修羅幼女の英雄譚   作:嵯峨崎 / 沙城流

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17 『過去との分水嶺1』

 剣、剣、剣──数十もの剣が舞う。

 それらは月光を浴び、流星となって夜を駆ける。

 殺到する場所は、ただ一点。

 湖上に浮かぶクロカゲに目がけて、だ。

 

(凄まじいのう)

 

 ソルは生暖かい唾を嚥下して、蹂躙劇を見守る。

 無数の剣先を前に、クロカゲは避けようとしない。

 一本目が接触した、と同時に光と音の華が咲いた。

 月下に散華した火花とともに、剣の影が舞った。

 クロカゲが己の腕で打ち払ったのだ。いまも二本、三本、四本──と次々飛来する剣の流星を、クロカゲは腕と思しき突起で端から弾き飛ばす。残像が見えるほど迅速に、そして確実に捌いていく。そのたび、火花が上がり、辺りに硬質な音が響き渡る。

 ソルは黙然としながら、息を呑んでいた。

 わずか数秒の戦闘だが、驚嘆に値する。正確性と速度は人間離れしていた。事実、クロカゲは怪物に違いないが、同じく人間離れした存在である英雄でも、果たしてこの領域で戦える者がどれだけいるのか。

 あれは、落ちる雨粒をすべて弾くようなものだ。

 土砂降りの雨を前にしても、クロカゲならば唐傘なしに凌げてしまうだろう。

 

(正面からあの物量を受けて無事。わし程度の人間では、一も二もなく回避を考えるところじゃ。ラムホルト殿の炎塊の雨とは違う。剣は空気抵抗を受けずらい形状ゆえ、まさしく風濤のごとき速度が出ておる)

 

 確かにクロカゲは驚異的な処理速度を見せている。

 だが、着実に限界の際に追いやられているようだ。

 ついぞ、十二本目を捌いたとき、小振りな直剣が腕のわずかな間隙を抜けた。

 その白刃が、クロカゲの胴体を突き破らんとする。

 

「■■■■■■■■」

 

 だが、一撃でクロカゲを砕くには足りない。

 剣は拍子抜けたような音を伴い、あらぬ方向へと回転を帯びて、とぷんと湖に没した。片やクロカゲのつるりとした光沢を放つ表面には、綻びひとつも生まれていない。そもそも、あの怪物は白刃を拳で弾き返している。もしや胴体も同等の硬度なのかもしれない。

 さりとて、クロカゲの劣勢を覆すのは難しい。

 熾烈な弾幕が途切れぬ限り、防戦一方は免れない。

 

(ベクティス殿は剣属性の魔力を持つ。体力が尽きない限り、無尽蔵に剣を生成できる。このまま射撃が続けば、雨垂れが石を穿つようにクロカゲの胴体もいつかは砕けよう。もはや趨勢は決しておる、か)

 

 この場の圧倒的な支配者は、目前の女だった。

 シャイラは、やおら右腕を広げる。

 すると、人体大の白繭が一列、空中に現れた。

 まるで肌の表面を押して肋骨が浮き上がるように。

 すでにそこにあったかのように──須臾に十つ。

 それら繭は蠢き、織り直されては剣を象ってゆく。

 刃先から鋼に変質していき、種類豊かな刃物に変貌する。両手剣、刺突用の片手剣から、演舞用の刃、儀礼剣、騎兵用の槍に似た幅広の剣まで──。

 広げた右腕の先にある手で、緩慢に拳をつくる。

 

「飛、べ」

 

 剣が風に融けて、十七陣目となる死の風が吹く。

 ソルは彼女の圧倒ぶりに思わず後退ってしまった。

 

(これがベクティス殿の本領。わしとの模擬戦や獣の狩猟では拝見できなかった姿。疾く、鋭く、際限なく理不尽を叩きつけ続ける戦闘方法)

 

 怒涛の剣の波。嵐とも呼ぶべき熾烈な猛攻だった。

 最初は迎撃できていたクロカゲも、早期に許容量を超してしまい、見るも無惨な姿に変わってゆく。慇懃に磨き上げられたかのようだった表面は、度重なる刃の波に浸食されていき、漆喰めいた色はずたずたに削られ、見窄らしい廃材の様相を呈してゆく。

 だが、このまま果てるほど獄禍は生半ではない。

 

「■■■■■、■■」

 

 身体は正面を向いたまま、クロカゲは後方に飛ぶ。

 否、高速の平行移動という言葉が正確だ。脚力をバネにした様子もなく、一切の予備動作を匂わせない退却だった。クロカゲの脚が、湖面を割るように轍をつける。それを追うように、無数の剣が月明かりの尾を曳いて宙を流れた。速度は、わずかばかり剣に軍配が上がる。クロカゲは初速を維持できていない。

 獄禍に思考能力が備わっているか定かではないが、クロカゲに一定の思慮が備わっていると仮定する。おそらく彼は、正面突破は分が悪いと見たのだろう。ソルは頷いて、自らが柄を掴んだ剣を見下ろす。

