修羅幼女の英雄譚   作:嵯峨崎 / 沙城流

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16 『黎明の導翳し』

「あらナッド。せっかく回収しに来てあげたけれど、貴方の寝床もそこでよさそうね。馬小屋がよく似合っているわ。朝餉も藁に変えてあげましょうか?」

「馬鹿。さっさと戻れ。俺は別に酒でぶっ倒れてたわけじゃないからな。ひとりでも戻れる」

「そう」

 

 ナッドは嘆息混じりに言って、卓上の蝋燭を消す。

 仄かな光が、蜘蛛の子を散らすように部屋の四隅から逃げていった。それを見届けて、ナッドは節々の痛みをほぐしながら、あばら家の敷地を跨いだ。

 外気は涼やかだった。いつの間にか夜闇はその濃度を増しており、空の月は凍っているように蒼白い。日中の熱気もどこへやら、思わず両脇に手を差し込む。

 賑々しい雰囲気は、すっかりなりをひそめていた。

 集落に灯っていた篝火はほぼ消えている。就寝時間を迎えたためだろう。集落の内外を隔てる壁際に点々と並んだものだけが、相変わらず燃え続けていた。

 さて、あの皮肉屋はどこかと視線を彷徨わせる。

 

「よかった、それなら貴方ひとりで帰りなさい。はいさよなら──とはいかないのよ、残念だけれど。私は帝国小隊の副官だから責任を追及されてしまうのよ」

「何かあったのか?」

 

 マジェーレは、あばら家の壁に背中を預けていた。

 腕組みした彼女は、横顔でじろりと見返してくる。

 

「ハキム・ムンダノーヴォ御大将様による、直々の命よ。今夜の単独行動は厳禁。厠にも複数人で向かうように、とね。あと門衛当番がピリついていたわ」

「今夜に何かある……ってことだろうが」

「断言はできないわね。確かな情報はないし」

「ムンダノーヴォから事情は聞いてないのか?」

 

 力なく首を振る仕草に、肩を落として応じる。

 警戒心を煽る指示をしておいて、その所以を告げない理由がわからない。数日過ごして度々思うが、あの老爺の思考の筋は全く読めない。ナッドは正面きって対峙したことはないが、彼の、古井戸の水面のような瞳は、推察を拒むほど淀んでいるように見える。

 マジェーレは眦に墨色の目を寄せて「それはそうと貴方」と、あばら屋に視線を注ぐ。

 

「こんな小屋で何していたの? 貴方の前にイルル・ストレーズが飛び出してきたのは見たわ。頭がお花畑だから、宴会の彩りにはちょうどよさそうだけれど」

「ああ、まあな。ただ別に宴会してたわけじゃない。少尉たっての希望でな、そのデュナム人と一緒に魔術講座を一席ぶってたんだよ。講師役が俺とあのデュナム人で、生徒役が少尉でな」

「ふうん」

「興味を失う速度が速すぎるだろ」

 

 墨色の髪を乱して、虱を潰し出したマジェーレ。

 ナッドの額に血管が薄すら浮いた。

 

「別に興味をなくしたわけじゃないわ。あ、そういえば私、あの子が魔術を使ったところを見たことない」

「ほとんど使えないんだよ。俺も、さっきの魔術講座で初めてわかったことだけどな。少尉は風属性の魔力を持っているんだが、大気のマナを取り込むことが苦手みたいで、初級魔術すら使えない状態だ。何でか知らないが体内魔力の扱いはこなれていて、マナ結晶の魔力を魔導具に注ぐこともできたんだが……」

「へえ、才能がなかったのね、残念」

 

 マジェーレは眉ひとつ動かさず言いきった。

 唾を飲み込む。心臓を鷲掴まれた心地になる。

 これはナッドにも身に覚えがあるからだ。才能がないことに気づいた瞬間の失望。脳裏をよぎるのは──硝子から差す斜光、並んだ兄弟姉妹、父親の瞳、妹の憂いもなく喜ぶ姿。そんな過去の古傷がじくじくと痛む。たとえ自分に向けられていなくても、非才という現実を突きつけられる光景は正視にたえない。

