修羅幼女の英雄譚   作:嵯峨崎 / 沙城流

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8 『交わる兵刃』

 ──夜闇を背にしたバラボア砦。

 赤々とした光が夜闇を押しのけている。

 灯火に舞うのは粉塵。城砦からは白煙や火炎が立ち昇る。怒声や爆発音に伴って、烈々たる金属音が周辺に響き渡る。攻防は夜が深まるほどに一層その激しさを増し、砦内では多種多様な戦場が形成されていた。

 魔術師たちが熾烈に持ち前の魔術を撃ち合う戦場。

 帝国軍の同輩たちが手に手を取り合い、敢然と強襲軍に立ち向かう戦場。あるいは逃亡者の戦場。城砦からの脱出を図るも、待ち構えていた強襲軍に呆気なく命を絶たれる者もいる。そして、すでに戦場跡と化した──屠殺場同然となった回廊を一人行く者もいた。

 そのただ一人の勝者は歩を進めて、呟く。

 

「……帝国は『六翼』無しじゃ格落ちってワケだァ」

 

 また、ある一角では臆病者が己と戦う戦場もある。

 新兵は恐怖で二の足を踏み、震えながら葛藤する。

 外の喧騒に怯えるように寝台の上で身体を丸めて。

 

「クソ、何で……俺ばっかりこんな目に……!」

 

 戦場とはいずれも残酷な側面を切り出すものだ。

 人の生き死にに限ったことではない。極限状態であるがゆえに、普段は社会性で糊塗されていた残忍性、人間的な脆弱性、それらが根差した不実が曝け出されてしまうのだ。一皮剥けば獣同様、本能に身体の一切を委ねてしまう。それは生物として当然の帰結である。

 だが、その渦中にあって信念に基づく者もいる。

 一対一。およそ戦場に相応しくない形態の戦闘。

 互いに剣の一振りを携えた、剣士二人の一騎打ち。

 苛烈な剣戟が、ひたすら真摯に交わされる。

 

「ふッ」

 

 重装騎士は呼気を噴き、乾坤一擲の一刃を振るう。

 繰り出される速度は図体に似合わない。さながら吹き抜ける風を想起させたそれは、容易く人体を切断せしめる威力を秘めていた。その場に滞留する空気に、わずかで曖昧な情に、斬撃の一線だけを残してゆく。

 だが、標的の息の根を止めることはできなかった。

 血染めの幼女の双眸は剣筋を確と捉えていた。わずかに手の角度を変え、自前の剣をその軌道上に滑らせる。器用にも最小限の動作で防御に回ったのだ。

 金属音が響く。しかし威力を相殺できていない。

 幼女は波濤に飲まれるように剣を弾かれて──。

 

「おも、いッ……のう!」

「覚悟は問わんぞ」

 

 その一言を挟んだときには斬撃は振り抜いていた。

 幼女を首筋から完全に二分した──そう確信した。

 テーリッヒは長年の経験則を反芻する。防御に転じる者には多かれ少なかれ慢心が付き纏うものだと。回避を選択せずに己が生命を防御手段に預けた時点で、攻め手の力量の多寡を括ってしまっているのだと。

 この想定と現実が乖離していれば致命傷にもなる。

 咄嗟に守りに入った時点で彼女は敗着していた。

 

「……ぬしの、癖は」

 

 しかし、あるはずのない舌足らずの声が響く。

 テーリッヒは一驚を浮かべ、凝然と標的を見る。

 彼女は剣筋に対して上体を逸らしていた。両脚は地面から動かさずに脇腹を張り、背を反らす。つまり防御手段を弾かれて、なお的確に紙一重で躱していたのだ。ここまでが織り込み済みだったかに思える回避。

 幼女は姿勢を変えず、彼を目線だけで捉えると。

 

「手応えを覚えると、わずかに隙を見せること」

 

 ──テーリッヒは咄嗟に剣刃を斬り下ろした。

 それを見越していたかのように矮躯は身を翻す。

 白尾をしならせ、器用な体捌きで距離を取る。

 

(動き。言葉……不可解である)

 