 このまま引き下がるのならば、これの出番はない。

 

「■■■■■■」

 

 向かいの岸まで、あと一秒とかからない。

 風のなか、クロカゲと着実に差を詰める剣の群れ。

 追い縋った切っ先が、彼の全身を捉える直前──。

 忽然と、その姿が掻き消える。

 盛大に湧き立った水柱(・・)によって。

 

(ほう。目眩しか)

 

 餌を求めた群れは、滝のごとき水柱を食い破る。

 勢い余って、対岸の先にある暗い森林に吸い込まれていった。続くのは刺突音と轟音の重奏。大木が薙ぎ倒されたのだろう。月光を浴びていた背の高い影が、一本、二本と闇が溶けた深林に沈んでいった。堪らずといった声を上げて、夜鳥たちが飛び立っていく。

 水柱は重力の理に従い、滝のように流れ落ちる。

 雫に溶けた月光は、数百の破片として砕け散った。

 しかし、肝心のクロカゲの姿は、湖上には影も形も見当たらない。

 

(否、()か)

 

 思い当たったと同時、湖上で水が跳ねる。

 張った膜を突き破るように、黒い塊が飛び出した。

 ソルの場所にまで水飛沫の流れ弾が飛んでくる。手を翳すことでそれを防ぎつつ、得心する。先ほどの猛烈なまでの水柱は、クロカゲの潜水による産物だったのだろう。瞬発的な推測は正鵠を得ていたようだ。

 しかしながら、わずかな違和感を覚えた。

 

(あのクロカゲの体格で、あれほど大規模な……高いというより、広い水柱が立つじゃろうか)

 

 ソルは観察を続けるなか、鼻頭に風を感じた。

 大気に触れたクロカゲが頭を揺らしていた。舞う水滴が月光で灯るなか、円弧を描いて散っていたのは、またしても剣である。視線を走らせると、次なる剣波が押し寄せていた。その源流である『黎明の導翳し』は、一切の感情を見せずに指揮を続行している。

 ソルの喉が鳴る。あの剣の英雄は、寸分の狂いもなく、クロカゲが浮上するであろう位置と頃合を計っていた。その上で、あらかじめ剣を生成して射出していた。ソルの小さな胸を満たしたのは、何も驚愕や恐怖だけでなく、安堵感にも似た、奥まで沈み込む熱。

 これぞ英雄。憧れた御伽話での活躍そのもの──。

 

(いまわしは『黎明の導翳し』の英雄譚の一幕を見ておるのじゃな……模擬戦でわしは恐れ多くも演者として、ここでは観客として居合わせておる。もっとも、舞台劇ではないため、観客側が巻き込まれる可能性もあるが……いやしかし、実に見事。実に胸躍る!)

 

 上気した観客(ソル)に押されるように、敵役(クロカゲ)も力を奮う。

 クロカゲは、二の轍は踏まぬとばかりに加速する。

 向かう先はシャイラ──ではなく、自らの後方。

 剣の衝撃で仰け反ったまま、湖上を自在に滑る。

 先ほどとは異なり、美しい曲線を描いて剣の群れを避ける。速度の加減を調節しながら、時に刃を掻い潜り、時に華麗な反転を決め、正確無比な剣波を乗り越える。さながら嵐の海を渡る、凄腕の船乗りだ。

 ソルは熱量を高くし、柄を強く握り締めていた。

 

(距離を稼いでの大回り。ベクティス殿の力量を測った上で、回避に主眼を置き直したのじゃな。正攻法で分が悪いのなら、真っ向勝負は避ける……当然じゃ)

 

 そして、クロカゲは一向に撤退する素振りがない。

 彼の速度ならば、一目散に湖から退くのは難しいことではないはずなのに。

 

(つまり雌伏(・・)。クロカゲは機を窺っておる)

 

 結論を裏づけるように、クロカゲの滑走は大きな蛇行を繰り返しながら、軌道を変える。雲霞のごとく押し寄せる剣の群れを引き連れながら、こちらへ──シャイラの立つ方向へと滑ってくる。

 機は熟したということだろう。彼は、超人的な速度と体裁きをもってして、シャイラと間合いを詰めて、優勢な流れのままに押し切ろうとするつもりだ。

 クロカゲの取った選択肢は間違っていない。

 クロカゲが途中で動きを止めて(・・・・・・)いなければ(・・・・・)

 

「■■■……! ■■■」

 

 クロカゲからは、呻きのような雑音が漏れた。

 湖面を自在に動き回っていた彼が、即座に止まる。

 まるで、月下の舞台に縛り上げられた糸操人形。

 ソルの想起したその比喩は、的を射ていた。

 

(これは……魔力物質化。不可視の刃じゃ)

 