 ──でも、才能か。俺がずっと恨んだもの。

 

「まあ、なくてもいいんじゃないか」

「無責任な返答ね。現代の戦闘は魔術師でなくとも魔術を使うのよ? 使えないことで負う不利は、言葉以上に大きいわ。常時、他の人より切れる手札が一枚以上少ないということよ。これはあの子の天井を決めかねない。あの子も結局、すぐに用済みになるわ」

「……道理だとは思うけどさ」

「何? 変な目で見ないでくれる?」

「お前、少尉のことをそんなに心配してるのか」

 

 は? と言いたげにマジェーレは顔を歪める。

 

「いや、何でもない。忘れてくれ……とにかく、お前の言ってることは間違いないと思う。俺も何も知らねえ素人じゃないからな。わかっているが、でも少尉に限っては……なくてもいいって思うんだよ」

「それは、どうして?」

 

 純然な問いが、周囲に降りた宵闇に溶ける。

 そこには嫌味も皮肉もなく、さながら幼子が大人に訊くような響きがあった。

 

(マジェーレ?)

 

 顔色を窺うが、彼女の面差しは真剣そのものだ。

 ナッドは戸惑いつつも夜空を見上げて、そこに少尉の姿を思い描いた。

 

「魔術が使えなくたって他で補える。それは少尉の目指しているものに直結はしていないからだが……そうでなくてもさ──たとえ才能がなくても目指すことはできるんだって、俺は教えられたようなもんだから」

「目指すだけで叶えられなくてもいいの?」

「全然いいわけじゃないだろうけど」

 

 焦点を合わせた星が、ひとたび瞬いた。

 

「少尉は、夢を目指していくのも夢のうちなんだよ」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 雲もない真夜中、蒼褪めた月は水面に浮かぶ。

 シャイラ・ベクティスはそのことを知っている。寝つきの悪い彼女は、こっそり寝床から抜け出して夜な夜な湖畔に足を運んでいるからだ。手近な集落の壁を飛び越えて、鈴虫の調べに導かれるように獣道を歩けば、普段は水場として活用しているそこに着く。

 お気に入りは、小高い丘のように隆起した場所だ。

 広い湖を一望できるそこで、大木に背中を預ける。

 そして、ぼうと水面を眺めることが日課だった。

 

(夜は、やることもないですからね)

 

 獄禍討伐隊は日中に活動する。夜間は、役職持ちや備品管理を担う人々が走り回る場合もあるものの、それ以外の隊員は早々に褥につく。ハキムの言を引用すれば「十分な休息あってこその万全」とのこと。さらに続けて「逸る気を抑えられんのは、戦の前から戦に飲み込まれとる小童だ」とまで言っていた。

 このハキムの考えが、夜間活動を行わない理由だ。

 シャイラの実力が卓抜していれど、単独で獄禍討伐に赴かないのもそうだ。

 

(私は別に……どちらでもいいのですけれど)

 

 ここは、シャイラにとって居心地がよかった。

 月明かりも水辺の湿気も、好むところだった。

 小綺麗で広々とした空間と、埃っぽくて狭い空間が苦手な彼女の、絶妙な需要を満たしている。自国の城内にも存在しない好条件が奇跡的に揃っているため、夜間の大半をここで過ごしていた。四大将としての品格を求められず、落ち着ける空間は貴重なのだ。

 シャイラがひたすら瞳に閉じ込めるのは──時折、波間に揺らいで崩れる、顔色の悪い月。そうしているだけで心が安らぐ。彼女にも理由はわからないが、胸底に溜まる澱んだ感情が撹拌されるようだった。

 穏やかな胸中に浮かぶのは、昨日からの出来事。

 

(ソルちゃん……)

 

 恩人であるハキムの孫と交流した時間を振り返る。

 

(全然上手く喋れませんでした──)

 