 テーリッヒは吐く息ひとつに本心を吐露する。

 表面上では平静を保てたが、動揺は確かにあった。

 幼女の甘い滑舌で紡がれた言葉には戦慄を覚えた。

 自らの、分厚い鋼鉄に鎧われた身体。その内側で層を重ねるように引き締まった筋肉。そこから更に下層で生まれた情動を──あの黄金の瞳で見抜いたと言わんばかりの物言いだった。まさか、剣を振り抜いた直後のわずかな緊張の弛緩が見破られたのだろうか。

 彼の思考裡にそんな発想が浮かぶほどに、奇妙。

 

(いまだに仕留めきれていないことも奇妙である)

 

 ここでの一騎討ちは自らの独擅場のはずだった。

 砦内通路では否が応でも近、中距離の戦闘になる。

 四方を石壁に囲われているがため、回避も退避も難儀してしまう。望む望まざるを問わず、互いに力比べを迫られる展開が多くを占めることになるのだ。なれば、幼女がテーリッヒを凌駕する道理はない。

 なにせ彼の持ち味は、恵まれた体格による膂力と、常人以上のオド量による身体能力を基盤とした剣術である。重装備とは到底思えない剣速を武器に、数十の戦場を駆け抜けてきた。纏う甲冑は騎士の家系であるガルディ家に受け継がれてきた秘蔵の武具。集めた技術の粋に魔術の粋を混ぜ、実現させた頑強さたるや、鋼鉄の刃を折り、英傑の拳を弾くほどである。

 そして握る剣は、名うての鍛治師が打った業物だ。

 

(だが……この童は)

 

 重装騎士は距離を肩で削ぐように猛進する。

 いまの幼女は赤手空拳。体格差を覆せるほど莫大なオドでも有していない限りは、それこそ赤子の手を捻るように存在ごと潰せてしまえる。刃に当たらずとも身体に当てるだけで骨を砕いてしまえるだろう。

 彼はそこに駄目押しとばかりに剣を振り下ろす。

 巨躯で退路を塞ぎ、躊躇えば剣刃で命を絶つ。

 そう、謂わば死の空間に捉えられた幼女は──。

 

「完成、しておるのう」

 

 感心したような口振りを残して──消えた。

 だがテーリッヒは狼狽えない。一切の淀みもなく、剣を下方に滑らせる。視界には颶風の煽りを受けた白髪が煙のように巻かれ、それを辿れば、消失したかに見えた矮躯の行き先を追うなど容易いことだった。

 長髪とはつくづく戦闘に向かない髪型である。

 色気づいたような髪の長さは戦士には致命的だ。

 

(下方に潜り込んだのか。童ならではの回避である)

 

 足下に転じた視界には、ソルが背を丸めていた。

 片膝を折り、両手を地面に這わせた姿勢。テーリッヒは寸分違わずその首筋に剣閃を奔らせていた。半秒後には柔肌に刃が沈み込むだろう。そんな現実的な想像を覆したのは、彼女が不意に軌道を外れたからだ。

 すでに幼女は右肩から地につけ、前転していた。

 この速度。最初から重心を崩して屈んでいたのか。

 

(しかし、速度勝負ならば望むところである)

 

 空を切り、先端が地を掠った剣を斬り上げる。

 ソルの背を追うように走る一閃は風を裂くたびに速くなる。末脚の伸びを彷彿とさせる速度上昇。脱兎すらも逃げきれない剣撃から身を守る術はないはずだ。

 幼女が一回転して停止した、その寸間に──。

 

「なッ……!」

 

 テーリッヒが逆袈裟に斬り上げようとした刃。

 幼女はそれに背を向けながらも足場にした(・・・・・)。寸前に小さく跳ねたことを思えば、確信的な挙動としか言いようがない。テーリッヒは腕に伝わる重みに歯噛みするどころか唖然としてしまう。彼女の軍靴は刃を噛んで、膝の発条を活かし、天井まで跳ね上がった。

 そこで両手をつきながら肘を撓ませて衝撃を緩和。

 次に肘を伸ばして、直下の騎士に襲いかかる。

 

(次から次へと……!)