 見るべきは、中空で藻掻くクロカゲではない。

 ソルの視線が向かった先は、目前にある背中。

 『黎明の導翳し』。シャイラが水平に伸ばした右手には、いつの間にかひと振りの剣が握られていた。剣身は、濡れたようにぬらりと光っている。

 月光の反射ではない。花緑青の燐光を認めた。

 無論、あれは物質に魔力が流れた証──魔力光。

 

(あれは模擬戦でも見た不可視の刃じゃろう。ベクティス殿は、あのとき伸長した剣身を生ぶ刃のようにしておったが……鋭利にしておると、厄介極まりない)

 

 ソルは眉間に皺を寄せ、大きく瞳を張る。

 それでも見えない。不可視の刃の具体的な形状を、この目に認めることができなかった。わかることは、クロカゲの胴体と四肢を絡め取る形状であることだけだ。藻掻けば藻掻くほど、刃が身体を傷つけ、金属音を鳴らしている。呻吟のような音が怪物から漏れる。

 模擬戦の題目のおかげで、ソルに振るわれなかった

 だが、この場において斟酌は加えられない。

 

(人体相手に振るわれればと思うと……脅威じゃ)

 

 縛られたクロカゲに、容赦なく剣の激流が迫る。

 もはや、抵抗も回避もできない。

 

「■■■■■■──!?」

 

 眠る草木を叩き起こす轟音が連なり、響き渡る。

 直撃する剣の群れはすべて、獲物にありつけた喜びに跳ねると、水面に沈んでいく。

 派手な金属音の重奏に、怪物の嘶きも重なる。

 けたたましいそれは、悲鳴にも、己を鼓舞する咆哮にも聞こえた。

 

「■■■■抵■──!」

 

 クロカゲは、空に飛んだ。

 不可視の刃による拘束が解けたのだ。正確には壊れたのだろう。幾十もの剣の衝突で、クロカゲより伸長した刃のほうが耐えきれず、粉々に砕け散ったのだろう。さもありなん。それほどの猛攻だった。

 クロカゲも瓦解寸前だ。飛び上がった衝撃でか、片手が力なく落ちていく。あと一度でも剣の奔流を受ければ、今度こそ身体は千々の欠片に変わるだろう。

 そして、シャイラに容赦や抜け目はない。

 楽団の指揮者のように手指を動かし、上空のクロカゲには、大量の剣を差し向けている。これが躱せなければ、目前の舞台は幕引きということになる。

 

(あれは……口か?)

 

 ソルは視線を、クロカゲの特定箇所に絞る。

 人体における口許にあたる箇所が──人型を成す円盤のうちの二枚が、不揃いの欠片に砕けた。欠片は意思を持ったかのごとく落ちず、細分化されたまま楕円を象った。さながら人の唇だ。そんな直感的な発想が浮かぶも、それにしては大きすぎる。

 ソルは程なくして、ぴったりの比喩を思いつく。

 あれはまるで、城砦に設えられた大口径の砲台(・・)だ。

 

「な」

 

 直感が脳髄に迸る。直後、喉が干上がった。

 ソルの経験が言う。あれは、まずいものだ。

 切り札とは、最後まで隠し通してこそ切り札。

 雌伏のときを過ごしながらも、クロカゲは隠し持っていたのだ。卓を引っ繰り返す、切り札を。終始、劣勢に甘んじていながらも、その瞬間を狙っていた。

 クロカゲは想像以上に知能を持ち合わせている。

 

「ベクティス殿……!」

 

 ソルは回避を進言しようとした。

 あれが大砲ならば、射線上にはソルとシャイラがいることになる。加えて、肌身に感じる怖気が確かならば、放たれるだろう砲撃を受ければ只では済まない。

 しかし、決して忘れてはならないことがある。

 シャイラは、単なる英雄の枠に収まらないのだ。

 

「【そうして私は目を瞑る】」

 

 シャイラの一言は独特な発音を擁していた。

 魔術の詠唱だ。ソルは凝然としながら、聞こえる言葉を耳で必死に拾う。

 

「【千の位階の片翼】【その視座は空にありて】【箱のなかはなか】【そとはそと】【此岸と彼岸めく空想と現実】【憧れの肖像とは交わり合えない】──」

 

 それは、耳馴染みのない節回しだった。

 詠唱は『魔術で如何なる事象を引き起こすか。その想像を固めるためのもの』でしかない。だから本来であれば、詠唱はどんな文面であっても問題ない。当人の想像の補強に役立つのであれば、他人には無意味な語彙のみを使って詠むこともできる。

 だが、一般に浸透した現代魔術の観点からすれば、定型文を用いない詠唱文は珍しい。

 

「■■■■■■──」

 

 詠唱の中途で、雑音塗れの咆哮が引き裂いた。

 そして圧倒的な白が、ソルの網膜を焼いた。

 遂に、クロカゲの口腔から閃光が放たれたのだ。

 熾烈──と、ただその言葉に尽きた。

 迸る烈白の熱線は大気を焼く。音が焦げつき、水は蒸気へと変わる。その勢いたるや、追い込まれ続けたクロカゲの鬱憤を放逸させるがごとし。その進路を何者も阻むことはできない。寄せる剣の大群を飲み込んでゆく。先頭のほうから、熱線の高熱で融けて、光のなかに霞んで消える。抵抗の一切はきっと無駄。

 直撃すれば、英雄とて瞬時に蒸発する一撃だ。

 

(ベクティス殿はこれを正面から受けるのか……!)

