか?」
「そこの白い花と、この狐百合で小さい花束を作ってもらって、診療所に届けてほしいのですが、注文できますか」
「はい、レースフラワーとグロリオサで、出来ますよ。その診療所の名前と、失礼ですがどのような用向きで、あっ、とね・・・その花束は、ご家族やご友人へお見舞いのお花ってことでいいのかな?」
自分が学生服なのを見て、言葉を選びなおした彼女は膝を少し曲げて目線を下げ、優しい笑顔のまま唇を丸めた。お客への対応を間違えたのを心中で反省をしているのかもしれない、俺は白い歯を見せて否定した。
「いやっ、お見舞いは違いますよ。ちょっと照れくさい話ですが、自分がちょっと前まで入江診療所にいて、そのときお世話になってたらしい看護婦さんに退院の帰り際、今度お礼として狐百合の花束を渡しに行きます、とカッコつけて言っちゃったんです。それで、診療所の名前はさっきも言いましたが入江診療所です」
話を聞いていた彼女は途中パッと目を開いて、相槌に、あら~、そうなの~うふふと、どこか笑顔の雰囲気が変わり、目じりを下げてにんまりしている。「看護婦のお姉さんに恋した中学生・・・」と不穏な独り言が聞こえたような気がしたが、触れてはいけないと白けた顔で聞かれたことを言い直した。
「そう・・・えっ、入江診療所ってきみ、雛見沢の子?自転車で来てたけど、あそこからは遠かったでしょう。若い子はエネルギッシュねぇ~。実はお姉さんも、雛見沢出身なのよ」
「そうだったんですかー、奇遇なめぐり合わせですね」
「案外知らないだけで、雛見沢出身者はあっちこっち結構いるものよ。世間は案外狭いって、大人になってよく思うもの。・・・そうだわ!この後入江診療所まで送って行ってあげよっか。私は店番だから、夫がだけど」
「へ?」
今まで我関せずと、黙々と花の葉の手入れや茎の長さを揃えたりしていた熊みたいな大柄の男に、突然白羽の矢が立つ。まさに青天の
「いいでしょう。この子を見ていると、そろそろ甲斐性を見せて欲しいわねぇ~ねぇ?」
「行きますよぅ!!はぁ、その話を今するのは勘弁してくれ・・・んじゃ坊主、代金払ったら外で待ってな」
お小遣いから代金を出してレシートをもらったら財布にしまい、さきほど男の人が作っていた花束を受け取ってから、言われた通り外で待った。道行く人々の視線が何だか温い温度だったので、自転車の前で後ろを向いてしばらく待っていたら、離れた駐車場から取ってきたらしい花屋のライトバンがやって来た。
「自転車乗せるから、先に助手席に乗っててくれ」
「手伝います」
「いいっての。あっ、鍵は貸してくれ。運びにくい」
鍵を渡すと男は車の後ろのドア付近まで自転車を運び、加工したベニヤ板二枚が敷かれた荷台に自転車を載せて、白いビニール紐でハンドルなどを手早く車の骨組みに括り付けた。腰に提げている枝切バサミでビニール紐を欲しい長さで切る仕草はとても手慣れていた。
「こんなの、見ててもつまらんだろう」
「いえ、とても面白いです」
「そうかい」
カーラジオはビートルズの、曲名までは知らない定番の曲が流れて、男は音量を調節する摘まみを時計回りに少しだけ回した。
手回し式のウィンドウで十センチほど開けていた窓から入る風が、頭の上を抜けていく。無為に流れる景色を眺めていると、油が跳ねたようなセミの鳴き声が山の方から、雛見沢へと近づいているようだった。
「坊主は何かスポーツをやってるか?」
「いえ、特には。最近は勉強が忙しくて・・・息抜きに本を読んだり、ラジオを聞いたり、そんなもんです。受験生なんて」
「あー、そういう。なら早朝にジョギングしたりすればいい。そんなひょろい体のままだと、夏がもたんだろ。飯をもっと食え、飯を」
「あははっ、親戚のおじさんみたいなこと言うんですね」
「馴れ馴れしい、いきなり身内にされちゃ困る・・・とにかく、健康な体は今の内に作っとけ。おじさんからのアドバイスな」