 顔を覆い、悶える。

 今夜のひとり反省会の議題は難渋極まっていた。

 だから、早々に腰元から水筒を取り出した。

 中には琥珀色の液体が満たされており、水面に月が浮かんでいる。昨晩に尽きた酒は、集落の酒蔵から補充していた。ただ、補充できるのは今日が最後となるだろう。元々シャイラが秘密裏に発見し、いままで占有していた酒蔵だったが、今夕、他の討伐隊員に見つかってしまい、宴会に使われてしまったのだ。

 だから一滴一滴、大事に呑まねばならない──。

 

(でも)

 

 わかっていながら、水筒の傾斜を強くする。

 

(遠慮してはお酒に申し訳ないです)

 

 酒気が身体を巡ってくると、浴びるように呑むのが礼儀という気がしてくる。舌を湿らせるだけの飲酒などと、そんな軟派な真似はできない。そもそも、日中に溜まった鬱屈を発散せんがために呑んでいるのだ。

 その発散行為に自制をかけて、満足に酔えないのでは、本末転倒に他ならないではないか。

 

「深酒は身体に毒ですのじゃ」

「っ~~~~~~~!」

 

 悲鳴を押し殺して、視線を上げる。

 そこには、湖を背景に佇んでいる──白い女。

 月光を浴びて、なお際立つ白。それは老衰したものではなく、艶を保った雪白の髪。立ち昇る雰囲気は清く儚げ。その印象に孔を穿つのは、黄金の双眸だ。意志という鋼鉄を融かして、固めたような光を放っている。そんな彼女の立ち姿から、現在のビエニスを統べる女を想起してしまって、息が止まった。

 シャイラは瞬きして、それが幼女だと認識する。

 

「ベクティス殿。お休み中に失礼いたすのじゃ」

「……え、あ、はい! いつ、いつから……?」

「つい半刻前ですのじゃ。大事な瞑想を邪魔してはならぬと、僭越ながら機会を窺わせていただいておりましたのじゃ。酒を嗜まれ出しましたので」

「あ……ああー」

 

 随分、長いこと待っていたらしい。

 ソルは感嘆したように幾度も頷いていた。

 

「その集中力、見習わせていただきます。わしが近寄れど気取らぬほどとは感服いたします」

「あの、その。です、ね」

 

 ソルが目を輝かせてシャイラを持ち上げるが、当の本人は曖昧に笑って流す。

 

(夢中でお酒を飲んでいた、なんて言えません……)

 

 熱の籠もった視線は痛みを与えてくるほどだった。

 いたたまれず、シャイラはソルに来意を尋ねた。

 夜中、集落から離れた湖に来る理由はないはずだったが──ならば、と視線が鋭くする。

 

「集落で何か……起きて、その連絡と、か……?」

「いえ、集落は平穏そのものでしたのう」

「あ、そ、そうですか」

 

 思いきりあてを外して、面映くて仕方なくなった。

 早目に話題を流そうと続けざまに推測を口にする。

 

「あのその、えと、では、水浴び……ですか?」

「いえ、すでに汗は流しております。わしはベクティス殿にお会いしたい一念で参じましたのじゃ」

「お会いしたい一念……」

「ですのじゃ」

「ハキムさんに言われて、ですか」

 

 人物名を挙げると、如実な反応が返ってきた。

 幼女は表情を引き締める。しかし、罰の悪そうな顔を隠しきれてはいなかった。シャイラは少なからず覚えた落胆を紛らわすため、緩慢に深呼吸する。

 ハキムの遠回しな親切心を邪険に扱いたくはない。

 だが、てっきりソル自身の意思で、わざわざシャイラを探しに来たのかと思ってしまったから。そんな勘違いをしたことに、自己嫌悪が止まらなかった。

 この頃にはすっかり酔いも冷めていた。

 

「いま言うと、まるで言い訳のようになってしまいますが、あの爺……ちゃんに頼まれずとも、ベクティス殿とは親睦を深めたく思っておりましたのじゃ」

 

 気を遣わせている──こんな小さい女の子に──。

 シャイラの自尊心は傷だらけだった。

 だが、シャイラは曖昧な笑みを浮かべる。

 