 

 接近する白の暴威を前に、詠唱は続けられていた。

 その後ろ姿には、動揺も恐怖も感じられない。

 

「【貴方はさながら世界の聴き人】【空想と現実により螺旋を為す世界、その超克】【それこそが私と貴方の使命と刻め】【ええ、でも私は】」

 

 最後の一節は、酷薄なまでに耳に焼きついた。

 

「【もう夢は見たくない】」

 

 シャイラの目前に、細長の白繭が形作られる。

 魔力放出で剣を紡いだときと同じ現象だった。

 ならば当然、この詠唱で生み出されたのは『剣』。

 あの、奇妙な詠唱でどんな剣が生み出されたのか。

 

(否……剣、なのか?)

 

 白繭は鋼に変じて、具現した剣は目を疑う代物。

 どんな英雄譚にも登場しない魔剣。

 それは、見る者に剣の概念を見失わせた。

 

「『螺旋現実』アンシャート」

 

 それには剣に必要な『刃』が存在しなかった。

 剣士の在り方を落とし込んだような、背筋を伸ばした『剣身』もなく──対峙する者たちの肌を喰い破るような、猛獣の輝きを瞳に灯す『鋒』もない。

 彼女の握る柄から伸びているのは、二枚の鋼鉄だ。

 蒼白を映すこの二枚が螺旋を描いている。糸が絡まり合うかのような、否、正確には、四辺形をした二枚の紙を折り編んだかのような形状だ。その終端は、交差するように二つの角を出していた。

 剣としての枠に当て嵌めるのならば、剣身は二重螺旋の金属板、鋒はその角ということになるのか。

 

(斬るにしては、剣身の縁に一切の鋭利さがない。突くにしても、先端に尖鋭さがない。あれでは、単に板の角が突き出とるに過ぎん。相手をひき潰すことはできるが、理に適った形状ではない)

 

 それに、死の足音はもう目前まで迫っている。

 一刻の猶予どころか、もはや手遅れだった。

 白き閃光は、シャイラの姿を呑み込もうとする。

 真白な光の本流は人体を焼き尽くすに足る威力。

 何も為せぬまま、シャイラは光のなかに──。

 

(くだ)れ螺旋」

 

 観察する限り、シャイラは何もしなかったはずだ。

 ただ、奇妙な剣を腰溜めに構えていただけ。

 ただ、それだけで、熱線は四散五裂する(・・・・・・)

 人体を溶解せしめる熱は、闇に融けて消えてゆく。

 白い閃光はシャイラを避けるように、捩れた縄が解けてゆくようにして、左右に流れてゆく。白が黒に飲まれる只中にあって、シャイラはただ立っていた。

 閃光が途切れると、彼女は悠然と歩き始める。

 紫紺の髪は、仄かな燐光を翳すように踊る。脚は、降り注いだ光を蹴散らす。さながら星の海、その浅瀬を渡るかのようだった。

 

「■■■! ■不■■て■■■!」

 

 捕食者を前にすれば、矮小な被食者は慄く他ない。

 シャイラが距離を詰め始めると、クロカゲは一気に距離を離さんとする。平行移動で湖の対岸まで戻り、体勢を立て直すつもりか。否、クロカゲに戦闘続行は厳しい。腰回りの円盤が落下しており、崩壊は間近に迫っている。今度こそ逃走を図るのだろう。

 背後に移動──するかに、思われたとき。

 

(のぼ)れ螺旋」

 

 クロカゲは移動しながら、痙攣し出した。

 震えが頂点に達したとき、胴体から剣が生えた(・・・・・)

 急速に育った植物が土を割って、顔を出すように。

 一本、二本、三本……刃がクロカゲに茂っていく。

 白刃たちは月光に煌めき、黒い破片が飛び散った。

 

「なっ……!?」

 

 クロカゲは最大限の足掻きを見せる。

 再度、砲口を開いて、苦し紛れに奔らせる白光。

 だが、閃光は一陣の剣の風を薙ぎ払うに留まった。

 シャイラに迫った途端、再び光は霧散した。

 

(これは……何が、起こっておるのじゃ……)

 

 ソルは、そんな光景に目が釘づけになる。

 あり得ない。魔力の出力先がクロカゲ内部に設定しているとしか思えない光景だった。魔力の出力先にできる有効範囲は、術者本人を中心にした範囲で、術者本人の力量や特質によって広狭は変わるが、原則として他人の魔力(・・・・・)が存在する(・・・・・)位置を出力先(・・・・・・)にできない(・・・・・)