「ありがとうございます。自分は元々早起きなんで、後でまた考えておきます」
「そうか———さっ、着いたぞ」
自転車を降ろしてもらったら鍵を受け取って、改めてお礼を言った。ここまでしてもらった事、本当に感謝している、との旨を伝えると男はすぐに背を向けて、手で返事をするのを見送った。俺は花束を胸に自転車を引いて、入江診療所の駐輪場に自転車を止めた。
入江診療所の窓口の女性はやはり、窓口の手すきの合間にも事務処理の仕事をしていた。窓口の前に立てば彼女の目線が上がり、顔まで上りきる前に、胸の花束に目が留まっていた。疑問の表情を浮かべた一拍程の
「本日のご用件は何でしょうか」
自分が推し量って物を考えるより、聞いてからそれに業務の範囲内で対応するだけのことと、いつもの速やかな対応に少し、ホッとした。脳裏には、花屋での珍事の緊張の余韻が焼き付いていた。・・・これくらいの距離感が気楽で丁度いい、と表には出さない胸の内でそう思った。
鷹野さんとは会わず、花束だけ受付の人に渡したら、入江診療所を出る。予定が三十分ほど順繰り上がりになったので、今からセブンスマートという、所謂食品スーパーで夕食の食材などを買いに向かうことにした。
◆
「葡萄ジュースは無添加100%なのです。これは絶対なのです」
「我が儘言わないの梨花、毎度その様な嗜好品に無駄遣いはいけませんわ。今日は駄菓子屋でお菓子を買ったじゃありませんの。我慢してくださいまし」
「みぃー、今日の沙都子は強情なのです・・・かくなる上は」
「あら梨花、美味しそうな小松菜を山の様に持ってきて、安かったのでございますか?」
「そうなのですよ沙都子。小松菜が一束220グラムで168円、これはお買い得なのです」
「うーん、・・・ですが、流石にこの量は二人では些か多いと思いますわ。一つ戻して・・・梨花ぁー?この出てきた赤い液体の入った瓶は一体何か、上手い言い訳を思いつきまして?」
「それは・・・お醤油と間違えてしまったのですよ。沙都子にとってのカリフラワーとブロッコリーの垣根の様に、お醤油と葡萄ジュースも度々垣根を跨いでしまう、逃れようのない事故なのですよ。にぱ~☆」
「もうっ、梨花ったら!」
クラスメイトの顔があったので声を掛けようかと思ったけれど、プライベートな空気に割って入るようなことでもないと、俺はそそくさとレジに買い物籠を通した。この時間になれば、多くのクラスメイトもそれぞれ一度家に帰った後の時間を過ごしているのだろう。段ボール箱を組み立てて、買った商品を入れたのを自転車籠に乗せたら、一路家に向かった。
「ただいまー」
「お帰りなさい。お風呂はもうお湯を入れるばっかにしておいたんだ。入れてくるね」
「有り難い、今日は昨日の皺寄せでいつもより疲れた。ふぅ・・・」
鯵の開きを塩で焼いたのと、総菜の金平ごぼう、味噌汁に白米を食べながら今日あった事を話し、笑われて、労ったりと食事を楽しんだ。
「それで、早朝ランニング始めたいと思うんだけど、どうかな」
「ん?始めればいいじゃないか。・・・ただ、霧が濃い日は止めるんだぞ。命あっての物種だ」
「分かった。うん」
「思い出した。言っておこうと思っていた事なんだが、明日から朝が早くなる」
「そうなの。じゃあお風呂入っちゃって。食器洗ってるから」
「悪いな」
「気にしないで。けっこう好きなんだ、洗剤の匂い」
父親がお風呂から上がって、食器洗いを終えた俺は続けてお風呂に入った。湯船に肩まで浸かり、得意になって口笛を吹けばタイル張りの浴室によく口笛の高音が響いて、不安定な音程も反響のマジックでいつもより二割増で上手く感じた。
次の日の目覚めの朝が来れば、足元の隣には既に三つ折りになった敷布団とタオルケット、それと枕が積み上がっていた。
どうやら父はもう仕事に行ったようで、寝室の六畳間がいつもより少し、広く、空っぽのような感じがした。
「さーて、とっ」
寝ぼけた顔に水を打ち付けて、俺は自分だけの朝食の支度を始めた。