(ソルちゃんの厚意は甘んじて受けましょう。このまま帰してしまうのも申し訳ないですし……また会ったときに気まずいですし……ハキムさんも私なんかを慮って、ソルちゃんを差し向けたのでしょうし……ね)

 

 ソルは一礼すると、隣に胡座を組んで座った。

 さて、どの話題で親睦を深めるつもりだろうか。

 不安が六割、期待が四割の心持ちで言葉を待った。

 

「えっと」

 

 気詰まりな沈黙が唐突に訪れ、ただ、戸惑った。

 シャイラは視線を湖に逃がす。湖面の静けさとは対照的な心臓の脈動で、自分の緊張が浮き彫りになっている。嫌な汗が背筋をそろそろと這う。話をしにきたという当人が、一向に口火を切ろうとしていない。

 強烈な既視感を覚えた。理解は予感を伴っていた。

 まさか、と悪寒が走る。

 

(また……? もしかして、またお姉さんの私から話を振らないとなんですか……? だとしたら、あ、ああ、安易に引き受けてしまいました……)

 

 脳裏には、昨日の夕間暮れの交流がよぎっていた。

 再び、シャイラの前に困難が立ちはだかる。

 もはや手札は使い切っているというのに──。

 

(よ、夜に天気の話題は使えないですよ……)

 

 会話の種など易々と浮かばない。

 浮かぶような人間性であれば、夜半にひとりぼっちで湖に来やしないのだ。

 だが、下駄を預けられては腹を括るしかない。

 誰の意にも染まぬ沈黙のなかに、身を浸し続けられるほどシャイラの心は強くないのだ。ゆえに、会話の糸口になり得るものがないか視線を巡らせる。必死で探しに探し、ようやく一縷の光明を掴んだ。

 おずおず指さすは、幼女が腰に帯びている──。

 

「あの……その剣、見せて、もらっても……?」

「のじゃ」

 

 会話が成立したことに、ひとまず胸を撫で下ろす。

 シャイラは、差し出された剣に指を這わせる。

 傷だらけの剣身だ。表面の鋼には、無数の痕が年輪のように刻まれている。銘は彫られていない。年季に擦り潰されたわけでもなさそうだ。ならば、少なくとも名うての鍛治屋に打たれたものではないだろう。

 しかし、ナマクラではない。

 むしろ業物と言える出来栄えだろう。

 

(かなり、年季が入ってますね……それでも、刃は光を失っていません。手入れを欠かしていない証拠だとは思いますが……骨董品の類いにも見えますね)

 

「何年物、ですか?」

「確か、もう三十年にもなりますかのう」

「さんじゅ……!? 年代物じゃないですか……!」

「酒ではないですがのう」

 

 到底、現役で振るえる剣の寿命ではない。

 

(表面には聖文字の形跡もないですが……これは)

 

「ベクティス殿から見ても特別に見えますか」

「は、はい。ほ、これ、本当にずっと使って……?」

「それは間違いないです。あ、もちろんわしは八歳のため、数年程度しか保証はできませんのじゃが、前の持ち主である育ての老爺からはそう聞いております」

「こ、れを打った方について、は……?」

「ええ。ある程度知っております。もちろん、これも育ての老爺からの聞き伝えではありますが──」

 

 ソルは、思い出すように目線を宙に向ける。

 

「老爺の知る限り、最高の鍛治師が打った、と。老爺は彼女と浅からぬ縁がございまして、何振りか打ってもらっていたようですのう」

「そうなんです、ね。他の作品……見たい、ですね」

 

 はっとシャイラは唇に指を当てた。

 迂闊に、図々しい願いを零してしまった。

 ソルは気にした素振りもなく「残念ですが」と困ったというように細い眉を折った。

 

「他は使い潰してしまい、残っておりません」

「そっ、そうですか、そう、ですよね……」

「しかし、ベクティス殿。他の作品も見たいとは、そんなにその剣を高く評価いただいのでしょうか」

「いえあの! ひょ、評価なんて……そんな」

 