 生物には、多かれ少なかれ体内魔力が巡っている。

 つまり、他者の身体内部に己の魔力を現出させることは常識的にはあり得ないのだ。

 

(それを実現させておるのが、つまり……)

 

 あの奇天烈な形状をした魔剣の力、なのだろう。

 以前、酒場で聞いた元傭兵の言葉が脳裏に蘇る。

 

『なあ、爺さん。人が肉塊になる瞬間を見たことあるか? 剣刃の針鼠になった旧友は? いつの間にか腕に得体の知れねぇ刺傷があった経験は? 思い出すだけで震えが止まらなくなる経験は? 俺ぁさ、目ぇ閉じるたびに瞼裏にさあ、あんときの赤が、あんときの光が、ずっとこびりついて離れねぇんだよぉ』

 

 彼の経験談の一部は、この不可解な現象を語っていたのかもしれない。

 

(それを為したのは、定型文のない詠唱で生み出した魔剣『螺旋現実』。唯一の剣属性ゆえに、定型が存在しないため、独学の詠唱になっておるのかもしれぬ)

 

 ソルは詠唱文の点から解釈を行う。

 現代魔術師の詠唱には定型文を用いる。

 定型文は、魔術の一般化に必要なものだ。学舎などで大人数に魔術を教える場合、一人ひとりが自分に合った詠唱を考えるのは非効率的だ。間口を広げるためには、魔術で起こす事象、その想像を万人が共有できる詠唱文を構築せねばならないわけである。

 そのため、詠唱文は大陸神話を下地にしている。 

 これが定型文と呼ばれる。土属性の魔術ならば、土神アニマに纏わる単語を挿入し、炎属性ならば、炎神ウーズに纏わる単語を挿入する。子どもの頃、眠りに落ちるまで聴かされた神話は、大陸で生きる人間にとって、想像力の補強にうってつけなのだ。

 そうこうソルが思考の海に潜っていると、気づく。

 視界の端に、不自然に伸びる影があった。

 

(新手か)

 

 ソルは脊髄反射的に飛び退いて、状況を俯瞰する。

 ソルとシャイラの立つなだらかな丘は、正面に湖が広がり、左右には木立が並んでいる。新来の敵は、左方の林から攻撃を仕掛けてきた。ソルが剣を抜いて身構えたときには、すっと二本の影が伸びてきていた。

 ひとつの影は、黒い槍としてシャイラに迫る。

 そしてふたつ目は、黒い鞭としてソルを狙う。

 同時多発的な攻撃。仕掛ける時期も実に効果的と言える。ちょうどシャイラは湖上のクロカゲに意識が向いている。ずっと好機を窺っていたのだろう。

 クロカゲは想像以上の知能を持ち合わせている。

 

「ベクティス殿! 攻撃が西から来ております!」

「?」

 

 せめて伝えるだけ伝えて、対処を行う。

 ソルは唇を窄めて息を吐き出す。肺を慎重に萎ませるような呼吸。そうやって頭に空気を回すことで、思考に帯びた温度を冷ます。瞬時に判断を下すなら、脳内に熱は残っていないほうが望ましい。

 鞭の軌道は目で追える。シャイラとクロカゲの高速戦闘で、目を慣らしたおかげだろう。冷静に観察すれば、直撃を避けることも不可能ではないと判断した。

 蛇のような軌道を見切り、身体を──。

 

「なッ!」

 

 確かに目で追っていた黒鞭が、分裂した。

 しなるようにブレて見える。鞭という武器は瞬発的な速度が売りだ。ならば、速度が視認できる範疇を越えたため、視界に残像として残しているだけなのか。

 否、その推測は誤りだ。鞭はすべて軌跡が違っており、明らかに実体がある。事実、鞭が五本に数を増やしているのだ。軌道を読むのは即座に諦めた。

 全く挙動の異なる鞭。三本までなら読み通せたかもしれないが、五本は限界を越えている。

 ソルが対応方針を固めかけた、その一瞬。

 

「心配ない、です」

 

 刹那の間に落ちた一言が、すべてを杞憂に変える。

 

「もう、終わっています(・・・・・・・)

 

 シャイラはまたしても何もしなかった。

 至近に迫った黒槍は、先端から分解されてゆく。

 さながら空気に溶かされるような光景だった。

 同時に、ソルに向けられた黒鞭が痙攣を始める。

 空中でうねる五本の鞭から、幾十もの剣が生えた。

 苦しむように、のたうつ鞭が轟音を鳴らす。

 

「■■■■■──あが■」

 

 だが、ものの数秒で力を失った。

 地面にへばりついて、死んだように動かなくなる。

 ソルの耳がぴくりと動く。黒鞭が萎れる寸前、黒槍と黒鞭が繰り出された根本にあたる左方で、ぱきりと硬質な破壊音が響いたのだ。同時に断末魔と思しき雑音が放たれたあと、辺りは静寂に包まれる。