 

 ソルの、目まぐるしくも切れ間のない立ち回り。

 遂に彼はこの動きに対する反応が遅れてしまう。

 だが幼女の腰帯にも手にも目ぼしい武具の類いは見当たらない。唯一の得物である剣は遠間の床に弾かれている。魔術の詠唱時間もない。いまだに徒手空拳の身で重装備の騎士相手に立ち向かうというのか。

 まさしく蟷螂の斧。なんと無謀な蛮勇だろうか。

 拳や脚による些細な打撃では甲冑に傷もつかない。

 拳を振るえば隙をつくるだけ、墓穴を掘るだけだ。

 

(純然たる白兵戦で、私に一騎打ちを挑むとは)

 

 果たして幼女が繰り出したのは蹴り。

 否──これも踏み台だ。鋼鉄の胸部装甲に着地したかと思えば、踏み締めて屈伸。地に背を向けたまま三角飛びの要領で横方向に飛ぶと、テーリッヒから遠ざかっていく。意外な離脱に追い討ちを見送らざるを得ない。もっとも幼女の軍靴に剣撃を受け止められた時点で、流動的な切り返しは打ち止めとなっている。

 再び戦闘を立て直したとて彼女に追いつけまい。

 いまは口惜しさを飲み下し、立て直すべきだ。

 

「これにて、振り直しとしようかのう」

 

 ソルは遠間の距離を挟んで、再び対峙する。

 距離感は一騎打ち開始時のそれに戻ってはいる。

 その手には一度は弾いた剣があった。退却に際して滑空するなか拾い上げていたのだ。むしろ一連の退避行動が、武具を再び手に取るためだったのだろう。

 二人は一気に接近して苛烈な剣戟を響かせ始める。

 そんな最中で、口角を上げた幼女が呟く。

 

「剣筋はかつての騎士の範同様にニレヴァート流か」

「……ソル。貴様はお喋りなのであるな」

「すまぬ。血湧き肉躍れば口も軽くなるものでのう」

「それはまた──余裕を見せるものである!」

 

 テーリッヒは畳みかけるように大股に踏み込む。

 仄かな違和感を握り潰し、確証なき雑念を払う。

 これらを置き去りにするべく剣撃を放つ。ソルは低姿勢を保ちつつも右脚を軸にして紙一重で躱し続けながら、甲冑の関節に狙いを定め、刃を滑らせてくる。

 その殺気と軌道を的確に読み取って打ち落とす。わざわざ剣で弾く必要もない。重装鎧の関節部以外で受けるだけでいい。ソルはそこから立て直すため再び退いて距離を取る。こんな小競り合いが十数回続いた。

 波打ち際めいた一進一退。予定調和的な膠着状態。

 テーリッヒは額の汗を浮かせて確信を得る。

 

「貴様は……何だ」

「何とは。随分と曖昧な問いじゃな」

 

 幼女は鼻白んだように返して、また距離を戻す。

 ──もし、ここに観衆がいたならば言っただろう。

 曰く「実力伯仲の剣士同士、二人の剣舞だ」と。

 それほどまでに互いの動きは美しく、剣舞の披露会を見ている心地にさせるほどに噛み合っていた。だが当人であるテーリッヒには腑に落ちない形容だった。

 これは剣技を嗜む者ならば共感を示すはずだ。

 

(まず剣の腕。ソルはそれほど巧くはない)

 

 幼女の剣術のほうには特筆すべきものはない。

 もちろん、そう言いきれば語弊がある。年を鑑みれば驚くべき剣筋の熟れ方だ。まるで何十年も修練を重ねたような反応速度と型の選択を行っている。だが、年齢度外視の戦場ではいずれも凡庸の域を出ない。

 テーリッヒには目新しくもない剣筋の嵐だった。

 個人の特徴すら希薄な剣術。個性に乏しい凡才の剣だった。ただ基礎を積み重ねただけの、ただ愚直なだけの──洗練された泥臭さとも言うべき技の数々だ。

 ここに関して、テーリッヒはソルに失望していた。

 騎士道を知る数少ない相手の非才は悲しかった。

 

(そう、剣術自体は凡庸そのもの。しかし)

 

 上がった息を抑え、兜の隙間から様子を窺う。

 そこには幼女が見える。違和の塊が、見える。

 彼女は上段に剣を構えつつ見返してきていた。幼子ながら体力の損耗はさしてないようで、呼吸は落ち着いている。猛攻を器用に捌ききり、掻い潜り、いまだに五体満足で構えられている。だが無傷ではない。