 迂闊な発言を会話で拾われ、変な声が出る。

 想定外の方面に進められると必要以上に動転する。

 シャイラは弱い生き物だった。だが、弱い生き物なりに、抱いていた感情を少しずつ言葉にしていく。

 

「ただ、あの……どんな、気持ちでこれを打ったんだろう……って。丈夫さを第一に、切れ味はその次にして……魔剣のように剣の寿命も長い、ことを考える、と……その。もしかして、打った人は『ずっと剣を握っていてほしい』って願ってたんじゃ、なんて」

「それは、興味深いのう」

「大したことじゃ……私は、腐っても魔術属性があれなので、剣のことなら……少しはわかりま、す」

 

 そう、剣のことにならば多少の自信が持てる。

 シャイラは鋼に手を添えたまま、視線を落とした。

 

「英雄になって欲しかったのでしょうな」

「え?」

「あの老爺は、執念く英雄という存在を羨んでおりました。そんな、見様見真似で技を会得しては、見過ぎ世過ぎの方便(たすき)とする男に……夢や理想という名の空理空論に縛られた、そんな男に……それでも、いつかは英雄になって欲しかったのでしょうな」

「ソル、ちゃん」

 

 ソルの双眸は正面、湖の先を見つめていた。

 否、きっと湖の先ではなく過去を見ているのだ。

 そんな遠方を見据える目の下では、一体何の想念が渦巻いているのか。推し量る術はない。彼女はただ、胡座をかいた両膝の間で、両手の指を編んでいた。

 呼吸さえ憚られる静寂がしばし、辺りに満ちる。

 

「鍛治師のその願いが意固地だったのかどうか、結局はわからずじまいにはなりましたが……本当に。本当に奇特な奴ですのう。そして、あの老爺は──」

 

 瞳は天から投じられる月光を吸って、鮮やかさを取り戻すと、ふっと力なく相好を崩した。

 

「実に……恵まれた男ですな」

 

 息を呑む。かけようとした言葉は烏有に帰した。

 

「お爺さんは……なぜ、英雄に憧れたんです、か」

「聞いた話によれば、幼き日に触れたエイブロードの英雄譚がきっかけのようですのじゃ。かく言うわしも彼に憧れて、剣と英雄に熱を上げ始めた口でして」

「エイブロード……」

「わしの、最も尊敬している英雄ですのじゃ」

 

 久方ぶりに耳にした名前だった。

 

「ベクティス殿はエイブロードをご存知ですかのう」

「はい。まあ……大陸で、知らない人のほうが、珍しいか、と。よほどの僻地でない、と……私も、最初に触れた英雄は、その、彼……でした、し。ずっとむかし、の話ですが、一番好きだったのも、彼、でした」

「ほう! ベクティス殿もそうでしたか」

 

 ソルの頭が、ぐいとこちらに向いた。

 その急な喰いつき方に、シャイラはたじろいだ。

 

「む、むかし……ですよ?」

 

 顔をわずかに引きながら、か細い声で付け足す。

 口走った瞬間に、すでに後悔していた。シャイラは面食らったあまり、自己防衛的に予防線を引いてしまったのだ。ソルとの思いがけない共通項を発見したのだから、これ幸いと話の種に使えばよかったものを、自らドブに捨ててしまうとは何たる失態か。

 何事も、不慣れな者は相応の準備期間が必要だ。

 それは対人関係でも変わらないのだが、十分な準備期間を用意するにはシャイラの肝が小さすぎた。

 

(そ、無理に即答してしまいました……で、でも、会話の調子が私のせいで止まるのも……うう。それで大して面白いことも言えず、あまつさえ引いた予防線で話の展開を阻むなんて……私って一体)

 

 脳裏では悶々の情が席巻していた。

 しかし、対面する幼女は話の導線を絶ったことを気にした風もなく「ならば」と瞼の曲線を弓のように張る。如何にも興味津々といった様子だった。

 ちょうど頭上の月が雲を抜けたのか、ひときわ強い蒼白の光が彼女を照らす。

 