 ソルは、摺り足で左方の深林に近づいた。

 林のなかを覗き見る。そこには黒い円盤を重ねた人影の残骸が転がっていた。子どもが投げて壊した玩具の部品のような有様で、白刃が幾本も生えている。かろうじて形状を残してはいるものの、もう動かないだろう──伏兵だったクロカゲの事切れた姿だった。

 こうして、月下の蹂躙劇は幕を降ろした。

 圧倒的な力量差を示し、主演が舞台で佇んでいる。

 ソルの口から、ようやく感嘆の声が漏れる。

 

(これこそが『黎明の導翳し』)

 

 ソルとの模擬戦で見せた戦闘なぞ、シャイラの本領の一割にも満たない。瀑布のごとき物量。風濤のような速度。一切の手間をかけず、状況に応じた魔剣を生成できる応用力。視界外も十全に把握する洞察力。

 彼女にとって、クロカゲという獄禍は十把一絡げの巻藁のようなもの。それこそ五十に及ぶ数を相手取ったとて、なるほど傷ひとつもつかないはずだ。

 改めて思う。これこそが大英雄。

 下層から努力で這い上がり、いまや空に昇る者。

 憧れ焦がれる、ソルの目指す頂に近しい存在。

 

「ソルフォ■■■■■」

 

 耳喧しい雑音を他所に、熱視線をシャイラに送る。

 御伽噺の主役を称えたい。英雄狂いの血は騒ぎに騒いでいた。演劇好きが、終演後に舞台俳優に駆け寄りたいと思うようなものだ。目前で、御伽噺の一頁が実演されたのだ。内心の熱狂ぶりは天井知らず。

 だが、そんななか緩慢に理解が追いついてきた。

 

「待て……いま、なんと言った」

 

 到底、看過できない言葉が聞こえた気がした。

 死に瀕した怪物の放つ、途切れがちなうわ言。

 その、雑音塗れの鳴き声のなかに、ソルにとって耳馴染みのある声が紛れていたような──。

 なぜか、過去に対面した女の言葉が脳裏をよぎる。

 ハキム同様、傭兵時代を歩んだ幼馴染のもう一人。

 

『それ、よくも飽きないものですね』

『ハハ、私たちはいつまでも運命の奴隷人生ですよ』

『夢なんてですね、才能がある連中しか持っちゃ駄目なんですよ。叶う保証がないものを持たされて右往左往、右往左往。あー堪ったモンじゃない』

『でも……アンタは絶対に諦めないでくださいね』

『アンタが英雄を目指すことが、私の夢』

『アンタの夢を叶える剣は、私が打ちますよ』

 

 ソルは、知らず知らずのうちに構えを解いていた。

 視線の先は、湖面に漂うクロカゲの残骸。

 あのうわ言は、確かにクロカゲから発された。

 かすかな、雑音に満ちた声に、必死で耳を傾ける。

 それはたとえるなら、曖昧な時間の形を掴まえんとするようなものだった。あるはずのない、形ないものを手繰り寄せようとするようなものだった。

 無価値で愚かな行為だ。単なる錯覚にすぎない。

 ソルの理性を司る部分は、そう断じた。

 

(ハキム。貴様)

 

 ──ああ、錯覚ならどれだけよかっただろう。

 

あの嘘つきめが(・・・・・・・)

 

 

「見つけ■■■よ。ソルフォート」

「メイ」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 一方、シャイラは安堵を噛み締めていた。

 戦闘中に取り巻いていた剣はすでに消えている。

 『螺旋現実』も同様に、手のうちから散じていた。

 見下ろすのは、湖上に無惨な姿で浮かぶクロカゲ。

 

(嫌に手こずりました。いままでに出逢ったどの個体よりも強敵で……クロカゲも、本腰を入れて討伐隊と事を構えるつもりなのでしょうか……)

 

 シャイラは、黒い残骸から目を逸らせないでいた。

 死体を見物する趣味はないが、惹かれてしまう。

 そう、死体だ。シャイラはクロカゲを見て死体だと感じていた。無論、獄禍は人に化けている怪物。生物の枠組みに入るため、死体という認識は正しい。

 だが、彼女の感想はそんな原義的なことではない。

 身内の死のみが、少なからず関係性を築いた相手の死のみが実感を伴う永訣であるように、シャイラはクロカゲの残骸に死臭を感じ得たのだ。つまり不思議なことだが、クロカゲに親しみを覚えていたのだ。

 胸中には、拭いきれない蟠りがこびりついている。

 

(どうしてでしょう。何百体も壊してきたから?)