 肩口や左頬、額からも赤々とした血が滴っている。

 本来ならば庇護対象たる儚い身体からは精気が失われていく。きっとここが戦場でなければ一児の父として情けをかけただろう。だが現在は神聖なる一騎打ちの最中。それに臨んだ以上、戦に殉じる覚悟は持っているはずだ。同情で前言を翻すなど騎士の名折れ。

 幼子相手であろうと情け容赦するつもりはない。

 ──否。情け容赦? 幼子? いや、あれは。

 

あれは(・・・)何だ(・・)

 

 ソルに対する所感を表すなら『異物感』だった。

 違和と異物の塊。得体の知れない白い妖精。

 彼女の立ち姿は様になっている。頭頂部から爪先まで凝視したとて一分の隙も見当たらない。それが違和感の溝を一層深めた。先ほど凡庸と評した剣術についても同様のことが言える。どれも奇妙な話なのだ。

 まず、実力ある子供の戦闘法はひとつに絞られる。

 すなわち、己の天稟頼りの力任せ。経験や分析は蓄積量がそのまま力となる。どうしても蓄積が微々たるものになる若年期の戦士では結果に繋がりづらい。実利的にも現実的にも力押しが是とされる年代だ。

 ゆえに、剣を扱えど基礎は無視する傾向にある。

 だがあの幼女は真逆。原石でなく磨かれた石礫。

 視覚情報と経験則の乖離が、彼の混迷を強くする。

 

(そして、もうひとつ)

 

 毛羽立つ闘志を凍らせた事実は他にある。

 テーリッヒは剣を交えながら、それを確信した。

 

(ソルは、私の剣技に合わせて剣を振っている)

 

 ──示し合わせていないはずが噛み合ってしまう(・・・・・・・・)

 それに対する厭忌の念たるや如何ばかりか。自らの手足に糸が釣られていることに気がついた人形の心地である。自らの選択の影に潜む何者か。専横思うがままに選んだはずが、その思考すら作為的な術中に嵌った結果という事実が──あまりにも不気味だった。

 テーリッヒは柄を握って肺腑の底から息を吐く。

 剣閃を交えつつも、我慢しきれず疑問を口した。

 

「……まさか、本当に私と面識があるのか」

「恩師に嘘は申せぬ。わしはぬしを覚えておる」

「恩師。だが、貴様に剣術を教えたことは……」

「手ずから教えられてはおらん。見て学んだゆえ」

 

 ソルは短く言い放ち、黄金の眼光が深みを増す。

 あの老成した瞳。外見とかけ離れた輝きにテーリッヒは息を詰まらせる。自分以上に年を重ねた、経験あらたかな先駆者の色を湛えていた。あの雪白の髪すら経年で色素が抜けたものと見えてしまう。そんな認識の混乱と、老練した雰囲気に当てられたからだろう。

 ふと、二十年前に戦死した男の姿を幻視した。

 想像裡に浮かべた途端、自らながら驚いた。

 

(馬鹿な。よりにもよって父上と重ねるなどと)

 

 父は昔からテーリッヒの憧憬の先に佇んでいた。

 偉大な男だった。いまテーリッヒが鎧う甲冑に身を包み、祖国を守る剣としての役割を息絶える瞬間まで務め上げた軍人。ガルディ家に根強く残る騎士道精神を受け継ぎ、公明正大を地で行く男であり、祖父の代で騎士位が廃止されたことを心底から惜しんでいた。

 父は生涯、騎士の称号を戴くことはなかった。

 子供の頃に扉の隙間から聞こえた声を、忘れない。

 

 ──そうか。時代には抗えん、ということか。

 ──ああ息子も騎士の道に興味を抱いてくれてな。

 ──私のほうはいい。折り合いくらいつけられる。

 ──だが息子には、夢を、見せてやりたかった。

 

 そうしてテーリッヒは父の背中を追った。

 騎士が消えた国で、誰より騎士であろうとした。

 時代遅れと揶揄されど高潔であり続ける。戦士たちに真摯であり続ける。父から受け継いだ鋼鉄の鎧は、さながら王都の城壁のようであれと。握る直剣は自国の旗のようであれと。願いの遂げられない星にあってなお、儘ならない現実にあってなお、祖国の民たちを守るために。せめて民の憧れそのものになるために。

 そう、彼が騎士を夢見た根源は父の存在にあった。

 それと目前の幼女を重ね合わせてしまったのだ。

 尊敬する男と、ひたすらに不気味な幼女を──。

 類似点はひとつとしてないにもかかわらず、だ。

 