「興味がありますのう。むかし最も好きだった英雄はエイブロード。では、いまや英雄となった貴女が、最も好んでいる英雄とは誰なのでしょうか?」

「す、好きというか……ちょっと、語弊、なんですけど、その、一番尊敬している人は……陛下です、ね」

「現ビエニス王ですか。確か名前は──」

「アルカディーナ・フレージェン」

 

 当代ビエニス王。屍の上に君臨する絶対覇者。

 ビエニスという力の殿堂、その王座に最年少で就いた実績さえ挙げれば、彼女による無類の驍勇や多大な功績を列挙する必要はない。歴代のビエニス王たちと比べても突出している。シャイラの記憶に残る、彼女の勇姿──高貴な家名を背負い、自ら下層に降って、下層民の叛乱を鎮めたのは一里塚にすぎなかった。

 あの頃、窓越しに見たアルカディーナの凱旋。

 何も知らない頃のシャイラは、ただ目を奪われた。

 アルカディーナ自身によって『黎明』と名付けられた自分より、よほど日輪に相応しい姿だった。

 

「ディナとは……陛下とは、幼馴染、なんです」

「おお、かの大英雄と。初耳ですのじゃ」

「え、ええ。私の、家名……その。あの頃は高名でしたから。両親と兄様に……付いて、いった場所で……初めて、幼い頃の陛下とお会いしまし、た」

 

 アルカディーナとは盤上遊戯で仲良くなった。

 当時シャイラは盤上遊戯に熱を上げていて、アルカディーナが指せるとわかった時点で、高い好感を抱いた。趣味の理解者に恵まれなかったからこそ、巡り逢えたときの高揚感は凄まじい。幾度か指すうちに距離を縮め、結果的に良き友人となったわけだが、まさか人生唯一の友人になるとは思わなかった──。

 彼女との思い出話を言葉少なに話したあとは、話の流れで英雄譚談義となった。

 ソルは好きな英雄、注目する新鋭について語る。シャイラは相槌を打ちながら、時折、知り合いの名前が上がると印象について一言三言話す。それを感心して聞いたソルが、話を広げて、シャイラも思わず口元が綻ぶような着地を見せて、次の話題に行って──。

 シャイラは崩れていた脚を直しつつ、思う。

 

(こんなに楽しいのは……)

 

 長い睫毛を震わせ、目を伏せる。

 

(昔の私に似てるから、なんて。烏滸がましい。そんなわけないのに。あってはならないのに)

 

 英雄に対して幻想を抱き、憧れていて──。

 英雄譚が大好きで、本ばかり読んでいて──。

 頑張れば認めてもらえると勘違いしていて──。

 頬を真っ赤にして、好きなものを語って──。

 

(でも、きっと緊張していないのはそういう側面があるのでしょう。ディナとのこともハキムさんに話したことないですし、家族の話も……もう私は、本も、英雄も、駒遊びも好きじゃないですが、こんな時代があったな、なんて思えて、つい口が滑ったのでしょう)

 

 ソルは喋りすぎて、舌足らずの声がなおさら頼りなく丸まっていく。水を勧めようと水筒を渡そうとしたが、寸前で内容物が酒だったことに気づいた。この素振りだけで水分補給を察したのか、ソルは「あひがはいのじゃ」と怪しい滑舌で言い、湖まで駆けていく。

 ソルの後ろ姿を、シャイラは目尻を下げて見守る。

 

(うん。微笑ましい、というか。こうしてみれば、ソルちゃんも年相応の子供ですね)

 

 いまや、夙悟と言える態度はなりをひそめている。

 きっと、環境がソルをちぐはぐにしたのだ。現実主義者の帝国軍人たちに囲まれ、切った張ったを繰り返す。血濡れた身体で刃を振るうたび、感覚と感情をすり切らす毎日。それを凌ぐために、自分の境遇を納得するための諦観を、毎夜すり込んできたのだろう。