 

 人間の死体にも獄禍の死体にも、思い入れはない。

 だが、クロカゲの残骸にだけには──。

 

(本当、どうかしています)

 

 緩く首を振って、感傷に区切りをつけた。

 ともあれ、クロカゲは無事に撃退したわけだ。

 ソルも無事である。ハキムの指示通りクロカゲ戦はシャイラが全面的に引き受けている。違背すべからざる彼の命を遵守した上で、彼の大切な、本当の家族を守れたのだ。その事実が欣快に堪えなかった。

 シャイラは湖に背を向けて、幼女の元に戻る。

 

(次……早く集落に戻りますか。クロカゲの襲撃は私たちだけ、とも思えません。ハキムさんが今夜中の襲撃を警戒してくれていたおかげで、寝込みを襲われたりは……しないでしょうけれど)

 

 クロカゲの襲撃、それ自体は予測されていた。

 かるがゆえに、クロカゲの魔の手が討伐隊のほうへ伸びていたとして、対応はできているはずだ。

 

「ベクティス殿」

「は、はい? どうか……しましたか?」

 

 幼女の双眸が、月光を浴びて金色に輝いていた。

 雪白の髪は、毛先が微風に揺れている。

 丘の上方に立っているため、シャイラが屈まなくとも目線を対等な位置で交わすことができた。

 

「ハキムに会うたら伝えておいてくれませんか」

 

 穢れない髪。真摯な面構え。引き締めた口許。

 まっすぐな性根が現れた姿は、自分の過去とは重ならず、やはりアルカディーナの御姿に似ている。

 

「ふたつほど……『借りは帳消しでよいな?』と」

「え、えと。あの……?」

「『貴様も呆れるほど変わっとらん』と。頼みます」

 

 シャイラは疑問符を浮かべながらソルに近寄る。

 淡々と告げられる言伝の意図がわからなかった。

 ただ、茨めいた厭わしい不安感が首に纏わりつく。

 

「ソル、ちゃん? その、伝言……」

「必ず伝えておいてほしいのですじゃ」

 

 どういうことか、という問いは口内で溶けた。

 シャイラの立つ脇を、幼女が歩いて通る。

 引き止めようと伸ばした指が途中で止まる。おずおずと引っ込めた。敵意のない唐突な行動に、どうしていいのかわからず見送る。杞憂かもしれないのに、不吉な予感だけを根拠に呼び止めていいのかどうか。

 交錯する、ほんの一瞬──時間は粘性を帯び、追い抜く幼女の後ろ髪が視界を横切った──。

 ソルの小さな背中は、湖畔の縁に近寄っていく。

 

「え、ソルちゃ……だめ、ですよ……!?」

 

 制止の声が出たのは決定的な瞬間を迎えたあとだ。

 シャイラは当然だが、ソルも勘づいていたはずだ。

 水中に(・・・)何か(・・)が潜んでい(・・・・・)ることに(・・・・)

 

(クロカゲが湖面を逃げ回り、身を隠すために水柱を立てたとき、明らかに水柱の勢いが変でした。まるで、下から意図的に(・・・・)吹き上げた(・・・・・)みたいに(・・・・)

 

 ソルが近づいた途端、湖面が膨らんだ。

 水を分けて出現したのは黒色の球体だった。

 おそらくはクロカゲと同系統の獄禍だ。形状が特徴的だ。黒い円盤が何層にも重なって、球形を象っている。クロカゲには個体差はあるが、完全な球体の個体は見たことがない。直径は湖面の三分の一を占める。

 その天頂は、見上げねば視界に収まらない。

 

「迎え■きた■。■ルフォー■」

「っ……! ソルちゃん、どいてくだ……!」

 

 シャイラが剣を生成、射出──する前に。

 

「ベクティス殿は集落に戻られよ」

「え……!?」

 

 白尾を跳ねさせて、ソルが振り向いた。

 そのときの表情はぎこちなかった。

 眦は半端に曲線になっておらず、眉尻は下がりきらず、かといって口角は中途から上がっていない。

 まるで慣れていない、人を安心させようとする笑顔だった。

 

「わしは大丈夫。すぐに戻りますのじゃ」

 

 背後の黒い球形の表面に亀裂が入り、裂ける。

 巨大な口のようだと思ったのも束の間、ソルは蒼白い光を受けながら、背中から口のなかに飛び込んだ。

 

「な、え……あ……?」

 

 シャイラは目を剥いた。

 決定的だった。ソルは自らの意思で(・・・・・・)飛び込んだ。

 愕然として棒立ちになってしまう。どうしていいのかがわからなかった。彼女に思惑があるなら、果たして横槍を入れていいのだろうか。

 その逡巡の間に、ばぐんと口が閉じてしまった。

 穢れのない白髪も、月光色の素肌も、すべて黒球に覆われて見えなくなると──球体は湖に沈んだ。

 

「何が……起き、て?」

 

 歩き出そうとして、脚が縺れ、片膝をつく。

 身体的な異常はない。混乱、ただ混乱していた。

 

(待って、待ってください。ソルちゃんには何かの思惑があったんですよね? それで、あの獄禍に飛び込んで……ですが『すぐに戻る』って……)

 

 最後のソルの表情が眼底に焼きついていた。

 不器用な笑顔。彼女は信用に足る人物だとは思う。

 だが、彼女は突飛な行動を取ることがある。模擬戦の事例を例証にすれば、命綱なしに崖から飛び降りる真似をする可能性が捨てられない。信頼ができない。

 結果的に、自死となったとしても不思議ではない。

 胸部が拍動する。痛覚に訴えかけてくる。

 現実が、内側から溢れる()を借りて、胸倉を掴んで責め立ててくるようだった。

 