「そんなことがあってたまるものか……!」

「ひとつ」

 

 テーリッヒは鋼鉄の足裏を地面に叩きつけた。

 裂帛の剣閃ひとつで気の迷いを断ち切らんとする。

 その会心の一撃は綺麗に弧を描いて、幼女の元へ。

 対する彼女は剣を上段に構えて静止していた。今度は躱す素振りも見せず、人里離れた森の湖めいた静けさを保ちながらも、双眸はテーリッヒの接近を捉え続けている。間近に迫る刃を怖れる様子はない。

 疑念が膨れ上がるも、すでにこれは止められない。

 なぜなら、彼女の雰囲気が憧れを曇らせた。

 神聖な、触れてはならない琴線に触れてしまった。

 

(私としたことが、熱くなりすぎたか……!)

 

 数瞬後には正常な判断力を取り戻せど、遅い。

 毫釐千里。ついぞ理想と現実は乖離を果たした。

 想定と現実の距離感が致命に至るまで離れたのだ。

 

「ふたつ」

 

 幼女の手元が煌めく。閃光が通路を走り抜ける。

 そのとき、テーリッヒの背に粟立つ感覚を覚えた。

 否、培った経験によって死の気配を感じ取った。

 自らの脚を蹴り、側方に転ぶように身体を傾げ。

 

「みっつ」

「ぬ、あッ……!?」

 

 ──あれは雷か。あれは光か。

 ──否、剣刃(・・)だ。

 ──雷光めいた刃が鼻頭擦れ擦れを通過したのだ。

 

「惜しい、のう」

 

 咄嗟に躱せたのは、まさに奇跡だった。

 あの一瞬。空中で両腕を回して重心を変え、後方に上体を反らしていなければ首元が浚われていた。とは言え、兜が頭部の代わりに吹き飛ばされてしまった。

 視界は天地が逆転して、風圧が顔に吹きつける。

 その瞬間、破裂音が轟いた。兜が壁に激突。衝突と同時に粉々に砕け散った。壁面には亀裂が迸り、すり鉢状の大穴を穿つ。ここが結界魔術の影響下にある城砦内という事実が疑わしく思えるほどの光景だった。

 そんな末路を見届けたあと体勢が崩れてしまう。

 したたかに背を打ち、鎧越しの衝撃にただ呻いた。

 一方、幼女は通路の奥で背を向けている。

 そこで肩を鳴らして、首を傾げつつ独りごつ。

 

「この身体、やはり勝手が違うのう」

 

 どっと、テーリッヒの額から汗が噴き出す。

 刹那のうちに疾風迅雷の速度で駆け抜けたのだ。

 その証左は石床に轍として克明に残っている。

 黒ずんだ直線が始点から足元まで伸びていた。

 

「いまので、まさか頭も取れぬとは」

 

 御年四十六の猛者ですら思考が止まった。

 外気に晒された彼の面貌が純粋な怖気で硬直する。

 彼女は結界魔術下の石壁をめり込ませた。そしてガルディ一族に伝わる兜を砕いた。此度の城砦強襲の折に門を破ったが、あれは複数の強化魔術を重複付与した英雄ボガート・ラムホルトの力あってこそだった。

 常人が為せ得ない芸当を前にして、愕然とする。

 そんななか幼女はおもむろに距離を詰めてくる。だが足取りは不確か。先までの機敏な動きが嘘だったように、なぜか小さい身体を引き摺っていた。

 逃げ出すにせよ迎え撃つにせよ、好機と言えた。

 しかし、テーリッヒは動かない。動けない(・・・・)

 この時点で一騎打ちの勝敗は決していた。

 

(……これは潮時である。すまないな、ボガート)

 

 強襲部隊の仲間への口惜しさと詫び言を飲み込む。

 肩肘の力を抜いて、手のうちから剣を手放す。

 一騎打ちの作法として幕引きは敗北者が行うもの。

 自らの力不足を認め、潔く手を引かねばならない。

 

「我が生涯、最後の一騎打ち。私の敗北だ!」

 