 憐憫、というより一種の共感めいた感情が湧く。

 自分とソルは近しい存在なのかもしれない──。

 しゃがんだ幼女は、掬った水を口に運んでいた。

 

(ハキムさんがソルちゃんを差し向けた理由、少しだけわかったかもしれません。……ハキムさんには、感謝しないといけませんね)

 

 あの老爺は、いつも裏側で気を配ってくれる。

 彼は最初から優しかった。街の隙間、空の底で落ちぶれていた自分を──身寄りも、生きる価値もなくなった傷だらけの亡者を、事情も訊かずに救い上げた。

 彼は決して本音を漏らさない。それでいて、煙に巻くような言葉ばかりを吹聴する。迂遠な気の遣い方をするから、優しさを理解するまでに時間を要する。最近は諫言が多くなったが、それも四大将の身であるシャイラのためだとわかっているつもりだ。

 自分のような人間に、暖かい厚意を向けてくれる存在には、有り難い気持ちで一杯で──。

 

『また勘違いしていますよ、シャイラ・ベクティス』

 

 悍ましい声が、内側から湧き出てくる。

 シャイラはぎゅうと胸骨を抑える。

 心臓が早鐘を打つ。呼吸が乱れる。

 頭蓋を巡る血液が熱を持ち、思考を溶かしていく。

 

『あの男が、お前のためを思って厳しいことを言っている? とんだ自意識過剰ですね。あの男は、お前に利用価値があるから、義理の娘として引き取り、いままで育ていただけです』

 

 手元の水筒を口許に持っていき、一気に呷る。

 だが、ほとんど残っていなかった。舌を濡らすのは数滴。唾液とともに流し込むが、()を掻き消すほどの酒精は望むべくもない。

 

『皆が求めているお前は、力を持ったお前だけです。その、罪深い力を持ったお前だけ』

 

 分かっている、分かっているから──どうか。

 どうか、それ以上言ってくれるな──。

 シャイラは念仏のごとく謝罪を唱え、祈る。

 

『自覚しなさい。そして、二度と忘れないことです。お前は『黎明の導翳し』。黎明の導を、天に翳す者。すなわち、太陽に影を落とす罪人であると』

 

(ちゃんと、わかっていますから……私は、価値を示し続けなくちゃ。また、皆に見捨てられないように。ハキムさんにまで捨てられたら、私は……)

 

 唱え続けていると、ようやく発作が鎮まってくる。

 熱い息が唇から這い出た。じっとりと肌着の背中側が濡れて、得体の知れない寒気が体表をなぞる。きっと発作が収まった理由は、体内の酒精だろう。直前に口に含んだ酒は微々たる量で、酩酊感は薄れてはいるものの、幼女が訪ねてくる前に散々飲んでいた。

 蓄積は力だ。シャイラは今更ながら、自分が存外、酔っ払っていることに気がついた。

 

(あの()はいつだって正しい。正しいから、耳を塞ぎたくなってしまう。罪深い、卑怯な私は……)

 

 あの()はシャイラをあるべき姿に糺す。

 勘違いしがちな罪人を『黎明の導翳し』の形に整えるのだ。

 

「……ベクティス殿?」

 

 気がつけば、困ったような瞳が目前にあった。

 鼻腔を掠めるのは、かすかな汗の匂い。

 

「ご、ごご、ごめんなさい。少しだけ、ぼうとしてしまって……もう一度、その、言って」

「申し訳ないですのう。気をつけてはいたのじゃが、わしの話ばかりしておりましたな。ベクティス殿に退屈を強いてしまっておりました……のう」

「いっ、いえ、そんな……!」

 

 そんなつもりはなかった。むしろ楽しかったのだ。

 慌てたシャイラは、思わず大仰に否定してしまう。

 この時間が打ち切られてしまうことを惜しんだためだったが、その真剣味を汲んでくれたのか、ソルは、また隣に腰を落ち着けた。また会話に花を咲かせられるかと思うと、心が浮き立って仕方ない。あの内側からの声を恐れつつ、シャイラは微笑みを零す。