『またお前は繰り返したんですね』

「あ……」

『あの男の唯一の家族を見殺しにした』

「あ、ああ……」

 

 シャイラはただ呆然と、その場に立ち尽す。

 そうだ、またこの手は何も掴めなかった。

 要らないものばかりが纏わりついて、本当に守りたいものには置いていかれてしまう。最初から、英雄としての栄達を求めていなかった。割れんばかりの喝采が欲しいわけではなかった。ただシャイラは──。

 両手を顔に押し当て、ひとりごちる。

 

アンシャート(・・・・・・)。私は、どうすればい、い」

『シャイラ。お前は相変わらずですね』

 

 独り言のはずが、返答があった。

 声は、いつもシャイラの内側から発されるもの。

 酒気の力を借りて抑えつけていた()だった。

 

『普段は私の言葉に聞く耳を持たないくせ、こんなときには頼る。判断を委ねる。恥ずかしいとは思わないのでしょうか? いつまで経ってもお前は子ども。忠告を無視しては、痛い目を見て泣きついて……』

「ごめんな、さ……い」

『何度、お前のそれを聞いたかわかりません』

 

 心底呆れ果てたような声音に、本能的な恐怖が掻き立てられる。

 

『お前がやるべきことは、すでに言われていますが』

 

 そうやって、声はソルの台詞を繰り返した。

 ベクティス殿は集落に戻られよ──と。

 討伐隊の拠点に戻る。この選択肢は間違いない。

 幼女があのまま咀嚼されて肉塊に変わっている場合でも、幼女には思惑があり、身の心配が不要だった場合でも、取るべき行動だろう。まずハキムに報告した上で、今後の対応を協議する必要がある。帝国側の隊員にも動揺はあるだろうし、士気にもかかわる。

 それに現在、湖同様に拠点が襲撃されているかもしれず、であれば皆、援護を欲していることだろう。

 

『一般論を述べましたが、知っていますよ。お前の魂胆は。お前、これを承知した上で(・・・・・・・・・)訊いたでしょう』

 

 声は、半ば最終的な決断を見透かしたようだった。

 

『承知した上で……現実を私に語らせた上で、お前は反しようとしている。私を頼るときはいつもそうですね。もっとも、お前の行動原理通りですが──』

「ごめんな、さ……い」

『実にお前らしい強情さですよ』

 

 シャイラは立ち上がって、己の呼気を意識する。

 遅きに失したとは言え、まだ取り返せる段階だ。

 ソルの思惑とは異なるのだろうが、無謀としか感じられない行動を見過ごせるわけがない。

 

『何より家族が大事なお前は、ハキムの家族を連れ戻す。最悪、家族の骨だけでも持って帰る、のですね』

「はい。まだ、遅く──ありませんよね」

『首肯しましょう。あの小さな身体が、獄禍の体内で消化されるまでには間に合うでしょうね』

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

「げほっ……ごはあ……っ!」

 

 シャイラは咳き込んで、口内から水を吐き出す。

 川縁に手をつく。息が乱れ、肩が上下する。

 腕に力を入れ、川中から脱する。着の身着のまま水中に入ったためか、身体が重い。濡れた長髪を引きずりながら、ようやく地上に足をつけた。

 軽量とは言え、鎧を纏いながらの水泳は堪える。

 全身に倦怠感が満ち、いまにも足を止めたくなる。

 

(一応、軍服と腰差しの剣は置いてきましたが……)

 

 シャイラが最後に選んだのは、か細い糸。

 拠点に背を向け、湖に沈んだ黒球を追った。

 どうにもあの獄禍は、どこかに向かっていった。

 湖から伸びる川は、ここ一帯に枝葉のように広がっている。もしかすると、クロカゲたちは水中を通路として使っているのかもしれない。地上は地形と森林が邪魔であり、水中を進んだほうが移動しやすい。そんな新情報を見出せたのは重畳だった。

 シャイラは黒球を追い、ここに辿り着いた。

 しかし、まんまと誘き出されたのだと自覚する。

 

(あの獄禍。本当に、最悪ですね)

 

 シャイラは空を仰ぐ。

 そこには濃紺の夜天も、散らばる星々もない。

 川縁にあるはずの木立も、薄靄の向こう側だ。

 一面が白の膜がかかった世界に、彼女はいた。

 

「霧──」

 

 深い霧が緞帳のように、己と周囲を隔てていた。

 決して自然現象ではない。シャイラは胸を抑える。

 押し寄せるこの重圧、この閉塞感、この息苦しさ。

 高濃度の魔力に近寄ったとき特有の感覚だった。

 予感に焙られて、意識が過熱する。

 シャイラは視線を尖らせて、口のなかで呟く。

 

「……ファニマール」

 


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