 だがテーリッヒの声色は図らずも爽やかに響いた。

 ──此度の戦では最初から死を前提で考えていた。

 この城砦への強襲行動の話ではない。元来の特殊任務を負わされたときだ。「テーリッヒの退役を飾る大仕事」とは王国軍のお為ごかしだとは知っていた。あの怪物に、あの黄金(・・)に歯向かうことが如何に愚かなことか。それは歴戦の者ほど肌身で知れることだ。

 計画が変更されたとき、恥も外聞もなく安堵した。

 そのときを考えれば、自分には過ぎた結末である。

 王国最後の騎士として、生涯を飾れるのだから。

 

(ああ、そうだ。まさか最期に思い出すとはな)

 

 遂に、幼女はテーリッヒの場所まで辿り着いた。

 ソルは片手に持つ白刃を向けてくる。

 その姿が父以上に重なる男と──見紛った。

 

「覚えがある……ソルよ、貴様は」

 

 テーリッヒは朧げな記憶の切れ端を思い出した。

 それは帝国との大戦が勃発する以前。テーリッヒが大尉を拝命して日が浅い頃だったか。当時の情勢としてラプテノン王国とビエニス王国──現在では手を組んでいる二ヶ国──が小競り合いをしていた。

 激化の兆候を見て取ったラプテノン軍本部は、テーリッヒを国境付近の城塞に派兵した。彼自身、国を守る騎士の本懐だと張りきっていたことを覚えている。

 そこでは本国軍だけでなく傭兵団も駐在していた。

 彼我の戦力差を鑑み、現場判断で雇ったらしい。

 そこに、奇妙な老人が混じっていたのだ。

 

(その、彼の名自体は……忘れてしまったが)

 

 テーリッヒが見たときは、彼はいつも剣を研いでいるか、剣を振っているかだった。丹念に研いで丹念に振るう。通りすがりの同業者曰く「傭兵団で一番の古株」のようだった。それで益々謎が深まった。

 戦地において老兵の生存率は芳しくない。道具という趣きが強い、傭兵という立場ならば尚更だ。更に言えば、彼は英雄ほど腕が立つわけでもない。

 だからテーリッヒは興味本位で声をかけたのだ。

 

 ──如何にして貴方は生き残ってきたのであるか。

 ──何か秘訣があるのならば参考にしたい。

 

 老人は剣を研ぐ手を止め、こちらを見返してきた。

 テーリッヒはそれだけで気圧されてしまった。

 たじろいでいると、老人はぼそりと呟いた。

 

 ──人は死ぬべきときに死ぬ。

 ──儂には成し遂げるべきことがあるのじゃ。

 ──だからまだ、生きておる。

 

 老人の答えは答えの体を成していなかった。

 期待していた面白いものでもなかった。幾多の死線を潜り抜け、なおも戦場に身を置き続けられる理由ではなく、英雄未満の男が命を長らえてきた要訣ですらなかった。必死に足掻いて生きたことがあるならば、反発心すら生まれるだろう眉唾な運命論である。

 それでも腑に落ちた心地にさせたのは彼の風采だ。

 枯れた髪と皮膚。草臥れた包帯。反吐跡の残る鎧。

 

(これは、額面通りに受け取るべき言葉でない)

 

 老人は無言のまま、テーリッヒにそう悟らせた。

 そんな問答の日の夜半だった。その老人たっての願いで、寂然とした演習場で彼と一戦交えることになった。勝敗の趨勢は終始変わらず、危なげなくテーリッヒが勝利を収めた。ただ内容自体は覚えていない。

 記憶の頁に焼きついたのは、その直後の話である。

 剣を合わせたあとに、ふと訊ねてみたのだ。

 ──貴方の言う、為すべきこととは何であるか。

 すると、彼は「儂には夢がある」と呟いた。

 

 ──儂の夢は、英雄になることじゃ。

 ──この夢を果たすまでは易々とくたばれんわい。

 

 蒼白の光の下、そのとき無邪気な笑みを見た。

 テーリッヒはそれを眩しいと思った。

 いまにして思えば、あれも憧憬に似た感情だった。

 

「何か、あるかのう」

 

 あの老兵と重なる幼女が、逆さまの視界で言った。

 殊勝にも最期の言葉を聞き届けてくれるらしい。

 テーリッヒは咄嗟に「無念」の言葉を飲み込んだ。

 口をついて出たのはひとつの問いかけだった。

 