 夜は長い。語り合いに飽きることもないだろう。

 では、と二人は仕切り直して話題を探す。

 

「わしには英雄と剣以外の事柄が、とんと思いつきませぬ。見聞の狭さに恥じ入るばかりで……」

「いえ、そんな。私だって、似たようなもので……」

「ならば、英雄譚の話題に戻るとしますかのう」

「あ、あの、待ってください」

 

 だから、ただの気まぐれだったのだ。

 

「ソルちゃん。もしもの話、なんです、が……」

「はい。もしも、ですか」

「はい……もしも、もしもです、よ。願いをひとつ叶えてくれる、存在がいたとし、て──ソルちゃんは、自分が英雄になれるよう、お願いします、か?」

 

 こんな、益体もない問いをしてしまったのは。

 

「それは……如何な意図の問いかけでしょうか」

「あああ、あの! ええと、言葉通りで! もっと、その、ソルちゃんのことが知りたいな……と思ってあの……全然、試す意図とかは全くないので、その……気を悪くしないでください……」

 

 問い返されたことで我に返った。

 自身を庇う言葉はみるみる声が小さくなっていく。

 喉が不自然に渇き、言葉の最後のほうは口のなかで呟くに終わった。やらかした。話の種に困っていたとは言え、唐突に、益体もないもしも話(・・・・)を始められるほどの関係性を築けていなかったのに。

 数日前が初対面だったのだ。ソルからすれば「憧れの『黎明の導翳し』」でしかない。どこか浮かれていたのだろう。愚かにも距離感を測り違えたのだ。

 目を合わせられず、ソルの腹部を凝視していた。

 恥ずかしさのあまり、頭が熱暴走を起こす。

 

(まずい、まずいです。引かれました、これは間違いなく引かれました。言ったあとに後悔なんて……私)

 

 引かれた証拠に、ソルは不審な挙動を見せていた。

 白髪を弄ろうとして、触れかけた指先を止める。そして、そろりそろりと元の位置まで手を戻す。あれが気まずさの露われではないならば、何だと言うのか。

 不安に押され、ようやくソルの顔を窺ったとき、ちょうど、彼女が息を吸うところだった。心根の真摯さに裏打ちされたような、澄んだ瞳に見据えられる。

 淀みない気持ちを乗せられるはずだった言葉は。

 

「わしは──」

「待って」

 

 ついぞ、空気を震わせることは叶わなかった。

 唐突。この一瞬に行動を終えたのは、シャイラ。

 もはや自動的とでも形容できる対応速度だった。息を吸い、マナを取り込んで魔力を出力。シャイラは宙空に一振りの直剣を生み出した。その柄頭に手の甲で触れる。それだけで剣は、湖の方向に撃ち出された。

 鋼鉄の光は、風を唸らせ、月夜に奔る流星だった。

 空を映した水面は飛沫を弾き、線が引かれていく。

 突然、線が途絶える。雑音塗れの鳴き声が、する。

 

「■ル■■■■、や■■■■■■」

 

 それは、月下の湖面。

 空の黒を映すだけの鏡面。

 そこに、異物の影法師が、伸びていた。

 

「来ました、ね」

 

 口に出せば、浮ついていた感情が冷えていく。

 新来の、奇妙な人影が、すぅと湖上を移動する。

 それは一切の重力を受けた様子もなく、滑る。

 シャイラは立ち上がり、見下ろす。あの影とは顔を合わせたばかりだ。ケダマ討伐の途上に遭遇したクロカゲ。子飼いの獄禍と違って自由行動できるため、こうした遭遇戦は珍しいことではなかった。

 ただケダマ討伐のとき同様、何事か鳴いている。

 

(昨日からクロカゲが変化している? ハキムさんもわからないと言っていましたが、どうも不気味です)

 

 述懐は苦い。その苦味は唾液とともに飲み干す。

 指と手の動きで、幾本もの剣を虚空に生み出した。

 そして一歩。前に出ることで、幼女を背後に置く。

 

「ソルちゃん──じっと……していて下さい。私がすぐに終わらせますか、ら」

 


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