「貴様の、夢は……何であるか」

「英雄になることじゃ。かの『人類最強』のように」

「……あれを越える、最強になると?」

「それが夢を叶える早道であるならば」

 

 そこでテーリッヒは口元を歪め、瞼を下ろした。

 最期に「天晴れ」と。「あの傭兵によろしく」と。

 あの老人の孫と思しき幼女に、そう称賛を遺した。

 彼女はひとたび困り顔を浮かべたのち、頷いた。

 そうして、剣の切っ先を彼の首筋に振るい──。

 

「『騎士』テーリッヒ・ガルディ。討ち取ったり」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 強襲部隊の首魁のうち一人を仕留めた。

 ソルは途端に腰を抜かすようにして尻餅をついた。

 臀部から平たい痛みが伝わってくる。下敷きにしてしまった髪は床に広がる鮮血に染め直されていく。騎士の血は、歳を感じさせないほど綺麗な色だった。幼女はそれを気にかけず自らの身体を仰向けに倒した。

 のしかかる疲労感に押し潰されるように息を吐く。

 慣れた虚脱感が小さな身体を支配していた。

 血を滴らせる剣にすら異様な重さを覚えてしまう。

 

(やはり……この反動は堪える、のう)

 

 身体の芯から来る脱力に抗えず、緩やかに手放す。

 地面に体重を預けたまま、先の戦闘を回想する。

 

(この身体の慣らしと思えば、首尾は上々じゃった)

 

 彼女にしては優位に戦況を進められた。

 その理由のひとつには、テーリッヒが幼女との戦闘に不慣れだったことが挙げられるだろう。小柄な者相手では立ち回りからして変えねばならない。一度は経験しなければ勝手が掴めない。事実、彼は間合い保持や距離感の見積もりが甘かった。付け入る隙は至る所に散見され、裏を掻くことは難しくなかった。

 八方破れの構えを切り抜けることは容易い。

 

(しかし、此度の勝因の一番は、わしが彼の戦法を熟知しておったゆえじゃ。あれは十数年前、ラプテノン軍と共闘した折に……重装騎士姿で戦場を駆けておった姿が目を惹いて、憧れたのじゃ)

 

 そのときソルは彼を観察して分析を重ねていた。

 戦闘方法もまるで違うが、学べたことは多かった。

 踏み込みの加減。一対多の戦闘での巧みな捌き方。

 当時に習熟したことを思えば、彼は恩師の一人であり、感謝を込めて果たし合う相手と言えた。そして此度の戦闘で学んだのは幼女姿での身体運びと、その効験。老いた身体では実現できなかった立ち回りで、如何に意表を突けるか。実感の伴った知見を得られた。

 今後の糧になるだろう経験を手に、口元が綻ぶ。

 強くなった、またひとつ英雄への階段を登ったと。

 

(しかし、彼がわしのことを覚えとるとはのう。わしからすれば懐かしい恩師じゃが……向こうからすれば幾度か言葉を交わした程度の老人じゃろうて)

 

 最後に振り返るのは、やはり一騎討ちの幕切れだ。

 凡人の粋を越える──雷光の剣閃、疾風の跳躍。

 あれこそは凡才が粒々辛苦の末に編み出した秘術。

 一瞬だけ、英雄ですら追えない速度を出す加速術。

 原理は至って単純だ。体内を循環する魔力(オド)を爆発的に放出し、その推進力をもってして居合に斬るだけである。だが副作用は大きい。先ほどから幼女を襲う虚脱感の原因は、この技の体内魔力消費によるものだ。

 オドは人間の身体能力と生命力に寄与している。

 急に失えば、身体に重大な負荷がかかってしまう。

 

(体内魔力すべてを失えば死ぬ。まあそこまで行かずとも、身体能力を底上げしておる根源を大なり小なり損なうがゆえに相応の身体機能が落ち、疲労、脱力に襲われる。論えば、幾らでも欠点は出てくるのう)

 

 この技の会得には特殊な修練も必要だ。

 体内魔力消費の調整は自然にできるものではなく、自ら塩梅を掴み、状況に応じて微調整せねばならないのである。鍛錬を怠り、加速や着地時に放出する加減を誤れば、余剰分の推進力で壁に叩きつけられるか、地面で身体をやすりがけされるかが落ちだろう。

 経緯はどうあれ、欠点塗れの捨て身技である。

 

(そう言えば……生き方も戦い方も捨て鉢、とは誰に言われた言葉じゃったか。正鵠を得たものよ)

 

 常識的に魔力を推進力として使うならマナである。

 外気の魔力を取り込んで放出するのならば体内魔力減少による危険性はない。幾らでも試行錯誤して感覚を掴んでいける。ゆえに数十年かけて『オドを推進力に変える』大道芸を修練する馬鹿者はそういまい。

 この大馬鹿者(ソル)並の愚者が何人もいては堪らない。

 

(それでも、わざわざオドを利用する意味はある)

 

 大気中に漂う魔力《マナ》と違い、体内で生成する魔力《オド》は()が高いのだ。マナを暴発させても同様のことは可能だが──推進力はオドのそれと比べるべくもない。

 凡庸、凡人と呼ばれた者が持つ、奥の手だ。

 

(わしに二の太刀は要らぬ。それは贅沢品というものじゃ。英雄にわしの剣など通じぬと知っておる)

 

 これが、英雄の座に手を届かせるための方法。

 幾度も死に瀕して、ようやく手にしたものだ。賢しい誰もが理性的に却下した、非効率極まりない技術ではあるが、ただ凡人は嘯くのみである。

 悪足掻きも磨けば立派な技になるのだ、と。

 

(ただ、これでは『人類最強』に通じんかったが)

 

 脳裡に浮かぶのは、老人ソルフォートの最期だ。

 かの黄金の英雄には、命を賭した一撃すら通用しなかった。真っ向からの一騎打ちだったが無慈悲にも斬り伏せられた。あまつさえ──この身体での加減を見誤ったとは言え──テーリッヒにも躱される始末。

 これはあくまで悪足掻きの延長線上にある技術だ。

 使い所を見極めなければ、自滅するだけである。

 

(ともあれ、立ち上がらなければ……!)

 

 片肘を廊下につけ、ふらり体重をかけると。

 

「ぐ……っ」

 

 そのとき排熱中の脳内で火花が散った。

 地べたに落ち、意識の糸は急速に細まっていく。

 五感が紗がかかったような感覚に覆われる。

 

(オドを消費しすぎたか……まずいのう)

 

 頬を抓る。ぷにりと指に返る感触に爪を立てた。

 いま意識を手放せば、東部魔術房が無防備になる。

 ──強襲部隊は、魔術房を同時襲撃している。

 ここに向かう道中で耳にした情報だ。正誤は確約できないが確度自体は高い。この一箇所だけを部隊が狙ったにしては帝国兵の援軍がなかった。帝国兵たちは戦力が分散するほどに手一杯にさせられているのだろう。ならば、誰かこの東部魔術房の守護を引き受けてくれる者が現れるまで守り通さねばならない。

 ソルはちっぽけな拳を力強く床に叩きつける。

 鈍い音と痛みが広がる。だが、それだけだ。

 

「ぬ、ぅ」

 

 意志と相反して、四肢の感覚が剥離していき──。

 幼女は糸が切れた人形のように倒れ伏した。

 東部魔術房へと通じる道では、沈黙が降りる。

 もはや誰一人として動く者はいない。いつの間にか遠くの喧騒も落ち着きを取り戻して、辺りには人間の息吹が絶えたような冷気が漂い始める。城砦の戦況が一転したことを気にかける者もここにはいない。

 室内灯の揺らめきが無人の通路を照らし続ける。

 

 

 

 

 

「なん、だよ。いまの……」

 

 その誰もが倒れ伏した戦場に、声が響く。

 男が蹌踉とした足取りで通路に踏み込んでくる。

 寒気を覚える空間には軍靴が頼りない音を鳴らす。

 その主は情けない顔をした、茶髪の兵士である。

 蒼白の顔色は呆然と固まり、一点を凝視している。

 恐る恐るといった風に血塗れの道を歩いていく。

 騎士の死体を一瞥して、すぐ視線を戻した。

 

「おい、おい……お前」

 

 男は──躊躇いながら幼女の手前で立ち止まる。

 彼は、どさりと手に抱えていた荷物を下ろす。

 ナッド・ハルト。吐き気から立ち直った彼が見下ろすのは、力なく倒れている小さな身体。

 

「お前……本当に何者なんだよ。……くそったれ」

 

 

 


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